大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 173

『法華玄義』現代語訳 173

 

B.2.5.喩えについて

ここで、三つの喩えをもって、「体」についての正しい見解と誤った見解を明らかにする。そしてそれに兼ねて「開合」「破会」などの意義についても述べる。

まず、三種の獣がいたとする。その獣たちが河を渡る際、同じく水に入る。この三種の獣は強いものと弱いものの区別がある。河には底がある。三種の獣のうち、兎と馬は力が弱いので、向こう岸に渡ることができるといっても、浮いてしまって深く水の底まで足はつかない。一方、大きい象は力が強いので、河底を歩いて渡ることができる。この三種の獣は、声聞と縁覚と菩薩の三人を喩え、水は「即空」を喩え、底は「不空」を喩える。声聞と縁覚の「二乗」は「智慧」が少ないので、深く究めることができない。たとえば、兎や馬のようである。菩薩は「智慧」が深い。たとえば大きな象のようである。水の軟らかさは「空」を喩える。声聞と縁覚は同じように「空」を見ても、「不空」を見ない。底は「実相」を喩える。菩薩だけが一人「実相」を究める。そして智者は「空」及び「不空」を見る。

さらに、河底に足が到達するということにおいても、二種ある。小さな象はただ底に足がつくのみであり、大きな象は深く河底の土の中まで根差す。このように、「別教」の「智慧」は「不空」を見るといっても、段階を経て見るのであって、真実ではない。「円教」は「不空」を見て、究竟して真実を顕わす。このような喩えは、ただ兎や馬の「二乗」が真実ではないことを論破するのみでなく、また小さな象が「不空」の真実に至っていないことを指摘し、大きな象の「不空」を取って、この『法華経』の「体」とするのである。これは、「空」と「中」が合わさって、「真諦」とすることについて、このような指摘をするのである。

二つめの喩えは、水晶と如意珠の二つの珠を用いたものである。形は同じであっても、水晶は「空」だけを見て「不空」を見ない「但空(たんくう)」に喩えられ、それは宝を降らすことはできない。如意珠は「空」を見て、また宝の雨を降らすことができる。水晶は宝がなく、これによって「偏空=(但空)」を喩える。如意珠はよく宝を降らし、これによって「中道」を喩える。これは、「有」と「無」が合わさって、「俗諦」とすることについて、誤りを指摘して真実を顕わすのである。この『法華経』の「体」は、如意珠と同じである。

また、同じ如意珠をもって喩えとすることができる。如意珠を得てもその力の働きを知らなければ、ただの珠に過ぎない。智者はこれを得て、多く用いることができる。「二乗」は「空」を得て、「空」を証してそれに留まってしまう。菩薩は「空」を得て、「方便」をもって他を利益し、遍く多くの人々を悟りに導く。これは「中」を含んだ「真諦」とすることにおいて、その得失を指摘するのである。この『法華経』は、智者が如意珠を得るようなものであり、それを「体」とする。

二つめの喩えは、鉱石の中に金があるようなものである。愚かな人はそれを知らず、ただの石だと思って、汚れたごみの中に投げ捨て、振り返って取ることもしない。商人はこれを取って、溶かして金を取り出し、尊く保管する。金細工職人は、これを得て、あらゆるかんざしや首飾りや指輪や耳輪などを作り、仙人はこれを得て、練って不老不死の薬とし、天を飛び地の下に入り、太陽や月をつかみ、変通自在である。

ここでの愚かな人は凡夫の喩えである。「実相」を備えていても、修習することを知らない。商人は「二乗」を喩える。ただ「煩悩」の鉱石を断じて、「即空」の金を保つが、それ以上、何もしない。金細工職人は「別教」の菩薩を喩える。巧みな「方便」をもって、「空」「非空」を知って、この世に出て衆生を教化し、仏国土を荘厳し、衆生を悟りに導く。仙人は「円教」の菩薩を喩える。事象がそのまま真理であることを悟り、初発心の時に、すでに「正覚」を成就し、「一身無量身」を得て、遍くすべてに応じる。『法華経』はただ金で作られた不老不死のような「実相」をもって、経の「体」とする。

また、同じ金をもって別の喩えとすることができる。最初から最後まで、同じ金を用いているので、凡夫と「円教」は共に「実相」である。異なっていることを用いて喩えれば、最初の鉱石は金とは異なっており、次の金は細工品とは異なり、細工品は不老不死の薬と異なる。不老不死の薬は透き通った色であり、油のようになめらかである。どうして細工品と同じであろうか。色も形も別であるので同種ではない。これは、金を取り出して、最終的にすばらしいものにすることを用いて、誤った教えと正しい教えを指摘するものである。以上の三種の喩えを述べることは、前の喩えは、「根性」を喩える。「根性」に浅深がある。浅いものは「空」を得て、深いものはその「仮」を得て、さらに「中」を得るのである。

次に、三種の情を用いて喩える。最初の情は、ただ「苦」を出るだけであり、仏の道を求めない。真理を見て、それで終わる。次の情は段階的であり、「円教」の修行ではない。その次は広く大きく、「法界」に遍く求める。

第三番目として、「方便」を喩える。「二乗」は「方便」が少ない。金を取って保つだけである。「別教」は「方便」が弱く、ただよく飾って生計を立てるだけである。「円教」は「方便」が深い。このために、雲を吞み天の川を渡る。

ここで『法華経』の「実相」の「体」を明らかにすれば、河底に足をつけている大きな象のようであり、硬くて破ることができない。これをもって「体妙」を喩える。如意珠が宝の雨を降らせるのは、経の「用妙」を喩え、巧妙な智慧によって仙人となるのは、その「宗妙」を喩える。このような三つの喩えは、「三徳」である。不縦不横であることを大乗とする。大乗の中において、分別して「真性」を指して、この経の「体」とする。

 

B.2.6.悟りについて

「法相」が真実で正しいことは、誠に上に説いた通りである。「行」がまだ理法と一致しなければ、どうして「諦(=真理)」と名付けることができようか。いらずらに労して四説(しせつ・続いてその説明となる)すれば、かえって迷いを生じさせてしまうようなものである。目の見えない人に、乳を説明するにあたって、粥のようなものだと言えば、軟らかいものだと思い、雪と言えば冷たいものだと思い、貝と言えば硬いものだと思い、白鳥と言えば動くものだと思い、ついに乳の本当の色を知ることができない。心が迷って夜遊びをしては、どうして「諦」に至るだろうか。食べ物を叫んで求めても、食べ飽きるほどのものが得られるという道理はない。自己の見解に執着してそれを真実とし、他はすべて妄語とする。ここにあり、ここになし、是と非が互いに起こり、さらに流動を増す。これをどうして「諦」と名付けようか。

もし「諦」を見ようとすれば、まず慚愧(ざんき)して恥ずるところがあることを知るべきである。さらに深く懺悔すれば、悟りに向かう種は諸仏を感じて、「禅定」の「智慧」が開き、「観心」が明らかに清浄となり、信心と理解が互いに一つとなる。そのような時点を、暗闇に枯れ木を見て、まだ明らかに見えない状態という。それが人か木か虫か塵か明らかではない。さらによく平安の中で忍耐をすれば、法に対する執着を生じることなく、「無明」を明らかに破る。清らかな鏡が動かず、清浄な水に波がなければ、魚や石の姿は自然と明らかになるようなものである。このような尊く妙を得た人は、よく「般若」を見る。メスをもって目を手術すれば、指の一本、二本、三本が明らかに見える。その時、姿形を見て、「有」とすることもまた正しく、「無」とすることもまた正しい。どうして「有」が正しいのか。明白な姿形は眼に相応し、正しい理法は「智慧」にかなう。これを「有」と名付ける。どうして「無」が正しいのか。そこに、軟らかいものだ、冷たいものだ、硬いものだ、動くものだという相がなければ、これを「無」と名付ける。『大智度論』に「一切実、一切非実、亦実亦不実、非実非不実、このようなことをみな諸法の実相と名付ける」とある。舎利弗のような者は、真実の「智慧」に安住して、「私はまさに仏となり、天と人とが敬うところとなるであろう」と言った。その時、すなわち「永遠に煩悩を滅ぼし尽くし、余ることはない」ということができる。これを真実に「体」を見ると名付ける。このために『涅槃経』に「八千人の声聞が法華の中において如来の性を見ることは、まるで秋に収穫して冬に蔵に納め、さらにすることがないようなものである」とある。「理」においてすることがないことを明らかにするものは、究竟の理法である。「教」においてすることがないとは、その教えを聞いて、さらに他に聞くことがないことである。「行」においてすることがないとは、その修行を行じ終わって、さらに得たところを改めないことである。このようなことが、それ以上することがないという意義である。

概略的にこれを述べれば、「随智」の妙なる悟りは、経の「体」を見ることができる。まさに「随智」の妙なる悟りの意をもって、あらゆる「諦」の「境」の中には、「随情(ずいじょう・相手の感情に合わせて教えを説く智慧)」「随智(ずいち・ただ真理によって教えを説く智慧)」「随情智(ずいじょうち・相手の感情と相手の智慧に合わせて教えを説く智慧)」のさまざまな分別がある。他の迷いの心を退け、ただ「随智」を取ることをもって、経の「体」を見ることを明らかにするのである。