大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  01

『天台四教儀』現代語訳  01

 

天台四教儀

(注:『天台四教儀(てんだいしきょうぎ)』は、天台教学の入門書として広く読まれてきた仏教書である。しかし、その内容は、『法華玄義』を読むにあたっての「手引書」の性格があると私(この現代語訳の訳者)は考えている。なぜなら、天台教学において究極とされる円教についてのある程度の解説はあるものの、他の教えにおいては、その重要な教理に関する用語を挙げて簡単な説明を記すのみである。この現代語訳では、できるだけその用語の解説を記したが、もしそのようなものがないならば、とりあえず、その用語を頭に入れて、次に必ず『法華玄義』を読まなければ意味はないと言わざるを得ない。その証拠に、この書の最後には「若要委明之者。請看法華玄義十卷」、訳せば、「もし詳しく知りたいなら、法華玄義十巻を読むように」と記されている。

なお、文中に注釈を(注)として挿入したり、段落を改めて(注)を挿入したりする。確かに読みにくくはなり、どこからどこまでが本文で、どこからどこまでが注なのか、煩わしくさえ思えるであろう。しかしこれは、読みやすさより、結局、理解されることを優先させた結果であるので、ご了承願いたい)。

 

高麗の沙門である諦観が筆録する。

(注:諦観(たいかん)は、朝鮮半島の高麗の僧である。生没年は不詳。中国仏教は、隋・唐の時代に全盛期を迎えたが、唐末期の会昌の廃仏(845~846)により、中国における仏教は大打撃を受け衰えた。後に、仏教の復興を図る呉越王の銭弘俶(せんこうしゅく・在位948~978)の要請を受け、朝鮮半島における仏教の全盛期を迎えていた高麗から961年、諦観が仏教典籍を持って派遣され、諦観は天台宗第十二祖である義寂(ぎじゃく)の弟子となった。そして彼はその地でこの『天台四教儀』を著したのであるが、詳細は不明であり、伝承によれば、諦観の死後、この書が広く知られるようになったとある)。

 

天台智者大師(てんだいちしゃだいし)は、五時八教(ごじはっきょう・これより詳しく記される内容である)をもって、インドから中国に渡って来た釈迦の一代の聖教を判別して解釈することによって、すべてが解き明かされたのである。

(注:天台大師智顗(ちぎ・538~598)は、中国天台宗の第三祖とされるが、天台教学の大成者であり、実質的な開祖である。天台大師が講述し、弟子の章安灌頂が筆録した『法華玄義』、『摩訶止観』、『法華文句』は天台三大部と呼ばれる。その他、天台大師の著作として、後の禅宗の様式の手本となった『小止観』や『法界次第初門』、晩年に、晋王広のために表わされたところの、『維摩経』の解説書である『浄名玄義(じょうみょうげんぎ・維摩経の別名が浄名経)』などがある。

なお本文に、「すべてが解き明かされたのである」とあるが、天台大師より百年ほど後、インドから唐に伝わった密教と、その唐代に中国で興った阿弥陀仏の念仏の教えについては、もちろん、天台大師の解釈はない。しかし、それ以外の仏教教理については、まさに天台大師を通して網羅されていると言えるほどである)。

 

第一章「はじめに」

(注:原文には見出しのようなものはないが、わかりやすくするために、章・節・項に分けて、そこに「」に囲って見出しをつけることにする)。

 

五時(ごじ)というのは、第一に華厳時(けごんじ・これ以降の文を見れば、ここで「ここでは、『華厳経』が説かれる」という言葉が記されていいはずであるが、それはない。すでに華厳という言葉が出ているからであろう)である。第二に鹿苑時(ろくおんじ)である。ここでは、『四阿含経』が説かれる。第三に方等時(ほうとうじ)である。ここでは、『維摩経』・『思益経』・『楞伽経』・『首楞厳三昧経』・『金光明経』・『勝鬘経』などの経典が説かれる。第四に般若時(はんにゃじ)である。ここでは、『摩訶般若経』・『光讃般若経』・『金剛般若経』・『大品般若経』などの般若経が説かれる。第五に法華涅槃時(ほっけねはんじ・ここでも「ここでは、『法華経』と『涅槃経』が説かれる」という言葉が記されていいはずであるが、それはない。すでにその言葉が出ているからであろう)である。これらを五時といい、または五味(ごみ・五時それぞれを乳製品の発酵生成過程に喩えたもの。発酵が進む段階に従って、五つの味に分けて説かれる。これも後述される)と名付ける。

(注:続く箇所の八教についても同様であるが、まずは単語をあげる、ということである。内容についての詳しい説明は、後に説かれる。

この五時とは、釈迦一代で説かれた経典においての、説かれた順番を示す意味がある。もちろん、これは歴史的事実ではない。歴史的事実に従えば、第二の鹿苑時が歴史的釈迦の説いた教えに近く、他の経典は、すべて、釈迦の死後、400年から500年後にインドで興った仏教の改革運動である大乗仏教において創作されたものである。それは釈迦が説いたように記されているが、大乗仏教の各グループが、それぞれの宗教的確信に基づいた教えを釈迦が説いたように創作したものである。しかし、創作と言っても意味のないものどころか、非常に宗教的価値のあるすぐれた宗教哲学が展開されている経典である。そして大乗仏教の人たちは、歴史的釈迦以来の伝統的な仏教を、劣った教えという意味の小乗仏教と呼んで蔑んだのである。

実際の釈迦の教説について言えば、第二の鹿苑時に説かれたとされる『四阿含経(しあごんきょう・長阿含経・中阿含経・雑阿含経・増一阿含経の四つを指す。阿含とは、古代インド語の「アーガマ」の音写文字で、「伝承された教えを集めたもの」という意味)』が、最も歴史的釈迦の教えに近いとされる。実際、釈迦は悟りを開いてから、鹿野苑(ろくやおん)という場所に趣いて、それまで一緒に修行をした修行者たちに向かって教えを説いたとされる。そのことも、『阿含経』などに記されているため、これが「鹿苑時」と名付けられているのである。なお、次の第三の方等時の「方等」とは、大乗にも小乗にも通じるほどの広さを持つ、という意味である。

もっとも、釈迦の教えが文字化されたのは、釈迦の死後、かなり年数がたってからと考えられ、経典として記されるようになったころには、その教えにもかなり後世の人々が挿入した内容があるとされる。そして皮肉なことに、大乗仏教においては、この歴史的釈迦の教えに最も近い阿含経などの「原始仏教経典」を、最も程度の低い教えと判断した。確かに、宗教哲学的に見れば、かなり世間並みの言葉が中心となっていると言える。しかしそれは、釈迦が抽象的な哲学を説くのではなく、悟りは体験であるとして、弟子たちと共に修行しながら、その悟りの体験の中から、わかりやすい言葉で説いていったためであろう。

さて、この五時は、現在の栃木県にある日光の滝にその名を見ることもできる。中禅寺湖から流れ落ちる最初の滝が、華厳の滝と名付けられ、続いて、その付近の滝に、阿含の滝、方等の滝、般若の滝、涅槃の滝などと名付けられているのである。これは、もともと日光の山は、奈良時代に、下野薬師寺にいた勝道上人によって開かれた修験の地であったからである)。

 

八教(はっきょう)というのは、頓教・漸教・秘密教不定教・蔵教・通教・別教・円教であり、これを八教と名付ける。頓教・漸教・秘密教不定教の四教は化儀(けぎ・化法の儀式という意味。化とは人々を教化することであり、その教化する形式ということ)と名付ける。たとえば、この世にある薬の処方の仕方について述べるようなものようである。そして、蔵教・通教・別教・円教の四教は化法(けほう・法とは、仏教ではさまざまな意味があるが、ここでは教えという意味。つまり人々を教化する教えの内容ということ)と名付ける。たとえば、この世にある薬の内容物について述べるようなものである。

このように分類された具体的な教えについては、あらゆる経典の文の中に見られるものである。これから概略的にその要点を記す。

(注:概略的とはいっても、これから詳しく述べられるので、ここでこれ以上説明する必要はないだろう。この五時と八教は、当然、どれが特に重要だということはないが、実際、『法華玄義』では、これらが平等に登場するわけではなく、何よりも、蔵教・通教・別教・円教の化法の四教が全体の記述の中心となり、次いで五味の喩えによってさらに説明が加えられる、という構成が主な流れとなっている。なぜなら、これに続く記述でも述べられるが、経典が説かれた順番の五時と、人々を教化する形式である化儀の四教は密接な関係があるので、別々に説くことは困難であり、それに比べて、教化する教えの内容である化法の四教は、それだけで解説することができるからである。したがって、『法華玄義』では、化法の四教を中心として、教化する形式は五味の喩えに代表させ、化法の四教と五味の喩えがセットとして語られる場合が多いのである)。