大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 163

『法華玄義』現代語訳 163

 

第五項 経について述べる

 

これまで述べた釈名における「法」「妙」「蓮華」の名称の解釈は、『妙法蓮華経』に限られたことであるので、「別名(べつみょう)」の解釈であり、次に述べる「経」の一文字は、他の経典にも共通する名称であるため、この解釈は「通名(つうみょう)」である。この『法華経』の梵語は、「薩達磨分陀利脩多羅(さっだるまぶんだりしゅたら・古代インド語の原語では、サッダルマ・プンダリーカ・スートラとなる)」というべきである。「薩達磨」とは、中国では「妙法」と翻訳し、「分陀利」とは、中国では「蓮華」と翻訳する。すでに前に解釈した通りである。「修多羅」は、あるいは「修単蘭(しゅたんらん)」といい、あるいは「修妬路(しゅとろ)」という。楚と夏の国があった南方の翻訳であり、その国での翻訳はそれぞれ異なっている。あるいは「無翻(むほん・翻訳する言葉がない)」とし、あるいは「有翻(うほん・翻訳する言葉がある)」とする。

この経について述べるにあたって、五つの項目を立てる。①無翻を明らかにし(注:翻訳することができない理由を明らかにすること)、②有翻を明らかにし、③無翻と有翻を融合し、④法によって経を明らかにし、⑤観心をもって経を明らかにする。

 

第一目 無翻を明らかにする

古代インドの言葉は多くの意味を含み、中国の言葉は単純で浅い。単純なものをもって深い言葉を翻訳すべきではない。まさに、原語の発音のままがよい。しかし、あえて「経」という言葉を解釈するならば、開善寺智蔵が「これは正しい翻訳ではない。ただ中国語の経という言葉をもって、古代インド語のスートラという言葉に代えているのである。中国では、聖なる言葉を経と称し、賢人の言葉は子や史と称する。インドでは聖人の言葉を経と称し、菩薩の言葉を論と称する。このように、もともと翻訳することができないが、他に言葉がないので、適宜に言葉を代用するしかない。このために経と称するのである」と言っている。

「経」という言葉は正しい翻訳ではないことは明らかにしたが、しかし、この「スートラ」という言葉には五つの意味(①~⑤)がある。一つめは、①法の本ということである。二つめは、②発せられる過程がある。あるいは顕わし示すという意味である。三つめは、③泉のように涌き出るという意味である。四つめは④墨の縄という意味である。五つめは⑤花輪を結ぶという意味である。ここでは五つの意味を挙げるだけであり、翻訳はしない。今、この五つの意味を三つの観点から述べて、合計十五の意義を明らかにする。この三つの観点とは、一つめは、a.教の本、二つめは、b.行の本、三つめは、c.義の本である。

真理は言葉で表現することができないが、四悉檀の因縁をもって説かれるならば、言葉の教えとなる。世界悉檀は「教の本(教えの本という意味であり、さらに「本」は「もと」と読めばよいが、原文の表記に合わせて、ここでは「ほん」とする)」となり、各各為人悉檀・対治悉檀は「行の本(修行の本という意味)」ととなり、第一義悉檀は「義の本」となる。

①法の本について

①.a.教の本

仏の尊い口を通して説かれた一言を本として、無量の教えの言葉が出てくる。それが他の経典に通じる教えであっても、ある経典に限った個別的な教えであっても、時にふさわしく聞く者に施されるならば、聞く者は聞いて道を得ることができる。このために『華厳経』に「ひとつひとつの修多羅にまた無量の修多羅があって、それらを眷属とする」とある。もし後の人が理解できなければ、菩薩(この場合は経典解釈家)は仏の教えを本として、他の経典に通じる教えやある経典に限った個別的な教えを作って、それらによって経典を解き明かし、仏の説こうとしている教えがふさがれないようにする。求める者が道を得ることは、実にこの論書によるのである。しかし、他の外道などは、何かを説いているといっても、修多羅に合致せず、無駄な戯論(けろん)であり本となる教えがなく、道を得ることができない。

①.b.行の本

人に論争さえできない完全な教えを示して、理解できているか、できていないかを判断し、霊的な目を開かせ、人の霊的な病を救い治す。教えに従って修行すれば、他の経典に通じる修行や経典に限った個別的な修行を起こす。迷いの次元から悟りの次元に至り、清涼池に入り、甘露地に至る。涅槃の真実の教えの宝に対しては、衆生はあらゆる門から入る。このために知ることができる。経典は行の本である。

①.c.義の本(後の箇所では「理法の本」とも記される)

一句を通して一つの義を明らかにし、無量の句を通して無量の義を明らかにする。あるいは、一句を通して無量の義を明らかにし、無量の句を通して一つの義を明らかにする。あるいは、他の経典に通じる義や経典に限った個別的な義を明らかにすることを求めて入るので、経典は義の本である。

この三種を合わせて法門とすることができるが、教の本はすなわち聞慧(もんえ)であり、行の本はすなわち思慧(しえ)であり、義の本は修慧である。真理を見る立場からすると、法の本に多くの義が含まれるために、翻訳することができない。あるいは出生ということもあるが、これに従って知ることができるだろう。