大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 183

『法華玄義』現代語訳 183

 

第二目 諸門について麁と妙を判断する

まず三蔵教の四門について明らかにする。この四門はすべて能通である。四門に執着すれば、共にみな妨げとなる。門が成就されることと門が退けられることと麁と妙に優劣はない。これは一概に判断できない。もし法に従って言葉を発せば有門は俗であり、道に入るためには拙い。空門は真理に近く、道に入るためには巧みである。このために『大智度論』に「能力の劣った人のために生空(しょうくう・事象的に空を説くこと)を説き、能力の高い人には法空(ほうくう・理法的に空を説くこと)を説く」とあるのはこの意義である。亦有亦無門は、前の門に比べれば巧みであるが、後の門に比べれば拙い。非有非無門は巧みである。『大智度論』に「半有半無の者は能力が劣った人とする」とある。これは四門の法について麁と妙を判断することである。

今、能力に応じて適切に説くことについて述べれば、もし有門にふさわしいならば、有門が成就して、他の三門が退けられる。もし無門(=空門)にふさわしいならば「無門が成就して、他の三門が退けられる。最後の第四門まで同様である。

もし一つの門について述べれば、みな四悉檀を得る者を成就とし、四悉檀を失う者を退けられることとする。各四悉檀について述べれば、世界悉檀においては、欲を満たすことを得とし、情に背くことを失とする。各各為人悉檀においては、その者にふさわしければ得とし、ふさわしくなければ失とする。対治悉檀においては、病を治すことを得とし、治さないことを失とする。第一義悉檀においては、第一義を見ることを得とし、第一義を見ないことを失とする。この見方において、さらに成就と退けることがある。これについて麁と妙を論じることができる。

また、十乗観法について麁と妙を判断すれば、第一の観境においては、因縁を観じて境が正しいならば得とし、境が邪悪ならば失とする。第二の真正発菩提心においては、真実で正しい心を発することを得とし、そうでなければ失とする。第三の善巧安心止観においては、心を安んじる所を得ることを得とし、心を安んじるにふさわしくなければ失とする。第四の破法徧においては、法を遍く破ることを得とし、遍く破らないことを失とする。第五の識通塞においては、通と塞を知ることを得とし、通と塞を知らないことを失とする。そして最後の第十の無法愛においては、道に従った法についての愛着が生じないことを得とし、道に従った法についての愛着が生じることを失とする。もし一門の十法が成就すれば、その門を妙とし、他の門を麁とする。もし他の門の十法が成就し、その門が成就しなければ、それを麁とし、他の門を妙とする。

通教の四門の麁と妙は、通教の理法はただ一つである。唯一の理法は説くことができない。どのような麁と妙とに表現して論じることができようか。聞く相手の能力に応じて説くことにおいては、優劣がないわけではない。四門の深浅を判断すれば、三蔵教の中に説いた通りである。また一つ一つの門について、もし四悉檀の対象となる者に合うことを説けば、これを妙とする。もし四悉檀の対象となる者に背けば、麁とする。また一つ一つの門について、十乗観法の修行において、一つ一つの句が適切であれば、妙と名付け、一つ一つの句が適切でなければ、麁と名付ける。麁であるために、四門は火に焼かれて清涼地に入ることができない。そうとはならない者を妙とする。

別教の四門の麁と妙は、もし法相について述べれば、有門は事象的なことについてであり麁とする。空門は理法的なことについてであり妙とする。空門は単一的な理法なので麁とし、亦空亦有門は空と有に通じるために妙とする。亦空亦有門は空と有が存在するために麁とし、非空非有門は空と有を排除するために妙とする。もし相手の能力に応じることにおいて述べれば、上に述べたことと同じではない。有門は欲に応じるために妙であり、他の三門は欲に応じないために麁とする。有門は悪に対するために妙とし、他の三門は対しないので麁とする。有門は第一義を見るために妙とし、他の三門は第一義を見ないので麁とする。他の三門においても同じである。

また十乗観法について述べれば、第一の観境においては、有門の真善妙色の境を知ることは、鎮頭迦(ちんずか・食べるにふさわしい柿という意味)と名付け、境を知らないことは迦羅迦(からか・毒の実という意味)と名付ける。(注:この鎮頭迦と迦羅迦の喩えは、『涅槃経』に記されている。この二つの実は非常によく似ているという。ある女がこれらを採取して市場で売ったが、その中で食べられる鎮頭迦は十分の一しかなかった、という話が記されている)。第二の真正発菩提心においては、正しく発心するために鎮頭迦と名付け、正しく発心しないのを迦羅迦と名付ける。第三の善巧安心止観においては、心を禅定と智慧に安んじることを鎮頭迦と名付け、禅定と智慧に安んじないことを迦羅迦と名付ける。第四の破法徧においては、あらゆる法を遍く破ることを鎮頭迦と名付け、法を遍く破らないことを迦羅迦と名付ける。第五の識通塞においては、よく通と塞を知ることを鎮頭迦と名付け、通と塞を知らないことを迦羅迦と名付ける。第六の道品調適においては、三十七道品を修することを鎮頭迦と名付け、三十七道品を修することをしないことを迦羅迦と名付ける。第七の対治助聞においては、よく対治を理解することを鎮頭迦と名付け、よく対治を理解しないことを迦羅迦と名付ける。第八の知次位においては、よく次位を知ることを鎮頭迦と名付け、次位を知らないことを迦羅迦と名付ける。第九の能安忍においては、安忍して動じないことを鎮頭迦と名付け、安忍できないことを迦羅迦と名付ける。第十の無法愛においては、道に従った法についての愛着が生じないことを鎮頭迦と名付け、道に従った法についての愛着が生じることを迦羅迦と名付ける。

迦羅迦の果は十分の九であり、鎮頭迦の果はわずかに十分の一である。もし十乗観法が成就すれば、十のすべてが鎮頭迦であり、十種の観法はすべて妙である。十分の九の迦羅迦は麁である。十分の一の鎮頭迦は妙である。花びらが千枚重なり合ったとしても、それは本物の金の一両に過ぎない。このように麁と妙を判断する。有門は以上述べた通りであり、他の三門も同様である。

円教の四門については、すべて妙であって麁はない。なぜならば、有門が法界であるので、すべての法を摂取して不可思議である。すなわちこれがすべての法である。どうして他の三門があるのだろうか。空門はすなわち法界であり、すべての法を摂取する。どうして他の三門があるのだろうか。他の二門も同様である。法相は平等であり、また優劣はない。

もしそうであるならば、四門の差別はない。ただ相手の能力に応じて四種の教えを説くのである。四つの指で一つの月を指し示すならば、月は一つだが指は四本あるようなものである。なぜなら、衆生は三世に転生する中で、この四門をそれぞれ習い、それによってそれぞれの本性を作っているからである。昔、四門の中に理法を見て、無明を翻そうとして智慧の本性を作る。昔、四門の中に善を修して、悪業を翻そうとして福徳の本性を作る。その福徳の智慧の因縁をもって、今の世の名色・触・受を感じ、それぞれもともと持つ習において、愛・取を起こす。これを十乗観法をもって円教の本性の衆生を成就することとする。

各人の願うところは同じではない。その対処に異なりがある。仏の智慧は明らかに見抜いて、相手の能力を照らすにあたって誤りはない。世界悉檀をもって、四つの本性に対応して、この四門を説くのである。各各為人悉檀をもって四つの善を生じ、対治悉檀をもってその四つの執着を治し、第一義悉檀をもってその四人に真理を見せる。この四つの縁がなければ、仏は説法をしない。縁は一つではないので、概略的にこの四つをいうのである。みな方便を捨てて、ただこの上ない道を説くのである。門の相は円融して、四門はみな妙となる。

さらに教門について麁と妙を判断する。なぜなら、もし四悉檀の意義を得なければ、あらゆる主張がぶつかって、誰も融通することがなくなる。『十地経論』には、南北の二派がある。さらに『摂大乗論』が出た。それぞれ自らが真理だと言って、互いに排斥し合い、論議に負ける。もし真実の意義を得なければ、四門が共に失われる。

ただ円教の門は清浄に融合して、その教えは虚空のように玄妙である。経論を詮索してばかりでは、どの争いが止むであろうか。もし道に入ろうとするならば、どの門が通じるだろうか。真理を悟る時、どんな四つの区別があるだろうか。修行する時、どんな門の閉塞があるだろうか。

ただ四つの門の閉塞に軽重の区別がる。別教は門を隔てる。悟る者は背くことはなく、悟らなければ争いを起こす。その執着はとても重い。たとえば、愚かな馬が、手が痛くなるほど鞭で打ってようやく走るようなものである。円教の門は幽玄である。悟らない時の執着は軽い。たとえば、賢い馬が鞭の影を見ただけで走るようなものである。このような軽い執着は、まだ第一悉檀の利益を得ていなくても、四悉檀の他の三つの利益は失わない。

このために『大智度論』に「この四悉檀はみな真実であり虚偽ではない」とある。なぜなら、世界悉檀が世界であるために真実であり、最後の第一義悉檀が第一義を見るために真実である。共に真実であるけれども、真実に深浅がある。また共に虚偽である。なぜなら有門に世界悉檀を説く場合、欲望や願望においては真実であるが、他の門においては虚偽である。有門では善を生じることを真実とするが、他の門においては虚偽である。有門では悪を破ることを真実とするが、他の門においては虚偽である。有門では第一義を見ることを真実とし、他の門においては虚偽である。そして他の三門も同様である。有門の三悉檀は、世界悉檀において真実であり、第一義悉檀においては虚偽である。第一義悉檀は第一義において真実であり、世界悉檀においては虚偽である。真実であるために妙とし、虚偽であるために麁とする。

もしこの麁と妙をもって、五味の喩えについて述べれば、乳味の教えに八門がある。そのうち、四門は麁であり、四門は妙である。所通は共に妙である。酪味の教えは四門すべてを麁とする。理法もまた麁である。生蘇味の教えは十六門ある。そのうち、十二門は麁であり四門は妙である。二つの所通を麁とし、二つの所通を妙とする。熟蘇味の教えは十二門ある。八門は麁であり四門は妙である。一つの理法を麁とし、一つの理法を妙とする。醍醐味の教え、すなわち『法華経』の四門は妙とする。一つの理法もまた妙である。

あらゆる声聞の人は、この法華(注:「法華涅槃時」の「法華」)以前は、門も理法も共に麁である。この法華に至って、門も理法も円融して妙である。菩薩は定まっていない。あるいは方等・般若においては門も理法も妙である。非常に能力の劣った者は、二乗と同じである。涅槃(注:「法華涅槃時」の「涅槃」)においては十六門ある。十二門は麁であり、四門は妙である。所通は共に妙である。

なぜならば、これまでのさまざまな門は、麁と妙それぞれに通じるが、なお仮の理法がある。涅槃はそうではない。すべての実在の中に、すべて安楽の本性がある。この多くの衆生に、みな仏性がある。また仮の理法もなく、ただ真実の妙理だけがある。しかしさらに麁門があって、それを妙理の方便とし、みな真実に入ることを明らかにする。

『涅槃経』の中に、婆羅門教の師が仏に次のように質問したことが記されている。「因は無常であるのに、果はなぜ常なのか」と。仏はこれに反論して答えた。このために知ることができる。百もの川はすべて海に入るように、あらゆる門は真実において合わさる。真実の理法は重要である。このためにすべて融合する。能力の劣った者を導き、麁の方便を残しておく。法華は誤りを破り、仮の門の理法を破る。金の砂を持つ川は曲がりくねるようなことがないようなものである。涅槃は摂取して受け、さらに仮の門を許す。それぞれ因縁のため、残すことと廃棄することの異なりがある。しかし、金の砂を持つ川が海に入ることには変わりない。