大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 170

『法華玄義』現代語訳 170

 

第二項 体を述べる意義について

そもそも、体を述べる意義とは何か。『大智度論』に、「あらゆる小乗の経典は、もし無常、無我、涅槃の三つの項目をあげて小乗の印とするならば、すなわちそれは仏の教えである。そしてこれにそって修行すれば、道を得て、逆に、この三つの教えの印がなければ、悪魔の教えとなる。一方、大乗の経典は、ただ一つの教えの印があるのみである。それは諸法実相である。そのような教えを記す経典をみな了義経と名付け、それによって大いなる道を得る。もしこの実相の印がなければ、悪魔の教えである」とある。このために舎利弗は「世尊は実道を説き、悪魔にはこれがない」と言っている。ではなぜ小乗は三つであり、大乗は一つなのであろうか。小乗では「生死」と「涅槃」は異なるとしている。生死については、無常をもって最初の印として、無我をもって後の印として、この二つの印をもって生死を説く。涅槃はただ一つの寂滅の印とする。このために、三つを用いる。一方、大乗では、生死即涅槃、涅槃即生死であり、不二不異である。『維摩経』に「すべての衆生は常に寂滅の相である。すなわち大涅槃である」とある。また「本(もと)自ら生じることなく、今すなわち滅することもない」とある。「本生ぜず」とは、すなわち、無常・無我の相ではない。「今すなわち滅することもない」とは、すなわち小乗の寂滅の相ではない。ただこれは一実相であるのみである。実相であるために、「常に寂滅の相」なのである。「すなわち大涅槃」であり、ただ一つの印を用いるのである。

この大乗と小乗の印をもって、「半(不完全な教えという意味)」と「満(完全な教えという意味)」の経典とするならば、外道も乱すことはできない。天の魔も破ることはできない。世間の公文書に印が押されていれば、信じるべきであることと同じである。まさに知るべきである。あらゆる経典は、最終的には「実相の印」を得ることをもって、完全な教えの大乗とすることができるのである。

 

第三項 明確に体を明らかにする

このように、体とはすなわち「一実相の印」である。三軌においては「真性軌」のことである。十法界においては「仏法界」のことである。仏法界の十如是においては、「如是体」のことである。四種の十二因縁においては、「不思議不生不滅の十二因縁」のことである。不思議不生不滅の十二因縁においては、「十二種の苦道はそのまま法身」であるということである。四種の四諦においては、「無作の四諦」のことである。無作の四諦においては、ただ「滅諦」のことである。七種の二諦においては、「五種の二諦」のことである。五種の二諦においては、ただ「真諦」のことである。五種の三諦においては、「五種の中道第一義諦」のことである。あらゆる一諦においては、「中道の一実諦」のことである。あらゆる無諦においては、「中道の無諦」のことである。

もしこの意義を知るならば、智妙において、また十妙の一つ一つに、正しく体について知ることは可能である。

もし譬喩をもって、この意義を明らかにすれば、次の通りである。梁や柱をもって家を建てても、家そのものは、梁でもなければ柱でもない。すなわち、屋内の空間が家である。この場合、柱や梁は因果の喩えであり、家は柱でもなく梁でもないということは、実相の喩えである。実相を体とするのであって、梁や柱ではないのである。もし屋内に空間がなければ、入る所がない家となり、そもそも家とは言わない。同じように、因果に実相がなければ、何も成就しない。『大智度論』に「もしこの空がなければ、すべて何も起こらない」とある。またたとえば、太陽や月は天を天とする役割があって、それは公の大臣などが主を助けるようなものである。太陽と月は二つであるが、大いなる虚空である天は二つはない。大臣などはたくさんいてもよいが、主は多くはない。この意義のために、正しく体について知る必要がある。

三軌の乗を成就することは、不縦不横・不即不離であるが、言い表すために便宜が必要である。そのため、観照軌は除いて、ただ真性軌だけを挙げる。その意義は明瞭である。三軌がすでにこのようであるので、他の方も同様である。

 

第四項 経文を引用して証する

法華経』の「序品」に「今、仏は光明を放って、実相の義を明らかにする」とある。また「諸法実相の義は、すでにあなたがたのために説く」とある。「方便品」に「ただ仏と仏だけがよく諸法実相を究め尽くす」とある。その偈の中に「諸仏の法は長い時間の後、必ず真実を説くであろう」とある。また「私は仏としての荘厳な身を現わして、実相の印を説く」とある。舎利弗は理解して「世尊は真実の道を説き、悪魔にはできないことです」と言っている。また「真実の智慧の中に安住して、私は必ず仏となるでしょう」と言っている。「法師品」に「方便の門を開いて、真実の相を示す」とある。「安楽行品」に「諸法の如実の相を観じる」とある。「如来寿量品」に「如来は真実の通りに知見する」とある。『観普賢菩薩行法経』には「昔、霊鷲山において、広く唯一の真実の道を説いた」とある。また「一実の境界を観じる」とある。

このために次のように知ることができる。諸仏は大いなるわざの因縁のために世に出現し、ただ衆生が仏の知見を開き、この「一実」の非因非果の理法を見せるのである。『法華経』の経文の真意はここにある。明らかな証拠とすべきである。