大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 166

『法華玄義』現代語訳 166

 

第四目 法によって経を明らかにする

もし経という言葉を正しい翻訳の言葉とするならば、どのような法が経なのであろうか。古い解釈に三種ある。一つめは、声をもって経とする。仏は世にあって、尊い金口(こんく)をもって教えを説いたように、ただ声の音声をもって教えを明らかにし、聞く者に道を得させた。このために、声をもって経とするのである。『大品般若経』に「善知識に従って聞く」とある。二つめは、形あるものをもって経とする。もし仏が世にあれば、声をもって経とすることができるが、世を去れば、紙や墨をもって伝え保たれる。まさに形あるものをもって経とするべきである。『大品般若経』に「経巻の中に従って聞く」とある。三つめは、法をもって経とする。内面において自ら思惟し、心は法と合致する。それは他の教えによることでもなく、紙や墨によるものでもない。ただ心に明らかに悟れば、すなわち法を経とすることができる。このために、『成実論』に「私の法を修する者は、悟って自ら知る」とある。

声と形あるものと法の三つをもって経とし、この娑婆世界に施す。耳の能力が高い人が、声をもって分別して悟りを得るならば、その人にとって声が経であり、他のものは経ではない。もし心の作用の優れた人が、自らその心を磨き、思惟して悟りを得るならば、その人にとって法が経であり、他のものは経ではない。目の能力が高い人が、文字をもって理解して悟りの道理を得るならば、その人にとって形あるものが経であり、他のものは経ではない。これらは、眼・耳・意の三つを用いることであり、他の鼻・身・舌の三つは鈍いままである。鼻で紙や墨の匂いをかいても、知ることは何もない。身をもって経巻に触れたとしても、何も理解するところはない。舌で文字をなめても、どうしてその正しさや誤りを判別できるだろうか。

他の仏国土では、眼・耳・鼻・舌・身・意の六塵(ろくじん)を用い、あるいは、ただ一塵を用いる。『維摩経』に「一食をもってすべてに施す。このように食において等しい者は、法においてもまた等しい。法において等しい者は、食においてもまた等しい」とある通りである。これはすなわち舌根(ぜっこん)の対象となるものをもって経とすることである。あるいは別の仏国土では、天衣(てんね)に触れることを通して道を得る。これは触(=身根)をもって経とすることである。あるいは、仏の光明を見て道を得る。これは色(=眼根)をもって経とすることである。あるいは、無言の寂滅のままで心を観じて道を得る。これは意根をもって経とすることである。衆香土(しゅうこうど)においては、香をもって仏事をする。これは香(=鼻根)をもって経とすることである。また他の仏国土で六根の能力が高ければ、六塵をもって経とする。この娑婆世界は三つの根の能力が鈍い。人間の鼻の能力は、驢馬や犬や鹿に及ばない。どうして、香・味・触において、悟りに通じることができようか。

問う:六根の能力が高いために、六塵が経となれば、その能力が鈍い者には、六塵は経ではないのか。

答える:六塵は法界であって、その本体そのものが経である。能力が高い者に限って経となるのではない。なぜならば、『大品般若経』に「すべての法は色に赴き、その範囲を越えない」とある。この色(しき・この場合は形あるものを指す)とは、すべての法そのものである。

黒い墨の色においては、一画が一を表わし、二画が二を表わし、三画が三を表わし、そこに縦の一画を加えると王となり、右側に一画を加えると丑となり、左側に一画を加えると田となり、上に出せば由となり、下に出せば申となる。このようにさまざまに形を変えて、表わすところは尽くせない。あるいは、一字は無量の法を表わし、無量という文字は一法を表わす。無量という文字は無量の法を表わし、一字は一法を表わす。一つの黒い墨において、少し変えただけでも、その表わす量は大いに異なる。左に回せば悪を表わし、右に回せば善を表わし、上に点を打てば無漏を表わし、下に点を打てば有漏を表わす。殺すも生かすも与えるも奪うも蔑むのも褒めるのも苦しみも楽も、みな墨の中にあって、さらに一つの法でさえも、墨の外に出るものはない。

概略的にこれを述べれば、黒い墨は無量の教え、無量の修行、無量の理法を表わす。黒い墨はまた教えの本、修行の本、理法の本である。

黒い墨は、最初の一点から無量の点に至り、点から文字に至り、文字から句に至り、句から偈に至り、偈から巻に至り、巻から部に至る。また、点、文字、句の中から、最初に短い行を立て、後に長い行を著わす。また点や文字の中から、最初に浅い理法を見て、後に深い理法に至る。これを黒色の教・行・義の微発と名付ける。

また、黒色から点を湧き出させ、文字、句、偈を出して尽きることはない。あらゆる実在を湧き出させることは無尽であり、義を湧き出させることも無尽である。これを黒色に三つの涌泉(ゆせん)を備えると名付ける。

(注:ここまでの内容で、すでに明らかであるが、あまりにも当たり前なことをものものしく表現しているまでのことと思われても仕方がない。言うまでもなく、このような表現は現代においては相手にされない。これは当時の、そして中国という国においての論法として解釈すべきであろう)。

また、黒色によって、教・行・義の誤った教えを断つ。

また、黒色によって、教・行・義の髪の毛を結い、それをもって身を飾るようなものである。

また、色(しき・ここでは、色彩という意味ではなく、認識の対象となる形あるものという意味)は拠り所である。色によるために、それに縛られて六道の生死がある。色によるために、そこから解脱して四種の聖人がある。また、色を法と読むことができる。色の法則に従うために、教えと修行と理法を成就する。また、色は常である。色の教えは破られない。色の修行は改められない。色の理法は動かない。

まあ、色は翻訳することができない。色において多くの義が含まれるからである。また、色は翻訳することができる。色を名付けて経とするためである。

色の経を見る時、色の愛・見を知り、色の因縁生の法を知り、色の即空・即仮・即中を知る。色はすなわち法界であり、総合的に諸法を含む。法界の文字はすなわち空であれば、点はなく、文字はなく、句はなく、偈はない。句、偈、文字は、究極的に不可得である。これは文字であって文字ではなく、文字ではなく、また文字であることを知ると名付ける。