大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 198

『法華玄義』現代語訳 198

 

第二項 北地の批判

第一目 五時の意義の批判

もし『提謂波利経(だいはりきょう・現在では中国で作られた偽経とされている)』に五戒・十善を説くと言うならば、実際は、その経典にはただ五戒を明らかにするのみであり、十善は明らかにしてはいない。ただこれは人に対する教えであり、天に対する教えではない。たといこれを人天教としても、他のあらゆる経典ではみな五戒や十善は説かれている。これらも人天教なのであろうか。また『提謂波利経』には、「五戒を諸仏の母とする。仏道を求めようと願えば、この経を読み、阿羅漢を求めようと願えば、この経を読め」とある。また「不死の地を得ようと願えば、まさに長生きの札を着け、不死の薬を服し、長い楽しみの印を持つべきである」とある。「長生きの札」とは、すなわち三乗の法であり、「長い楽しみの印」とは涅槃の道である。どうしてこの経典だけが人天教だというのか。

また「五戒は天地の根、あらゆる霊の源である。天はこれをもって陰陽を和して、地はこれをもって万物を生じさせる。万物の母、万神の父、大いなる道の元、涅槃の本である。また四事の本、五陰、六境の本である。四事とは、すなわち地、水、火、風の四大である。四事はもともと清浄であり、五陰はもともと清浄であり、六境はもともと清浄である」とある。このような意義は、元を究め、妙の極みの教えである。どうしてこの経典が人天教であろうか。

また、『提謂波利経』に記されている提謂長者は、無生法忍を得て、三百人は信忍を得て、二百人は須陀洹を得て、四天王は柔順法忍を得て、龍王は信根を得て、阿修羅はみな阿耨多羅三藐三菩提を求める心を発している。このような道を得ることを見れば、どうしてこれが人天教なのであろうか。

また次に、『大智度論』では、それぞれの「蔵」を設けている。釈迦の最初の説法である鹿野苑から入滅の夕べに至るまで、すべて説くところの小乗の法は、まとめて三法蔵とする。最初に生まれてから沙羅双樹に至るまで、すべて説くところの大乗は摩訶衍蔵(まかえんぞう)とする。鹿野苑の前は、小乗には摂取されない。なぜならば、その時、まだ僧侶たちの僧宝はない。このために『提謂波利経』を初教とはできない。

もし『提謂波利経』は秘密教の一音異解だと言うならば、まさに顕教の最初にあるべきではない。他の有相教・無相教・同帰教・常住教は、南方の説と同じである。すでに前に論破した通りである。

 

第二目 菩提流支の半満の意義の批判

最初の鹿野苑の三蔵教からみな、半字の意義を明らかにし、『般若経』から最後の『涅槃経』に至るまでは、みな満字を明らかにすると言うが、そのようなことはない。釈迦が悟りを得た夜から、常に般若は説いている。鹿野苑以来、どうして満字ではないことがあろうか。『提謂波利経』の時、無量の天人が無生法忍を得たようなものである。悟りを得てから六年後に、すでに『殃掘摩羅経』を説く。『涅槃経』に「私は初めて悟りを得ると、大河の砂の数ほどの菩薩たちが来て、その意義を質問した。今のあなたと同じである」とある。まさに知るべきである。鹿野苑はまさにもっぱら半字ではないのである。

般若経』より以降の諸経はみな満字であるということについては、『大智度論』に「『般若経』は秘密教ではないので、阿難に託した。『法華経』は秘密教なので、あらゆる菩薩に託した」とある。もし同じく満字の教えならば、なぜ一つは秘密教で一つは秘密教ではないのか。またもしみな満字の教えならば、まさに同じく三乗を開会すべきである。またもし同じく満字の教えならば、生蘇味・熟蘇味の二つの教えはまさに、醍醐味の教えとなるはずである。醍醐味の教えは、同じく生蘇味・熟蘇味の教えとなるはずである。五味に喩えられたものは、すべて別々であり同じでないので、それによって喩えられた教えは、同じ満字とはならないはずである。

 

第三目 因縁宗の批判

次に四宗(因縁宗・仮名宗・不真宗・常宗)を批判する。まず因縁宗は、『阿毘曇論』の六つの因と四つの縁を指すという。もしそうならば、『成実論』にまた三つの因と四つの縁を明らかにしているではないか。すべての諸法は、みな因縁によって生じている。因縁の言葉はどの経論にも共通するのである。なぜ『阿毘曇論』だけなのであろうか。

また因縁宗は、次の仮名宗と異なる。このため、『成実論』に「四諦を見るということは、心を調える法である。悟りを得るためではない」とある。すでに因縁宗を立てるならば、どの悟りを得ることができるのか。もし小乗の悟りを得れば、すなわち仮名宗と同じになる。どうして別に立てる必要があるのか。もし大乗の悟りを得れば、すなわち円宗・常宗と同じになる。やはり別に立てる必要はないはずである。ここで、別に「宗」と立てるならば、小乗と大乗とは別の悟りがあるのだということになってしまう。

 

第四目 仮名宗の批判

『成実論』に、因成仮(いんじょうけ・因縁によって生じた仮)・相続仮(そうぞくけ・仮が連続して存在すること)・相待仮(そうだいけ・相対関係を生じさせる仮)の三仮は、水に浮いては消える泡のようなものであることを観じる法について述べている。すなわちこの世諦の事象的な法は、『成実論』の中心的な教えではない。『成実論』は、空を見て悟りを得ることを述べているので、まさに空をもって宗とすべきである。また『大智度論』に三蔵教の中の空門を明らかにしているが、そこに仮名門はない。もしその意義を指すならば、その意義をもって宗の名称とすべきである。すでに別に名称を立てているのならば、空を見て悟りを得ることではない。

 

第五目 不真宗の批判

大品般若経』において、諸法については、幻、焔、水中月、虚空、響、乾闥婆城(けんだつばじょう・蜃気楼のこと)、夢、影、鏡中像、化(いわゆる魔術師のわざ)の十喩を用いて、真実ではなく誤った相であるとされている。そして龍樹は大乗の中にある異端的外道を指して、「仏の十喩を取って、すべては幻の如く化の如く、生じることもなく滅びることもないと説く。それは般若の意義を失っているので外道と同じである」と述べている。どうして他から非難される意義を拾って、不真宗を立てるのか。もし文に幻化を明らかにして、仏性・常住を述べないことを不真とするならば、それは誤りである。『般若経』に仏性・常住を明らかにしているということは、前にすでに述べた通りである。なぜ『般若経』だけが幻化を明らかにしているのだろうか。『華厳経』にまた「すべては化のようであり、夢のようであり、心は巧みな魔術師のようである」などのあらゆる譬喩がある。『涅槃経』にもまた「諸法は幻化のようである。仏はその中において執着を起こさない」とある。このように、あらゆる経典では、みな幻化を明らかにしている。そうならば、これらはみな不真宗であるはずである。もしあらゆる経典の幻化が不真宗でないならば、なぜ『大品般若経』においてのみ、詳しく真実の相ではないと説いていると言えるのか。

 

第六目 常宗の批判

常宗は『涅槃経』だと言っている。しかし『涅槃経』はどうしてただ常住だけを明らかにするのだろうか。また非常非無常・能常能無常を明らかにし、並べて用いて常、楽、我、浄、無常、苦、無我、不浄の八術を具足する。どうして単に常住だけを取って宗とし、無常を取って宗としないのか。車輪が片方だけの車は走れず、片方だけの翼の鳥は飛べないようなものである。

彼が「誑相不真宗は、すなわち通教である。常宗はただ真宗であるならば、すなわち通宗である」と言っているが、宗は真と不真に共通させているではないか。不真宗は通教であると言っているが、どのような意義をもって「宗」ではなく「教」を用いるのか。真宗は、どのような意義をもって「教」ではなく「宗」を用いるのか。宗にもし教がなければ、どうして真を知ることができようか。真宗は宗がなくて教があれば、同じく通教と名付けられる。もし共に教をなくして宗を留めるならば、同じく通宗と名付けられる。もし共に教を留めるならば、同じく通宗教と名付けられる。もし不真と真を留めるならば、すなわち通不真宗教・通真宗教と名付けられる。通不真宗は、三乗が共に修するものとすることができるので、通真宗もまた三乗が共に修するものとするべきである。もしこの通は融通の通だとするならば、通教もまた通真の通であるべきである。これはすなわち両方の名称が混同しており、意義に区別がない。

彼は『楞伽経』を引用して「説は通じて無知の人を教え、宗は通じて菩薩を教える。このために真宗をもって通宗とする」と言っている。もしそうならば、これはすなわち因縁宗・仮名宗・不真宗は、みな無知の人を教えるものとなる。まさにすべてを「宗」とすべきではない。このように並べて検討すれば、四宗の名義は、非常に不便である。