大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 169

『法華玄義』現代語訳 169

 

第二章 顕体

 

第二に「顕体(けんたい)」とは(注:最初の「五重玄義」の項目があげられている箇所では、「弁体(べんたい)」となっていたが、ここでは「顕体」となっているので、それに従う)、前の「釈名」では総合的に説いたが、そのため、文義が広く漫然としていた。ここからは、特に要点を絞って、明確に経典の本体を顕わし、直接、真性軌を述べる。真性軌の他に、観照軌と資成軌がないわけではないが、理解しやすくするために、真性軌のみを説く。後に、「明宗」と「論用」を述べるが、その場合も真性軌がないわけではないが、その項目の名前に合った説き方をする。

顕体の「体」とは、経典の根本的思想であり、あらゆる意義の集まる所である。このため、これを会得することが難しいばかりではなく、またこれについて説くことも容易ではない。『法華経』に「この法は示すことができない。言葉の相は寂滅している」とある。『涅槃経』には、「不生不生不可説」とある。また「因縁あるがゆえに、また説くことができる」とある。

ここでは、概略的に七つの項目を立てる。一つめは、明確に経典の体を顕わす、二つめは、広く誤った解釈をあげる、三つめは、一法の異名、四つめは、実相に入る門を明らかにする、五つめは、遍く諸経の体について述べる、六つめは、遍く諸行の体について述べる、七つめは、遍く諸法の体について述べるである。

 

第一節 明確に経典の体を顕わす

明確に経典の体を顕わすことにおいて、さらに四つの意義を明らかにする。一つめは、古い解釈をあげ、二つめは、体を述べる意義について、三つめは、明確に体を明らかにし、四つめは、経文を引用して証する。

 

第一項 古い解釈をあげる

北の地論宗の人は、一乗をもって経典の体とする。その言葉は漠然としており、要件を絞ることができていない。一乗の言葉は通じて権と実を混同してしまう。権の一乗は、すべての経典の意義ではない。一方、実の一乗は、その意義に真性軌・観照軌・資成軌の三軌が欠けている。体を顕わすことが明らかでないので、用いることはできない。

また、ある人が解釈して「真諦を経典の体とする」と言っている。これも、また他にも通じる意義を乱用していることである。小乗と大乗は、共にみな真諦を明らかにしている。小乗の真諦は、もはや言うまでもない。大乗の真諦も、また種類が多い。ここでは(注:『法華経』ではという意味)、何の真諦をもって体とするのだろうか。このために用いることはできない。

また、ある人が解釈して「一乗の因果を経典の体とする」と言っている。しかしこれもまた用いることはできない。なぜなら、一乗の言葉が表わす意味は、すでに前に述べた通りである。また因果は因と果の二法であるので、事象的な範囲を出ていない。どうしてこれが経典の体であろうか。事象的なことは、理法の証印がなければ、すなわち悪魔の経典に同じである。どうして用いることができるであろうか。

また、ある人が解釈して「乗(=教え・経典)の体は因果に通じる。果はあらゆる徳をもって体とし、因はあらゆる善をもって体とする」と言っている。そして『十二門論』を引用して、「大いなる諸仏の乗は、文殊菩薩や観世音菩薩が乗である」と述べ、また、『法華経』を引用して、「『仏は自ら大乗に住む』とは、すなわち果である。『あらゆる仏の弟子は、この宝の乗に乗る』とは、因である」と述べている。また『観普賢菩薩行法経』を引用して、「大乗の因果は、みなこれ実相である」と述べている。

私的に問う:因の乗は、果の乗に変わるのであろうか、変わらないのであろうか。もし変わるのであるならば、何が能通(=因)であり、何が所通(=果)であろうか。もし変わらないのであれば、因と果はいつまでも並列的である。それではこの理法はない。もし別の法の因果に通じるならば、まさに知るべきである。因果は果の経体ではない。『十二門論』に、「大いなる諸仏の乗」の「大いなる」という意味は、仏はもはや修行を必要としないことであり、それを乗と名付けている。どうして修行をしないことをもって因果の乗を証することができようか。『法華経』に「仏は自ら大乗に住む」とあるのは、これは理法に乗って人を導くことである。果である徳に住んでいるという意味ではない。『観普賢菩薩行法経』に因果を明らかにしていることは、みな実相を指すのである。どうして実相をもって因果を証することができようか。このためここではこれも用いない。

ある人が「因果は般若波羅蜜を本とし、それ以外の五つの波羅蜜を末とする。果の乗は薩婆若(さつばにゃ・仏の智慧を指す古代インド語の音写語)をもって本とし、他を末とする。また、因果は狭く、果の乗は広い。また、般若に相応する心は一体の乗であり、不相応の心は異体の乗である。また無所得(=空)に相応する修行は近乗であり、仏に対して頭を下げ手を挙げるという有所得は遠乗である。また六波羅蜜において世間と出世間が合わさっているのは遠乗であり、三十七道品がただ出世間であるのは近乗と名付ける。また四句(四通りの言い方①~④)がある。①六波羅蜜と三十七道品はすべて無所得である。また②六波羅蜜と三十七道品は共に有所得である。また、③六波羅蜜は世間と出世間が合わさっており、三十七道品は合わさっていない。また、④三十七道品は世間と出世間が合わさっており、六波羅蜜は合わさっていない」と言っている。

私的に言う:般若を乗の本とすることは、『法華経』においては、白牛の喩えであり、経典の体ではない。薩婆若を乗の本とすることは、『法華経』においては、道場において成就するところの果である。これもまた乗の体ではない。因乗は狭いとは、時間的な義であり、果乗は広いとは、空間的な義である。すべて『法華経』の乗の体ではない。般若相応の心・無所得・近遠などは、『法華経』においてはすべて、経典の乗の体を喩える大白牛車の飾りや侍従であって、乗の体ではない。なぜ皮や毛や枝葉のことで論争をするのか。いたずらに争うことは以上のようなことである。誰がこれを止めるのであろうか。

またある人は、『大智度論』を引用して、「六波羅蜜をもって乗の体とする。方便は生死を運び出し、慈悲は衆生を運び取る」と言う。しかし『法華経』においては、般若波羅蜜は牛であり、五波羅蜜は飾りであり、方便は侍従、慈悲は家の軒(のき)である。これも乗の体ではない。

『中辺分別論』に「乗に五つある。一つめは乗の本である。それは真如仏性のことである。二つめは乗の行である。福徳の智慧を指す。三つめは乗の摂取である。慈悲のことである。四つめは乗の障害である。それは煩悩である。これは煩悩障(ぼんのうしょう)であり、修行や理解などは知的煩悩である智障(ちしょう)である。五つめは乗の果である。それは仏果のことである」とある。『唯識論』に「乗は運び出すという意味である。真如仏性によって福徳などの行を出し、この行によって仏果を出し、仏果によって衆生を運び出す」とある。『摂大乗論』に「乗に三つある。一つめは乗の因である。真如仏性を指す。二つめは乗の縁である。すべての修行のことである。三つめは乗の果である。仏果をいう」とある。『法華論』に「乗の体は、如来平等の法身をいう」と明らかにしている。また「如来の大般涅槃である」とある。この二つの文は、法身を隠れた体とし、涅槃を顕かな体としているようである。発心し、仏に対して頭を低くし手を挙げるなどを乗の縁と名付ける。『十二門論』に「乗の本は諸法の実相をいう。乗の主は、般若をいう。乗の補助は、すべての修行が補助して成就させることである。乗の到達点は、薩婆若である」とある。

この五つの論は、乗の体を明らかにすることは同じであるが、余計な飾りのようなものがある。『法華経』において乗の体を明らかにすることは、正しくこれは実相であり、飾りはない。もし飾りの方を取ってしまえば、仏の乗るところの乗ではなくなってしまう。