大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 175

『法華玄義』現代語訳 175

 

第四節 実相に入る門を明らかにする

実相は幽玄であり微妙であり、その理法は深い淵のようである。断崖絶壁に登る時、非常に長い梯子を使うように、真実の源に一致しようと願うならば、必ず教えと修行による。このために、教えと修行をもって門とする。『法華経』には「仏の教えの門をもって、三界の苦から出る」とある。また「仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏になることができる」とある。門は良く通じるという意味による。ここに、概略的に四つの項目を立てる。一つめは、概略的に門の相を示し、二つめは、門に入る観法を示し、三つめは、麁妙を示し、四つめは、開顕を示す。

 

第一項 概略的に門の相を示す

そもそも仏法は言葉に表現することはできない。対する人に合わせて説けば、必ず四句をもって理法を説き、修行する人を通して、真実の境地に入らせる。『大智度論』に「このような法において、第一義悉檀を説く。いわゆる一切実、一切不実、一切亦実亦不実、一切非実非不実である。このようなものを諸法実相と名付ける」とある。実相はなお一つではない。なぜ四ということができようか。まさに知るべきである。四は実相に入る門に過ぎない。また「四門より清涼地に入る。この門は無礙である。ただ能力の高い者だけが入るのではなく、鈍い者もまた入る。ただ心の定まった者だけではなく、心が散っているままで、志を確かなものとして精進する者も、また入ることができる」とある。また「般若に四種の相がある。いわゆる有相、無相、そして非有非無相である」とある。般若は一つの相ではない。どうして四相であろうか。まさに知るべきである。これもまた般若に入る門である。また「般若波羅蜜は、たとえば大火の炎はどこからも取ることができないようなものである。邪見の火が焼くからである」とある。もし火に触れなければ、身を暖めることもでき、食物を料理することができる。もし火に触れてしまえば、身を焼く。身が焼かれれば、身を暖めることも食物も意味がない。四門は般若に通じ、煩悩を除いて、偉大な事実を明らかにする。もしそれを取って執着するならば、「邪見」を作り、法身を焼く。法身が焼かれれば、四門にどうして入ることができようか。もし火に触れなければ、よく門に入ることができる。

もし仏の教えをもって門とすれば、その教えを四とする。もし一つの教えにおいて、四句をもって理法を述べれば、すなわち四門となる。一つの教えに四門があるならば、四つの教えにおいては合計十六門となる。もし修行をもって門とすれば、教えを受けて観法を修し、思惟によって入ることができる。すなわち修行をもって門とする。教えによって真理を発するならば、教えをもって門とする。もし最初に教えを聞いて、優れた馬が鞭の影を見ただけで正しい道を進むようであるならば、観法を修する必要はない。もし最初に観法を修し、夜に雷の光を見て、その場で道を見ることができるようであるならば、さらに教えは必要ない。いすれも、前世からの善根が成熟するのである。ここでは、教門において通じることができることを信行として、観門において通じることができることを法行と名付ける。

もし聞いて悟らなければ、まさに観法を修すべきである。観法において悟るならば、それは法行となる。もし観法を修して悟ることがなければ、まさに教えを聞くべきである。教えを聞いて悟ることができるなら、それは信行と名付けられる。教えは即ち観法の門であり、観法はすなわち教えの門である。教えを聞いてしかも観法を修し、教えを観じてしかも聞き、教えと観法が互いに補い合うならば、すなわち通入して門を成就する。

教えと観法を合わせて論じれば、三十二門がある。これは、その門の数の多さを表わすのみの数字である。詳細に門について求めれば、実際に無量である。五百の身因(五百人の僧侶たちがそれぞれこの世に身を受けた原因を語ったが、釈迦はすべてそれらを正しいと認めたということ)、三十二の不二門(空の法門である不二門に入るためにはどうしたらいいか、という質問に対して、三十二人の菩薩がそれぞれ違った答えをしたという維摩経の記述による)がある。善財童子は法界に遊戯して、無量の善知識(教えに導いてくれる人)に会い、無量の法門、無量の観行を説くのを聞いた。帝釈天の喜見城には千二百もの門がある。実相の教えの城だけがどうして門が一つだけであろうか。『法華経』には「あらゆる法門を説いて、仏の道を説く」とある。

ここではしばらく、蔵教・通教・別教・円教の四教について、十六門の相を明らかにする。

三蔵教の四門の第一は有門である。生死の法は、この世の性質によるものでもなく、原子的な物質によるものでもなく、父母の行為によるものでもない。すなわちこれは、無明が十二因縁の法則に従って働き、あらゆる事柄を生じさせたのである。煩悩・業・苦の三道はすべてみな有である。すべての有為は、無常・苦・空・無我である。修行者はよく煗法・頂法・世第一法を発得し、真無漏の因を発して、真理に従って道を修す。このように、道諦もまた有である。子縛(しばく・煩悩の縛り)と果縛(かばく・煩悩の結果による縛り)はすでに断じているので、有余と無余の涅槃を得る。このために『大集経』に「大変深い真理は、説くことができない。第一実義は声なく文字もない。憍陳如(きょうじんにょ)比丘は、すべての実在に対する真実の知見を獲得した」とある。これはすなわち煩悩を滅ぼすことにより真理を得たということである。真理もまた有である。このようなことは、あらゆる『阿毘曇論』に説くところであり、有を見て道を得れば、すなわち有門である。

三蔵教の四門の第二は空門である。この教えにおいては、十二因縁の無明から老死と、四諦の苦諦・集諦の二諦を分析する。因成仮(いんじょうけ・因縁によって生じた仮)・相続仮(そうぞくけ・仮が連続して存在すること)・相待仮(そうだいけ・相対関係を生じさせる仮)の三仮は浮いては消えるようなものであり、仮実を破り、すべて平等の空にはいって、真無漏を発する。空によって真理を見る。空はすなわち第一義門である。このために、須菩提(しゅぼだい)は石室にあって生滅無常を観じて空に入る。空によって道を得て、仏の法身を見る。おそらくこれは『成実論』の説くところである。

三蔵教の四門の第三は有空門である。この教えにおいては、十二因縁の生滅を明らかにする。亦有亦空である。もしこの教えを受ければ、よく有と無に執着する誤った見解を破る。因縁の有・空を見て、真無漏を発し、有・無によって真理を見る。有・無はすなわち第一義門である。これは、迦旃延(かせんねん)がこの門から入った。このために『昆勒論(こんろくろん・現存せず)』を作り、この門について述べている。

三蔵教の四門の第四は非有非無門である。この教えにおいては、十二因縁の生滅を明らかにする。非有非無の理法である。もしこの教えを受ければ、よく有と無の二辺に執着する誤った見解を破り、因縁の非有非無を見て、真無漏を発す。非有非無によって真理を見る。非有非無はすなわち第一義門である。悪口車匿(あっくしゃのく・釈迦が出家する時の従者であり後に出家したが、釈迦の従者であったという高慢からたびたび他の比丘たちに悪口を言うなどした。しかし、釈迦の入滅後、心を入れ替え悟りを開いた)はこの門によって道に入った。まだその論は見ない。ある人は「犢子(とうし)の『阿毘曇』にこの意義が述べられている」という。その論に、我は第五の不可説蔵の中にあると述べている。我は過去現在未来の三世と離れているので有我ではなく、無為ではないので無我ではないという。これは恐らく用いるべきではない。

次に通教の四門の相を明らかにする。これは大乗の門である。大乗は通教に通じ、別教に通じるので、偏って取るべきではない。ここで通教に通じることについて四門を述べる。先に述べた三蔵教の四門は、みな色(しき・認識の対象)を滅して空に入る。実際の人を頭、胴、両手、両足の六分割として見てしまえば、そのどこにも人を見ることができないので空と名付けるようなものである。通教の四門は、みな色をそのまま見て、これを空とすることであり、鏡に映った像を観じて、人体の六つの部分がそのまま空であると見るようなものである。分割して空と見るのではない。『大智度論』に「仏が比丘に告げて『空を観じればそれは絨毯であり、絨毯を観じればそれはそのまま空である』と」とある。これは体門であり、析門とは異なる。

三蔵教は生空(しょうくう・自我がないということ)を観じて道を得る。三蔵教は生空を観じて道を得終わって、またさらに法空(ほうくう・理法的な空)を観じる。したがって、生空と法空の二つは融合しない。この通教の門は、生空はすなわち法空、法空はすなわち生空であり、二つではなく別ではないと説く。『大品般若経』に「色性は我性のようであり、我性は色性のようである。この二つはみな幻の現われのようである」とある。

ある人は「三蔵教は真実の本性についての誤った見解を破る。実在に我を求めても得られないとする。ただこれは性空を観じるのみである。大乗は、相の自性は空であることを明らかにし、分析して空とするのではない」という。これは一理ある言葉である。『大品般若経』に「常に性空であり、性空でない時はない。あらゆる実在を明瞭に見れば、幻によって現われたもの、水に映った月、鏡の像のようである。どうして目に見える相だけが空であろうか」とある。ただこの幻によって現われたものについて、四門を判断するのみである。『大智度論』に「一切実、一切不実、一切亦実亦不実、一切非実非不実」とある。仏はこの四句によって、広く第一悉檀を説く。

一切実を有門とするということは次の通りである。業・果の善悪などの法から始まって涅槃に至るまで、すべては幻の現われと見る。たとえば、鏡の中の像は実性がないといっても、幻が現わした人体には六つの部分があるということを有門とする。あらゆる実在はすでに幻のようであるならば、幻の現われは本来自らの実性はない。実性がないために空である。それは涅槃に至るまで同じく幻の現われである。鏡の中の像に仮の形や色があっても、それを求めても得ることができないようなものである。これを空門とする。あらゆる実在はすでに幻のようであるので、有と名付ける。幻は得ることができないので空と名付ける。鏡の中の像は見えるけれども見ることができず、見ることができないけれども見えるようなものである。これは亦空亦有門である。幻の有は得ることができない。ましてや幻の空はどうして得ることができようか。すなわち、この両方を捨てることを門とする。これは通教の即空の四門である。

もし三乗共に教えを受けても、その能力は異なっているので、それぞれ四句において第一義に入る。そのために、この四句をみな門と名付ける。このために青目(しょうもく)は『中論』を注釈して「諸法実相に三種ある」と言っている。今、この三乗の人は同じくこの門に入って第一義を見るということは、即空の一種である。

次に別教の四門の相を明らかにする。もし『中論』の偈を用いれば、「また名付けて仮名とする」とある。さらに四門を述べることは、すなわち『大智度論』の四句と同じである。またこれはこの四句の意義である。

別教という意味は、これまでの蔵教と通教とは異なるということである。七義(理、智、断、行、位、因、果)があるために別である。そしてこの次の円教とも異なる。また、段階的(歴別)に中道に入るために別である。この意義については『涅槃経』にある。ただそこでも多く分散して説かれている。今、乳の生成過程の喩えをもって、別教の四門を明らかにする。

『涅槃経』に「仏性は乳に酪あり、石の中に金あり、力士の額の珠のようである」とある。すなわち有門である。石には金の性質はなく、乳に酪の性質なく、衆生の仏性はなお虚空のようであり、大般涅槃も空であり、迦毘羅城も空であると明らかにすることは、すなわち空門である。また「仏性は亦有亦無である。なぜ有とするのだろうか。すべての衆生はみな有であるためである。なぜ無とするのだろうか。巧みな方便にしたがって見ることができるからである」とある。またたとえば、乳の中にまた酪の性質があり、また酪の性質がないようなものである。すなわちこれは亦有亦無門である。仏性はすなわち中道だとすることは、どちらも否定して捨てる。またたとえば、乳の中に酪の性質があるのではなく、酪の性質がないことでもないようなものである。すなわちこれは非空非有門である。

別教の菩薩は、この四門の教えを受け、仏性を見ることにより、大涅槃に住む。このためにこの四句は、すなわち別教の四門である。一応、もちいて別教の門とする。経文においては、ある時は円教の門とする。この意義については後に考察する。

円教の四門の相については、この門は仏性第一義に入ることを明らかにする。一応は別教の門と名と義が同じであるが、細かく意趣を尋ねれば、別に多くの教えがある。その同異を分別することは、後に詳しく論じることにする。