大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 171

『法華玄義』現代語訳 171

 

B.2.広く誤った解釈をあげる

経典の正しい「体」は玄妙を絶しており、容易に知ることはできない。また、誤った教えや未熟な教えは、正しく完全な教えを乱す。たとえば、魚の目が真珠の中に入ったら紛らわしくなるようなものである。このため、ここでは誤った解釈を指摘しなければならない。そのために、六つの項目を立てる。一つめは、凡夫の典籍についてであり、二つめは、外道の典籍についてであり、三つめは、小乗においてであり、四つめは、偏った教えについてであり、五つめは、喩えについてであり、六つめは、悟りについてである。

 

B.2.1.凡夫の典籍について

大智度論』に「世の典籍において実とするものは、国を護り家を治めることを実とするのである。また外道で実とするものは、誤った知恵や偏った解釈を実とするのである。小乗に実とするものは、苦を厭い安楽を求め、偏った真理を実とするのである」とある。

これらは、ただ「実」という名称はあるが、その意義はない。なぜなら、世間の妖幻道術(ようげんどうじゅつ)もまた「実」と称されるが、その多くは鬼神の人を惑わす術である。これが心に入れば、迷酔狂乱して、自らの好みに従って優れたもの良いものなどを判断し、異議を立てて人々を動かして、特異な奇跡の相を示す。あるいは、髑髏にくそを盛り、多くの人の前でそれを飲み、生魚、臭肉などの汚らわしい物を食べる。あるいは、裸やぼろをまとい、規則に従わず、放逸であり礼を用いない。また問うこともなく答えることもなく、あらゆる欺きを行ない、無知な者たちを惑わし、信じさせ惑わす。そのようなものに捕らわれてから脱することを求めても得難い。内には病を得、その身を害し、外には家人を殺し一族を滅ぼす。その災いは故郷に及び、現世ではあらゆる苦しみを受け、後に地獄に堕ちて長く苦しむ。生まれ変わりを繰り返して真実の道を妨げ、解脱する機会はない。このようなことは実際に見られることである。そこに何の真実があろうか。愚かであり執着に基づく主張である「愛論」の範囲内である。

周公(しゅうこう)や孔子(こうし)の経の典籍などは、治法、礼法、兵法、医法、天文、地理、八卦(はちか=占い)、五行(ごぎょう・存在の生成を説いた教え)、世間の三皇五帝(神話伝説時代の八人の帝王)の典籍である。孝は家を治め、忠は国を治める。それぞれの親を親とし、その子を子とし、上を敬い下を愛し、仁義謙遜温和を徳として人民を安楽に生活させ、人々を統率して国を建てる。もしその法が失われれば、強い者は弱いものを虐げ、天下が乱れ、人民は平安を失い、鳥は住むことに余裕がなく、獣は休む余裕がない。この法によれば、天下泰平であり、牛や馬は家畜舎に戻る。まさに知るべきである。この法は民を愛し、国を治めるものであり、これを実と称する。『金光明最勝王経』に「釈提桓因(帝釈天のこと)のあらゆる勝論」というのは、この意義である。しかしこれは「十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見)」に過ぎない。「十善」を行なうことにより、天の心にかなう。そのため諸天は喜んで、天然の報いを求める。そしてこの法を優れているとする。このため「勝論」というのである。また大梵天王は「出欲論」を説くのは、「禅定」を修して、欲望の泥沼から出るためである。またこれも「愛論」の範囲内である。また世には占いや医術がある。薬を服用して長生きし、体を鍛えて身体を整える。仙人や魔術を使う者は、このような薬は秘要であり真実だという。これもまた「愛論」の範囲内の煩悩に過ぎない。

 

B.2.2.外道の典籍について

外道の典籍については次の通りである。もし薬を服用して知を求め(注:ここでは典籍を読むことを薬の服用に喩えている)、聡明利発であり道理を探求し、この薬の調合法を優れているとするならば、薬の力は多少知ったとしても、その結果を見ることはできない。薬の副作用に触れれば得たものも失い。薬をやめても失う。これもまた真実ではない。

このような荘子老子の教えのようなものは、無為無欲、天真虚静にして、あらゆる大言をやめ、聖人と呼ばれることもなく、智慧も絶することである。ただ胸の内を空しくするだけであり、「四見(しけん・有、無、亦有亦無、非有非無の四種の誤った見解)」の外に出ることはない。どうして聖なる教えに関わることがあろうか。たとえ「四見」の外に出たとしても、なお「複四見(ふくしけん・有の有と有の無、無の有と無の無、亦有亦無の有と亦有亦無の無、非有非無の有と非有非無の無の四種の誤った見解)に堕ちる。あくまでも人間の見解の中のことであり、解脱の道ではない(注:一見、言葉の遊びのように見えるが、あくまでも人間の思考というものは、自分が先ずいて、自分の周りに認識の対象があり、自分がその対象を認識しているという次元であるので、そのような認識を駆使しても、堂々巡りに言葉の泥沼にはまるのみである、ということである)。

外国の論理学のようなものについては、梨昌(りしょう)族が募集をかけて、五百の論理的な質問を集めた。その第一に梨昌の人は「瞿曇(くどん・釈迦の姓)よ、一つの究極的な道があるのか。多くの究極的な道があるのか」と言った。それに対して仏は「ただ一つの究極的な道があるのみである」と答えた。続いてその人は「どうして多くの師がただそれぞれ究極的な道を説くのか」と言った。仏は鹿頭(ろくず・弟子の一人)を指して、「あなたはこの人が誰であるか知っているか」と言った。その人は「知っている。究極的な道について論じさせれば第一の人である」と答えた。仏は「究極的な道を得たのであれば、どうして、その道を捨てて、私の弟子となったのであろうか」と言った。その人はたちまち悟って、仏の教えの中の唯一の究極的な道を讃嘆した。

また、長爪(ちょうそう・弟子の一人)が次のように言っている。「すべての論は破りやすく、すべての言葉は転じやすい。諸法の実相を観じれば、長く、一つの法も心の中に入ることはない」。『大智度論』に「長爪は亦有亦無の見解に執着している」とある。また「また不可説の見解をめぐらしている」とある。

このようなものは、百千万種である。虚妄の戯論は、煩悩に流転させられる。誤った見解の網が広く、誤った知恵が盛んである。「境」に触れれば執着を起こす。ある時は有または無を繰り返し、有の無を有とし、無の有、無の無を無とし、有の非有非無を有とし、無の非有非無を無とし、百千回繰り返しても、すべてみな誤った見解である。生死の隅であり、真実ではない。『涅槃経』に「無明の枷(かせ)をかけられ、生死の柱につながれている。二十五有を廻って、解脱を得ることができない」とあるのは、この意義である。

 

B.2.3.小乗において

声聞の教えの中に「有を離れ無を離れることを、聖中道と名付ける」とある。『大集経』に「憍陳如(きょうちんにょ・釈迦の一番弟子)沙門は、最初に真実の知見を得た」とある」。

しかし、小乗は大いなる「慈悲」を用いない。衆生を救わず、功徳の力は薄く、仏になることを求めず、深く実相を究めることがなく、智慧は劣っていて弱い。「有を離れ無を離れることを、聖中道と名付ける」といっても、すなわち、「断」と「常」を二つの対照的な見解とし、「真諦」を「中道」とする。「真無漏」の「智慧」を「見」と名付け、「涅槃」の法を証することを「知」と名付ける。「見思の惑」を断じて、「分断生死」を除くといっても、草庵に住めば、究極的な理法とは言わない。前の生死の有に対照的な無に過ぎない。有も無も破るべきであり、破られやすい。これは真実の道ではないので、「実相」と名付けることはできない。