大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 167

『法華玄義』現代語訳 167

 

墨の色が経であることが、法の本とするということは、次の通りである。もし墨の文字において瞋恚を生じれば、他者の寿命を断じる。もし墨の文字において愛(注:あくまでも仏教的意味で執着のこと)を起こして、盗みや姦淫をして、さらに墨の文字において愚痴を起こして邪見を生じれば、まさに知るべきである。墨の文字は、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣の本となる。もし墨の文字において慈悲を起こして、平等な心が生じ、さらに正見が生じれば、まさに知るべきである。墨の文字は、人、天の本となる。もし墨の文字が果報の無記(むき:善でもなく悪でもないこと)であると知れば、無記は苦諦である。果報の色(しき:認識の対象。物質という意味ではない)において煩悩の執着が生じることは、集諦である。文字は因縁によってなるものであり、苦・空・無我であると知ることは、道諦である。すでに文字であって文字ではない、ということを知れば、文字に対して誤った見解は生じることはなく、あらゆる煩悩を滅することができることは、滅諦である。このように、文字において四諦を知る。文字の四諦を知れば、煗法・頂法の位を生じさせる。これは、果に向かう段階、あるいは果、あるいは賢聖の解脱である。まさに知るべきである。このような墨の文字は声聞の本である。

もし文字について理解できなければ、それは無明と名付ける。文字について愛・瞋恚を起こすならば、それはあらゆる行である。文字の好醜を分別することは、識である。文字を知ることを名色と名付ける。文字が目から入ることを六入と名付ける。文字が六塵の六根に対することを触とする。受け入れ、執着を生じさせることは、受である。それを手放さないことは愛である。力を尽くして求めることは取である。取は業を生じさせることであるので有とする。有が果を招くことは、生老病死と名付ける。苦の輪がやむことがないことは、十二因縁の本である。もしよく文字であって文字ではない、ということを知れば、無明は滅して、行には至らず、さらに最後の老死まで至らない。無明が滅びれば、すなわち老死が滅びる。まさに知るべきである。この文字は辟支仏(=縁覚)の本である。

文字は空であって、滅し終わって空となるのではない。文字の本性は本来、空であり、空の中に愛・瞋恚などなく、邪と正もないと知るならば、文字は不可得である。文字を知る者は誰であろうか。どうして衆生はみだりに取ったり捨てたりするのだろうか。慈悲・四弘誓願を起こし、六波羅蜜を行じ、衆生を救い、現実的世界に入れば、また衆生に滅度を得る者はない。まさに知るべきである。この文字は菩薩の本である。

文字は文字ではなく、文字ではなく文字ではないことはないと知れば、あるとないの二辺の顛倒がないことを浄と名付け、浄であるならば、業がないことを我と名付け、我であれば、すなわち苦がないことを楽と名付け、苦がなければ生死がないことを常と名付ける(=常楽我浄)。なぜであろうか。文字は俗諦であり、文字ではないことは真諦であり、文字ではなく文字ではないことはないことは一実諦である。一諦はすなわち三諦、三諦はすなわち一諦であることは、境の本と名付ける(注:これ以降、「迹門の十妙」にそって述べられる)。

墨の文字は、紙と筆と心と手が合わさってできると知れば、一つ一つの文字について、一つの文字も実体として得られない。一つ一つの点もまた、文字の実体として得られないので、対象となることはない。心も手も実体として得られないので、能動的なものとして得られない。能動も所動もない。能と所を知る者は誰であろうか。これは一切智の本である。文字は文字ではないといっても、文字ではないままに文字である。心に従うために点がある。点に従って文字がある。文字に従って句があり、句に従って偈があり、偈に従って行があり、行に従って巻があり、巻に従って巻を包む覆いがあり、覆いに従って部があり、部に従って蔵があり、蔵に従ってあらゆる分類が成り立つ。これは道種智の本である。文字ではなく、文字ではないことはないといっても、文字と文字ではないことを同時に照らすのは、一切種智の本である(=「智妙」・「境妙」。能動と所動が一つとなっている)。雪山童子(せっせんどうじ・釈迦の前世。諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽のうちの最初の半分をまず聞き、残りの半分を聞くために命を捨てようとした説話がある)が、残りの八文字のために、愛する身体を捨てた。これは行の本である(=「行妙」)。私は一句、あるいは半句を理解し、仏性を見ることができ、大涅槃に入る。すなわちこれは位の本である(=「位妙」)。私が最高の悟りを得ることは、みな経を聞き、仏から「善哉(ぜんざい)」と言われることによる。この文字は乗(=三法)の本である(=「三法妙」)。もし句を忘れれば、仏はその者に思い出させ、三昧と陀羅尼を与える。これは感応の本である(=「感応妙」)。文字によって神通を学ぶことは、神通の本である(=「神通妙」)。文字によって語る言葉を得ることは、説法の本である(=「説法妙」)。文字を説いて他の人を教えることは、眷属の本である(=「眷属妙」)。努めて文字を学んでその得た功徳がその中にあることは、「功徳利益」の本である(=「功徳利益妙」)。

このように、文字を理解すれば、実際に手に経巻を取らなくても、常にこの経を読み、口に音声がなくても、遍くあらゆる経典を読誦することになる。仏が説法せずとも、常に梵音(ぼんのん・真理の声)を聞き、心に思惟せずとも、遍く法界を照らす。このような学問は、どうして偉大でないことがあろうか。まさに知るべきである。墨の文字は諸法の本である。その文字が、青であっても、黄色であっても、赤であっても、白であっても同じである。

文字でなく文字でないことはないということは、文字と文字ではないことを同時に照らす。不可説は不可説ではない、不可見は不可見ではない。どうして選ぶものがあるだろうか。どうして選ばないものがあるだろうか。どうして受け入れるものがあるだろうか。どうして受け入れないものがあるだろうか。どうして捨てるものがあるだろうか。どうして捨てないものがあるだろうか。これであれば、同時にこれであり、これでなければすべてこれでない。黒色においてすべての黒色でないものに通じ、すべての黒色でないものにおいてすべての黒色に通じ、すべての黒色でなく黒色ではいことはないものに通じることは、すべての間違った教えであり、すべての正しい教えである。もし黒色においてこのように理解できなければ、文字と文字ではないことを知らないことになる。黄色、白、赤、青、妨げる物があること、妨げる物がないことなども、みな知ることができない。もし黒色において通じれば、他の色を知ることも同様である。

これはすなわち『法華経』の意義である。色をもって経とする。声塵もまた同様である。あるいは、一つの声はすべての教えを明らかにする。

耳根の能力が高い者は、声の愛・見の因縁は、即空・即仮・即中であると理解する。唇、舌、牙、歯も、みな不可得であると知れば、声はすなわち声ではなく、声ではなくまた声であり、声ではなく声ではないことはない。声を教・行・義の本とする。あらゆる意義は、みな上に説いた通りである。すなわちこれは、声経に通じることである。香・味・触などもまた同様である。『法華経』に「すべての世間の政治や産業は、みな実相と異なることはない」とあるのは、この意味である。

六境はみな経であり、法界に遍く行き渡っているので、六根もまた同様であり、六境と六根が相応することも同様である。『大品般若経』に「内観して解脱を得るのではなく、また内観を離れない」とある。これはすなわち、一塵は一切塵に達し、一塵一切塵を見ずに、一塵一切塵に通じる。一識において一切識を分別し、また一識一切識を見ずに、一識一切識に通じる。自在無礙であり、平等の大慧である。何が経であろうか。何が経でないことがあろうか。もし細かく知ろうとすれば、一つ一つの塵と識において、それぞれ理解すべきである。有翻・無翻は、この三つに意義をもってこれを織り、後に三観をもってこれを結ぶ。

あらゆる教えを経て、経を分別することについては次の通りである。文字は経ではない。六塵などはみな経によって明らかにされるものであるが、経そのものではない。これは三蔵教の中の経典に限る。文字を離れて解脱の意義を説くことがないからである。文字の本性を離れることが解脱である。六塵は実相であるので、二つではなく別ではない。このように説くのは、円教の中の経典である。蔵教・通教・別教の三つの方便を帯びてこの説を成り立たせるのは、方等時の中の経典である。通教・別教の二つの方便を帯びてこのように説くのは、般若時の中の経典である。別教の方便を帯びてこのように説くのは、華厳時の中の経典である。

(注:以上で「第四目 法によって経を明らかにする」が終わった。『妙法蓮華経』を対象とした釈名の中で、最も重要なのは、「妙」と「法」である。そして「妙」と「法」を解釈するならば、教理的には、ほぼそれ以外のことは述べる必要がないほどである。しかし、釈名は、「妙」「法」「蓮華」「経」の四つの部門に分けなければならない。そしてそれらの各部門の分量に、かなりの違いがあっては不自然である。このように考えた筆録者である章安は、特に「蓮華」「経」において自らの思考を駆使して、教理的に考えられる限りの文を記したのではないだろうか。その結果、かなりくどいと感じざるを得ない内容となったのではないだろうか。したがって、特にここまで「蓮華」「経」について天台大師は説かれたのだろうかという疑問を持ってしまうのである。もちろんこれはあくまでも文献的証拠もない推測である)。