大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 177

『法華玄義』現代語訳 177

 

第四.破法遍

「有」を見て道を得ることを成就することは、心を「禅定」と「智慧」に安住させることである。「五停心」の後、「共念処(ぐうねんじょ・戒律と禅定の中において智慧を明らかにすること)」を修す時は、「不浄観」などを帯びて、遍くあらゆる実在に対する認識を破れば、事象と理法の観法を共に成就する。「五停心」の後、単に「性念処(しょうねんじょ・単に智慧のみを明らかにすること)」を修す時は、一向に理法の観法である。「無常」の「智慧」をもって、遍くあらゆる誤った見解を破る場合、この観法は『中論』の下巻の二つの章で明らかにされている通りである。仏は最初、教えを説いた時、他の教えは説かず、ただ「無常」を明らかにして、遍くすべての外道の「有」あるいは「無」そして「非有非無」「神」および「世間」「無常」などの「六十二見(外道の邪見を六十二通りに分類したもの)」を破って、清浄に至ることを得させた。

今、『阿毘曇論』の師は、他の師に破られて、「無常は小乗であり、常は大乗である。常は無常を破ることはできても、無常は常を破ることはできない」と言っている。もしここまで見た意義からすれば、それはそうではない。まだ道を得ていない執着の心が作り出す「常」「無常」「亦常亦無常」「非常非無常」などの法に対する「境」が、「意根」に対してあらゆる誤った見解を生じさせる。誤った見解は「縁」から生じる。「縁」から生じるものは、すべて「無常」である。どうして外道に「常楽我浄」があるだろうか。このような「無常」「苦」「無我」「不浄」であるものを「常」「楽」「我」「浄」とする「四倒」は、すべて「無常」を用いて破るのである。このために、五百人の比丘は提婆達多に「ただ無常を修するなら、道を得ることができ、神通力を得ることができる」と語った。六人の悪比丘のような者は、他の人に教えを説く場合、もっぱら無常を説く。まさに知るべきである。誤った見解に深い浅いの違いはなく、すべて「無常」によって破られる。古い医者が、どんな病にも盲目的に乳薬を使用するのとは異なっているのである。

第五.識通塞

前に遍くあらゆる誤った見解を破ると述べたが、まだこの徳を見ない。誤りはすなわち「塞」であり、徳はすなわち「通」である。もし「有見」の「八十八使(はちじゅうはっし・四諦によって断ち切られるべき煩悩を、欲界、色界、無色界の三界すべてで八十八種あるとする教え)」から始まって、「非有非無不可説」の「見」の「八十八使」は、すべて「縁」から生じる。これを「塞」と名付ける。「塞」であるから必ず破るべきである。またこの「通」を知るということは、いわゆる「有見」の中の「道諦」と「滅諦」から始まって、「非有非無不可説」の「道諦」と「滅諦」である。このような「道諦」と「滅諦」は「因縁」から生じる。これを「通」と名付ける。「通」はどうして破る必要があろうか。

もしあらゆる誤った見解を知らなければ、これは真実であれは偽りだという。誤った見解に執着すれば、「業」が生じ、「愛」による働きにより「果」を感得する。どうしてこれが「塞」でないことがあろうか。あらゆる誤った見解の一つ一つがみな「無常」の顛倒だと知れば、誤った執着を生じることはない。執着しなければ「業」はなく、「業」がなければ「果」はない。このように達すれば、「道諦」と「滅諦」がある。これをどうして「通」と名付けないことがあろうか。虫が木を食べて、たまたま文字のような模様を作ったとしても、虫はそれを文字だとは知らないようなものが外道であるが、それとは異なっているのである。

第六.道品調適

どうして「通」と「塞」を知るだけで良いのか。まさに「三十七道品(ここでは、四念処、四正勤、四如意、五根、五力、七覚分、八正道を立てる)」を修して、あらゆる「法門」に進むべきである。この「有見」から始まって、「非有非無不可説」の「見」を観じれば、みな(五蘊の)「色」によることを知る。それは汚れていて不浄であるので、すなわち「身念処」である。「有」の(五蘊の)「受」を受けることから始まって、「不可説」の「受」を受けるようなことは、みな「三受(さんじゅ・苦受、楽受、不苦不楽受の三つ)」による。「受」は「苦」であるので、「受念処」と名付ける。あらゆる誤った見解が起こす(五蘊の)「想」「行」を観じれば、すべて「無我」であるということを「法念処」と名付ける。あらゆる誤った見解の心(=五蘊の識)を観じれば、一念一念が「無常」であることを「心念処」と名付ける(注:「四念処」はすなわち身念処、受念処、法念処、心念処の四つとなる)。

この四つの「観法」を観じることを、「有為法」の中に「正憶念」を得ると名付ける。この念を得るために、「四倒」が抑えられる。これを「念処」と名付ける。この四つの「観法」を勤めて修すことを「四正勤(ししょうごん・四正断ともいう。断断、律儀断、随護断、修断の四つ)」と名付ける。「禅定」の心の中に修すことを「四如意(しにょい・四神通ともいう。欲、念、精進、思惟の四つ)」と名付ける。「五善根(ごぜんこん・信、精進、念、定、慧の五つ)」が生じるので「五根」と名付ける。「五根」が増長して、あらゆる悪法を遮断するので、「五力」と名付ける。「禅定」と「智慧」が和合することを「七覚分(しちかくぶん・七覚支ともいう。択法、精進、喜、除、捨、定、念の七つ)」と名付ける。安らかで平穏の中に修すことを「八正道」と名付ける。

これは「位」についての「三十七道品」ではない。ただここでは、共通の修行項目として「三十七」を論じるのみである。もし「五停心」の一つに「三十七品」を設ければ、他の「五停心」もまたそのようになる。『阿毘曇論』の「道諦」の中に詳しく記されている通りである。

この「三十七道品」は、修行の法である。まさに「涅槃」の城に至ろうとするならば、「三解脱門(空解脱門(くうげだつもん・すべては実体がないと見ること)、無作解脱門(むさげだつもん・再びこの世に生まれ変わる業をなくすこと)、無相解脱門(むそうげだつもん・自分を中心とした相対的存在はすべて存在しないと見ること)の三つの門)」がある。いわゆる「空」と「無我」は「空解脱門」である。「苦諦」に続く「集諦」「道諦」にそれぞれ「因、集、生、縁」と「道、如、行、出」の四つずつあることは「無作解脱門」である。「滅諦」に「滅、静、妙、離」の四つがあることは「無相解脱門」である。

第七.対治助聞

能力の高い人はすぐに修行に入る。もし入ることができなければ、まさに「助道」を修すべきである。このために『大智度論』に「十二禅(四禅、四無量心、四空定)などは、すべてこれは修行の門を開く補助の法である。正しい智慧が弱ければ、煩悩の妨げが起こることがある。助道を修して補助とする」とある。また「貪欲がおこれば、不浄観、八背捨などを修することを教える。観法の対象の中で自在でなければ、八勝処を教えるべきである。対象の中で広く普遍でなければ、十一切処を教えるべきである。もし福徳が少なければ、四無量心を教えるべきである。もし色界を出ることを願うならば、無色界の四空定を教えるべきである」とある。これらは「助道」であり、修行の門を開く補助の法である。外道が「根本禅」において、かえって「愛」「見」「慢」を起こすこととは異なっている。

第八.識次位

このような正しい「助道」の法を修しても、私は聖人だと言うことはできない。真実と相似を混同することは、賢人と聖人の区別を知らないことである。ここで明らかに真実と相似の段階の違いを知り、自ら聖人ではないとしれば、高ぶった慢心は生じることはない。外道が誤った戒律を持つことや、あやまった見解を持って、生死の法を「涅槃」としてしまうこととは異なっているのである。

第九.能安忍

「別相念処(べっそうねんじょ・「五停心」に次ぐ「七賢位」の二番目。身体(身念処)、感覚(受念処)、心(心念処)、すべての実在(法念処)を別々に観じ、身体は不浄であり、感覚は苦であり、心は無常であり、あらゆる存在は中心的実体がないと観じること)」を修す力が弱く、未だ通じて安泰になることができない。その場合、進んで「総相念処(そうそうねんじょ・「七賢位」の三番目。身体、感覚、心、すべての実在の四つを総合的に観じること)」を修す。あるいは「身念処」と「受念処」、あるいは「身念処」と「受念処」と「心念処」、あるいは「身念処」と「受念処」と「心念処」と「法念処」のすべてを修す。その時、まさに安らかに忍び、「諦」を観じて成就させ、進んで「煗法(なんぽう・「七賢位」の四番目。煩悩を断ち切る働きが次第に生じて来た段階)」に入り、相似の道の「煗(暖かいという意味)」が生じる。『涅槃経』に「煗は有漏、有為であるといっても、かえってよく有漏、有為を破壊する。仏の弟子にはあり、外道にはない」とある。

またよく安らかに忍ぶならば、「頂法(ちょうぼう・「頂法(ちょうぼう・「七賢位」の五番目。心の視界が開け、山の頂上から見渡すかのような境地になること)」を成就する。「頂法」が「忍法(にんほう・「七賢位」の六番目。修行を忍び悟りの楽を求める境地)」を成就し、「世第一法(せだいいちほう・「七賢位」の七番目。悟りの直前の境地)」の側まで至る。もし「忍法」が成就しなければ、「頂法」に戻る。このために「頂法から退いて五逆(母を殺すこと、父を殺すこと、聖者を殺すこと、仏の身体を傷つけること、仏教教団を分裂させること。無間地獄に堕ちるという)となり、煗法が退いて一闡提(仏となれない者)となる」という。このために、この中でよくすべての内外のあらゆる妨げを安忍すべきである。外道が、細かな心の動きさえ安忍することができないこととは異なっている。

第十.無法愛

ここまでの「煗法」「頂法」「忍法」「世第一法」の「四善根」を生じさせることはできたが、もし「法」に対して執着の「愛」を起こしてしまえば、退いて「五逆」「一闡提」とはならないまでも、「見諦(けんたい・「四善根」の次の段階で、この段階から聖人と呼ばれる)」に入ることはできない。(注:これ以降の記述は、すでに見た「智妙」の最初の段落である「総合的に諸智を解釈する」の中の、第三「相」の三番目の「四善根の智」において詳しく述べられている内容を、省略して用語だけを並べて述べた箇所となる)。「見諦」に入るということは、すなわち、「集諦」「滅諦」「道諦」を次第に除いていって「苦諦」だけを残し、進んで「忍法」の最終段階である「上忍」から「世第一法」を成就する。「苦忍」の「真明」を発して、「十六刹那」において「初果」を成就することができる。あるいは、「果」を超越する「超果」を成就し、あるいは段階的に観法を用いて、「五下分結」「五上分結」を断じて、「無学」を成就することができるのである。

もし能力の高い人が観法を用いれば、その段階のあらゆるところに入ることができる。能力の劣っている人が観法を用いれば、以上述べた十種の観法を段階的に修す。『阿毘曇論』の中に詳しく解釈されていると言っても、この十種を出ることはない。

五百人の阿羅漢は、『毘婆沙論』を作って、正しく「有門」で道を得ることを述べている。どうしてこれが心を整える「方便」だと言うのだろうか。「四門」が適度に調えば、まさによく道を得る。もし執着を生じれば、道を得ることはできない。もしただ「有」だけを見て道を得て、「空」を見て道を得ないといえば、どうして外道の人と異なるのだろうか。このために『大智度論』に「もし般若の方便を得なければ、有と無に堕ちる」とある。ここでは十種の法をもって「方便」とし、ただちに真実の門に入る。これも外道と異なる。これを「有門」から真理に入る門の観法という。

他の「空門」「亦空亦有門」「非空非有門」の真理に入る観法の始終の「方便」は、「有門」に比べるとそれぞれ同じではない。しかし、共に「偏真」に合い、「三界」の惑を断じることは違いがない。この「三門」は、「有門」を基準にすれば、やはり十種はるはずである。大同小異である。意義は知るべきである。ここで煩わしく記すことはしない。