大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 200

『法華玄義』現代語訳 200

 

第四節 研詳去取

研詳去取(けんしょうこしゅ)とは、実を詳しく調べることを「研」といい、権を詳しく調べることを「詳」といい、法相に適うために「去取(取捨選択のこと)」をすることである。

もし五時をもって教えを明らかにしようとすれば、五味の方便の文を用いることができるが、一つの真理の道は捨てることになる。この方便の文を用いることができるといっても、五時に対応する教えに分配することはできない。この方便の文は共通して用いることができても、五時の教えに対応させることは、適宜にやめるべきである。

もし前の十二年に有相教を明らかにするといえば、これは小乗の四門(有門・空門・亦有亦空門・非空非有門)の中の有門の一門を得ることができるが、他の三門を失う。なぜなら、三蔵教にすでに四門の悟りがあって、あるいは有を見て悟りを得るのは『阿毘曇論』の通りであり、あるいは空を見て悟りを得るのは『成実論』の通りであり、あるいは亦有亦空を見て悟りを得るのは『昆弥論』の通りであり、あるいは非空非有を見て悟りを得るのは悪口車匿(あっくしゃのく・釈迦が出家する時の従者であり後に出家したが、釈迦の従者であったという高慢からたびたび他の比丘たちに悪口を言うなどした。しかし、釈迦の入滅後、心を入れ替え悟りを開いた)のようである。このために知る。『成実論』に「涅槃の真の法宝は、衆生がそれぞれの門をもって入る」とある通りである。もし有門の一つの門を挙げて名付けるならば、総合的に三蔵教と言うべきである。もし詳しく明らかにしようとすれば、具体的に四門を立てるべきである。何の意義をもってただ有相だけを残して、他の三つを失うのか。後の人々に疑いを起こして、空と有の争いを起こしてしまうだけである。三蔵教の菩薩の場合は、詳しく四門を学び、あらゆる方便に通じるべきである。そして、後に仏の悟りを得る時、正遍知と名付けられるのである。もしただ有相の教えだけをあげれば、ただ有相を見て悟りを得る有門の一門を得るのみである。声聞は全く三門の涅槃に入る道を失っているので、小乗においても意義を欠く。もしただ有相のみならば、偏って一門を知って三門を理解しないことになる。これは正遍知ではない。菩薩において意義を欠く。この欠落は多いために、すべて捨てるべきである。そこで得るものは少なく、ただ一門を残すのみである。

もし十二年の後に無相教を明らかにすれば、無相とは三乗に共通の共般若であるとすることはできても、不共般若を捨てることになる。共般若に四門ある。幻の如く化の如くとするのは、すなわち有門であり、幻や化はないとするのはすなわち空門であり、幻や化はあってあるのではないとするのは、すなわち亦空亦有門であり、幻や化はないということはないとするのは、すなわち非空非有門である。もし『般若経』は無相であるというならば、ただ共般若の空門の一門であるとすることはできるが、他の三門は捨てることになる。また不共般若の四門を捨てることになるので、合計すると七門を失う。なお、これは修行である因の正遍知ではない。どうして悟りである果の正遍知であろうか。ただ捨てることになるところは捨て去り、得るところは得ているのみである。

もし、第三時は小乗の声聞を抑え、大乗の菩薩を褒めるというならば、これは小乗の一つの声聞を退けるが、有門以外の三門と通教の四門の合計七種の声聞を失う。大乗を顕わすという一つの意義はあるが、全く他の偏った教えの菩薩を抑え、円満を究めた菩薩を褒めることができない。またあらゆる菩薩を抑えて、実の菩薩を得ることができない。また偏と円・権と実の四門を知らない。得るところは少なく、得られないところは多い。

もし、第四時は同帰教だとするならば、ただ万善同帰・一乗という名称だけを得るのみであり、万善同帰・一乗の「所」を得ることはできない。「所」とは、すなわち仏性が同じく常住に、また一乗に帰一することなどである。ただ会三帰一を得て、会五(三乗に人天の二乗を加える)帰一を得ない。会七(この七は不明)帰一を得ない。ただ「帰一」という名称を得るだけであり、仏性・常住に帰するわけではない。このような欠点がある。

第五時の常住教が、二諦によって常住を論じるものならば、すなわちそれは常住ではない。もし二諦によらなければ、非難するところはない。常住を明らかにするといっても、全くそれは常住でもなければ無常でもなく、また共に常住と無常を用いるところを失っている。ただ常・楽・我・浄の四術の中の一つを得るだけであり、他の三術と無常・苦・無我・不浄の四術を合わせた七術を失っている。またその正しい体を得ない。

四時教の同帰教と、三時教の褒貶抑揚教は、証拠となる経文がなく、実としてよるべきものがなく、進むにしろ退くにしろ取るべきところはない。

北地の五時教もまた、証拠となる経文はなく、また実の意義を失っている。その中からの取捨選択は前に述べた通りである。

半満教は、実の意義を得て、方便の意義を失っている。四宗教は五味の方便の意義を失い、また実の意義を失っている。五宗教・六宗教も四宗教と同様である。有相と無相の二種の大乗教は、権と実が全く別であり、父母が全く別であり子が生まれないようなものである。導師はどのように弟子を導くのであろうか。権がもし実を離れれば、実相の印はなく、これは魔の説くところである。実がもし権を離れれば、説いて示すことができない。一音教は実を得て権を失っている。男女のやもめは生活することができず、子を持つことはできない。あらゆる宗家の教えを理解する方法は、さまざまであって同じものはない。みな今の世の師である。それぞれ自ら深いところに至ったと言う。しかし時が移れば、また新たな意義が加えられる。このごろの賢者は争いに暇がない。このために、ここまで詳しく調べ非難し、取捨選択を論じて、ほぼ大意を述べた。

もしこの病を除けば、今まで述べて来た通りである。もし除かなければ、それらを用いては誤りが生じる。どうして誤りが生じるのか。有相教はすべて四門を用い、無相教は共般若・不共般若の八門を用い、褒貶抑揚教は小乗を抑えて大乗を褒め、偏った教えを抑えて円満な教えを褒め、権を抑えて実を褒めることを用い、同帰教は同じく一乗・常住・仏性・究竟円趣に帰することを用い、常住教は常ではなく、無常ではなく、ならべて常と無常を用い、二種の鳥が決して離れないように、八術が具足することを用いる。

五味を用いれば、順序は経文の通りである。後に説くであろう。『提謂波利経』を用いるのは、ただ人天乗があるからだけではない。半満を用いれば、次の五句がある。すなわち、「満」と、「満を開いて半を立てること」と、「半を破って満を明らかにすること」と、「半を帯びて満を明らかにすること」と、「半を廃して満を明らかにすること」である。因縁宗・仮名宗を用いるならば、三蔵教の有門・空門の二つとするだけである。誑相宗を用いるならば、通教の一門であるだけである。真宗を用いるならば、ただ常であるだけである。常はただ真であるだけである。法界はただ『華厳経』だけにあるのではない。円宗は、ただ『大集経』を指すだけではない。有相教・無相教を用いることは、有相について無相を明らかにし、無相について有相を明らかにし、この二つの相を離れない。一音教を用いるならば、智慧ある方便は解脱であり、方便ある智慧は解脱である。たといその名称を取っても、意義を用いることは異なる。