大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 172

『法華玄義』現代語訳 172

 

第四項 偏った教えについて

あらゆる大乗経典において、声聞と縁覚の二乗の人と同じように、方便を帯びて説く者の言葉が記されているが、それは名称が同じであるので、その意義についての解釈は注意して分別しなければならない。『大智度論』に「三乗の人は、同じように言葉にならない教えによって煩悩を断じる」とある通りである(注:つまり声聞も縁覚も菩薩も、苦を断じることにおいては同じ教えによる、ということ)。『中論』に「諸法の実相は、三人共に得る」とあるのは、二乗の人は、共に言葉にならない教えを受けて、自ら苦から出ることを求めるといっても、大いなる慈悲がないので、空を悟っただけで終わりである。能力の劣った菩薩も同じである。能力の高い菩薩は、大いなる慈悲を他の人のために行ない、深く実相を求める。これらの人に共通する実相は、その智慧蛍の光のようである。そのために実ではない。そして共通しない実相は、その智慧が日光のようである。このために実とする。

『涅槃経』に「第一義空を智慧と名付ける」とある。二乗の但空(たんくう・空の理法のみに留まること)は、空であって智慧はない。菩薩は不但空を得るので、中道の智慧である。この智慧は、寂(じゃく・苦から解放されている状態)であって同時に常に照らす。二乗はただこの寂を得るのみであり、寂であって照らすことを得ないので、実相ではない。菩薩は寂を得て、また寂であって照らすことをするので、実相である。

不空を見ることにおいては、また多種がある。一つめは、不空を見て、次第に煩悩を断じて、浅い状態から深い状態に至る。これは相似の位の実であり、正しく実ではない。二つめは、不空を見て、すべての法を備える。最初の阿字門(あじもん・ここでは最も大切な教えという意味)は、すなわちすべての意義を理解する。即中・即仮・即空は、一つではなく異なっているのでもなく、三でもなく一でもない。二乗(=通教)はただ一つの即(即空)だけであり、別教はただ二つの即(即空・即仮)であり、円教は三つの即(即空・即仮・即中)を備える。三つの即は真の実相である。

大智度論』に「何が実相であろうか。菩薩は一つの相にはいって無量の相を知り、無量の相を知って、また一つの相に入る。二乗はただ一つの相に入るだけであり、無量の相を知ることができない」とある。別教は一つの相に入り、また無量の相に入るといっても、さらに一つの相に入ることはできない。能力の高い菩薩は即空であるために一つの相に入り、即仮であるために無量の相を知り、即中であるために、さらに一つの相に入る。

このような菩薩は、深く最高の智慧の大海を求めて、その一心は、即空・即仮・即中である。これが真実の実相である。

華厳経』は二乗に共通せず、ただ菩薩に対応するのみである。「一切智・道種智・一切種智の三智を順番に得るので、正しい実ではない。順番を経ないで得るものが、正しい実である。方等教において蔵教・通教・別教・円教それぞれが三智を得ることは、蔵教・通教・別教を虚妄として、円教を実とする。『大品般若経』に一切智・道種智・一切種智の三智が説かれているが、それは通教・別教・円教(注:般若は大乗のみの教えであるので「蔵教」は除外する)に属する。前の通教・別教は深く求めない。浅く、実ではない。後の円教は深く、一心の三智を求める。このために実である。『法華経』は「あなたは私の子である」とあり、四つとか三つなどの差別はない。あらゆるところに求めても、他の乗はなく、ただ一実相の智慧があるのみである。声聞の教えを完全に超越して、ただこの上ない道を説くのみである。これが純粋な一実の体である。

『涅槃経』に「一実諦とは、二つはない。二つはないために、一実諦と名付ける」とある。また、一実諦は無虚偽と名付ける。また、一実諦は顛倒(てんどう・真理とは真逆であることをひっくり返っているということで表現する)」することはない。また、一実諦は、悪魔の説くものではない。また、一実諦は、常・楽・我・浄と名付ける。常・楽・我・浄は、空・仮・中と異なることはない。

異なるならば二つとしなければならない。二つならば一実諦ではない。一実諦は、即空・即仮・即中であって、異なることはなく二つでないために、一実諦と名付ける。もし隔歴三諦(かくりゃくのさんたい・三諦を順番に観じること)であれば、すなわちそれは虚偽としなければならない。虚偽の法は、一実諦とは名付けない。三つではないので、一実諦である。もし異なるならば、すなわち顛倒が破られていないことであるので、一実諦ではない。三つではないので顛倒」はなく、顛倒がないために、一実諦と名付ける。異なるならば、一乗とは名づけない。空・仮・中の三つの法が異ならず、具足して円満であることを一乗と名付ける。この乗は高く広く、あらゆる宝をもって飾られている。このために一実諦と名付ける。悪魔は、別であって異なる空・仮など悟れるわけがないにもかかわらず、別であって異なる空・仮を説く。もし空・仮・中が異なっていなければ、悪魔はそれを説くことができない。悪魔の説くことができないものを、一実諦と名付ける。もし空・仮・中が異なっていれば、顛倒と名付け、異なっていないならば、不顛倒と名付ける。不顛倒であるために煩悩はなく、煩悩がないために浄と名付ける。煩悩がなければ、すなわち業がなく、業がなければ我と名付ける。業がないために報がなく、報がないために楽と名付ける。報がなければ生死はなく、生死がなければ常と名付ける。このように、常・楽・我・浄を一実諦と名付ける。

一実諦とは、すなわち実相である。実相とは、すなわち経の正しい体である。この実相は、すなわち空・仮・中である。即空であるために、すべての凡夫の執着による言論を破り、すべての外道の誤った見解による言論を破る。即仮であるために、三蔵教の有門・無門・亦有亦無門・非有非無門の四門の小乗の実相を破り、通教の声聞と縁覚と菩薩が共に見る小乗の実相を破る。即中であるために、段階的に観じる偏った実相を破る。

また実相には、あらゆる顛倒・小乗・偏の因果・四諦の法はなく、また小乗・偏などの三宝の名称はない。ただ実相の因果があるのみであり、四諦三宝は自然と具足している。またあらゆる方便の因果・四諦三宝を具足している。なぜなら、実相は海のような法界であるからである。ただこの三諦は真実の実相である。

また、別教の段階的に観じる実相を開けば、すなわち円教の実相である。証しする道が同じであるからである。また通教の声聞と縁覚と菩薩が共に得る実相を開いて深く求めるならば、底に至るためである。また三蔵教の実相を開き、声聞の法を究める。またあらゆる見解の言論の実相を開く。見解において動じることなく、そのまま三十七道品を修すためである。またあらゆる執着による言論を開く。魔界はそのまま仏界であるからである。道でない道を修して仏の道に通じる。すべての実在の中に、あらゆる安楽の性がある。以上は絶待妙をもって実相を明かした。これこそ、経の体である。