大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 182

『法華玄義』現代語訳 182

 

第三項 麁妙を示す

門の麁と妙を述べるにあたって、二つの項目を立てる。一つめは、能所について麁と妙を判断し、二つめは、あらゆる門について麁と妙を判断する。

 

第一目 能所について麁妙を判断する

能と所について、四種がある。門は能通(通る主体という意味)であり、理法は所通(通って至る所という意味)である。自ら能通が麁であり、所通もまた麁であるものと、能通が妙であり、所通は麁であるものと、能通が麁であり、所通は妙であるものと、能通が妙であり、所通もまた妙であるものの四種がある。

三蔵教の四門は、事象的なことにおいて明らかにされ、浅く卑近な教えのために、能通を麁とする。ただその至るところも偏った真理なので、所通もまた麁である。通教の四門は、大乗の体空観であるので、如実の巧な観法であり能通を妙とし、三乗が同じく証するので所通を麁とする。別教の四門は、教えの道は方便なので、能通を麁として、円満な真理を明らかにして入るので、所通を妙とする。円教の四門は、悟りも道も真実の教えなので、能通を妙とし、事象も円満であるので、所通もまた妙である。

また、自ら麁の能通と所通を帯びるものがある。生蘇味の教えがそれである。麁の能通と所通を帯びていないのは、乳味の教えである。自ら麁の所通を帯びて麁の能通を帯びていないものがある。熟蘇味の教えがそれである。自ら麁の能通を帯びて麁の所通を帯びていないものがある。円入通教と円入別教がそれである。『涅槃経』の中のあらゆる門がこれである。

問う:『法華経』に「ただ一つの門だけがあって、しかもまた狭く小さい」とある。麁であるので一つで小さいとするのか。妙であるので一つで小さいとするのか。

答える:この意義はまさに共通して用いるべきである。一つの門に限るべきではない。なぜなら、三蔵教の四門は、聞く相手の能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので四門という。しかしこれも同じく仏の教えなので一門という。各門の方便が異なっているので四門という。しかし同じく涅槃に向かうので一門という。所通は能通に従うために四門という。しかし能通は所通と一つになるので一門という。文字の中に悟りはない。この文は教えについて狭く小さいということを論じている。たとえば、狭い道が二人並んで行くことを受け入れないようなものである。すなわち修行について狭く小さいということを論じている。教えと修行の二つの門は、真理を悟ることにおいて、狭い道を二人並んで行くことが難しいように一致することが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいということを論じている。

通教もまた同じである。聞く相手の能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので四門という。同じくこれは仏の教えであるので一門という。観法は同じでないので四門ある。しかし共に無生に向かうので一門という。所通は能通に従うために四門という。しかし能通は所通と一つになるので一門という。通教は事象について真理であるので、文字の中に悟りがある。善と悪を共に観じれば、みな不可得であるので、教えと修行が共に並んで行く。この意義について狭く小さいということを論じない。ただ教えと観法をもって真理を悟ることが難しいように一致することが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいという。

別教の四門もまた同じである。四つの能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので四門という。同じくこれは仏の教えであるので一門という。実相に入る観法は同じでないので四門という。しかし共に一実に向かうので一門という。所通は能通に従うために四門という。しかし能通は所通と一つになるので一門という。生死即涅槃を説かないので、教えは狭く小さい。煩悩即菩提ではないので、修行も狭く小さい。教えと修行をもって真理を悟ることが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいという。

円教の四門もまた同じである。四つの能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので四門という。同じくこれは仏の教えであるので一門という。実相に入る観法は同じでないので四門という。しかし四つの観法は一実に向かうので一門という。門をもって理法を名付けるために四門という。理法をもって門に応じるために一門という。この教えは生死即涅槃を説かないので、教えは狭く小さいことはない。煩悩即菩提ではないので、修行も狭く小さいことはない。しかしこの教えと観法をもって理法を悟ることが難しいのである。理法を狭く小さいと名付ける。『法華経』の文に「ただ一つの門だけがあって、しかもまた狭く小さい」とあることによれば、正しく教えと修行の門をもって、理法を悟ることが難しいことをいうのである。このために狭く小さいという。

今、円教の一つの句を開くにあたって、ところどころ同じではない。どうして執着して一つの文を守るべきであろうか。もしこの意義を知れば、麁と妙は自ら明らかとなる。