大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  02

『天台四教儀』現代語訳  02

 

第二章「五時・五味の喩え・化儀の四教」

第一節「華厳教」

(注:五時と五味と化儀の四教と化法の四教は、それぞれ単独に理解しようとすれば、それほど難解なことはない。しかしそれらの相関関係を整理しようとすれば、ほぼ理解不能ではないか、と思われるほど複雑となる。図などで表現できないわけでもないが、ほぼ、図に描く意味を感じないほどである。天台学を学ぼうとする者は、誰でもその複雑な相関関係図を見て心がなえてしまうであろう。要は、すべての経典をあらゆる角度から分析すれば、五時と五味と化儀の四教と化法の四教という理解が成り立つということがわかれば、それでじゅうぶんとすれば良いと思う。確かにそれぞれの分析と教えは非常に見事であり、それらを詳しく理解すれば、多くの感動を覚えるのである)。

 

最初に五時と五味および化儀の四教について述べ、次に、化法の四教である蔵教・通教・別教・円教について述べる。

(注:これから述べられる順番としては、前にも述べたように、経典が説かれた順番の五時と、人々を教化する形式である化儀の四教は密接な関係があるので、最初に経典が語られた順番を示す五時と、この五時を乳製品の発酵過程に喩えた五味の喩え、そしてそれと共に教化する形式を示す化儀の四教について述べられ、それが終わってから次に、経典の教えの内容を明らかにする化法の四教が述べられることになる)。

 

化儀の四教の第一は頓教であり、五時では華厳教と名付けられる。これは、頓(とん・「すぐに」という意味)という言葉によって、五時や五味などの形式が表現されるので、頓教と名付けられたのである。

(注:釈迦が説いたすべての経典の順番を五つに分ける五時では華厳教というが、これは、ここは『華厳経』が説かれたとされるために名付けられたのである。そしてここでは、その『華厳経』だけである。では、なぜそれが「すぐに」という意味の頓という言葉で名付けられるのであろうか。その理由が次に述べられる)。

 

釈迦如来は、最初に悟りを開かれた時、寂滅道場(じゃくめつどうじょう・釈迦が悟りを開いた道場についての華厳経での名称。悟りを開けば煩悩が断ち切られ(滅)、静かな平安(寂)を得られるので寂滅という)におられた。そこには、菩薩における最高の位に至って、もはや生まれながらの肉体からも解き放たれた菩薩たちと、過去世の因縁によって、この場にいることが許された天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう・各大乗経典で多く登場する八人の霊的存在。天(てん)・龍(りゅう)・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか))が、月を覆う雲のように仏を囲って控えていた。

その時、如来は廬舎那仏(るしゃなぶつ・毘盧遮那仏ともいう)の姿を現わされた(注:本来、釈迦は人間と同じ姿であったが、寂滅道場で悟りを開かれた釈迦は、ここでその偉大な悟りにふさわしい優れた姿を現わされたというのである)。そして、円満な経典を説かれたのである。このために、頓教というのである。

(注:円満な教えとは、天台教学では「化法の四教」の最高の教えである円教(えんきょう)のことである。つまり、悟りを開かれた仏は、すぐに最高の教えを説かれたというのである。したがって、「すぐに説かれた教え」であるから、頓教と名付けられるのである)。

 

この頓教において、それを聞く人とその教えという観点から見れば、円満な教えといっても、仮の教えを兼ねていると言わざるを得ない。

つまり、『華厳経』の中には、「最高の悟りを求めようという心を起こしたとたんに、完全な悟りを得た」という文があるが、それはこの経典において、仏が、もともと円満な教えを受け取るにふさわしい能力のある人には、円満な教えを説いたからである。しかし一方、この経典の所々には、菩薩の修行段階についても述べられている。これはすなわち、仮の教えならば受け入れることができる人のために、仏が仮の教えを説いて、段階的に最高の悟りに導こうとしたからである。このために、五時の分類においては、頓教の部門とされるのである。そして、教えの形体から見れば、円満な教えと仮の教えを兼ねているので、「兼」と名付けられるのである。

(注:仮の教えのことを権教(ごんきょう)といい、原文では「権を兼ねる」と記されている。円満な教えではあったが、この場の聴衆の中には、かなり能力は高いのであるが、完全に円満な教えをそのまま受け取ることはできない人がいることを仏は察知して、その人たちにもわかるようにも説いた、ということである)。

 

またこの『華厳経』の中には、日の出の時に太陽が昇ると、まず高山の頂上を照らすという喩えがある。これはまさに、この第一時の華厳時を指しているのである。

(注:つまり、高い山の頂上とは、能力の高い人を意味する。日の出の太陽とは、悟りを開いた直後の仏を意味するのである。悟りを開いた直後の仏は、まず能力の高い人を対象に教えを説いたのだ、ということである)。

 

また『涅槃経』には、牛から乳が出るという喩えがある。それは、仏は十二部経を説かれたということを喩えており、この十二部経がその乳に相当するのである。

(注:『涅槃経』は、五時の中では最後の「法華涅槃時」の経典であるが、この『涅槃経』の中に記されている乳製品発酵過程の喩えによって、「五味」の喩えが天台教学の中で重要な項目として用いられている。この喩えによれば、もちろんまず、牛から取られた乳があるわけなので、この「華厳時」を牛から乳を取る段階に喩えるのである。

そしてこの乳は、本文では「十二部経」と表現されているが、これはすべての経典が十二の種類に分けられることから、このように記される。つまり、仏は悟りを開いてすぐに、相手の能力に関係なく、すべての経典を網羅する教えを説いたのだ、ということである。この十二の分類については、次の通りである。

①修多羅(しゅたら・長行(ちょうぎょう)ともいう。説法を散文で記したもの)、②祇夜(ぎや・重頌(じゅうじゅ)ともいう。散文で説かれた説法と同じ内容を韻文で重ねて説いたもの)、③偈陀(げだ・孤起(こき)または伽陀(かだ)ともいう。最初から独立した韻文で説かれたもの)、④授記(じゅき・和伽羅那(わからな)ともいう。聴衆の中のある者が、将来の世で仏となるという予言)、⑤無問自説(むもんじせつ・優陀那(うだな)ともいう。問われないにもかかわらず自ら語ること)、⑥本事(ほんじ・伊帝目多伽(いたいもくたか)ともいう。聴衆の中のある者の過去世について述べたもの)、⑦本生(ほんじょう・闍陀伽(じゃだか)ともいう。仏の過去世について述べたもの)、⑧未曾有(みぞう・阿浮陀達摩(あぶだだつま)ともいう。仏の不思議なわざや功徳を讃嘆したもの)、⑨因縁(いんねん・尼陀那(にだな)ともいう。経典や戒律の由来を述べたもの)、⑩譬喩(ひゆ・阿波陀那(あわだな)ともいう。教説を譬喩で述べたもの)、⑪論義(ろんぎ・優婆提舎(うばだいしゃ)ともいう。教説を解説したもの)、⑫方広(ほうこう・毘仏略(びぶつりゃく)ともいう。時間と空間を超越した次元の広大深遠な真理を説き明かしたもの))。

 

また、『法華経』の「信解品」には、昔、息子が行方不明になってしまった父親が、偶然、その息子が乞食となっているのを見つけ、あわてて人を遣わしてその子を連れて来ようとしたが、その子はわけもわからず、捕らえられてしまったと驚いて大いに喚き散らした、という喩えがある。これは何を意味するのだろうか。それは、この「華厳時」の教えをその場で聞いていた小乗仏教の声聞(しょうもん・仏の声を聞くという意味から、大乗から見た小乗仏教の仏の弟子たちを指している)の人たちが、その教えを聞いても、全く理解できず、まるで耳の聞こえない人や口のきけない人のようだった、ということである。