大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 208

『法華玄義』現代語訳 208

 

結 記者が私的に異説について記す。

 

①.異説を挙げて記す

 

a.『法華経』と『般若経』の比較

ある人が、『大智度論』の「会宗品」に、十の大いなる経典を挙げていることを引用している。「『雲経』『大雲経』『法華経』がある。『般若経』は最大である」とある。また「大用品」に、「あらゆる善法は、般若の中に入る。『法華経』もまた善法である」とある。また第百巻に「『法華経』は秘密であり、『般若経』は秘密ではない。二乗が仏になることを明らかにしていないためである」とある。また「般若、法華は名称が異なっているだけである」とある。ここに、『般若経』が『法華経』より優れていること、『法華経』が『般若経』より優れていること、『般若経』と『法華経』が同じであることの三種の説が見られるが、これはどのように通じるのであろうか。

ある人はこれらを合わせて次のように言っている。「あらゆる聖人は無心をもって無相と一つになるとするが、これはあらゆる川が同じ海に入るようなものである。もし衆生を教化するにあたって、無相を宗とすれば、空(そら)がすべてを抱擁するようなものである。『般若経』に盛んにこの無心と無相を明らかにしている。このために十経の中で最大である。また『般若経』に「第一義悉檀」を明らかにしている。このために最大である。また『般若経』の九十品の内の前の六十六品は実の智慧を明らかにし、「無尽品」より後は方便の智慧を明らかにしている。この実と方便の二つの智慧は三世の仏の法身の父母のようなものである。このために最大である。あらゆる経典にこの二つを明らかにすることは、みな『般若経』に摂取される。問う:あらゆる経典にこの二つを明らかにするというが、この『般若経』自体はあらゆる経典に摂取されるべきではないか。答える:『大品般若経』は最初にもっぱらこの二つを明らかにしているが、他の経典はそうではない。古来、『般若経』は悟りを得る経典とされる。そのため最大である」。

今、言う。そもそもこれは『大智度論』の言葉であり、もっぱら「大」ということについて述べられている。どうして合わせて通じさせる必要があろうか。もし通じさせるならば、共般若と不共般若があるではないか。不共般若は最大である。他の経典にもし不共般若を明らかにしているならば、その経典は正しい。

その他、合わせて次のように言っている。「『法華経』に二乗が仏になることを明らかにしていることは、秘密である。『般若経』に二乗が仏になることを明らかにしていないので、秘密ではない。秘密はすなわち深く、『般若経』は浅い。なぜなら、『般若経』に菩薩は仏の因であると明らかにしている。意義においてわかりやすいために、秘密ではない。二乗が仏になることは、昔の教えに反する。意義においてわかりにくいので、秘密である。『大智度論』に『薬を用いて薬とするのはやさしいことであり、毒を用いて薬とすることは難しいようなものである』とある。しかし、秘密教と顕示教は大乗と小乗に共通する。『大智度論』の第四に『顕示教には、阿羅漢は煩悩を断じるので清浄である、菩薩は煩悩を断じていないので清浄ではないと明らかにしている。このために、菩薩は阿羅漢の後に名を連ねている。秘密教の法では、菩薩は六神通を得て、すべての煩悩を断じ、二乗の上を超えていると明らかにしている』。まさに知るべきである。顕示教は浅く、秘密教は深い。今、『般若経』と『法華経』においては、菩薩はみな無法生忍を得て、六神通を備えていると明らかにしている。共に秘密であり、共に大である。秘密についてさらに秘密、不秘密を論じれば、『般若経』に二乗が仏になることを明らかにしていないので、この一つを欠いているために、不秘密というのである。問う。『般若経』はまだ権を開いていないので、まさにこれは秘密である。『法華経』は権を開いているので、まさに顕示教ではないか。答える。もし開権を取れば、問いの通りである。今、浅くやさしいということを取って顕示教としているだけである。問う。もしそうならば、未了(みりょう・まだ明らかにしていないものという意味)をどうして大とするのか。答える。二つの智慧によって深く大きいとして、二乗が仏となることを明らかにしていないことを未了とする。問う。すでに深く大きいといえば、どうして二乗は方便であって、仏になることができると説かないのか。この意義が未了ならば、またどうして大なのか。答える。これは一人の解釈ではない。僧叡師も次のように言っている。『般若経』は智慧によって照らし、『法華経』は真実である。理を究め、本性を尽くして、すべての行を明らかにすることを論じれば、すなわち真実は智慧によって照らすことに及ばない。大いに真実の教化を明らかにし、もともと三乗はないと理解することを取れば、智慧によって照らすことは真実に及ばない。このように言っているので、深いことを讃嘆すれば、『般若経』の功徳は重い。真実を褒めれば、『法華経』の働きは高い」。

ならば今問う。僧叡師を引用しているといっても、枯れ木に登って力を求めても、人と枯れ木が共に倒れてしまうようなものである。この解釈は未了である。今、言う。不共般若はいつ二乗が仏になることを明らかにしないことがあろうか。『法華経』の平等大慧とまたどうして相違するだろうか。

 

b.諸経論における蔵(教えを蔵に喩えていう言葉)の離合を明らかにする

あらゆる経論に、教えを明らかにすることは一つではない。論蔵においては、二蔵がある。声聞蔵と菩薩蔵である。またあらゆる経典に三蔵がある。先の二つに雑蔵を加えるのである。十一部経を分類するのは声聞蔵であり、方広部は菩薩蔵であり、十二部経を合わせるのは雑蔵である。また四蔵があって、これにさらに仏蔵を開く。『菩薩処胎経』に八蔵がある。胎化蔵・中陰蔵・摩訶衍方等蔵・戒律蔵・十住蔵・雑蔵・金剛蔵・仏蔵である。これらの蔵はどのように会通するのであろうか。

二蔵を会通すれば、その一つは声聞蔵に通じ、二つは菩薩蔵に通じる。三蔵を会通すれば、最初の教えは声聞蔵に通じ、次は雑蔵に通じ、次は菩薩蔵に通じる。四蔵を会通すれば、一つ一つが会通する。八蔵を会通すれば、八蔵は魂が母胎に宿って後のことである。四教は仏が教えを説いた後のことである。時節に異なりがある。今は教えを説いた以降の八教をもって会通する。もし胎化蔵・中陰蔵は、まだ『菩薩処胎経』が阿難のために説かれていない時であるので、すなわち秘密教である。阿難のために説く時は、すなわち不定教である。摩訶衍方等蔵は頓教である。戒律蔵・十住蔵・雑蔵・金剛蔵・仏蔵の五蔵は、漸教における次第である。戒律蔵は、三蔵教である。十住蔵は方等教である。雑蔵は通教である。金剛蔵は別教である。仏蔵は円教である。しかし仏の意義は測りがたい。一応比較して、この会通を作る。

 

c.四教の名義の典拠を明らかにする

問う:四教の名義は、どの経典にあるのか。

答える:『長阿含経』の「遊行経」に、「仏は円弥城の北にある尸舎婆村にあって、四つの偉大な教えを説いた。それは仏に従って聞き、多くの比丘から聞き、数人の比丘から聞き、一人の比丘から聞く。これを四つの偉大な教えと名付ける」とある。

『月灯三昧経』の第六巻に、四種の修多羅を明らかにしている。諸行・訶責・煩悩・清浄である。私的にこれを解釈して合わせれば、諸行は因縁生の法である。すなわち三蔵教の意義である。訶責(かしゃく)は罪を体で知ることなので、通教の意義である。煩悩は、海に入らなければ宝珠を得ることはできない。もし煩悩がなければ智慧もない。すなわち別教の意義である。清浄は、すでに常・楽・我・浄の内の一つをあげているので、当然、常・楽・我がある。つまり円教である。

また一つ一つの教えに四種の修多羅が備わっている。諸行はすなわち集諦、諸行の果はすなわち苦諦、諸行は対治によって煩悩を対治することは、すなわち道諦、諸行が清浄であることは、すなわち滅諦である。これは三蔵教の中に四種の修多羅を備えることである。

また、諸行を訶責することはすなわち集諦、諸有を訶責することはすなわち苦諦、煩悩を訶責する対治はすなわち道諦、煩悩が清浄となることはすなわち滅諦である。これは通教の中に四種の修多羅を備えることである。

また、煩悩の諸行はすなわち集諦、煩悩の諸有はすなわち苦諦、煩悩の行が訶責されることはすなわち道諦、煩悩が清浄となることはすなわち滅諦である。これは別教の中に四種の修多羅を備えることである。

また、涅槃がそのまま生死であることは、苦諦の清浄である。菩提がそのまま煩悩であることは、集諦の清浄である。煩悩がそのまま菩提であることは道諦の清浄である。生死がそのまま涅槃であることは、滅諦の清浄である。これは円教の中に四種の修多羅である。

『月灯三昧経』にまた四論・四法・四境界・四門・四断煩悩・四苦・四集・四道を明らかにしていることは、みな四教と相応する。具体的にはその経典に記されている通りであり、わかるであろう。

『十地経論』の第九巻に「一念の心に十波羅蜜、四摂事(布施、愛語、利行、同事)、三十七道品、四家を備える」とある。四家を解釈して般若家、諦家、捨煩悩家、苦清浄家であるとある。

私的に解釈すれば、苦諦について初門とし、三十七道品を修して苦を清浄とすることは三蔵教の意義である。捨煩悩家については、無相を体得することを捨とし、色は空であるように、捨が無相であることをもって三十七道品を修することを論じることは、通教の意義である。般若家とは、般若の智慧が照らせば、諸法は明瞭となる。大河の砂の数ほどの法門をみなすべて通達して三十七道品を修することは、別教の意義である。諦家とは、諦は実相の理法である。すなわちこれは円教であり、実相について三十七道品を修すことである。具体的にはその経典に記されている通りである。