大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 182

『法華玄義』現代語訳 182

 

B.4.3.門の麁妙を示す

門の「麁」と「妙」を述べるにあたって、二つの項目を立てる。一つめは、「能所」について「麁」と「妙」を判断し、二つめは、あらゆる門について「麁」と「妙」を判断する。

 

B.4.3.a.「能所」について「麁」と「妙」を判断する

「能」と「所」について、四種がある。門は「能通(通る主体という意味)」であり、理法は「所通(通って至る所という意味)」である。自ら「能通」が「麁」であり、「所通」もまた「麁」であるものと、「能通」が「妙」であり、「所通」は「麁」であるものと、「能通」が「麁」であり、「所通」は「妙」であるものと、「能通」が「妙」であり、「所通」もまた「妙」であるものの四種がある。

「三蔵教」の「四門」は、事象的なことにおいて明らかにされ、浅く卑近な教えのために、「能通」を「麁」とする。ただその至るところも偏った真理なので、「所通」もまた「麁」である。「通教」の「四門」は、大乗の「体空観」であるので、如実の巧な「観法」であり「能通」を「妙」とし、「三乗」が同じく証するので「所通」を「麁」とする。「別教」の「四門」は、教えの道は「方便」なので、「能通」を「麁」として、円満な真理を明らかにして入るので、「所通」を「妙」とする。「円教」の「四門」は、悟りも道も真実の教えなので、「能通」を「妙」とし、事象も円満であるので、「所通」もまた「妙」である。

また、自ら「麁」の「能通」と「所通」を帯びるものがある。「生蘇味」の教えがそれである。「麁」の「能通」と「所通」を帯びていないのは、「乳味」の教えである。自ら「麁」の「所通」を帯びて「麁」の「能通」を帯びていないものがある。「熟蘇味」の教えがそれである。自ら「麁」の「能通」を帯びて「麁」の「所通」を帯びていないものがある。「円入通教」と「円入別教」がそれである。『涅槃経』の中のあらゆる門がこれである。

問う:『法華経』に「ただ一つの門だけがあって、しかもまた狭く小さい」とある。「麁」であるので一つで小さいとするのか。「妙」であるので一つで小さいとするのか。

答える:この意義はまさに共通して用いるべきである。一つの門に限るべきではない。なぜなら、「三蔵教」の「四門」は、聞く相手の能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので「四門」という。しかしこれも同じく仏の教えなので「一門」という。各門の「方便」が異なっているので「四門」という。しかし同じく「涅槃」に向かうので「一門」という。「所通」は「能通」に従うために「四門」という。しかし「能通」は「所通」と一つになるので「一門」という。文字の中に悟りはない。この文は教えについて狭く小さいということを論じている。たとえば、狭い道が二人並んで行くことを受け入れないようなものである。すなわち修行について狭く小さいということを論じている。教えと修行の二つの門は、真理を悟ることにおいて、狭い道を二人並んで行くことが難しいように一致することが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいということを論じている。

「通教」もまた同じである。聞く相手の能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので「四門」という。同じくこれは仏の教えであるので「一門」という。「観法」は同じでないので「四門」ある。しかし共に「無生」に向かうので「一門」という。「所通」は「能通」に従うために「四門」という。しかし「能通」は「所通」と一つになるので「一門」という。「通教」は事象について真理であるので、文字の中に悟りがある。善と悪を共に観じれば、みな不可得であるので、教えと修行が共に並んで行く。この意義について狭く小さいということを論じない。ただ教えと「観法」をもって真理を悟ることが難しいように一致することが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいという。

「別教」の「四門」もまた同じである。四つの能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので「四門」という。同じくこれは仏の教えであるので「一門」という。「実相」に入る「観法」は同じでないので「四門」という。しかし共に「一実」に向かうので「一門」という。「所通」は「能通」に従うために「四門」という。しかし「能通」は「所通」と一つになるので「一門」という。「生死」がそのまま「涅槃」であると説かないので、教えは狭く小さい。「煩悩」がそのまま「菩提」ではないので、修行も狭く小さい。教えと修行をもって真理を悟ることが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいという。

「円教」の「四門」もまた同じである。四つの能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので「四門」という。同じくこれは仏の教えであるので「一門」という。「実相」に入る「観法」は同じでないので「四門」という。しかし四つの「観法」は「一実」に向かうので「一門」という。門をもって理法を名付けるために「四門」という。理法をもって門に応じるために「一門」という。この教えは「生死」がそのまま「涅槃」であると説かないので、教えは狭く小さいことはない。「煩悩」がそのまま「菩提」ではないので、修行も狭く小さいことはない。しかしこの教えと「観法」をもって理法を悟ることが難しいのである。理法を狭く小さいと名付ける。もし『法華経』の文に「ただ一つの門だけがあって、しかもまた狭く小さい」とあることによれば、正しく教えと修行の門をもって、理法を悟ることが難しいことをいうのである。このために狭く小さいという。

今、「円教」のひとつの句を開くにあたって、ところどころ同じではない。どうして執着して一つの文を守るべきであろうか。もしこの意義を知れば、「麁」と「妙「は自ら明らかとなる。

法華玄義 現代語訳 181

『法華玄義』現代語訳 181

 

B.4.2.b.④.Ⅱ.円観を明らかにする

すでに「四門」を述べてきたが、今、「有門」によって「観法」を修す。「観法」において「別教」の「有門」の観法を明らかにするに際して、並べて記せば十の意義がある(注:「蔵教」「通教(実際には記述欠落と考えられる)」「別教」と同様に、ここから「十法成乗観」について記されることとなる)。

 

第一.観不思議境

前の「蔵教」「通教」「別教」のそれぞれ「四門」、合計十二の門が「思議」の門であるのに対して、「不思議境」と名付けられる。「不思議境」は、すなわち「一実」の「四諦」である。つまり、生死の「苦諦」は、不可思議であり、「即空」「即仮」「即中」である。「即空」であるために「方便浄」、「即仮」であるために「円浄」、「即中」であるために「性浄」である。この三つの「浄」は一心の中に得るということを「大涅槃」と名付ける。『維摩経』に「すべての衆生は、すなわち大涅槃である」とある。このために、「不可思議の四諦」と名付ける。滅ぼすべきものではないのである。これはすなわち生死の「苦諦」であり、「無作」の「滅諦」である。

またこれは「集諦」「道諦」である。「煩悩」の「集諦」は不可思議であり、「即空」「即仮」「即中」である。「即空」であるために「一切智」と名付け、「即仮」であるために「道種智」と名付け、「即中」であるために「一切種智」である。この「三智」は一心の中に得るということを「大般若」と名付ける。『維摩経』に「すべての衆生は、すなわち菩提の相である。また得ることはできない」とある。これはすなわち「煩悩」の「集諦」であり、「無作」の「道諦」である。またこれは「苦諦」であり「滅諦」である。このために、「不思議の一実の四諦」と名付ける。またこれは「真善妙色」である。なぜなら、「生死」は「即空」であるために「真」と名付け、「生死」は「即仮」であるために「善」と名付け、「生死」は「即中」であるために「妙」と名付ける。これを「有門」の「不可思議境」と名付ける。

 

第二.真正発菩提心

すべての衆生は、すなわち「大涅槃」である。どうして「楽」をもって「苦」とするのだろうか。すなわち「大悲」を起こし、二種の「誓願」を起こして、まだ導かれていない者を導き、まだ「煩悩」を断じていない者を断じさせる。すべての「煩悩」は、すなわち「菩提」である。どうして闇の中の愚者のように、道をもって道でないとするのか。すなわち「大慈」を起こし、二種の「誓願」を起こして、まだ知らない者に知らしめ、まだ得ていない者に得させる。その二種の「誓願」とは、どのようなものにも左右されない「無縁」の「慈悲」と「清浄」の「誓願」である。「慈善根」の力をもって、自由にすべての衆生を救い取るのである。

 

第三.善巧安心止観

すでに真理の「体解」を成就し、発心を備えれば、どうして池に臨んで魚を見て、あえて網を使わず、また食べ物を用意せず足を縛って旅に出ないのだろうか。修行の要は「禅定」と「智慧」を出ない。たとえば、陰陽が適度に調い、万物が茂って実が結ばれるようなものである。雨季と乾季が適切でなければ、乾いたり腐ったりしてしまう。もし車の両輪が均等ならばよく走り、鳥の二つの翼がそろえば飛び回ることに耐える。「生死」はそのまま「涅槃」であると体得することを「禅定」と名付け、「煩悩」はそのまま「菩提」であると達することを「智慧」と名付ける。「一心」の中において巧みに「禅定」と「智慧」を修し、すべての修行を具足するのである。

 

第四.破法遍

この「妙慧」をもってすれば、金剛の斧はすべてを砕くように、陰りのない太陽が臨むところはすべて明るくなるようなものである。もし「生死」はすなわち「涅槃」ならば、「分断生死(三界内の凡夫の生死)」、「変易生死(三界外の菩薩の生死)」の「苦諦」はみな破られ、もし「煩悩」はすなわち「菩提」ならば、「四住」「五住」の「集諦」はみな破られる。またよく破るといっても、また破られるところがあるわけではない。なぜならば、「生死」はすなわち「涅槃」であるために、破るところはないのである。

 

第五.識通塞

優れた将軍は適切な進退を選ぶことに喩えられる。強い敵の前には留まり、弱い敵の前では進む。「生死」の災いを知ることを「塞」と名付け、「生死」がそのまま「涅槃」であることを「通」と名付ける。「煩悩」が悩乱することを「塞」と名付け、「煩悩」がそのまま「菩提」であることを「通」と名付ける。外道の「四見」から始まって「円教」の「四門」に至るまで、そのすべての「通」と「塞」を知るのである。その一つ一つに執着することを「塞」とし、その一つ一つが幻であり思議を離れたものであると達することを「通」とする。もし諸法の平地や山を知らなければ、ただ修行や教えが進まないだけではなく、重要な宝を失うことになる。

 

第六.道品調適

「生死」はそのまま「涅槃」であると観じれば、「十界」の「生死」における「色陰(しきおん・五陰の最初。認識の対象)」は、みな浄ではなく不浄ではなく、「五陰」の最後の「識陰」も、常ではなく常でないことはないと達し、よく凡夫の「四顛倒」と小乗の「四顛倒」を破ることは、すなわち「法性」の「四念処」である。「四念処」の中に、「三十七道品」「三解脱」およびすべての教えを備える。

また「涅槃」はそのまま「生死」であると知ることは、「空、苦、無我、不浄」を顕わし、「生死」はそのまま「涅槃」であると知ることは、「常、楽、我、浄」を表わす。「生死」と「涅槃」は「不二」であると知ることは、すなわち「一実諦」である。「空、苦、無我、不浄」でもなく、「常、楽、我、浄」でもないと知ることは、「大涅槃」に住むことである。

 

第七.対治助聞

もし「正道」に障りが多ければ、まさに「助道」を用いるべきである。「生死」はそのまま「涅槃」であると観じれば、「報」の障りを対治する。「煩悩」はそのまま「菩提」であると観じれば、「業」の障りと「煩悩」の障りを対治する。

 

第八.知次位

「生死」の理法において、その本性そのままが「涅槃」であるということは、理法の「涅槃」である(理即)。「生死」はそのまま「涅槃」と理解し知ることは、文字の上での「涅槃」である(名字即)。勤めて「生死」はそのまま「涅槃」であると観じることは、「観行」の「涅槃」である(観行即)。「善根功徳」が生じることは、「相似即」の「位」の「涅槃」である。真実の「智慧」が起こることは、すなわち「分真即」の「位」の「涅槃」である。「生死」の底を尽くすことは、「究竟即」の「位」の「涅槃」である。「煩悩」はそのまま「菩提」であると観じることも同じである。

 

第九.能安忍

よく内外強弱の妨げを安んじて受け、以上の「観心」を壊さない。もし「生死」はそのまま「涅槃」だと観じれば、「陰入境」「病患」「業」「魔」「禅」「二乗」「菩薩」などの「境」によって動かされたり壊されたりしない。もし「煩悩」はそのまま「菩提」だと観じれば、「諸見」「増上慢」の「境」によって動かされたり壊されたりしない。

 

第十.無法愛

すでに障りの難を過ぎ、「四善根」が成立し、あらゆる功徳が生じ、「生死」はそのまま「涅槃」であると観じるために、「諸禅三昧」の功徳が生じる。「煩悩」はそのまま「菩提」であると観じるために、あらゆる「陀羅尼」「無畏」「不共」、あらゆる「般若」が生じる。「生死」と「涅槃」が「不二」であると観じるために、「法身」「実相」が生じる。「相似即」の功徳は、理法に従順して生じるために、喜んで道に従順する「法愛(悟ったことなどに執着すること)」を起こす。生を「法愛」と名付け、それ以上上らず退くこともないことを「頂堕」とする。この「法愛」が起こるならば、すぐに滅ぼすべきである。「法愛」が滅ぼし尽くされれば、「無明」を破り、仏知見を開き、「実相」の「体」を証する。「生死」はそのまま「涅槃」であると観じるために、「解脱」を証得する。「煩悩」はそのまま「菩提」であるために、「般若」を証得する。この二つは「不二」であるので、「法身」を証得する。「一身」がそのまま「無量身」であり、この上ない「宝聚(ほうじゅ)」、「如意円珠」、あらゆる法が具足する。これを「有門」から「実相」に入り、『法華経』の「体」を証得すると名付ける。他の「三門」も同様である。

この十種の「観法」は、『法華経』の中に具足している。「この教えは示すことはできない。言葉の相は寂滅している。その他の衆生は理解できる者がない」とある。また「私の教えは妙であり思い計ることは難しい」とある。これは「観不思議境」である。

「すべての衆生の中において大慈心を起こし、菩薩ではない人々の中において大悲心を起こす。私が最高の悟りを得る時、神通力、智慧力をもってこれを導き、その法の中に住むことができるようにさせる」とある。これは「真正発菩提心」である。

「仏は自ら大乗に住む。その得る法は、禅定と智慧の力をもって荘厳されている」とある。これは「禅定」と「智慧」の二法の力に安んじて、自ら成就し、他も成就させるのであり、「善巧安心止観」である。

「有を破る法王」とあり、また「日月の光明のように、よくあらゆる幽冥を除き、この人は世間において行じて、よく衆生の闇を破る」とある。これは「破法遍」である。

「一人の導師があって、多くの人々を導き、明らかな心を完成させて、危険な場所においてあらゆる困難を救う」とある。これは「識通塞」である。

法華経』の中に登場する浄蔵菩薩と浄眼菩薩はよく「三十七道品」はじめ、あらゆる「波羅蜜」を修す。これは、「道品調適」と「対治助聞」である。

「増道損生(ぞうどうそんしょう・智慧を増して苦を減らすこと)してあらゆる方角に遊戯する」とあるのは、「識次位」である。

「安住して動かないことは、須弥山のようである」とあり、また「如来の衣を着る」とある。これは「能安忍」である。

「あらゆる声を聞くとしても、それを聞いて執着しない。その意根などの六根は、みな清浄であることはこのようである」とある。また「真実の清浄の大いなる教え」とある。これは「無法愛」である。

この十種の「観法」は、このように経文に散見されるが、人は知らない。ここで、十種を挙げて、「有門」においての「観法」を示した。他の「三門」も大同小異である。十種の「観法」が「実相」に入ることも同様である。

また次に、この十種の「観法」は、ただこの『法華経』だけに記されているわけではない。大乗小乗の経論に、みなこの意義が記されている。摩黎山(まりせん・最高の香木である栴檀を産出する山とされる)がもっぱら栴檀(せんだん)を出すようなものである。外道のヴェーダ聖典老荘の書物に記されていることとは異なっている。世の人は共に読むが、文に対して真意を知らない。もし道を学ぼうと願っても、全く「方便」はない。悲しむべきことである。

いたずらに牛の乳を搾って、その乳の発酵方法を知らないようなものである。もしこの十種の意義を知れば、小乗の「四門」において共に用いて「実相」に入り、大乗の「四門」において共に用いて「実相」に入る。すでに「実相」を知れば、乳がゆを食べて、それ以上することがないようなものである。如意宝珠の半分または全部をすべての人々に布施するようなことはある。しかし、このような尊い布施があったとしても、人が命を惜しまず道を重んじて、熱心に修行する姿を見ることはできない。受けたとしても用いなければ、いたずらに布施して何の利益があるだろうか。私は残念である。利益がないとしても、毒鼓(どっく・生死を減らす仏の教えを、人を殺す毒の太鼓に喩えている)の原因となる。具体的にこれを知ろうとすれば、『摩訶止観』に記されている通りである。

法華玄義 現代語訳 180

『法華玄義』現代語訳 180

 

第四.次第・不次第

もし「有」をもって門とすれば、門によって修行する場合、次第する段階の差がある。微かなことから著しいことに至るまで、一つの行の中に無量の行が含まれることはなく、最後の「非空非有門」までこれは同じである。これは「別教」の「四門」の相である。

もし「有」をもって門とすれば、すべての法は「有門」に赴く。門によって修行する場合、同じくすべての行は「有門」の行に赴く。一つの行がそのまま無量の行であることを、「遍行」と名付ける。最後の「非空非有門」までこれは同じである。これは「円教」の「四門」の相である。

また次に、「別教」の門に「円教」の行があり、「円教」の門に「別教」の行がある。あるいは経文の前後について、「円教」と「別教」の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第五.断の断・不断の断

至極の真理は虚無(こむ)であり、「無明」の本来の性質はもともと自ら「有」ではない。どうして「智慧」を用いるのであろうか。「智慧」による理解と「煩悩」の惑が共になければ、どうして「円教」や「別教」を用いるのであろうか。『涅槃経』に「誰に智慧があり、誰が煩悩を破るのだろうか」とある。『維摩経』に「貪りや怒りや愚痴の本性は、そのまま解脱である」とある。また「愚痴や愛着を断じないまま、智慧と解脱が起こる」とある。これはすなわち煩悩の「断」と「不断」を論じないことである。『涅槃経』に「闇の時に明るさはなく、明るい時に闇なし。智慧ある時にはすなわち煩悩はない」とある。これは「智慧」を用いて「煩悩」を断じることである。「別教」の「有門」は、多く固定的に分類して、次第に「五住煩悩」を断じて除く。すなわちこれは「思議」の「智慧」による「断」である。その他の「三門」もまた同じである。これは「別教」の「四門」の相である。

「円教」の「有門」は、「智慧」の理解と「煩悩」が「不二」であって、多く「不断」の「断」を明らかにし、「五住煩悩」もみな不思議である。すなわちこれは不思議の「断」である。その他の「三門」もまた同じである。これは「円教」の「四門」の相である。

また次に、「円教」の門において「断」を説き、「別教」の門において「不断」を説く。あるいは経文の前後について、「円教」と「別教」の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第六.実位・非実位

もし「有門」に「三界」の中の「見思惑」を断じれば、「三十心(「十住」「十行」「十回向」のこと)」の「位」を判断し、「三界」の外の「見思惑」「無明惑」を断じれば、「十地」の「位」を判断し、「等覚」の最終的段階で「無明」を断じ尽くして、「妙覚」の常住の「果」が「煩悩」の外にあって何事もないと明らかにすれば、これは他の「位」の「因」をもって、自らの「位」の「果」とすることであり、みな「方便」であり、実質的な「位」ではない。後の「三門」も大同小異である。みなこれは「別教」の「四門」の相である。

もし「有門」に初めて発心する時から始まって、「一心三観」によって「三界」の中の「惑」を断じ、円満に「三界」の外の「無明惑」を抑えれば、「十信」の「位」を判断し、進んで、真実の「智慧」を発して、円満に「三界」の外の「見思惑」「無明惑」を断じれば、「四十心(「十住」「十行」「十回向」「十地」のこと)」の「位」を判断し、「等覚」の最終的段階で「無明」を永遠に尽くして、「妙覚」が煩悩の外にあるならば、これは「究竟真実」の「位」である。後の「三門」もまた同じである。これは「円教」の「四門」の相と名付ける。

また次に、「別教」の門において「実位」を説き、「円教」の門において「不実位」を説く。「別教」の門において「実位」を証し、「円教」の門において「不実位」を証す。あるいは経文の前後について、「円教」と「別教」の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第七.果縦・果不縦

もし「有」を門とし、門に従って「果」を証するならば、「三徳」に縦(時間的経過)と横(空間的広がり)がある。「法身」は、もともとそなわったものであり、「般若」は修行して身に付けるものであり、「解脱」は初めて満了するものであるということは、ただ「果」の徳が縦に成就するのみならず、「因」もまた限定されることである。「地論宗」の人が「初地に布施波羅蜜を具足する」ということは、他において修行しないということではない。能力に従い分に従うのである。「布施波羅蜜」は「初地」に満了しても、それより上の「位」には通じない。他の法はそれぞれの分に従って具足しないのは、この意義が不完全であるからである。他の「三門」も同じである。これは「別教」の「四門」の相である。

もし「有」を門とし、門に従って「果」を証するならば、「三徳」が備わって不縦不横である。また「因」も同じである。一つの法門にすべての法門を具足して、通じて「仏地」に至る。『華厳経』に「初めの一地より諸地の功徳を具足する」とある。『大品般若経』に「最初の阿字に四十一字の功徳を具足する」とある。他の「三門」も同じである。これは「円教」の「四門」の相である。

また次に、「別教」の門において「果」の不縦を説き、「円教」の門において「果」の縦を説く。あるいは経文の前後について、「円教」と「別教」の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第八.円詮・不円詮(注:詮とは経文として表わされた教えのこと)

もし「有」を門とすれば、門は円融しない。あるいは一つが融合し、あるいは二つが融合するのみである。経文の区分(序分、正節分、流通分)について述べれば、門の「序分」は、偏った教えの「方便」である。門の「正説分」は、「不融不即」の菩薩の「智慧」から始まり、偏った教えの「譬喩」などを述べる。門の「流通分」はひるがえって「不融不即」などの教えを結ぶ。他の「三門」も同じである。これは「別教」の「四門」の相である。

もし「有」を門とすれば、一門はそのまま三門である。門の「序分」は、円満な教えの「方便」である。門の「正説分」は、「融即」の仏の「智慧」から始まり、円満な教えの「譬喩」などを述べ、門の「流通分」はひるがえって「融即」などの教えを結び成就させる。他の「三門」も同じである。これは「円教」の「四門」の相である。

また次に、「別教」の門における「円教」を明らかにし、「円教」の門における「別教」を明らかにする。あるいは経文の前後について、「円教」と「別教」の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第九.問答

もし「有門」の意義を明らかにする際に、「円教」と「別教」を論じることがなければ、問答を立てて、自ら「円教」と「別教」の趣旨を知ろうとすべきである。他の「三門」も同じである。

 

第十.譬喩

あらゆる門の前後について、金銀や宝物を喩えとしてあげ、あるいは如意宝珠や日や月を喩えとしてあげる。それらを「別教」に当て、あるいは「円教」に当てれば、「円教」や「別教」の相は自ら明らかになる。

 

以上のように、十種の項目をもって広くあらゆる経典を見るならば、「円教」と「別教」の二つの門は歴然と明らかとなる。

また五つの味の喩えをもって分別すれば、「乳味」の教えは両種(別・円)の「四門」であり、「酪味」の教えは一種(蔵)の「四門」であり、「生蘇味」の教えは四種(蔵・通・別・円)の「四門」であり、「熟蘇味」の教えは三種(通・別・円)の「四門」であり、『法華経』(醍醐味の教え)は一種(円)の「四門」である。

法華経』の十種の意義(①~⑩)とは、①「すべての法は空であり、如実の相であると観じる」、「声聞の教えを決了すれば、諸経の王である」、「方便の門を開く」とあるのは、凡夫、小乗、大乗の人の法を融合することである。②「すべての世の産業などは、みな実相と異なることはない」、「すなわち客となっている者は、実は長者の子である」とあるのは、「即法」の意義である。③「仏の知見に開示悟入する」、「今、まさに行じるところは、ただ仏の智慧のみである」とあるのは、すなわち仏の「智慧」である。④「如来の衣を着て如来の座に坐り如来の部屋に入る」などは、すなわち「不次第」の「行」である。⑤「五欲を断じないまま、しかも諸根を清める」、「五百由旬を越える」とあるのは、すなわち「不断」の「断」の意義である。⑥「五品、六根清浄」「宝の乗り物に乗ってあらゆる所に遊ぶ」とあるのは、すなわち「実位」である。⑦「仏は自ら大乗に住み、禅定と智慧の力をもって荘厳し、これをもって衆生を悟りに導く」とあるのは、すなわち「果不縦」である。⑧「合掌して敬う心をもって、すべてが具足している道を聞くことを願う」とあるのは、すなわち釈迦仏が『法華経』を説く前に説いた「円詮(円教を表わすこと)」である。「諸法実相の義はすでにあなたたちのために説いた」とあるのは、すなわち日月燈明仏が『法華経』の後に説いた「円詮」である。⑨智積菩薩と龍女との問答は、「円教」を表わす。⑩「転輪聖王の頭の珠」「この車は高く広い」というのは、みな「円教」の喩えである。この十種の意義がすべて備わっているので、「円教」の門は明らかである。

今ここで、「融門」の四つの相について述べる。「仏の智慧は、微妙第一である」とある通りである。また「私は如来智慧をもって、久遠を観じれば、なお今現在のようである」とある。「智慧」をもって「妙法」を知ることは「有門」である。「すべての法は空であり、常に寂滅の相であり、ついに空に帰す」とあるのは「空門」である。「あらゆる実在は常に無性であり、仏の種は縁より起る」とあるのは「亦空亦有門」である。「如ではなく、異ではなく、虚ではなく、実ではない」という二重の否定は、すなわち「非空非有門」である。

四つの相をもって門を表わし、十種の意義をもって「別教」と「円教」を分ける。このために、この『法華経』は「円教」の「四門」を明らかにすることを知る。

法華玄義 現代語訳 179

『法華玄義』現代語訳 179

 

B.4.2.b.④.円教について

 

(注:これ以降、「B.4.2.b.概略的に門に入る観法を示す」の最後の四番目の「円教」について述べられるが、この箇所は非常に長い)。

「円教」における「実相」に入る門の観法を明らかにするにあたって、第一に「Ⅰ.円門」を明らかにし、第二に「Ⅱ.円観」を明らかにする。

 

B.4.2.b.④.Ⅰ.円門を明らかにする

前に述べた「蔵教」の門は、実在に対する認識を滅して真理に通じる(析空観)。その意義を得ることができなければ、多くの争いが起こる。「通教」の「体空観」は、実在を幻と見て真理に通じ、人に争いが起こりようのない法を示す。「別教」の門は、生死の認識を「体空観」によって滅し、次第に理法的な認識を滅して「中道」に通じる。これもその意義を得ることができなければ、多くの争いが起こる。「円教」の門は、生死の認識をそのまま理法的な認識とする。理法的な認識そのままに、「中道」に通じ、人に争いが起こりようのない法を示す。このために文には「無上道(むじょうどう)」とある。また「しかし深妙の道を行ず」とあるのは、この意義である。

「蔵教」と「通教」は、「中道」に通じないので、論じる必要はない。「別教」と「円教」の両種は、共に「中道」に通じる。その「別教」と「円教」の同異を論じれば、概略的に十の項目が立てられる。第一に「融・不融」、第二に「即法・不即法」、第三に「仏智・非仏智」、を明らかにし、第四に「次第・不次第」を明らかにし、第五に「断の断惑・不断の断惑」を明らかにし、第六に「実位・不実位」を明らかにし、第七に「果縦・果不縦」、第八に「円詮・不円詮」、第九に「問答」、第十に「譬喩」である。この十の項目に従って、明らかに「別教」の「四門」と「円教」の「四門」の合計「八門」の同異を知る。

第一.融・不融

「別教」の「四門(空門、有門、亦空亦有門、非空非有門)」は、その拠り所は決定している。「妙有」「真善妙色」は「空門」とは関係ない。「畢竟空」を拠り所とすることは「有門」に関係しない。それに始まって最後の「非空非有門」もまた同じである。

この「四門」は歴別(りゃくべつ・段階的)であり、それぞれの分に通じる。その意義を得ることがなければ、固定的なものとして執着してしまう。実体的な性質に似ているので、ほぼ「冥初(みょうしょ・古代インド哲学における根本的原質)」が、「覚(かく・古代インド哲学における精神原理による観照)」を生じるということと混同してしまう可能性がある。

前に述べた「三蔵教」の「四門」の内の「有門」は、外道の誤った見解を破ることを優先している。次の「空門」などの他の「三門」は、誤った見解を破る働きは小さい。また「通教」の巧みな「四門」は、この「三蔵教」の劣った教えを破る。また「別教」の「四門」は、「通教」の「四門」の浅い教えを破る。すでにここでは声聞と縁覚の「二乗」とは共にしない。どうして外道の「冥初」や「覚」を「妙有」と混同することがあろうか。「妙有」は「如来蔵」によって「四門」を分別するのである。どうしてジャイナ教などの「性実(本質的実体)」に同じだろうか。周璞(しゅうはく・死んだ鼠のこと)と鄭璞(ていはく・玉の原石のこと)の「璞」の文字は同じであるが、指し示す物は天と地の違いがあるようなものである。

今、『十地経論』を学ぶ人は、正しい道に背いて俗に還り、ひそかにこの意義を用いて老荘思想の中に置いている。金と石が混じって、正しいものと誤ったものを混同させ、盲目のような人はきれいな水と濁った水の区別がつかない。あらゆる「四門」の意義を得て、詳しく真と偽を選べば、この盗みのようなことは生じない。

しかし、「別教」は、その拠り所は決定しているといっても、このような論争は諸仏の次元である。声聞と縁覚の「二乗」は知らない。ましてや外道が同じであろうか。「円教」の門は虚空に融合しないところがないように微妙であり、拠り所は決定していない。「有」を説いても「無」と隔たっていないので、「有」において「無」を論じる。「無」を説いても「有」と隔たっていないので、「無」において「有」を論じる。「有」と「無」が「不二」であり、決定する相はない。仮に「有」において言葉の発端とする。しかしあくまでもこの「有門」はそのままで他の「三門」である。一つの門が無量の門であり、無量の門が一つの門である。一でなく四でなく、四であり一であり、一であり四であるのは、「円教」の門の相である。

また次に、さらに誤りを破ることと、すべてを「開会」することについて、「融・不融」の相を明らかにする。もし外道の誤った見解を破っても、「二乗」の誤りを破らず、大乗の「方便」も破らない。

また「開会」しても「円教」ではないことについては、『維摩経』の中に見られるようなことである。凡夫は「開会」できても、声聞はできない。煩悩一般を「開会」して如来の種とすることができても、「無為」を目的とするものは「開会」できない。生死の悪人や煩悩の悪法もみな「開会」できても、「二乗」の「善法」や「四果」の聖人は「開会」することができない。また『般若経』の中に見られるように、「二乗」の行じる「四念処」や「三十七道品」はみな大乗であり、「貪欲」「無明」「見愛」はみな大乗であると明らかにして、善悪の法はみな「開会」できても、また悪人および「二乗」の者は「開会」しない。これらが仏になることを述べないのは、これは「別教」の門に属するからである。

「円教」における誤った見解を破ることについて述べれば、「別教」より下の教えは「方便」である。このために摩訶迦葉は自らを破って「この教えを聞く前の私たちは、みな邪見の人と言わねばなりません」と言っている。すでに邪見の人と言えば、「円教」の正しい道の法ではない。すなわち人と法と共に破られる。「別教」の人と法すらこのようである。ましてや「二乗」の人と法はなおさらである。「二乗」すらこのようである。ましてや凡夫の人と法はなおさらである。このように「円教」における誤った見解を破ることは留まるところはない。

「円教」における「開会」は、あらゆる凡夫が法に執着する人々を「開会」する。『法華経』に「あなたたちはみな仏になるであろう。私はあえてあなたたちを軽んじない」とある。「五逆」の提婆達多もまた「授記」を受け、龍のような存在もまた「授記」を受ける。どうして「二乗」や菩薩が受けないことがあろうか。また「世間の産業もみな実相と異なることはない」とある。すなわちすべての悪法を「開会」するのである。また「あなたたちの行ずるところは、菩薩の道である」とある。「蔵教」の「二乗」ですら、「開会」させられる。どうして「通教」や「別教」がそうでないことがあろうか。「あなたたちは私の子、私は父である」とある。このように人も法も「開会」させられないことはなく、みな共に「円融」する「妙」である。これがすなわち「円教」の門に属することである。

また次に、さらに経文の前後について、「融・不融」の相を明らかにする。先に「不融」の門を明らかにするものは、「十地」より下の「位」の「三十心(「十住」「十行」「十廻向」)」の教えであり、後に「不融」の門を明らかにして、「融」の悟りを説くものは、「十地」以上の「位」の教えである。あるいは先に「融」の悟りを明らかにして「十地」以上の「位」の教えを説き、後に「不融」の門を明らかにするものは「十地」より下の「位」を説く教えである。これらはみな「別教」の門に属する。

先に「融」の門を明らかにして、悟りも「融」であるものは、「十信」より上の「十住」以上の教えであり、後に悟りの「不融」を明らかにするものは「十住」より下の「位」の教えである。あるいは先に「不融」の悟りを明らかにして「十住」より下の「位」の教えを説き、後に「融」の悟りを明らかにするものは、「十信」より上の「十住」以上の「位」の教えである。これらはみな「円教」の門に属する。

(注:「別教」の「位」においては、「十地」以上は「円教」の「十住」と同じとなる。つまり、「融」の門は、「別教」においては「十地」以上、「円教」においては「十住」以上に属するのだ、ということである)。

第二.即法・不即法

もし「有」を説いて門とすれば、この「有」は生死の「有」ではない。生死の外に出て「真善妙有」を説くのである。「空」の門は、「二乗」の真の外に出て、「畢竟空」を説くのである。四番目の「非有非無門」もまた同じである。これは「別教」の「四門」の相である。

もし「有」を門とすれば、生死の「有」そのままそれが「実相」の「有」である。すべての法は「有」に赴く。「有」はそのまま「法界」である。「法界」の外に出て、さらに法について論じることはない。生死はそのままで「涅槃」であり、「涅槃」はそのまま生死であり、二つではなく別ではない。「有」をあげて門の発端とするだけである。真実においてはすべての法を備え、円融無礙である。これを「有門」とする。他の「三門」もまた同じである。これは生死の法そのままに、「円教」の「四門」とすることである。

また次に、法について「遍・不遍」があって、「円教」と「別教」の相を判断することは前に説いた通りである。「五住地惑」について「遍・不遍」がある。

また次に、即法、不即法、あるいは経文の前後について、「円教」と「別教」の相を判断することも前に説いた通りである。

第三.仏智・非仏智

「有」を門として、「一切智」が「空」の法に了達し分別し、「道種智」が大河の砂の数ほどの仏法の差別不同を照らし分別することは、菩薩の「智慧」であり、「別教」の「四門」の相である。

「有」を門として、「一切種智」が「五眼」を備え、円満に法界を照らし分別し、正しく遍く知ることは、諸仏の「智慧」であり、これは「円教」の「四門」の相である。

また次に、「別教」の門に「円教」の「智慧」を説き、「円教」の門に「別教」の「智慧」を説く。あるいは経文の前後について、「円教」と「別教」の相を判断することも前に説いた通りである。

また次に、「別教」の門に「円教」の「智慧」を証し、「円教」の門に「別教」の「智慧」を証する。あるいは経文の前後について、「円教」と「別教」の相を判断することも前に説いた通りである。

法華玄義 現代語訳 178

『法華玄義』現代語訳 178

 

B.4.2.b.②.通教について

次に「通教」の「有門」の観法を明らかにするに際して、並べて記せば十の意義がある。その名称を列挙する(注:これは欠落しているようであるが、「蔵教」と、また後に記される「別教」と「円教」と同様、「十法成乗観」について記されるべき箇所である)。すべての実在はみな幻が作り出した幻化であると体得し理解する。声聞と縁覚と菩薩の三人の発心が同じとしても、また細かな違いがある。『中論』の師が「この中は大乗の菩薩である」と言っている。しかし今、それは間違いであると言う。『般若経』には「声聞、縁覚を得ようとすれば、まさに般若を学ぶべきである」とある。『大智度論』に「声聞および縁覚の解脱と涅槃の道は、みな般若より出る」とある。経論には「これは大乗である」とはいわない。この師は誤っている。

「禅定」と「智慧」は不可得であると知るといっても、心を「禅定」と「智慧」の二法に安んじるべきである。幻化の「智慧」をもって、遍く「四見(有見、無見、亦有亦無見、非有非無見)」、「六十二見」およびすべての実在に対する誤った見解を破る。幻化の中の「苦諦」「集諦」を知ることを「塞」と名付け、幻化の中の「道諦」「滅諦」を知ることを「通」と名付ける。不可得の心をもって、「三十七道品」を修す。治すべき対象は本来ないが、それを以って、あらゆる「対治」を学び、「乾慧地(けんねじ)」からはじまって「仏地」を知る。幻化の「智慧」は、外道の魔や内なる妨げによって影響は受けない。あらゆる実在は「不生」であって、しかも「般若」は生じ、また執着はなく、すなわち真理に入ることを得る。また「智慧」の「徳」と「煩悩」を断じる「徳」は「無生法忍(むしょうほうにん・すべては生じることはないという悟り)」である。前の「蔵教」に比べれば、みな巧みである。これ以上は前に準じて知るべきである。また詳しくは記さない。

他の「三門」の十種の意義も、大同小異である。その意義は知るべきである。また煩わしく文を記さない。

 

B.4.2.b.③.別教について

次に「別教」の「有門」の観法を明らかにするに際して、並べて記せば十種ある十の意義がある(注:「蔵教」と同様に、ここから「十法成乗観」について記されることとなる)。

第一.観境

「凡夫」の「四見」「四門」の外に超出して観じる。またこれは声聞と縁覚の「二乗」の「四門」の法ではない。また「通教」の法でもない。あらゆる「四門」の法を「境」とし、それらを「実相」とは名づけない。「生死」「涅槃」ではない「如来蔵」は、すなわち「妙有」と名付け、そこに真実の法がある。このような「妙有」は、すべての法のために拠り所となる。この「妙有」からあらゆる実在が生じる。これが「別教」の「観法」の対象の「境」である。

第二.起慈悲心

菩薩は深く「実相」の「妙有」を観じて、生死の流れに乗ることはない。金は貧しい女の家の雑草に埋もれたままになり、額に珠があるのに気づかず格闘に死に、貧しく家もなく、そのような人々は哀れむべき存在である。菩薩はそのような人々のため、「大慈悲」「四弘誓願」を起こす。『思益経』に三十二の「大悲」について記されている。『華厳経』には、「一人、一国、一界、微塵の人のためにするのではなく、法界の衆生のために、菩提心を起こす」とある。このような発心は、大いに力がって獅子吼のようである。

第三.巧安止観

発心し終われば、心を安んじ修行に進む。前に説いたあらゆる「禅定」と「智慧」の通りである。このような時にはこのような「行」をすべきである。このような時にはこのような「智慧」を修すべきである。「禅定」から生じる正しい「愛」と、「智慧」から生じる鞭をもって、心を安んじ道を修す。この「禅定」と「智慧」を拠り所として、他を拠り所としない。これこそ、「安心」の法とする。

第四.破法遍

「妙有」の「智慧」をもって、遍く生死のすべての「見」、「六十二見」などを破る。裕福をもたらす功徳天と老死をもたらす黒闇天は対となっているので、どちらも受けない。遍く「涅槃」を虚無とすることや小乗の悟りを破る。たとえば、大樹が毒を持った木から飛んできた鳥を宿さなかったようなものである。

第五.識通塞

一つ一つの法の中において、あきらかに「通」と「塞」を知る。雪山の中に毒草もあり薬草もあるようなものである。菩薩は必ず知るべきである。このような心が起こるのは、すなわち「六道」の「苦諦」と「集諦」である。これを「塞」と名付ける。このような心が起こるのは、すなわち「二乗」の「道諦」と「滅諦」である。これを「通」と名付ける。またこのような心の起こるのは、「二乗」の「苦諦」と「集諦」である。これを「塞」と名付ける。このような心が起こるのは、「菩薩」の「道諦」と「滅諦」である。これを「通」と名付ける。このような心の起こることを、「菩薩」の「苦諦」と「集諦」とし、このような心が起こることを、「仏」の「道諦」と「滅諦」と名付ける。「苦諦」と「集諦」の中において、よく「非道」を知って、「仏道」に通達する。よく「仏道」を知って、塞がりを起こす。このように明らかに知って滞りがない。これを「通」「塞」を知るとする。

第六.修道品

「三十七道品」は、菩薩の修すところの「宝炬陀羅尼」である。顛倒を破る「四念処」、

「四正勤」、「四如意」「五善根」が生じ、「五力」をもって「五悪」を排除し、「七覚分」によって「禅定」と「智慧」が適切に調えられ、「八正道」によって、安らかで平穏の中に修す。「十相(色相、声相、香相、味相、触相、生相、住相、滅相、男相、女相)」を離れるために、「空三昧」と名付けまた「空相」を見ないことを「無相三昧」と名付け、願い求めを起こさないために「無作三昧」と名付ける。これは修行の道の法であって、「涅槃」に近づく門である。

第七.対治助開

諸法の対治の門を修すことは、いわゆる「常無常」「恒非恒」「安非安」「為無為」「断不断」「涅槃非涅槃」「増上非増上」である。常に願って「対治門」を観察して、「実相」を助け開くのである。

第八.識次位

初めの「十信」から「十住」「十行」「十廻向」「十地」「等覚」「妙覚」などの「位」がある。聖なる「位」の深い浅いは、すべて知って誤ることはない。そのため、みだりに上の「位」を究めたのだとも決めつけない。

第九.能安忍

内に善悪の二つの感覚、自分に逆らう賊と従う賊とを忍び、外界から来る「八風(はっぷう・利、哀、毀(悪く言われること)、誉、称、譏(謗りや責め)、苦、楽)」を忍ぶ。「忍」の力を用いるために、動揺させられない。

第十.無法愛

たとえ悟りに相似(そうじ・近く似ること)する法を悟っても、その法に対する愛着が起こらなければ、菩薩の頂からは堕落しない。「生」を「法愛」と名付ける。この「愛」がないために、「菩薩」の「位」に入る。「無明」の悪い雑草を破り、「妙有」の金の蔵を見いだし、「仏性」を見ることができ、「実相」に入る。これを「有門」に入る観法を修すとする。あらゆる門の「方便」は、それぞれ同じではないといっても、共に円満な真理に会い、理法に二つの差別はない。他の「三門」の観法は、「有門」に準じて知るべきである。また詳しくは記さない。

法華玄義 現代語訳 177

『法華玄義』現代語訳 177

 

第四.破法遍

「有」を見て道を得ることを成就することは、心を「禅定」と「智慧」に安住させることである。「五停心」の後、「共念処(ぐうねんじょ・戒律と禅定の中において智慧を明らかにすること)」を修す時は、「不浄観」などを帯びて、遍くあらゆる実在に対する認識を破れば、事象と理法の観法を共に成就する。「五停心」の後、単に「性念処(しょうねんじょ・単に智慧のみを明らかにすること)」を修す時は、一向に理法の観法である。「無常」の「智慧」をもって、遍くあらゆる誤った見解を破る場合、この観法は『中論』の下巻の二つの章で明らかにされている通りである。仏は最初、教えを説いた時、他の教えは説かず、ただ「無常」を明らかにして、遍くすべての外道の「有」あるいは「無」そして「非有非無」「神」および「世間」「無常」などの「六十二見(外道の邪見を六十二通りに分類したもの)」を破って、清浄に至ることを得させた。

今、『阿毘曇論』の師は、他の師に破られて、「無常は小乗であり、常は大乗である。常は無常を破ることはできても、無常は常を破ることはできない」と言っている。もしここまで見た意義からすれば、それはそうではない。まだ道を得ていない執着の心が作り出す「常」「無常」「亦常亦無常」「非常非無常」などの法に対する「境」が、「意根」に対してあらゆる誤った見解を生じさせる。誤った見解は「縁」から生じる。「縁」から生じるものは、すべて「無常」である。どうして外道に「常楽我浄」があるだろうか。このような「無常」「苦」「無我」「不浄」であるものを「常」「楽」「我」「浄」とする「四倒」は、すべて「無常」を用いて破るのである。このために、五百人の比丘は提婆達多に「ただ無常を修するなら、道を得ることができ、神通力を得ることができる」と語った。六人の悪比丘のような者は、他の人に教えを説く場合、もっぱら無常を説く。まさに知るべきである。誤った見解に深い浅いの違いはなく、すべて「無常」によって破られる。古い医者が、どんな病にも盲目的に乳薬を使用するのとは異なっているのである。

第五.識通塞

前に遍くあらゆる誤った見解を破ると述べたが、まだこの徳を見ない。誤りはすなわち「塞」であり、徳はすなわち「通」である。もし「有見」の「八十八使(はちじゅうはっし・四諦によって断ち切られるべき煩悩を、欲界、色界、無色界の三界すべてで八十八種あるとする教え)」から始まって、「非有非無不可説」の「見」の「八十八使」は、すべて「縁」から生じる。これを「塞」と名付ける。「塞」であるから必ず破るべきである。またこの「通」を知るということは、いわゆる「有見」の中の「道諦」と「滅諦」から始まって、「非有非無不可説」の「道諦」と「滅諦」である。このような「道諦」と「滅諦」は「因縁」から生じる。これを「通」と名付ける。「通」はどうして破る必要があろうか。

もしあらゆる誤った見解を知らなければ、これは真実であれは偽りだという。誤った見解に執着すれば、「業」が生じ、「愛」による働きにより「果」を感得する。どうしてこれが「塞」でないことがあろうか。あらゆる誤った見解の一つ一つがみな「無常」の顛倒だと知れば、誤った執着を生じることはない。執着しなければ「業」はなく、「業」がなければ「果」はない。このように達すれば、「道諦」と「滅諦」がある。これをどうして「通」と名付けないことがあろうか。虫が木を食べて、たまたま文字のような模様を作ったとしても、虫はそれを文字だとは知らないようなものが外道であるが、それとは異なっているのである。

第六.道品調適

どうして「通」と「塞」を知るだけで良いのか。まさに「三十七道品(ここでは、四念処、四正勤、四如意、五根、五力、七覚分、八正道を立てる)」を修して、あらゆる「法門」に進むべきである。この「有見」から始まって、「非有非無不可説」の「見」を観じれば、みな(五蘊の)「色」によることを知る。それは汚れていて不浄であるので、すなわち「身念処」である。「有」の(五蘊の)「受」を受けることから始まって、「不可説」の「受」を受けるようなことは、みな「三受(さんじゅ・苦受、楽受、不苦不楽受の三つ)」による。「受」は「苦」であるので、「受念処」と名付ける。あらゆる誤った見解が起こす(五蘊の)「想」「行」を観じれば、すべて「無我」であるということを「法念処」と名付ける。あらゆる誤った見解の心(=五蘊の識)を観じれば、一念一念が「無常」であることを「心念処」と名付ける(注:「四念処」はすなわち身念処、受念処、法念処、心念処の四つとなる)。

この四つの「観法」を観じることを、「有為法」の中に「正憶念」を得ると名付ける。この念を得るために、「四倒」が抑えられる。これを「念処」と名付ける。この四つの「観法」を勤めて修すことを「四正勤(ししょうごん・四正断ともいう。断断、律儀断、随護断、修断の四つ)」と名付ける。「禅定」の心の中に修すことを「四如意(しにょい・四神通ともいう。欲、念、精進、思惟の四つ)」と名付ける。「五善根(ごぜんこん・信、精進、念、定、慧の五つ)」が生じるので「五根」と名付ける。「五根」が増長して、あらゆる悪法を遮断するので、「五力」と名付ける。「禅定」と「智慧」が和合することを「七覚分(しちかくぶん・七覚支ともいう。択法、精進、喜、除、捨、定、念の七つ)」と名付ける。安らかで平穏の中に修すことを「八正道」と名付ける。

これは「位」についての「三十七道品」ではない。ただここでは、共通の修行項目として「三十七」を論じるのみである。もし「五停心」の一つに「三十七品」を設ければ、他の「五停心」もまたそのようになる。『阿毘曇論』の「道諦」の中に詳しく記されている通りである。

この「三十七道品」は、修行の法である。まさに「涅槃」の城に至ろうとするならば、「三解脱門(空解脱門(くうげだつもん・すべては実体がないと見ること)、無作解脱門(むさげだつもん・再びこの世に生まれ変わる業をなくすこと)、無相解脱門(むそうげだつもん・自分を中心とした相対的存在はすべて存在しないと見ること)の三つの門)」がある。いわゆる「空」と「無我」は「空解脱門」である。「苦諦」に続く「集諦」「道諦」にそれぞれ「因、集、生、縁」と「道、如、行、出」の四つずつあることは「無作解脱門」である。「滅諦」に「滅、静、妙、離」の四つがあることは「無相解脱門」である。

第七.対治助聞

能力の高い人はすぐに修行に入る。もし入ることができなければ、まさに「助道」を修すべきである。このために『大智度論』に「十二禅(四禅、四無量心、四空定)などは、すべてこれは修行の門を開く補助の法である。正しい智慧が弱ければ、煩悩の妨げが起こることがある。助道を修して補助とする」とある。また「貪欲がおこれば、不浄観、八背捨などを修することを教える。観法の対象の中で自在でなければ、八勝処を教えるべきである。対象の中で広く普遍でなければ、十一切処を教えるべきである。もし福徳が少なければ、四無量心を教えるべきである。もし色界を出ることを願うならば、無色界の四空定を教えるべきである」とある。これらは「助道」であり、修行の門を開く補助の法である。外道が「根本禅」において、かえって「愛」「見」「慢」を起こすこととは異なっている。

第八.識次位

このような正しい「助道」の法を修しても、私は聖人だと言うことはできない。真実と相似を混同することは、賢人と聖人の区別を知らないことである。ここで明らかに真実と相似の段階の違いを知り、自ら聖人ではないとしれば、高ぶった慢心は生じることはない。外道が誤った戒律を持つことや、あやまった見解を持って、生死の法を「涅槃」としてしまうこととは異なっているのである。

第九.能安忍

「別相念処(べっそうねんじょ・「五停心」に次ぐ「七賢位」の二番目。身体(身念処)、感覚(受念処)、心(心念処)、すべての実在(法念処)を別々に観じ、身体は不浄であり、感覚は苦であり、心は無常であり、あらゆる存在は中心的実体がないと観じること)」を修す力が弱く、未だ通じて安泰になることができない。その場合、進んで「総相念処(そうそうねんじょ・「七賢位」の三番目。身体、感覚、心、すべての実在の四つを総合的に観じること)」を修す。あるいは「身念処」と「受念処」、あるいは「身念処」と「受念処」と「心念処」、あるいは「身念処」と「受念処」と「心念処」と「法念処」のすべてを修す。その時、まさに安らかに忍び、「諦」を観じて成就させ、進んで「煗法(なんぽう・「七賢位」の四番目。煩悩を断ち切る働きが次第に生じて来た段階)」に入り、相似の道の「煗(暖かいという意味)」が生じる。『涅槃経』に「煗は有漏、有為であるといっても、かえってよく有漏、有為を破壊する。仏の弟子にはあり、外道にはない」とある。

またよく安らかに忍ぶならば、「頂法(ちょうぼう・「頂法(ちょうぼう・「七賢位」の五番目。心の視界が開け、山の頂上から見渡すかのような境地になること)」を成就する。「頂法」が「忍法(にんほう・「七賢位」の六番目。修行を忍び悟りの楽を求める境地)」を成就し、「世第一法(せだいいちほう・「七賢位」の七番目。悟りの直前の境地)」の側まで至る。もし「忍法」が成就しなければ、「頂法」に戻る。このために「頂法から退いて五逆(母を殺すこと、父を殺すこと、聖者を殺すこと、仏の身体を傷つけること、仏教教団を分裂させること。無間地獄に堕ちるという)となり、煗法が退いて一闡提(仏となれない者)となる」という。このために、この中でよくすべての内外のあらゆる妨げを安忍すべきである。外道が、細かな心の動きさえ安忍することができないこととは異なっている。

第十.無法愛

ここまでの「煗法」「頂法」「忍法」「世第一法」の「四善根」を生じさせることはできたが、もし「法」に対して執着の「愛」を起こしてしまえば、退いて「五逆」「一闡提」とはならないまでも、「見諦(けんたい・「四善根」の次の段階で、この段階から聖人と呼ばれる)」に入ることはできない。(注:これ以降の記述は、すでに見た「智妙」の最初の段落である「総合的に諸智を解釈する」の中の、第三「相」の三番目の「四善根の智」において詳しく述べられている内容を、省略して用語だけを並べて述べた箇所となる)。「見諦」に入るということは、すなわち、「集諦」「滅諦」「道諦」を次第に除いていって「苦諦」だけを残し、進んで「忍法」の最終段階である「上忍」から「世第一法」を成就する。「苦忍」の「真明」を発して、「十六刹那」において「初果」を成就することができる。あるいは、「果」を超越する「超果」を成就し、あるいは段階的に観法を用いて、「五下分結」「五上分結」を断じて、「無学」を成就することができるのである。

もし能力の高い人が観法を用いれば、その段階のあらゆるところに入ることができる。能力の劣っている人が観法を用いれば、以上述べた十種の観法を段階的に修す。『阿毘曇論』の中に詳しく解釈されていると言っても、この十種を出ることはない。

五百人の阿羅漢は、『毘婆沙論』を作って、正しく「有門」で道を得ることを述べている。どうしてこれが心を整える「方便」だと言うのだろうか。「四門」が適度に調えば、まさによく道を得る。もし執着を生じれば、道を得ることはできない。もしただ「有」だけを見て道を得て、「空」を見て道を得ないといえば、どうして外道の人と異なるのだろうか。このために『大智度論』に「もし般若の方便を得なければ、有と無に堕ちる」とある。ここでは十種の法をもって「方便」とし、ただちに真実の門に入る。これも外道と異なる。これを「有門」から真理に入る門の観法という。

他の「空門」「亦空亦有門」「非空非有門」の真理に入る観法の始終の「方便」は、「有門」に比べるとそれぞれ同じではない。しかし、共に「偏真」に合い、「三界」の惑を断じることは違いがない。この「三門」は、「有門」を基準にすれば、やはり十種はるはずである。大同小異である。意義は知るべきである。ここで煩わしく記すことはしない。

法華玄義 現代語訳 176

『法華玄義』現代語訳 176

 

B.4.2.門に入る観法を示す

門に入る観法について述べるにあたって、二つの項目を立てる。まず概略的に門が通じる場所を示し、次に概略的に門に入る観法を示す。

 

B.4.2.a.概略的に門が通じる場所を示す

通じるところの教えの門は、「四教」にそれぞれ「四門」があって、合計十六あるとしても、通じる対象である理法はただ「偏真(偏った真理)」と「円真(円満な真理)」の二つのみである。前の「八門」はみな「偏真」に入り、後の「八門」はみな「円真」に入る。それはどうしてであろうか。「偏真」といっても理法はひとつであって、その門が八つあるとしなければならないのではないか。「三蔵教」の「四門」は、迂回しており曲がりくねっているので、「拙度(せつど)」とする。「通教」の「四門」は、大乗の教えであって、広く真っすぐな「巧度(ぎょうど)」である。このように、門に「拙」と「巧」の異なりがあるので、通じる門を「八門」としても、真理は二つあるものではないので、門が通じる場所は一つしかない。たとえば、州都の城の四面に門があるようなものである。四面の「偏門」は「三蔵教」を喩え、四面の「直門」は「通教」を喩える。「偏」と「直」は異なっているので、通じる門は八つあっても、主君からの勅使は一つなので、門が通じる場所は二つあるわけではない。

「別教」の「四門」は「偏真」であり、円融していない。「円教」の「四門」は「円真」であり、円融している。「偏」と「円」は異なっているので、通じる門を「八門」として、「円真」は二つあるものではないので、門が通じる場所は一つしかない。たとえば、皇帝の住む城の四面に門があるようなものである。四面の「偏門」は「別教」を喩え、四面の「直門」は「円教」を喩える。「偏」と「直」は異なっているので、通じる門は八つあっても、皇帝は一人なので、門が通じる場所は一つである。

問う:小乗は一種類の「四門」であり、大乗はどうして三種類の「四門」なのか。

答える:小乗は浅く深遠ではないので、一つの生の間だけの煩悩を断じるのである。たとえば、小さな家のようなものである。大乗は深遠なので、通じる対象は長い間のこととなる。たとえば、大きな家には多くの家族や人がいるようなものである。「通教」「別教」「円教」の「四門」も多すぎるということではない。

問う:大乗の門によって、なぜ声聞と縁覚と菩薩が真理を見ることができるのだろうか。

答える:この門は、中心は大乗に通じ、補助的に小乗に通じる。たとえば、王国に「通門」と「別門」があるようなものである。「別門」は朝廷の使節を通し、「通門」は朝の市場のために通す。庶民が通るからといって、「民門」とすることはできない。大乗の「通門」もまた同じである。真っすぐに「実相」に通じ、補助的に「真諦」に通じる。このために、「三乗」の人の「灰身滅智」は、この門が兼ねる。兼ねて「偏真」に通じるために、小乗の門とすることはできない。

 

B.4.2.b.概略的に門に入る観法を示す

(注:これ以降、「蔵教」「通教」「別教」「円教」の「四教」それぞれの「観法」について述べられる。これは天台教学においても修行項目として重要なことなので、以前に説かれたことを再編成しながら、非常に長い紙面を費やして説かれている。特に「蔵教」と「円教」の記述は長い)。

 

B.4.2.b.①.蔵教について

まず「三蔵教」の「有門」の「観法」を明らかにする。この「有門」の中に、「信行」と「法行」が備わっている。「信行」は教えを聞いて即座に悟れば、この心は能力が高いことになる。真理を得る方法は、人に示すことは困難である。

しばらく「法行」の「観法」の門について述べるにあたって、十種の意義を立てる。第一に「観境」、第二に「真正発菩提心」、第三に「善巧安心止観」、第四に「破法遍」、第五に「識通塞」、第六に「道品調適」、第七に「対治助聞」、第八に「識次位」、第九に「能安忍」、第十に「無法愛」である。『阿毘曇論』の中に、この十種について述べられているが、その文はまとまっていない。論師は道を行じることは知っていても、何によって修すべきかを知らない。岐路に迷って、従うところがわからないようなものである。ここで、その意義の要点を取って、最初から最後まで通じて明らかにすれば、「有門」に入る道の「観法」を知ることができる。

第一.観境

第一は、「観法」の対象となる「境」を明らかにする。すなわちこれは、「正因縁」である「十二因縁」に説かれるように、「無明」の「因縁」によって、すべての実在が生じることを知ることである。ある教えでは、世間の苦楽の在り方は、ヴィシュヌ神から生じるといい、またある教えでは「世性」というものから生じ、また「微塵」より生じるなどというが、これらはすべて「邪因縁」の生である。もし自然法爾であり、誰かが作ったということでもない、といえば、これは「無因縁」の生である。「無因縁」の生は、「因」を破るだけで「果」を破ることはできない。「邪因縁」は、正しい「因縁」そのものを破る。これらは「正因縁」の「境」ではないので観じるべきではない。『阿毘曇論』は「極微(ごくみ・存在の最も小さい単位とされるもの)」を述べ、『成実論』は「極微」を破る。これは「無因縁」と「邪因縁」が混じり合ったものであり、「正因縁」の「境」とは言えない。

なぜならば、「極微」の有無は、未だに「有」と「無」の両極の見解を免れていないので、なお「無明」の顛倒である。「無明」の顛倒であるために、すでに「集諦」であり、「集諦」であるために、「麁」や「細」などの認識の対象を生じる。「無明」の顛倒はすでに不実であるので、感じるところの「苦諦」の「果報」はどうして「有」や「無」であると定めることができようか。このために『大智度論』に「認識の対象が麁あるいは細など、すべてこれを観じれば、無常であり無我である。無我であるので主体はない。麁、細、因、縁、苦、集、依、正など、みな無常であり主体はなく、すべて無明の顛倒が作るところである」とある。『阿毘曇論』の教えが詳しく説く通りである。これを「正因縁」の観じる対象の「境」を知ると名付ける。外道の「邪因縁」や「無因縁」とは同じではないのである。

第二.真正発菩提心

すでに「無明」の顛倒が流転し、「十二因縁」における「行」「識」そして最後の「老死」までの展開は、松明の火を回す時に見える輪のようなものであることを知る。このような「業」の結果から脱したいと願い、正しく「涅槃」を求める。声聞と縁覚の「二乗」の心を発して、「見」「愛」を出離し、名利を求めず、ただあらゆる「有」を破り、「苦諦」「集諦」を増長させない。ただ「無余涅槃」を求めるのみである。その心は清浄であり、雑ではなく誤りもない。この心を「真正発菩提心」と名付ける。外道や天魔と同じではない。

第三.善巧安心止観

修行者は、すでに「有」を出ることを誓い求め、戒律によって道を修す。しかし罪の障りは盛んであり、心は安らかではない。道にあってどのように克服すればよいであろうか。このために「四念処」を修すために、「五停心(ごていしん・禅定に入る前の心を落ち着かせる段階の観法。「不浄観」「慈悲観」「数息観」「因縁観」「念仏観」の五つ)」を学び、「貪欲」「瞋恚」「散乱心」「愚痴」「煩悩」の五種の障りを破る。「五停心」の事象に対する観法は、すなわち「禅定」である。「禅定」は「四念処」を生じるので、すなわち「智慧」である。「智慧」と「禅定」が等しく留まるために、「安心」と名付ける。

また、「禅定」と「智慧」とがほどよく整うので、「停心」と名付ける。「禅定」と「智慧」がなく、また「禅定」だけ、あるいは「智慧」だけ、または整っていない「禅定」と「智慧」では、賢人とは名づけられない。世間の賢人が智と徳を備えている場合、智は成熟していないところがなく、徳は美しい行ないに欠けたところがない。許由(きょゆう)や巣父(そふ)は賢人とすべきである。もし智ばかりが多く徳が少なければ狂人であり、徳が多く智が少なければ痴人である。狂人と痴人は賢人ではない。賢人は賢能によって名付けられ、賢善によって名付けられる。善であるために徳があり、能力があるために智がある。智と徳が備わっているために賢人である。修行者も同じである。「四念処」の「智慧」を修し、「五停心」の「禅定」を学んで、「禅定」と「智慧」が備わるのである。

「数息観」はどのように「禅定」と「智慧」が備わり、あらゆる心の拡散を制御するのであろうか。一から十に至って、息とその数を知り、それらが「無常生滅」して、念念に留まることはない。また、「不浄観」を修するなら、まさに深く汚れの悪を厭うべきである。観じる主体と観じる対象は「無常生滅」して、早々に滅んで虚妄であり、あらゆる衆生をだます。観法を嫌い瞋恚を起こすならば、そのような場合には「慈悲観」を修すべきである。他の者が「楽」を得ることを見れば、「禅定」も「楽」の相も「無常生滅」することを知る。「因縁観」の時は、「胎生」「卵生」「湿生」「化生」の「四生」はすべて「因縁」によって生じた在り方であると観じ、「三界」もまた「因縁」によって生じた在り方であると観じる。「因縁」により生じるものは、すべて「無常」「無我」である。あらゆる障りが起こるならば、まさに「念仏観」を修すべきことは、また上に説いたことと同じである。

これを「五停心」を備えて「禅定」と「智慧」を修すことと名付ける。「禅定」があるために狂人ではなく、「智慧」があるために愚かではない。これによって「安心」することをあらゆる修行の基礎とする。「煗法」と「頂法」を発して、「苦」「忍」の真実の「智慧」に入り、聖人の前段階を賢人とする。この意義はここにある。外道は乳から酪を得ることを知らないどころか、酢の生成も知らない。ましてや酪や蘇などについてはなおさらである。