大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 187

『法華玄義』現代語訳 187

 

第三節 諸経典の同異を明らかにする

あらゆる経典の迹門の因果については、あるものは『法華経』と同じで、あるものは異なる。本門の因果はすべて異なっている。

迹門の因果については、そもそも実相はすべてに通じて、あらゆる体を証明する。いったいどの経典が、この実相について因果を語らないことがあろうか。

大品般若経』には、非因非果の実相を明らかにして、それを体とするが、ただ因を宗とするのみである。『般若経』の空は、まさしく因の意味である。このために「菩薩の心の中を般若と名付け、仏の心の中にあるものを薩婆若(さつばにゃ・一切智のこと)という」とある。その文の中で、また菩薩の無正無滅の因は、不断不常の薩婆若を得ると説く。

僧叡の『大品経序』に「奥深い文を開いて、執着のないことを始めとし、一切智、道種智、一切種智の三慧に帰して無碍をもって終わりとする」とある。この始終は因果である。文の中、また一切種智の仏果を説くが、般若の因を成就するためのものであり、因を中心とし、果は付随である。『無量義経』に、摩訶般若の非常に長い期間の修行について述べられている。このために、この経典は因をもって宗とする。

維摩経』は、仏の国の因と果の二つの意義をもって宗とする。宝積長者は具体的に因果を問い、仏はそれらの因果を答えている。このために、知ることができる。因と果の二つを宗とするのである。

華厳経』の円頓の教えは、宗に対する解釈が同じではない。あるいは、「因をもって宗とする。経の題名である『華厳』という言葉によれば、すべての行を荘厳に装飾する修因の意義である。文の中、多く四十地の修行の相を説く。このために因をもて宗とする」という。また、「果をもって宗とする。経の題名である『大方広仏』ということによれば、この仏の名は果の極みの名である。華厳は、禅定と智慧のすべての善をもって、仏の身を荘厳する。因を荘厳するのではない。文の中、多く廬舎那仏の法身について説いている。すなわち、果をもって宗とするのである」という。また解釈して「因と果を合わせて宗とする。仏はすなわち果であり、華厳はすなわち因であるというようなものである。文の中、具体的に法身を説き、またあらゆる修行の段階を説く。共に因と果をもって宗とする」という。

このように、あらゆる経典は、修行者に対することが同じではないので、宗について明らかにする内容は互いに異なっている。『般若経』は、声聞と縁覚と菩薩の三人に対するので、真実に対して付随的な因果がある。その意義は『法華経』と異なっている。能力の高い人の因は、その意義は同じである。『維摩経』の仏の国については、同異を兼ねている。蔵教・通教・別教の三種の仏の国の因果については、その意義は異なっている。円教の仏の国の因果は同じである。『華厳経』もまた、能力の高い人と低い人に応じている。能力の鈍い人は異なっていて、高い人は同じである。前に分別して説いた通りである。

またこの意義をもって、五味の教えの因果に当てはめることは、わかるであろう。以上を、あらゆる経典の因果と迹門との同異の相とする。

次に、本門の因果は、すべての経典が『法華経』と異なっているということについて述べる。三蔵教の菩薩は、はじめ実の因果を行じて、権の因果はない。そして、仏は菩提樹の下で初めて悟りを開いたと明らかにしているので、その仏は久遠の本迹ではない。通教の菩薩も、はじめ因を修行して、神通力によって変化して本門と迹門を論じる。これも久遠の本迹ではない。『大品般若経』には、菩薩に本と迹があって、声聞と縁覚の二乗にはないと説く。仏は初めて生身と法身の二身の本迹を得ることを説いて、久遠を説かない。『維摩経』には、声聞に本迹があるとは説かず、ただ菩薩は不思議の本迹に住むと明らかにしている。仏に浄土があると説いても、その中で、螺髻梵王(らけいぼんのう)が見たものは、久遠ではない。『華厳経』には、廬舎那仏と釈迦を本迹とすると説く。菩薩にもまた本迹がある。声聞は聞くことができず理解することができない。どうして自ら本迹があるだろうか。

法華経』は、声聞に本があるとする。本に因果がある。二乗の迹の中の因果とする。仏の迹を明らかにする。王宮の生身が生じ、菩提樹の下で法身が生じ、そして中間の生身・法身の二身は、すべて迹である。ただ最初にまず、真身と応身を得ることをもって本とする。このために師弟の本因本果は、他の経典とすべて異なっている。

法華経』の迹の中の師弟の因果は、他の経典と同じところがあり、また異なっているところがある。本の中の師弟の因果は、他の経典にはない。以上を『法華経』の因果をもって、経典の妙宗とするのである。

 

第四節 麁妙を明らかにする

円満ではない因、菩提樹の下で初めて悟りを開いたという偏った果などの宗は、すなわち麁である。『大品般若経』に明らかにされているところの、三乗に共通する因果もまた同様である。共通しない因においては、菩薩が一日、般若を行じることは、太陽が闇を照らすようであり、発心して神通力に遊戯するといっても、なお麁の因を帯び、円満な因が独自に顕われることはない。法身はどこから来たことでもなくどこへ行くでもないと説くといっても、なお麁の果を帯び、円満な果が独自に顕われることはない。このために麁と名付ける。方等教の中には、偏った因果を批判して、高原や陸地には蓮華は生じないといっても、偏った因果が円満な因果に入ることができることを論じない。円満な因果が現わされないので、また麁である。『華厳経』は、先に高山を照らすように、一つの円満な因を説き、究竟して未来に受ける身に対して一つの円満な果を説く。しかしまた別の因果を帯びているので、帯びるところは麁である。

法華経』は、声聞には授記を授け、菩薩には疑いを除かせる。同じく仏の知見を開き、共に一つの円満な因に入る。迹を説いて本を顕わし、同じく真実の果を悟る。因は円満であり、果は真実であり、方便を帯びない。そのため絶対的に他の経典とは異なっている。このために妙とする。

麁を開くとは、昔の修行者は能力が劣っていて、まだ仏乗の因果を称賛することを聞くことに堪えない。そのため方便の因果を用いて、程度の浅い者たちを導いて、五味の教えの通りに整え成熟させ、心がゆったりと通じ達するようにする。このために、仏に対して少し頭を低くするだけのことや、手を挙げることや、教えに執着する者もみな仏の道を成就し、その他に仏の道の因でないものはない。仏の道はすでに成就すれば、なぜなお仏ではない果があるだろうか。集中していない善もわずかな因も、『法華経』において開かれ真実が明らかにされ、すべて円満な因であるとされる。ましてや声聞と縁覚の二乗の行もそうである。さらにましてや菩薩の行は言うまでもない。すべて妙の因果でないものはない。