大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 202

『法華玄義』現代語訳 202

 

第二項 三箇所からの引証

三箇所とは、『法華経』の「方便品」と、『無量義経』と、『法華経』の「信解品」である。

 

第一目 方便品からの引証

「方便品」に「私が初めて道場に坐って、菩提樹を見て歩み、二十一日間の中において、このようなことを考えた。『私が得た智慧は、微妙であり最も第一である。衆生の能力は劣っている。どのようにして悟りに導くべきか。私はむしろ教えを説かず、速やかに涅槃に入るのがいいだろう』と。そして、過去の仏の行じるところの方便を思い、『私が今得たところの道も、三乗の教えとして説くべきだろう』と考えた」とある。「私が初めて道場に坐る」とは、すなわち頓教を指す。なぜなら、釈迦が兜率天から下って来た時、その法身の仏の眷属は、曇りの日の雲が月を囲むようである。共に母胎に入り、そこでは虚空のように、常に妙法を説く。そして、やがて寂滅道場で初めて悟りを開き、あらゆる菩薩のために、もっぱら大乗を説く。太陽が出て、まず高山を照らすようである。これは釈迦が最初に頓教を説いたことを明らかにするのである。

「序品」に「仏は眉間から光を放ち、遍く東方の一万八千の国土を照らし、聖なる主の獅子のように経の教えを説くのを見ると、それは微妙であり第一であり、あらゆる菩薩を教える」とある。次に「もし人に会えば、そのために涅槃を説いて、あらゆる苦しみから救う」とある。これは現在の仏が頓教を先にして、漸教を後にしたことである。

また文殊菩薩が疑いから発せられた質問を解き明かす時に、昔の仏もこのようだったということを引用している。その経文に「またあらゆる如来が自然に仏の道を成就するのを見る。世尊は大衆の中にあって、深い方の意義を説く」とある。次に「各諸仏の国土に、声聞の数は無数である」とある。これはすなわち、昔の仏も、頓教を先にして、漸教を後にしたことである。

また『法華経』に記されているところの、地涌の菩薩が釈迦に挨拶した時、「その通りである。その通りである。衆生は導きやすい。最初に私の身を見て、私の説く教えを聞き、すぐにみな信じ受け入れ、如来智慧に入る。先に小乗を学び修した者たちは除く。しかしこのような人々も、私は今、この経を説いて仏の智慧に入らせる」とある。すなわち釈迦は頓教を始めに説き、漸教を後にするのである。

このように、最初に頓教を説いたということは、必ずしももっぱら法身の菩薩を教えるのみならず、また凡夫であっても大乗の能力のある者たちもいた。ここに二つの意義がある。この大乗の体を離れず悟りを得る者にとっては、醍醐味の教えとなる。初心の人が、大乗の教えを聞いても最初の十信の位に入るならば、最も初めの乳味の教えとなる。最初のものは後のものを生じるのであり、また乳味においてこれは起こる。なぜなら、頓教であるといっても、ある人は教えにも戒律にも熱心であれば、ある人は教えには緩く戒律は熱心である。このような業による生は、自分ではどうしようもない。必ずそれに応じた生を受けるのを待って、さまざまな教えの場に導かれるのである。大乗にふさわしい人を仏が起こすことは、牛が忍辱草を食べることに喩えられ、円教に応じる頓教の教えは醍醐を出すことに喩えられる。また頓教の最初に初めて内凡(自らの内に真理を求める凡夫という意味)に入ることは、なお乳味の教えする。それは味が薄いという意味ではなく、最初であり本であるからである。

牛が子牛を産めば、血が乳に変わって、純粋清浄に親の身の中にあり、子牛が吸えば牛はすぐに乳を出す。仏もこのようなものである。初めて道場に坐って新たに悟りを成就すれば、無明などの血は智慧となる。八万の法蔵、十二部経などはすべて法身にある。大乗の能力の子牛は、先に乳を感得する。乳味の教えを最初とするのは、あらゆる頓教の教えの最初にあることを喩える。このために『華厳経』をもって乳味の教えとするのである。頓教・漸教・不定教の三教をもって分別すれば、頓教である。またすなわち醍醐である。五味の教えをもって分別すれば、乳味の教えとなる。

また行について述べれば、大乗の能力の者が頓教を受けて、無明を破り、無生法忍を得れば、行は醍醐のようである。またこの頓教を受けるといっても、まだ悟りに入ることはできない。初めて行を立てるために、この行は乳のようである。もし小乗の能力の人が受ければ、行はまた乳のようである。なぜならば、大乗の教えを与えて、受け入れられるか探ると、相手は耳の聞こえない人や言葉を話せない人のようである。自分の智慧の分ではなかったのであり、行は凡夫の段階であった。全く乳のように生の状態であった。この意義をもって、頓教は最初にある。また醍醐と名付け、乳味の教えとする。この意義は知られるであろう。

次に、漸教を開くことについて述べる。仏はもともと大乗をもって、衆生を悟りに導こうとする。それに耐えられない者は方便をもって鹿野苑に行き、一乗の道において、分別して三乗を説く。すなわち三蔵教を開くのである。ただ釈迦は、その無量の神徳を隠して、この漸教における教化をするだけではなく、過去と現在の諸仏もまた同様である。前に引用した通りである。まさに知るべきである。最初の頓教の後に続いて漸教を開くのである。

このために『涅槃経』に「仏より十二部経が出て、十二部経より修多羅が出る」とある。正しくこの意義と応じている。たとえば、牛から乳が出て、乳より酪が出るようなものである。この喩えは異なってない。漸教にふさわしい能力の者は頓教においてまだ教えを受けることができないことは、乳のように全く生の状態である。三蔵教の中で教えを受け、凡夫をあらため聖者となることを、乳が変わって酪となることに喩える。すなわちこれは次第において第二時の教えとする。濃淡優劣で喩えとしているのではない。

「方便品」の経文を引用することは、これで終わる。