大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 180

『法華玄義』現代語訳 180

 

第四.次第・不次第

もし有をもって門とすれば、門によって修行する場合、次第する段階の差がある。微かなことから著しいことに至るまで、一つの行の中に無量の行が含まれることはなく、最後の非空非有門までこれは同じである。これは別教の四門の相である。

もし有をもって門とすれば、すべての法は有門に赴く。門によって修行する場合、同じくすべての行は有門の行に赴く。一つの行がそのまま無量の行であることを、遍行と名付ける。最後の非空非有門までこれは同じである。これは円教の四門の相である。

また次に、別教の門に円教の行があり、円教の門に別教の行がある。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第五.断の断・不断の断

至極の真理は虚無(こむ)であり、無明の本来の性質はもともと自ら有ではない。どうして智慧を用いるのであろうか。智慧による理解と煩悩の惑が共になければ、どうして円教や別教を用いるのであろうか。『涅槃経』に「誰に智慧があり、誰が煩悩を破るのだろうか」とある。『維摩経』に「貪りや怒りや愚痴の本性は、そのまま解脱である」とある。また「愚痴や愛着を断じないまま、智慧と解脱が起こる」とある。これはすなわち煩悩の断と不断を論じないことである。『涅槃経』に「闇の時に明るさはなく、明るい時に闇なし。智慧ある時にはすなわち煩悩はない」とある。これは智慧を用いて煩悩を断じることである。別教の有門は、多く固定的に分類して、次第に五住煩悩(見一処住地(間違った見解)、欲愛住地(この世的な迷い)、色愛住地(欲望は離れているが物質が存在するという誤った見解による迷い)、有愛住地(無色愛住地ともいう。欲望も物質的なことからも解放され、ただ精神性に対する迷いが残っている状態)、無明住地(=無明)の五つ)を断じて除く。すなわちこれは思議の智慧による断である。その他の三門もまた同じである。これは別教の四門の相である。

円教の有門は、智慧の理解と煩悩が不二であって、多く不断の断を明らかにし、五住煩悩もみな不思議である。すなわちこれは不思議の断である。その他の三門もまた同じである。これは円教の四門の相である。

また次に、円教の門において断を説き、別教の門において不断を説く。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第六.実位・非実位

もし有門に三界の中の見思惑を断じれば、三十心(「十住」「十行」「十回向」のこと)の位を判断し、三界の外の見思惑・無明惑を断じれば、十地の位を判断し、等覚の最終的段階で無明を断じ尽くして、妙覚の常住の果が煩悩の外にあって何事もないと明らかにすれば、これは他の位の因をもって、自らの位の果とすることであり、みな方便であり、実質的な位ではない。後の三門も大同小異である。みなこれは別教の四門の相である。

もし有門に初めて発心する時から始まって、一心三観によって三界の中の惑を断じ、円満に三界の外の無明惑を抑えれば、十信の位を判断し、進んで、真実の智慧を発して、円満に三界の外の見思惑無明惑を断じれば、四十心(「十住」「十行」「十回向」「十地」のこと)の位を判断し、等覚の最終的段階で無明を永遠に尽くして、妙覚が煩悩の外にあるならば、これは究竟真実の位である。後の三門もまた同じである。これは円教の四門の相と名付ける。

また次に、別教の門において実位を説き、円教の門において不実位を説く。別教の門において実位を証し、円教の門において不実位を証す。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第七.果縦・果不縦

もし有を門とし、門に従って果を証するならば、三徳に縦(時間的経過)と横(空間的広がり)がある。法身は、もともと備わったものであり、般若は修行して身に付けるものであり、解脱は初めて満了するものであるということは、ただ果の徳が縦に成就するのみならず、因もまた限定されることである。地論宗の人が「初地に布施波羅蜜を具足する」ということは、他において修行しないということではない。能力に従い分に従うのである。布施波羅蜜は初地に満了しても、それより上の位には通じない。他の法はそれぞれの分に従って具足しないのは、この意義が不完全であるからである。他の三門も同じである。これは別教の四門の相である。

もし有を門とし、門に従って果を証するならば、三徳が備わって不縦不横である。また因も同じである。一つの法門にすべての法門を具足して、通じて仏地に至る。『華厳経』に「初めの一地より諸地の功徳を具足する」とある。『大品般若経』に「最初の阿字に四十一字の功徳を具足する」とある。他の三門も同じである。これは円教の四門の相である。

また次に、別教の門において果の不縦を説き、円教の門において果の縦を説く。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第八.円詮・不円詮(注:詮とは経文として表わされた教えのこと)

もし有を門とすれば、門は円融しない。あるいは一つが融合し、あるいは二つが融合するのみである。経文の区分(序分、正説分、流通分)について述べれば、門の序分は、偏った教えの方便である。門の正説分は、不融不即の菩薩の智慧から始まり、偏った教えの譬喩などを述べる。門の流通分は翻って不融不即などの教えを結ぶ。他の三門も同じである。これは別教の四門の相である。

もし有を門とすれば、一門はそのまま三門である。門の序分は、円満な教えの方便である。門の正説分は、融即の仏の智慧から始まり、円満な教えの譬喩などを述べ、門の流通分はひるがえって融即などの教えを結び成就させる。他の三門も同じである。これは円教の四門の相である。

また次に、別教の門における円教を明らかにし、円教の門における別教を明らかにする。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第九.問答

もし有門の意義を明らかにする際に、円教と別教を論じることがなければ、問答を立てて、自ら円教と別教の趣旨を知ろうとすべきである。他の三門も同じである。

 

第十.譬喩

あらゆる門の前後について、金銀や宝物を喩えとしてあげ、あるいは如意宝珠や日や月を喩えとしてあげる。それらを別教に当て、あるいは円教に当てれば、円教や別教の相は自ら明らかになる。

 

以上のように、十種の項目をもって広くあらゆる経典を見るならば、円教と別教の二つの門は歴然と明らかとなる。

また五つの味の喩えをもって分別すれば、乳味の教えは両種(別・円)の四門であり、酪味の教えは一種(蔵)の四門であり、生蘇味の教えは四種(蔵・通・別・円)の四門であり、熟蘇味の教えは三種(通・別・円)の四門であり、『法華経』(醍醐味の教え)は一種(円)の四門である。

法華経』の十種の意義(①~⑩)とは、①「すべての法は空であり、如実の相であると観じる」、「声聞の教えを決了すれば、諸経の王である」、「方便の門を開く」とあるのは、凡夫、小乗、大乗の人の法を融合することである。②「すべての世の産業などは、みな実相と異なることはない」、「すなわち客となっている者は、実は長者の子である」とあるのは、即法の意義である。③「仏の知見に開示悟入する」、「今、まさに行じるところは、ただ仏の智慧のみである」とあるのは、すなわち仏の智慧である。④「如来の衣を着て如来の座に坐り如来の部屋に入る」などは、すなわち不次第の行である。⑤「五欲を断じないまま、しかも諸根を清める」、「五百由旬を越える」とあるのは、すなわち不断の断の意義である。⑥「五品、六根清浄」「宝の乗り物に乗ってあらゆる所に遊ぶ」とあるのは、すなわち実位である。⑦「仏は自ら大乗に住み、禅定と智慧の力をもって荘厳し、これをもって衆生を悟りに導く」とあるのは、すなわち果不縦である。⑧「合掌して敬う心をもって、すべてが具足している道を聞くことを願う」とあるのは、すなわち釈迦仏が『法華経』を説く前に説いた円詮(円教を表わすこと)である。「諸法実相の義はすでにあなたたちのために説いた」とあるのは、すなわち日月燈明仏が『法華経』の後に説いた円詮である。⑨智積菩薩と龍女との問答は、円教を表わす。⑩「転輪聖王の頭の珠」「この車は高く広い」というのは、みな円教の喩えである。この十種の意義がすべて備わっているので、円教の門は明らかである。

今ここで、融門の四つの相について述べる。「仏の智慧は、微妙第一である」とある通りである。また「私は如来智慧をもって、久遠を観じれば、なお今現在のようである」とある。智慧をもって妙法を知ることは有門である。「すべての法は空であり、常に寂滅の相であり、ついに空に帰す」とあるのは空門である。「あらゆる実在は常に無性であり、仏の種は縁より起る」とあるのは亦空亦有門である。「如ではなく、異ではなく、虚ではなく、実ではない」という二重の否定は、すなわち非空非有門である。

四つの相をもって門を表わし、十種の意義をもって別教と円教を分ける。このために、この『法華経』は円教の四門を明らかにすることを知る。