大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 174

『法華玄義』現代語訳 174

 

第三節 一法の異名

一法(=一実諦)の異名について述べるにあたって、四つの項目を立てる。一つめは、異名を挙げ、二つめは、異名を解釈し、三つめは、喩えによって述べ、四つめは、四随について述べる。

 

第一項 異名を挙げる

実相の体は一法のみであるが、仏はさまざまな名称としてそれを説いている。たとえば、妙有(みょうう)・真善妙色・実際・畢竟空・如如・涅槃・虚空仏性・如来蔵・中実理心・非有非無・中道・第一義諦・微妙寂滅(みみょうじゃくめつ)などと名付けられる。このような無量の異なる名称は、すべて実相の別名である。実相もまたこれらの異名のひとつである。迷う者はこの名称に違いに陥ってしまい、名称に執着して、かえって誤った解釈をしてしまう。『法華経』に「無智の疑いは長い間失うことである」とある。

小乗の論師は、もっぱら名称の相において論争をして、教えを失い人を退ける。またそのようなことを世代を超えて継承してしまい、正しい教えの敵となる。大乗の学者も、また同じようなものである。妙有を学ぶ者は、それ自らを至極と称して、畢竟空という言葉を聞いてそれを批判し、その教えを受けず、その人を退ける。また畢竟空を学ぶ者は、同じ仲間を集めて、正しいことを引き寄せて、その他のことは他に押し付ける。

みな、天主である帝釈天の千の異名を知らず、釈提桓因(しゃくだいかんいん・帝釈天の別名)を聞いて喜び、舎脂夫(しゃしふ・舎脂は帝釈天の妻の名。その夫であるので、これも帝釈天の別名となる)と聞いて怒る。帝釈天を恭敬し、拘翼(くよく・帝釈天の別名)を侮辱する。恭敬する福は侮辱する過失を補わないではないか。実相も同じである。同じように一法であるので、どうして一方を謗り、一方を信じることができるだろうか。

 

第二項 異名を解釈する

小乗の名と体は分別しやすいので、ここでは論じない。ここで分別するところは、ただ別教の四門と円教の四門の合計八門について述べるのみである。さらに四つの項目を立てる。一つめは、a.名・義・体が同じものであり、二つめは、b.名・義・体がそれぞれ異なっているものであり、三つめは、c.名・義が同じであり体が異なっているものであり、四つめは、d.名・義が異なっていて体が同じものである。

 

第一目 名義体が同じもの

妙有を名とし、真善妙色を義とし、実際を体とする。次に、畢竟空を名とし、如如を義とし、涅槃を体とする。次に、虚空仏性を名とし、如来蔵を義とし、中実理心を体とする。次に、非有非無の中道を名とし、第一義諦を義とし、微妙寂滅を体とする。このような名字は、名付けられた理由と内容は異なっているといっても、同じく一門を用いているので、別の意義があるのではない。そのために、名義体が同じという。

第二目 名義体が異なっているもの

妙有を名とし、畢竟空を義とし、如来蔵を体とする。また空を名とし、如来蔵を義とし、中道を体とする。また如来蔵を名とし、中道を義とし、妙有を体とする。また中道を名とし、妙有を義とし、空を体とする。このような四門は、互いに同じではない。名義体はそれぞれ別である。そのために、名義体がそれぞれ異なっているという。

第三目 名義が同じで体が異なっているもの

妙有を名とし、妙色を義とし、畢竟空を体とする。これはすなわち名と義の二つは同じであり、体は異なっている。また空を名とし、如如を義とし、妙有を体とする。これもまた名と義の二つは同じであり、体は異なっている。他の二つの門もまたこのようである。このために、名と義が同じであり体が異なっているという。

第四目 名義が異なり体が同じもの

妙有などの名は、その名称は同じではない。真善妙色などの義は、その意義に異なりはあるが、同じくひとつの体に帰して、さらに二つの意義はないために、名と義が異なっていて体が同じのものという。他の三つの門もまた同様である。

この「a.」「b.」「c.」の三つは、名と義がみな融合していない。最初の「a.」は、一つの名を求めて一つの義を得、一つの体を得て、すべて円融し、他のものには関わらない。第二の「b.」は、異なっている名を求めて、異なっている義と異なっている体を知る。体と義と名は全く融合しない。これはわかりやすい。第三の「c.」は、体が融合していないので、名と義が同じであっても、最後まで融合しない。これらは別教において意義を明らかにする。

これらの意義を得ていない者は、争いを起こす。あるいは小乗が大乗を押しのけ、あるいは大乗が小乗の座を奪う。なぜならば、小乗においては、生死の転生を断じようとするならば、畢竟不但空(ひっきょうふたんくう・究極的な真理はただ空ということではないということ)の教えを聞いて、人間的な情や求めに当てはめてしまい、これを但空だといって、これに執着して争いを起こす。小乗においては、生死の転生を断じようとするために有ではなく、涅槃に執着する病を破るために無ではない。このような中道の非有非無を聞いて、この小乗の情を増して、自分の教えが非有非無だという。このために、この二つの立場で多くの争いを起こす。もし中実理心を聞いて、小乗から離れれば、争いは起こらない。なぜなら、声聞と縁覚の二乗は空に慣れ親しんでいるが、ここで有を聞き、二乗は灰身滅智(けしんめっち・身もなくなり智慧もなくなること)し、さらにここで心智を聞いて、その情から離れるために、執着による争いは起こらない。これは小乗が大乗を押しのけるための争いである。

大乗が小乗の座を奪うとは、大乗の学者は、声聞と縁覚と菩薩が共に修す共三乗の人の空門と非空非有門の名が二乗に同じであることを見て、その深い意義を見ず、推論によって真実の妙有を説かないのだと決めつける。ただ妙有と亦空亦有の二つの立場を取って、これこそ円満常住の教えだと主張する。大乗は小乗に対して空門と非空非有門の二つを与えるだけで、妙有と亦空亦有は与えない。この争いは多少はあり得ることである。

もし空は不但空であり、非有非無は有と無の二辺から離れることであると知れば、すなわち空門・非空非有門・妙有・亦空亦有が共に奪い合い、しかも小乗はさらに空門と非空非有門の二つを争う。また大乗の空門・非空非有門・妙有・亦空亦有の四つは、名と義が融合しない。それぞれ争って、自から相手を飲み込もうとする。ましてや、小乗はなおさらである。野犬が獅子を襲う場合、どうしてあなたたちが食べられないことがあろうか。

前に述べた「a.」「b.」「c.」の三つは、争いを起こすので、『法華経』の体ではない。「d.」は名と義が異なっていて体が同じである。体にさまざまな義があって、その働きも多い。空門・非空非有門・妙有・亦空亦有の四つは、聞く相手に従って、さまざまに名称が異なるが、体が融合するので、円満にあらゆる名に応じる。教えの体がすでに同じであるので、名が異なり義がことなっていても、争いは起こらない。

その相とは何か。ここで概略的に説く。『無量義経』に「無量義とは、一法から生じる」とある。その一法とはいわゆる実相である。実相の相は、相として相でないものはなく、相でない相はない。これを名付けて実相という。これは真実は破られることがないことによって名を得ている。またこの実相は、諸仏が得た教えであるので、妙有という。妙有は見ることができないといっても、諸仏はよく見るために、真善妙色という。実相は二辺に執着する有ではないので、畢竟空と名付ける。空の理法は自然であり、一つでもなく異なってもいないので、如如と名付ける。実相は寂滅であるので、涅槃と名付ける。その悟りは変わることがないので、虚空仏性と名付ける。そこに含まれることは多いので、如来蔵と名付ける。寂にして照らし、霊によって知るので、中実理心と名付ける。有によらず、また無に陥らないので、中道と名付ける。最上でありそれに過ぎるものはないので、第一義諦と名付ける。

このようなさまざまな異なる名称は、共に実相に名付けられたものである。あらゆる名称があるのは、共に実相の働きの故である。この体はすでに円満であるので、名と義が隔たることはない。これが『法華経』の正しい体である。

また次に、あらゆる実在はすでに実相の異名であり、しかも実相の当体である。また、実相もまたあらゆる実在の異名であり、しかもあらゆる実在の当体である。妙有は破られないので、実相と名付ける。諸仏はよく見るために、真善妙色と名付ける。他の者が混じっていないので、畢竟空と名付ける。二つではなく別ではないので、如如と名付ける。悟りが変わることがないので、仏性と名付ける。あらゆる実在を含むので、如来蔵と名付ける。寂にして照らし、霊によって知るので、中実理心と名付ける。有と無に陥らないので、中道と名付ける。最上でありそれに過ぎるものはないので、第一義諦と名付ける。したがって、一法の当体をもって、働きに従って名称を立てる。これによって他も知るべきである。『涅槃経』に「解脱の法は、あらゆる名字が多い。百句の解脱は、ただ一つの解脱に過ぎない」とある。『大智度論』に「もし法に従って観じれば、仏と般若と涅槃と、この三つは同じ一つの相である。その実は異なることはない」とある。もしこの意義を得れば、あらゆる名称は、みな実相と名付け、また般若と名付け、また解脱と名付けられることを知る。この三つはまたあらゆる実在の名称であり、あらゆる実在はまたこの三つの体である。

 

第三項 喩えによって述べる

たとえば、一人を金師と名付け、その人がよく金を鍛え、その体を黄金にするようなことは、「a.名・義・体が同じもの」を喩える。

たとえば、一人を青と名付け、よく漆を作り、その身は白く清らかである。また一人を烏と名付け、よく朱を研ぎ、その身は紫であるようなものである。このような無量百千の名称や技術や身体が異なっていることは、「b.名・義・体がそれぞれ異なっているもの」を喩える。

たとえば、百人が同姓同名であり、同じく一つの技術を持っていても、その身がそれぞれ異なっていることは、「c.名・義が同じであり体が異なっているもの」を喩える。

たとえば、一人が戦乱に巻き込まれ、災いにあって、あらゆる場所で姓を変え、あらゆる場所で名を変えるようなものである。張儀(ちょうぎ・魏の時代の策士)、范蠡(はんれい・春秋時代の越の人)などは、多くの官職を渡り歩き、その身にあらゆる位を受けた。もし技術が多いことに従って名を得るならば、書画金鉄などの師があげられる。もし文官に従えば、儒学者の儒林(じゅりん)、中散(ちゅうさん)である。もし武官に従えば、熊渠(ゆうきょ)、次飛(じひ)である。場所によって名を変えることは、名が異なることを喩え、技術によって名称を得ることは、義が異なることを喩える。しかも体は一つであれば、異人ではない。『涅槃経』に「王家の力士は、一人で千人に相当する。この人は、まだ必ずしもその力が千人に匹敵しなくても、ただあらゆる技芸が千人に勝ることをもって、千人に相当するという」とある。巧みにしてあらゆる技芸に熟練していれば、技芸において通じないことはない。王に仕えてあらゆる位を受ければ、官職として通用しないことはない。このような丈夫な人、妙なる技術を持った人、体気のある人、病気のない人、あらゆることに通達する人、よく敵を破る人、上族姓の人、財技に富む人、知識の多い人、中庶信直(ちゅうしょうしんじき・意味は不明)の人、傘をかざされる身分の人は、「d.名・義が異なっていて体が同じのもの」を喩える。

喩えをもって表わせば、よく意味は明らかとなる。このために知ることができる。前の三つは別教の意義に属し、最後の一つは円教の意義に属するのである。

 

第四項 四随について述べる

問う:実相は一法である。なぜ名や義が多いのか。

答える:修行者の能力に従って、あらゆる差別がある。その願うところによって、便宜によって、対治によって、悟りに導くのである。たとえば、この世の人が小乗の数が多い阿毘曇(あびどん)を学べば大乗を捨て、大乗を修するならば小乗を捨て、空を習えば有を憎み、『十地経論』を学べば『中論』を批判するようなものである。すでに聞こうという気持ちがないので、それを聞いても喜ばない。心に信じ受け入れることをしないので、煩悩を滅ぼすことはなく、悟りを求める心を起こさない。それぞれが、その典籍において、偏って学び、その性質を作り、それが来世において教えを聞く能力や機縁となる。如来は時に、仏眼をもってこのような信などのあらゆる能力を観じ、数々の言葉をもって、順応して方便をもって、その人のために教えを説く。

有の性質を作っている者のためには、妙有真善妙色を説いて、違わず逆らわず、信心・持戒・忍辱・精進においては、空に対する誤った見解を除いて、よく悟りに入り、実相に一致させる。空の性質を作っている者のためには、畢竟空・如如・涅槃などを説いて、明らかに聴き、明らかに受け、善をもって悪を攻め、最上の無相に導く。亦空亦有の性質を作っている者のためには、虚空仏性・如来蔵・中実理心を説いて、積極的に善を起こし、非を離れて心を清くする。非空非有の性質を作っている者のためには、すなわち非有非無・中道をもって二辺を防ぎ、不来・不去・不断・不常・不一・不異などを説いて、聴聞することを求めさせ、渇いた者が水を喜んで飲むように、信心を求め修習して、あらゆる善を起こし、執着や誤った見解をみな除き、悪をすべて尽くして、第一義諦を徹底して明らかに起こす。

この有・空・亦空亦有・非空非有の四つの性質を作っている者に従うために、四つの異なった門が説かれる。説かれることが異なっているために、その名は異なり、その働きが別々であるために、その義は異なる。理法を悟ることは異なっていないので、体は最後まで一つである。このために、求那跋摩(ぐなばつま・中国における訳経僧)は「諸論それぞれ主張が異なっているが、修行すれば理に二つない。最初は偏った執着があって是非が問われても、悟りに到達すれば異なっていることによる争いはない」とある。このために、有・空・亦空亦有・非空非有」の四随は異なっているが、究極的には一つの実相の異名に過ぎない。