大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 179

『法華玄義』現代語訳 179

 

Ⅳ.円教について

(注:これ以降、「第二目 概略的に門に入る観法を示す」の最後の四番目の「円教」について述べられるが、この箇所は非常に長い)。

円教における実相に入る門の観法を明らかにするにあたって、第一に、円門を明らかにし、第二に、円観を明らかにする。

 

A.円門を明らかにする

前に述べた蔵教の門は、実在に対する認識を滅して真理に通じる(析空観)。その意義を得ることができなければ、多くの争いが起こる。通教の体空観は、実在を幻と見て真理に通じ、人に争いが起こりようのない法を示す。別教の門は、生死の認識を体空観によって滅し、次第に理法的な認識を滅して中道に通じる。これもその意義を得ることができなければ、多くの争いが起こる(注:以上、争いが起るとされる原因は、この三つの教えはみな相対的な次元のものだからである。相対的な次元においては、他との衝突は免れない)。円教の門は、生死の認識をそのまま理法的な認識とする。理法的な認識そのままに、中道に通じ、人に争いが起こりようのない法を示す(注:円教は絶対的次元の教えであるため、衝突するものがもともとない)。このために『法華経』の文には「無上道(むじょうどう)」とある。また「しかし深妙の道を行ず」とあるのは、この意義である。

蔵教と通教は、中道に通じないので論じる必要はない。別教と円教の両種は、共に中道に通じる。その別教と円教の同異を論じれば、概略的に十の項目が立てられる。第一に融・不融、第二に即法・不即法、第三に仏智・非仏智を明らかにし、第四に次第・不次第を明らかにし、第五に断の断惑・不断の断惑を明らかにし、第六に実位・不実位を明らかにし、第七に果縦・果不縦、第八に円詮・不円詮、第九に問答、第十に譬喩である。この十の項目に従って、明らかに別教の四門と円教の四門の合計八門の同異を知る。

第一.融・不融

別教の四門(空門、有門、亦空亦有門、非空非有門)は、その拠り所は固定している。妙有・真善妙色は空門とは関係ない。畢竟空を拠り所とすることは有門に関係しない(注:妙有・真善妙色・畢竟空などは、すべて実相の体の別名である)。それに始まって最後の非空非有門もまた同じである。

この別教の四門は歴別(りゃくべつ・段階的)であり、それぞれの分に通じる。その意義を得ることがなければ、固定的なものとして執着してしまう。実体的な性質に似ているので、ほぼ冥初(みょうしょ・古代インド哲学における根本的原質)が、覚(かく・古代インド哲学における精神原理による観照)を生じるということと混同してしまう可能性がある。

前に述べた三蔵教の四門の内の有門は、外道の誤った見解を破ることを優先している。次の空門などの他の三門は、誤った見解を破る働きは小さい。また通教の巧みな四門は、この三蔵教の劣った教えを破る。また別教の四門は、通教の四門の浅い教えを破る。すでにここでは声聞と縁覚の二乗とは共にしない。どうして外道の冥初や覚を妙有と混同することがあろうか。妙有は如来蔵によって四門を分別するのである。どうしてジャイナ教などの性実(本質的実体)に同じだろうか。周璞(しゅうはく・死んだ鼠のこと)と鄭璞(ていはく・玉の原石のこと)の「璞」の文字は同じであるが、指し示す物は天と地の違いがあるようなものである。

今、『十地経論』を学ぶ人は、正しい道に背いて俗に還り、ひそかにこの意義を用いて老荘思想の中に置いている。金と石が混じって、正しいものと誤ったものを混同させ、盲目のような人はきれいな水と濁った水の区別がつかない。あらゆる四門の意義を得て、詳しく真と偽を選べば、この盗みのようなことは生じない。

しかし、別教は、その拠り所は固定しているといっても、このような論争は諸仏の次元である。声聞と縁覚の二乗は知らない。ましてや外道が同じであろうか。円教の門は虚空に融合しないところがないように微妙であり、拠り所は固定していない。有を説いても無と隔たっていないので、有において無を論じる。無を説いても有と隔たっていないので、無において有を論じる。有と無が不二であり、固定する相はない。仮に有において言葉の発端とする。しかし、あくまでもこの有門はそのままで他の三門である。一つの門が無量の門であり、無量の門が一つの門である。一でなく四でなく、四であり一であり、一であり四であるのは、円教の門の相である。

また次に、さらに誤りを破ることと、すべてを開会することについて、融・不融の相を明らかにする。もし外道の誤った見解を破っても、二乗の誤りを破らず、大乗の方便も破らない。

また、別教において開会が説かれても、それは円教の開会とは異なっていることについては、『維摩経』の中に見られるようなことである。別教においては、凡夫は開会できても、声聞はできない。煩悩一般を開会して如来の種とすることができても、無為を目的とするものは開会できない。生死の悪人や煩悩の悪法もみな開会できても、二乗の善法や四果の聖人は開会することができない。また『般若経』の中に見られるように、二乗の行じる四念処や三十七道品はみな大乗であり、貪欲・無明・見愛はみな大乗であると明らかにして、善悪の法はみな開会できても、また悪人および二乗の者は開会しない。これらが仏になることを述べないのは、これは別教の門に属するからである。

円教における誤った見解を破ることについて述べれば、別教より下の教えは方便である。このために摩訶迦葉は自らを損ねて、「この教えを聞く前の私たちは、みな邪見の人と言わねばなりません」と言っている。しかし、このよう邪見の人と言ってしまえば、円教の正しい道の法ではない。すなわち人と法と共に損ねてしまう。別教の人と法すらこのようである。ましてや二乗の人と法はなおさらである。二乗すらこのようである。ましてや凡夫の人と法はなおさらである。さらにもしそうであるならば、円教においては、すべての誤った見解が際限なく損ねられてしまうことになり、もちろんそのようなことはあり得ない。

円教における開会は、あらゆる凡夫で法に執着する人々を開会する。『法華経』に「あなたたちはみな仏になるであろう。私はあえてあなたたちを軽んじない」とある。五逆の提婆達多もまた授記を受け、龍のような存在もまた授記を受ける。どうして二乗や菩薩が受けないことがあろうか。また「世間の産業もみな実相と異なることはない」とある。すなわちすべての悪法を開会するのである。また「あなたたちの行ずるところは、菩薩の道である」とある。蔵教の二乗ですら開会させられる。どうして通教や別教がそうでないことがあろうか。「あなたたちは私の子、私は父である」とある。このように人も法も開会させられないことはなく、みな共に円融する妙である。これがすなわち円教の門に属することである。

また次に、さらに経文の前後について、融・不融の相を明らかにする。先に不融の門を明らかにするものは、十地より下の位の三十心(十住・十行・十廻向)の教えであり、後に不融の門を明らかにして、融の悟りを説くものは、十地以上の位の教えである。あるいは先に融の悟りを明らかにして、十地以上の位の教えを説き、後に不融の門を明らかにするものは十地より下の位を説く教えである。これらはみな別教の門に属する。

先に融の門を明らかにして、悟りも融であるものは、十信より上の十住以上の教えであり、後に悟りの不融を明らかにするものは十住より下の位の教えである。あるいは先に不融の悟りを明らかにして十住より下の位の教えを説き、後に融の悟りを明らかにするものは、十信より上の十住以上の位の教えである。これらはみな円教の門に属する。

(注:「別教」の「位」においては、「十地」以上は「円教」の「十住」と同じとなる。つまり、「融」の門は、「別教」においては「十地」以上、「円教」においては「十住」以上に属するということである)。

第二.即法・不即法

もし有を説いて門とすれば、この有は生死の有とは別ものである。生死とは関係のない真善妙有を説くのである。空の門は、二乗の真諦とは関係のない畢竟空を説くのである。四番目の非有非無門もまた同じである。これは別教の四門の相である。

円教においては、もし有を門とすれば、生死の有そのまま実相の有である。すべての法は有に赴く。有はそのまま法界である。法界とは関係なく、さらに法について論じることはない。生死即涅槃であり、涅槃即生死であり、二つではなく別ではない。有をあげて門の発端とするだけである。真実においてはすべての法を備え、円融無礙である。これを有門とする。他の三門もまた同じである。これは生死の法そのままに、円教の四門とすることである。

また次に、法について遍・不遍があって、円教と別教の相を判断することは前に説いた通りである。五住地惑についても遍・不遍がある。

また次に、即法、不即法、あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

第三.仏智・非仏智

有を門として、一切智が空の法に了達し分別し、道種智が大河の砂の数ほどの仏法の差別不同を照らし分別することは、菩薩の智慧であり、別教の四門の相である。

有を門として、一切種智が五眼を備え、円満に法界を照らし分別し、正しく遍く知ることは、諸仏の智慧であり、これは円教の四門の相である。

また次に、別教の門に円教の智慧を説き、円教の門に別教の智慧を説く。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

また次に、別教の門に円教の智慧を証し、円教の門に別教の智慧を証する。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。