大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 201

『法華玄義』現代語訳 201

 

第五節 教相を判ず

教相を判別するにあたって、六つの項目を立てる。一つめは大綱を挙げ、二つめは三箇所からの文を引用して証し、三つめは五味半満相成であり、四つめは合不合を明らかにし、五つめは通別料簡し、六つめは増数に教えを明らかにする。

(注:ここまでは、他の教判について述べられてきたが、ここからは天台大師の立てた教判についての説明となる)。

 

第一項 大綱を挙げる

この大綱を挙げるにあたって、三種ある。一つは頓教であり、二つは漸教であり、三つは不定教である。この三つの名称は昔から使われてきた用語と同じであるが、意義は異なる。

ここで、この三つの教えを解釈するにあたって、二種の解釈をする。一つは、a.教門について解釈し、二つは、b.観門について解釈する。教門は信行の人のためにし、また教えを聞く意義を成就する。観門は法行の人のためにし、また智慧の意義を成就する。この聞く意義と智慧の意義が具足するということは、人の目の前に日光が明らかに照らせば、あらゆる色形を見ることができるようなものである。具体的には『大智度論』の偈(注:『大智度論』第五巻にある偈を指す)の通りである。

 

第一目 教門について

Ⅰ.頓教

先ず教門について解釈すると、『華厳経』に記されているところの、あらゆる場所(七処八会)において説かれた教えは、たとえば、太陽が出て先ず高山を照らすようなものである。『維摩経』の中には、ただ強い匂いのする木の林に入れば、その匂いしかしないようなものだとある。『大品般若経』には、不共般若を説く。『法華経』に「ただ無上の道を説くのみ」とある。また「初めて私の身を見て、私の説く教えを聞いて、すぐにみな信じ受け入れ、如来智慧に入る」とある。また「もし衆生に会えば、すべて仏道を教える」とある。『涅槃経』の第二十七巻に「雪山に草がある。忍辱という名前である。牛がこれを食べれば、醍醐を出す」とある。また「私が初めて悟りを得た時、大河の砂の数ほどの菩薩たちが来て、その意義を質問した。今のあなたのようだ」とある。あらゆる大乗経典のこのような経文の意味は、みな頓教の相を表わしているのである。しかし、その経典そのものは、頓教の部類ではない。

Ⅱ.漸教

『涅槃経』の第十三巻に「仏から十二部経が出て、十二部経より修多羅が出て、修多羅より方便経が出て、方便経から般若が出て、般若より涅槃が出る」とある。このような意義は、漸教の相である。また初め人天より二乗、菩薩、仏道まで段階的に進むことも、また漸教である。またその中間に次第が入ることも、また漸教である。

Ⅲ.不定

不定教には特定な教えはない。ただ頓教と漸教の中において、それは見られる。今、『涅槃経』の第二十七巻にある文によって見れば、「毒を乳の中に入れれば、その乳は人を殺す。酪、蘇、醍醐に毒を入れても、また人を殺す」とある。これは過去の仏の所において、かつて大乗の実相の教えを聞くことを、毒をもって喩えているのである。

今生において、釈迦の声による教えに会う。するとその毒はすなわち発して煩悩の人を殺す。『提謂波利経』においては、ただ五戒を聞くだけで、無生法忍を得る者もあり、また三百人は信忍を得て、また四天王は柔順忍を得て、みな長い楽しみの薬を服し、長生きの札を帯びて、戒律の中に住んで、諸仏の母を見る。すなわちこれが、乳の中の毒が人を殺すことである。

大智度論』に「教えに二種類ある。一つは顕露教、二つは秘密教である。顕露教においては、初転法輪に、五人の比丘および八万の諸天は、法眼浄を得る。秘密教においては、無量の菩薩たちが無生法忍を得る」とある。これは酪の中の毒が人を殺すことである。

生蘇の中の毒が人を殺すとは、「あらゆる菩薩が、方等大乗の教えにおいて、仏性を見ることができ、大涅槃に住む」とあり、まさにこの意義である。

熟蘇の中の毒が人を殺すとは、「あらゆる菩薩が、『摩訶般若』の教えにおいて、仏性を見ることができる」とあり、まさにこの意義である。

醍醐の中の毒が人を殺すとは、『涅槃経』の教えの中にあるように、能力の劣った声聞は、智慧の眼を開いて発し、仏性を見ることができる。そして、能力の劣った縁覚、菩薩、七種の方便の人も、みな究竟の涅槃に入る。まさにこの意義である。

以上を不定教の相と名付ける。不定教の経典という意味ではない。

(注:不定教とは、同じ教えを聞いても、人によってその得るところは異なる、ということであるが、この箇所の記述は非常に簡潔であり、この文だけでは予備知識がない限り到底理解できない。さらに不定教には、顕露不定教と秘密不定教があることになる。詳しくは、第一章第五節の標教の箇所に記されている)。

 

第二目 観門について

Ⅰ.円頓観

初発心から即座に実相を観じて、常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種三昧を修して、八正道を行じる。すなわち道場において、仏の知見を開き、無生法忍を得る。牛が忍草を食べて、醍醐を出すようなものである。この意義は、詳しくは『摩訶止観』に記されている。

Ⅱ.漸次観

初発心から円満な悟りを求めて、数息観・四禅・四無量心・四空定の十二禅門を修す。すなわちこれは根本の行(定聖行の中の根本味禅)である。このために、「凡夫は血の混じった乳のようである」という。次に数息門・随息門・止門・観門・還門・浄門の六妙門、十六特勝(十六種の優れた観心)(以上が定聖行の中の根本浄禅)、観禅(かんぜん)、練禅(れんぜん)、熏禅(くんぜん)、修禅(しゅぜん)(以上が定聖行の中の出世間禅)など、そして三十七道品(すべての行に含まれるとする)・四聖諦観(=慧聖行)などを修行する。これらは声聞の法である。清浄の乳のような行である。次に十二因縁観を修す。これは縁覚である。酪のような行である。次に四弘誓願六波羅蜜を修す。これは蔵教・通教の菩薩の修行する事象と理法の法である。みな生蘇のような行である。次に別教の菩薩の行を修行する。みな熟蘇のようである。このために「菩薩は熟蘇のようである」とある。次に(出世間上上禅の中の九種大禅の中の)自性禅を修して一切禅に入り、最後の清浄浄禅である。このあらゆる法門は、よく仏性を見て、大涅槃に住み、真身・応身が具足する。このために醍醐の行と名付けるのである。

もしまさしく菩薩の位について、五味の意義を述べれば、前に説いた行妙の項目のところで記したとおりである。また『次第禅門』に説く通りである。以上を漸次観と名付ける。

Ⅲ.不定

過去の仏に従って深く善根を植え、今生で十二門禅を修して証し、明確に悟りを開き、無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が乳の中にあって、人を殺すことである。また、座って不浄観・九想・十想・八背捨・八勝処(以上は観禅の中の行)、有作の四聖諦観などを修し、この禅定によって、明確に悟りを開き、心に理解し無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が酪の中にあって、人を殺すことである。また、四弘誓願を発し、六波羅蜜を修し、仮を体得して空に入り、無生の四聖諦観をもって明確に悟りを開き、心に理解し無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が生蘇の中にあって、人を殺すことである。また、六波羅蜜を修行し、従空出仮を修し、無量の四聖諦観をもって明確に悟りを開き、心に理解し無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が熟蘇の中にあって、人を殺すことである。また、坐禅して中道の自性などの禅定の正しい観法を修し、無作の四聖諦観を学び、法華三昧(=半行半坐三昧)・般舟三昧(=常行三昧)などの四種三昧を行じて明確に悟りを開き、心に理解し無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が醍醐の行の中にあって、人を殺すことである。

ここで、信行と法行の二つの行において仏法を述べるにあたって、三つの意義がある。前に述べたあらゆる教えにおいては、一つとして他の法師たちの教えに相違するものはない。もし禅定を修して道を学ぼうとするならば、前に述べたあらゆる修行においては、法行の人のために、心が安らかになる法を説く。一つとして世間の禅師と同じものはない。

以上が概略的に教門と観門の大意を述べて、仏法を包括した。