大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 184

『法華玄義』現代語訳 184

 

第四項 開顕を示す

問う:『中論』は、まず大乗の門を明らかにし、後に二乗の門を明らかにしている。ここではなぜまず小乗の門を明らかにし、後に大乗の門を明らかにしているのか。

答える:『中論』は、当時の人が誤った見解によって病を起こすために、まず大乗の教えによって病を取り除き、後に真理に入る門を示しているのである。『法華経』には誤った見解の病はない。ただ草庵に住めば、必ず方便の門を開いて、円満な真実の相を示すべきである。このために、先に小乗の門を列挙して、次に大乗の門を明らかにするのである。開いたり破ったりすることは適宜に行なわれれば、それぞれに美がある。

法華経』の後に説かれた教えは、さらに開く必要はない。『法華経』が説かれる前の教えは、たとえば門と理法がすでに妙に入っている者は、さらに開く必要はない。またあるいは、門と理法が妙であっても、人がまだ妙となっていない者もある。しかし、門と理法が妙となっている者は、また開く必要はない。門あるいは理法あるいは人がまだ妙となっていない者が、ここでまさに開かれるべきである。

つまり、すべての愛・見の煩悩は、そのままで菩提なのだと開く。このために『法華経』に「すべての法は空であり、如実の相であると観じる」とある。すべての生死はそのままで涅槃であると開く。このために「世間の相は常住である」とある。すべての凡人はそのままで妙人であると開く。このために「すべての衆生はみな私の子である」とある。すべての愛・見の言葉による教えは、そのままで仏の教えだと開く。このために「もし俗世間の経書、生産活動などを説けば、みな実相と相反することはない」とある。すべての衆生はそのままで妙理であると開く。このために「衆生に対して仏の知見を開かせるためである」とある。開くこと(開)をはじめ、示すこと(示)、悟ること(悟)、入らせること(入)もまた同様である。

すべての小乗の法はそのままで妙法であると開く。このために「声聞の法の本来の姿は諸経の王である」とある。すべての声聞の教えを開く。このために「仏は昔、菩薩の前において、声聞を退けた。しかし仏は、本当は大乗をもって教化される」とある。すべての声聞の行はそのままが妙行であると開く。このために「あなたたちの行じるものは、菩薩の道である」という。すべての声聞の理法はそのままが妙理であると開く。このために、「方便の門を開き、真実の相を示す」とある。

あらゆる菩薩のまだ妙を悟っていない者を開いて、みな円満な悟りを得させる。このために「菩薩はこの法を聞き、疑いの網がすべて除かれた」とある。別教に一種の菩薩がいる。三蔵教にもまた一種の菩薩がいる。通教にもまた一種の菩薩がいる。まだその本来の姿が明らかにされていない者は、ここでみな開かれ真実の姿が顕わされる。あるいは門、あるいは理法、それぞれが妙に入らないことはない。このことを開権顕実し、麁の真実の姿を明らかにして妙とすると名付けるのである。

 

第五節 遍く諸経の体について述べる

諸経の体が実相であることについて述べるにあたって、さらに五つの項目を立てる。一つめは、1.『法華経』の体のさまざまな別名について、二つめは、2.諸経の体のさまざまな異名について、三つめは、3.付随のものと主のものとの分別についての考察、四つめは、4.大乗と小乗についての考察、五つめは、5.麁と妙および開麁顕妙についてである。

 

第一項 法華経の体の別名について

法華経』の体の名称が、前後に同異することは、「序品」に「今、仏は光明を放って、実相の義を助け発する」とある。また「諸法の実相の義はすでにあなたたちのために説いた」とある。「方便品」において詳しく説く中に「諸仏は一大事の因縁のために仏知見を開く」とある。また「この上ない道」とある。また「実相の印」とある。「譬喩品」の中には「大きな車」をもって大乗を喩え、「信解品」の中には「家業を託す」と名付けられ、「薬草喩品」の中には「一切智地」「最実事」と名付けられ、「化城喩品」の中には「宝所」と名付け、「授記品」の中には「珠を縫い付ける」と名付け、「法師品」の中には「秘密の蔵」と名付け、「見宝塔品」の中には「平等の大いなる智慧」と名付け、「安楽行品」の中には「実相」と名付け、「如来寿量品」の中には「如ではなく異ではなく」と名付け、「如来神力品」の中には「秘要の蔵」、「妙音菩薩品」の中には「普現色身三昧」と名付け、「観世音菩薩普門品」の中には「普門」と名付け、「普賢菩薩勧発品」の中には「あらゆる徳の本を植える」と名付ける。

このように異名は同じではない。その意義もまた異なっている。究極的な理法は真実であり、真実をもって相とするために「実相」と名付け、霊的な知は寂滅でありしかも照らすことを「仏の知見」と名付け、三世の諸仏はただこれを用いて自ら行じて他を教化するために「大事の因縁」といい、妨げなく通じることを「道」と名付け、諸法を正しく定めることを「実相の印」と名付け、人々を悟りに運ぶことを「乗」と名付け、仏事を成就し論じることを「家業」と名付け、すべての拠り所となるために「智地」と名付け、諸法の元であるために「宝所」と名付け、円満で妙であり思惟することができないために「宝珠」といい、蓄え積むところはないがあらゆる法を含むために「秘密の蔵」「秘要」と名付け、妨げなく通じ達することを「平等大慧」と名付け、二つの極端を防ぐために「如ではなく異ではない」と名付け、妙の表現が自在であることを「普現三昧」といい、真実に入る方法であるために「普門」と名付け、諸法によって生じるために「徳本」という。このような名称と意義がさまざまであるが、体はそのまま実相である。すでに前に説いた通りである。

 

第二項 諸経の体の異名について

問う:『大智度論』に「実相の印がないのは、魔の説くところである」とある。『法華経』は実相を説いて体とすることができるが、他の諸経はそうではない。つまりそれらは魔の説くところとなる。

答える:そうではない。諸経における異名は、あるいは真善妙色、あるいは畢竟空、あるいは如来蔵、あるいは中道などである。ここにあらゆる異名をすべて載せることはできない。みなこれらは実相の別称であり、すべて正しい印である。それぞれ第一としている。実相の印によるためである。もしこの意義を失えば仏法ではない。このために諸経の体は同じとするのである。

 

第三項 付随と主との分別について

諸経は半・満・小・大の異なりがあり、体に付随のものと主のものとがある。主はすなわち実相であり、付随のものはすなわち偏った真理である。偏った真理は、ある時は実相を含み、実相はある時には偏った真理を帯びる。しかもそれらをすべて実相と称する。このために『中論』に「実相は声聞と縁覚と菩薩の三人が共に得る」とあるが、これは偏った真理である。『涅槃経』に「声聞の人はただ空を見るだけである」とある。「空」はすなわち付随のものである。また「智者は空および不空を見る」とある。「不空」はすなわち主である。『法華経』には「私たちは昔、同じく法性に入った」とある。「法性」とはすなわち付随のものである。また「今日、実智の中に安住する」とある。「実智の中」とはすなわち主である。小乗の蔵教で説く諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印は、付随のものである。通教は、付随のものを帯びて主を明らかにする。別教と円教はただ主を明らかにするのみであり、また付随のものを論じない。

もし五味の教えの喩えによれば、乳味の教えはただ主を論じるのみ、酪味の教えはただ付随のものを論じるのみ、生蘇味と熟蘇味の教えは付随のものと主を兼ねて帯び、醍醐味の教えはただ主のみである。また主の実相にあらゆる名字が多い。名字の中にまた付随のものと主のものを論じている。『勝鬘経』には自性清浄を主とし、他の名称を付随のものとし、『華厳経』には法身をもって主とし、『般若経』には一切種智をもって主とし、『涅槃経』には仏性をもって主とし、『法華経』には実相をもって主とし、他の名称を付随のものとする。これは、すなわち絶待妙においては、付随のものも主もないのであるが、教えにおいては付随のものと主を論じているのである。絶対妙においては、付随のものと主のものとはすべて経の体である。

 

第四項 大乗と小乗について

ここまでは別教と円教の二法の異名について考察したが、ここではさらに共通して小乗と大乗の四句によって考察する。第一句は、名義と体は『法華経』と同じであり、第二句は、名義と体は『法華経』と異なり、第三句は、名義は『法華経』と同じだが、体は異なり、第四句は、名義は『法華経』と異なっているが、体は同じである。

三蔵教の中において、もし体を実相とすれば、その名義は『法華経』と同じだが、体は異なる。もし実相と名付けなければ、その名義と体は『法華経』と異なる。ただ第一句と第二句を論じるだけであり、実質的に第三句と第四句はない。通教の中において、体を実相とすれば、その名義は同じだが、体は異なっている。もしこの名称がなければ、すなわち名義と体は共に異なっている。通教の門は、結局は中道に通じているので、名義と体は同じであり、また名義が異なっていても体は同じである。別教を円教に比較すれば、また四句がある。一つの法の異名の中に分別する通りである。

五味の教えの喩えによれば、乳味の教えは別教と円教の両種の名義が同じであり、両種の名義が異なっていても体は同じである。酪味の教えは前に説いた通りである。生蘇味・熟蘇味の中も前に説いた通りである。『涅槃経』の中の四教は、名義が異なっているものもあり同じのものもあるが、体は同じである。仏性は一つであるので、差別はない。

 

第五項 麁妙および開麁顕妙について

正しく実相に対する付随のものと主のものの名称の違いは、すなわち名称を異にし、意義を異にしているが、その体は同じである。したがってこれに対しては麁と妙の違いはない。ただ付随のものを麁とするのみである。付随のものに主を含み、主に付随のものを帯びることは、一応はまた麁とし、ただ主を妙とする。

蔵教と通教は、名称は同じく意義も同じだが、体は別であるので、すべて麁である。別教は、名称と意義は同じものもあれば、異なるものもある。教門が異なるものを麁とし、体が同じものを妙とする。名称と意義が同じであり、また名称と意義が異なっていても、体が同じものを妙とする。

五味の教えの喩えにおける麁と妙はわかるであろう。

麁を開くことは、すなわち付随のものを開くことである。あるいは、付随の教えを開けば、すなわち主の教えである。「仏は昔、菩薩の前において、声聞を退けた。しかし仏は、本当は大乗をもって教化される」とある。あるいは付随の行を開けば、すなわち主の行である。「あなたたちの行じるところは、菩薩の道である」とある。あるいは付随の人を開けば、すなわち主の人である。「客となって一日の報酬を受ける人は長者の子である」とある。あるいは付随の体を開けば、すなわち主の体である。「方便の門を開き、真実の相を示す」とある。また「後にこの貧しい人を見て、衣の裏側に縫い付けてある珠を示す」とある。深く付随の理法を観じれば、すなわち主の理法である。すべてはみな妙であるので、麁として相対するものはない。これが経の正しい意義である。