大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 181

『法華玄義』現代語訳 181

 

B.円観を明らかにする

すでに円教の四門を述べてきたが、今、有門による円教の観法について述べる。並べて記せば十の意義がある(注:「蔵教」「通教」「別教」と同様に、ここから「十法成乗観(=十乗観法)」について記されることとなる)。

 

第一.観不思議境

前の蔵教・通教・別教のそれぞれ四門、合計十二の門が思議の門であるのに対して、不思議境と名付けられる。不思議境は、すなわち一実の四諦である。つまり、生死の苦諦は、不可思議であり、即空・即仮・即中である。即空であるために方便浄、即仮であるために円浄、即中であるために性浄である。この三つの浄は一心の中に得るということを大涅槃と名付ける。『維摩経』に「すべての衆生は、すなわち大涅槃である」とある。このために、不可思議の四諦と名付ける。滅ぼすべきものではないのである。これはすなわち生死の苦諦であり、無作の滅諦である。

またこれは集諦・道諦である。煩悩の集諦は不可思議であり、即空・即仮・即中である。即空であるために一切智と名付け、即仮であるために道種智と名付け、即中であるために一切種智である。この三智は一心の中に得るということを大般若と名付ける。『維摩経』に「すべての衆生は、すなわち菩提の相である。また得ることはできない」とある。これはすなわち煩悩の集諦であり、無作の道諦である。またこれは苦諦であり滅諦である。このために、不思議の一実の四諦と名付ける。またこれは真善妙色である。なぜなら、生死は即空であるために真と名付け、生死は即仮であるために善と名付け、生死は即中であるために妙と名付ける。これを有門の不可思議境と名付ける。

 

第二.真正発菩提心

すべての衆生は、すなわち大涅槃である。どうして楽をもって苦とするのだろうか。すなわち大悲を起こし、二種の誓願を起こして、まだ導かれていない者を導き、まだ煩悩を断じていない者を断じさせる。すべての煩悩は、すなわち菩提である。どうして闇の中の愚者のように、道をもって道でないとするのか。すなわち大慈を起こし、二種の誓願を起こして、まだ知らない者に知らしめ、まだ得ていない者に得させる。その二種の誓願とは、どのようなものにも左右されない無縁の慈悲と清浄の誓願である。慈善根の力をもって、自由にすべての衆生を救い取るのである。

 

第三.善巧安心止観

すでに真理の体解を成就し、発心を備えれば、どうして池に臨んで魚を見て、あえて網を使わず、また食べ物を用意せず足を縛って旅に出ないのだろうか。修行の要は禅定と智慧を出ない。たとえば、陰陽が適度に調い、万物が茂って実が結ばれるようなものである。雨季と乾季が適切でなければ、乾いたり腐ったりしてしまう。もし車の両輪が均等ならばよく走り、鳥の二つの翼がそろえば飛び回ることに耐える。生死即涅槃を体得することが禅定であり、煩悩即菩提であると達することが智慧である。一心の中において巧みに禅定と智慧を修し、すべての修行を具足するのである。

 

第四.破法徧

この妙慧をもってすれば、金剛の斧はすべてを砕くように、陰りのない太陽が臨むところはすべて明るくなるようなものである。もし生死即涅槃ならば、分断生死(三界内の凡夫の生死)、変易生死(三界外の菩薩の生死)の苦諦はみな破られ、もし煩悩即菩提ならば、四住・五住の集諦はみな破られる。またよく破るといっても、また破られるところがあるわけではない。なぜならば、生死即涅槃であるために、破るところはないのである。

 

第五.識通塞

優れた将軍は適切な進退を選ぶことに喩えられる。強い敵の前には留まり、弱い敵の前では進む。生死の災いを知ることを塞と名付け、生死即涅槃を通と名付ける。煩悩が悩乱することを塞と名付け、煩悩即菩提を通と名付ける。外道の四見から始まって円教の四門に至るまで、そのすべての通と塞を知るのである。その一つ一つに執着することを塞とし、その一つ一つが幻であり思議を離れたものであると達することを通とする。もし諸法の平地や山を知らなければ、ただ修行や教えが進まないだけではなく、重要な宝を失うことになる。

 

第六.道品調適

生死即涅槃を観じれば、十界の生死における色陰(しきおん・五陰の最初。認識の対象)は、みな浄ではなく不浄ではなく、五陰の最後の識陰も、常ではなく常でないことはないと達し、よく凡夫の四顛倒と小乗の四顛倒を破ることは、すなわち法性の四念処である。四念処の中に、三十七道品・三解脱およびすべての教えを備える。

また涅槃即生死であると知ることは、空・苦・無我・不浄を顕わし、生死即涅槃を知ることは、常・楽・我・浄を顕わす。生死と涅槃は不二であると知ることは、すなわち一実諦である。空・苦・無我・不浄でもなく、常・楽・我・浄でもないと知ることは、大涅槃に住むことである。

 

第七.対治助聞

もし正道に障りが多ければ、まさに助道を用いるべきである。生死即涅槃を観じれば、過去世からの報いの障りを対治する。煩悩即菩提を観じれば、業の障りと煩悩の障りを対治する。

 

第八.知次位

生死の理法において、その本性そのままが涅槃であるということは、理法の涅槃である(理即)。生死即涅槃を理解し知ることは、文字の上での涅槃である(名字即)。努めて生死即涅槃を観じることは、観行の涅槃である(観行即)。善根功徳が生じることは、相似即の位の涅槃である。真実の智慧が起こることは、すなわち分真即の位の涅槃である。生死の底を尽くすことは、究竟即の位の涅槃である。煩悩即菩提を観じることも同様である(注:理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即を六即という)。

 

第九.能安忍

よく内外強弱の妨げを安んじて受け、以上の観心を壊さない。もし生死即涅槃を観じれば、陰入境・病患・業・魔・禅・二乗・菩薩などの境によって動かされたり壊されたりしない。もし煩悩即菩提を観じれば、諸見・増上慢の境によって動かされたり壊されたりしない。

 

第十.無法愛

すでに障りの難を過ぎ、四善根が成立し、あらゆる功徳が生じ、生死即涅槃を観じるために、諸禅三昧の功徳が生じる。煩悩即菩提を観じるために、あらゆる陀羅尼・無畏・不共、あらゆる般若が生じる。生死と涅槃が不二であると観じるために、法身・実相が生じる。相似即の功徳は、理法に従順して生じるために、喜んで道に従順する法愛(悟ったことなどに執着すること)を起こす。生を法愛と名付け、それ以上上らず退くこともないことを頂堕という。この法愛が起こるならば、すぐに滅ぼすべきである。法愛が滅ぼし尽くされれば、無明を破り、仏知見を開き、実相の体を証する。生死即涅槃を観じるために、解脱を証得する。煩悩即菩提を観じるために、般若を証得する。この二つは不二であるので、法身を証得する。一身がそのまま無量身であり、この上ない宝聚(ほうじゅ)・如意円珠、あらゆる法が具足する。これが、有門から実相に入り、『法華経』の体を証得することである。他の三門も同様である。

この十種の観法は、『法華経』の中に具足している。「この教えは示すことはできない。言葉の相は寂滅している。その他の衆生は理解できる者がない」とある。また「私の教えは妙であり思い計ることは難しい」とある。これは観不思議境である。

「すべての衆生の中において大慈心を起こし、菩薩ではない人々の中において大悲心を起こす。私が最高の悟りを得る時、神通力、智慧力をもってこれを導き、その法の中に住むことができるようにさせる」とある。これは真正発菩提心である。

「仏は自ら大乗に住む。その得る法は、禅定と智慧の力をもって荘厳されている」とある。これは禅定と智慧の二法の力に安んじて、自ら成就し、他も成就させるのであり、善巧安心止観である。

「有を破る法王」とあり、また「日月の光明のように、よくあらゆる幽冥を除き、この人は世間において行じて、よく衆生の闇を破る」とある。これは破法徧である。

「一人の導師があって、多くの人々を導き、明らかな心を完成させて、危険な場所においてあらゆる困難を救う」とある。これは識通塞である。

法華経』の中に登場する浄蔵菩薩と浄眼菩薩はよく三十七道品をはじめ、あらゆる波羅蜜を修す。これは、道品調適と対治助聞である。

「増道損生(ぞうどうそんしょう・智慧を増して苦を減らすこと)してあらゆる方角に遊戯する」とあるのは、識次位である。

「安住して動かないことは、須弥山のようである」とあり、また「如来の衣を着る」とある。これは能安忍である。

「あらゆる声を聞くとしても、それを聞いて執着しない。その意根などの六根は、みな清浄であることはこのようである」とある。また「真実の清浄の大いなる教え」とある。これは無法愛である。

この十種の観法は、このように経文に散見されるが、人は知らない。ここで、十種を挙げて、有門においての観法を示した。他の三門も大同小異である。十種の観法が実相に入ることも同様である。

また次に、この十種の観法は、ただこの『法華経』だけに記されているわけではない。大乗小乗の経論に、みなこの意義が記されている。摩黎山(まりせん・最高の香木である栴檀を産出する山とされる)がもっぱら栴檀(せんだん)を出すようなものである。外道のヴェーダ聖典老荘の書物に記されていることとは異なっている。世の人は共に読むが、文に対して真意を知らない。もし道を学ぼうと願っても、全く方便はない。悲しむべきことである。

いたずらに牛の乳を搾って、その乳の発酵方法を知らないようなものである。もしこの十種の意義を知れば、小乗の四門において共に用いて実相に入り、大乗の四門において共に用いて実相に入る。すでに実相を知れば、乳がゆを食べて、それ以上することがない(注:釈迦が悟りを開く直前の様子を指す)ようなものである。如意宝珠の半分または全部をすべての人々に布施するようなことはある。しかし、このような尊い布施があったとしても、人が命を惜しまず道を重んじて、熱心に修行する姿を見ることはできない。受けたとしても用いなければ、いたずらに布施して何の利益があるだろうか。私は残念である。利益がないとしても、毒鼓(どっく・生死を減らす仏の教えを、人を殺す毒の太鼓に喩えている)の原因となる。具体的にこれを知ろうとすれば、『摩訶止観』に記されている通りである。