大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 178

『法華玄義』現代語訳 178

 

Ⅱ.通教について

次に通教の有門の観法を明らかにするに際して、並べて記せば十の意義(=十乗観法①~⑩)がある。以下、簡単にそれを列挙する。

すべての実在はみな幻が作り出した幻化であると体得し理解する(①観境)。声聞と縁覚と菩薩の三人の発心(②起慈悲心)が同じとしても、また細かな違いがある。『中論』の師が「この中は大乗の菩薩である」と言っている。しかし今、それは間違いであると言う。『般若経』には「声聞、縁覚を得ようとすれば、まさに般若を学ぶべきである」とある。『大智度論』に「声聞および縁覚の解脱と涅槃の道は、みな般若より出る」とある。経論には「これは大乗である」とはいわない。この師は誤っている。

禅定と智慧は不可得であると知るといっても、心を禅定と智慧の二法に安んじるべきである(③巧安止観)。幻化の智慧をもって、遍く四見(有見、無見、亦有亦無見、非有非無見)、六十二見およびすべての実在に対する誤った見解を破る(④破法徧)。幻化の中の苦諦・集諦を知ることを塞と名付け、幻化の中の道諦・滅諦を知ることを通と名付ける(⑤識通塞)。不可得の心をもって、三十七道品を修す(⑥修道品)。治すべき対象は本来ないが、それを以って、あらゆる対治を学び(⑦対治助開)、乾慧地(けんねじ)からはじまって仏地を知る(⑧識次位)。幻化の智慧は、外道の魔や内なる妨げによって影響は受けない(⑨能安忍)。あらゆる実在は不生であって、しかも般若は生じ、また執着はなく、すなわち真理に入ることを得る。また智慧の徳と煩悩を断じる徳は無生法忍(むしょうほうにん・すべては生じることはないという悟り)である(⑩無法愛)。

前の蔵教に比べれば、みな巧みである。これ以上は前に準じて知るべきである。また詳しくは記さない。他の三門(注:空門・亦空亦有門・非空非有門のこと)の十種の意義も、大同小異である。その意義は知るべきである。また煩わしく文を記さない。

 

Ⅲ.別教について

次に別教の有門の観法を明らかにするに際して、並べて記せば十の意義(=十乗観法)がある。

第一.観境

凡夫の四見・四門の外に超出して観じる。またこれは声聞と縁覚の二乗の四門の法ではない。また通教の法でもない。あらゆる四門の法を境とし、それらを実相とは名づけない。生死・涅槃ではない如来蔵は、すなわち妙有と名付け、そこに真実の法がある。このような妙有は、すべての法のために拠り所となる。この妙有からあらゆる実在が生じる。これが別教の観法の対象の境である。

第二.起慈悲心

菩薩は深く実相の妙有を観じて、生死の流れに乗ることはない。『涅槃経』に記されている喩えのように、金は貧しい女の家の雑草に埋もれたままになり、額に珠がある力士は、それに気づかず、格闘する中で体内に埋没してしまい、そのような者たちは貧しく家もなく、哀れむべき存在である。菩薩はそのような人々のため、大慈悲・四弘誓願を起こす。『思益経』に三十二の大悲について記されている。『華厳経』には、「一人、一国、一界、微塵の人のためにするのではなく、法界の衆生のために、菩提心を起こす」とある。このような発心は、大いに力がって獅子吼のようである。

第三.巧安止観

発心し終われば、心を安んじ修行に進む。前に説いたあらゆる禅定と智慧の通りである。このような時にはこのような行をすべきである。このような時にはこのような智慧を修すべきである。禅定から生じる正しい愛と、智慧から生じる鞭をもって、心を安んじ道を修す。この禅定と智慧を拠り所として、他を拠り所としない。これこそ、安心の法とする。

第四.破法徧

妙有の智慧をもって、遍く生死のすべての見、六十二見などを破る。裕福をもたらす功徳天と老死をもたらす黒闇天は対となっているので、どちらも受けない。遍く涅槃を虚無とすることや小乗の悟りを破る。たとえば、大樹が毒を持った木から飛んできた鳥を宿さなかったようなものである。

第五.識通塞

一つ一つの法の中において、あきらかに通と塞を知る。雪山の中に毒草もあり薬草もあるようなものである。菩薩は必ず知るべきである。このような心が起こるのは、すなわち六道の苦諦と集諦である。これを塞と名付ける。このような心が起こるのは、すなわち二乗の道諦と滅諦である。これを通と名付ける。またこのような心の起こるのは、二乗の苦諦と集諦である。これを塞と名付ける。このような心が起こるのは、菩薩の道諦と滅諦である。これを通と名付ける。このような心の起こることを、菩薩の苦諦と集諦とし、このような心が起こることを、仏の道諦と滅諦と名付ける。苦諦と集諦の中において、よく非道を知って、仏道に通達する。よく仏道を知って、塞がりを起こす。このように明らかに知って滞りがない。これを通と塞を知るとする。

第六.修道品

三十七道品は、菩薩の修すところの宝炬陀羅尼(ほうこだらに・『大集経』で説かれる菩薩の陀羅尼)である。顛倒を破る四念処・四正勤・四如意・五善根が生じ、五力をもって五悪を排除し、七覚分によって禅定と智慧が適切に調えられ、八正道によって、安らかで平穏の中に修す。十相(色相、声相、香相、味相、触相、生相、住相、滅相、男相、女相)を離れるために空三昧と名付け、また空相を見ないことを無相三昧と名付け、願い求めを起こさないために無作三昧と名付ける。これは修行の道の法であって涅槃に近づく門である。

第七.対治助開

諸法の対治の門を修すことは、いわゆる常無常・恒非恒・安非安・為無為・断不断・涅槃非涅槃・増上非増上である。常に願って対治門を観察して、実相を助け開くのである。

第八.識次位

初めの十信から十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚などの位がある。聖なる位の深い浅いは、すべて知って誤ることはない。そのため、みだりに上の位を究めたのだとも決めつけない。

第九.能安忍

内に善悪の二つの感覚、自分に逆らう賊と従う賊とを忍び、外界から来る八風(はっぷう・利、哀、毀(悪く言われること)、誉、称、譏(謗りや責め)、苦、楽)を忍ぶ。忍の力を用いるために、動揺させられない。

第十.無法愛

たとえ悟りに相似する法を悟っても、その法に対する愛着が起こらなければ、菩薩の頂からは堕落しない。生を法愛と名付ける。この愛がないために、菩薩の位に入る。無明の悪い雑草を破り、妙有の金の蔵を見いだし、仏性を見ることができ、実相に入る。これを有門に入る観法を修すとする。あらゆる門の方便は、それぞれ同じではないといっても、共に円満な真理に会い、理法に二つの差別はない。他の三門の観法は、有門に準じて知るべきである。また詳しくは記さない。