大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 210 (完)

『法華玄義』現代語訳 210

 

また、『涅槃経』に大利益がある。「『法華経』の中の八千人の声聞は、授記を受けることができた。大果実を成就するようなものである」とある。もし『法華経』に「授記」を得ることをもって、『涅槃経』の利益を証すれば、すなわちこれは理法が同じであり、教えに深浅の違いがないことが明らかである。

また『法華優波提舎(ほっけうばだいしゃ・世親の『法華論』のこと)の中に、『法華経』は理法が円満であり教えが極まって、欠けたところはないと明らかにしている。

龍樹は『大智度論』の中において、『法華経』を讃嘆して、最も非常に深い教えだとして「どうして他の経典は阿難に委ねられ、ただ『法華経』だけが菩薩に委ねられたのであろうか」と言っている。ここで知ることができる。『法華経』は究竟満足であり、疑いを生じることはあり得ない。

またまさに知るべきである。あらゆる大乗経典は、その主旨に異なりがないのである。ただ聞く者の能力に応じて、その異なりを見せる。『華厳経』『無量義経』『法華経』などは、みな「三昧」の別名である。『般若経』は「大智慧」の別名である。『維摩経』は「不思議解脱」を説く。これは「解脱」の別名である。「大般涅槃経」は究竟の「滅度」の別名である。『文殊師利問経』に「菩提は満足の道である」とある。すべてが仏法である。法に優劣はない。その中において「果」を明らかにするのは、みな「仏果」である。「因」を明らかにするのは、みな菩薩の「十地」の修行である。理法を明らかにするのは、みな「法性」である。その理由は、対象となる者たちは、みな菩薩だからである。その主旨が異なるわけがない。なぜ人は強いて優劣をつけるのだろうか。

もしそうならば、誕公(たんこう・この人物については詳しくは不明)が「沙羅双樹の『涅槃経』の前に説かれた『法華経』は、そのすべてが不完全な教えである」と言っていることが、どうして偽りでないことがあろうか。

「論蔵」として「十二部経」が説かれているが、ただその中の「方広部」は「菩薩蔵」であり、残りの「十一部経」は「声聞蔵」である。また仏は声聞と菩薩のために、「苦」から脱出する道を説く。あらゆる経典を集める者は、菩薩のために説くところをもって「菩薩蔵」とし、声聞のために説かれるところをもって「声聞蔵」とする。龍樹は『大智度論』の中において「摩訶迦葉と阿難は香山(耆闍崛山のことと考えられる)にあって、経蔵と律蔵と論蔵の三蔵を編集して声聞蔵とし、文殊菩薩と阿難は大乗経典を集めて菩薩蔵とした」とある。『涅槃経』に「十一部経は二乗の持つところとなり、方等部は菩薩の持つところとなる」とある。このような経論によれば、二種だけである。つまり「声聞蔵」と「菩薩蔵」である。

しかし教えとは必ず人に対するものである。人の能力は別々であり、それぞれ二つある。「声聞蔵」の中に、阿羅漢になることが決定している声聞と、元大乗だったのが声聞になった者がいる。菩薩の中には、「頓悟」の菩薩もあり、次第に悟りに入る(=漸入)菩薩もいる。

「声聞蔵」の中の阿羅漢になることが決定している声聞とは、長い間、種類の異なる「善根」を習い、狭く劣った小乗の心となり、小乗の本性を成就し、一向に小乗を願う。仏はそのために小乗を説く。畢竟して証を得て、大乗に入ることはできない。元大乗だったのが声聞になった者とは、この人はかつて、昔の仏およびあらゆる菩薩の所において、悟りを求める心を起こしたが、ただ転生を繰り返す中で、本心を忘失し、ついに少女の心が生じて、小乗を願うようになった。仏はこのために小乗を説き、最終的には大乗に入らせる。こうして、阿羅漢になることが決定している声聞は、一向に小乗に留まり、元大乗だったのが声聞になった者は、後に大乗に趣く。去る者もいれば留まる者もいるが、小乗を受けることは同じであるために、この二人に対して説くところは、「声聞蔵」とする。

「菩薩蔵」の中によく「頓悟」する者がある。『華厳経』などの経典の対象となる衆生などは、小乗から来たのではない。最初から大乗に入るので、「頓」と名付ける。「漸」から入る者は、すなわち元大乗だったのが声聞になった者であり、ようやく大乗に入ったわけである。その大乗の者は小乗から来たわけであるから、「漸」と名付けるのである。「頓」と「漸」の違いがあると言っても、結局、大乗を受けることは同じである。このために、この二人に対して説くところを「菩薩蔵」とする。

このように、「声聞蔵」と「菩薩蔵」は対象者に従い、説く内容に従って根付けられた。「声聞蔵」の中に菩薩がいて、その菩薩が如来を助けるために声聞となっているといっても、その者が対象となっているのではないので、その菩薩に従って大乗経とするべきではない。「菩薩蔵」の中にまた声聞の人がいる。しかし正しく声聞を対象とした教えではないので、声聞の教えは説かれない。このために、小乗の法とすべきではない。人について法を定める場合、それぞれ同じではない。これをもって、教えを摂取すれば、概略的に二つあるのみである。

問う:仏は三乗の人のために、三種の教えを説く。どうして蔵を判断するにあたって、二つだけなのか。

答える:仏は三乗を求める人のために、三乗の法を説く。しかし、「十二因縁」を聞く者は、すなわち声聞である。縁覚は仏のいない時代に出て、ただ神通力を現わすだけであり、黙って教えを説くことはない。このために経典を編集する者は、集めて「二蔵」とするのである。経典によって教えを判断するので、このように言うのである。

今の「四教」と達摩欝多羅の「二蔵」とは、どのように「開会」して通じることができるのだろうか。達摩欝多羅は自らすべてを摂取して、概略的にただ二種あるのみだという。今、それを開いてこれを分別し、判断して「四教」とする。「声聞蔵」は、すなわち「三蔵教」である。「菩薩蔵」は、すなわち「通教」と「別教」と「円教」である。声聞が決定されている者のために「三蔵教」を説き、元大乗だった者のために「通教」を説き、「漸悟」の菩薩のために「別教」を説き、「頓悟」の菩薩のために「円教」を説く。ただ名称と数が融合しやすいのみではなく、意義や意味も深い所で融合する。割符を合うように合って、一つであり二つはない。

 

②.すでに述べ終わって、師を推薦し、前を結び後のことを述べる

ただ文は概略的であり、しかも意義は広く、教えは一つであってあらゆることをまとめる。もし隠されたことを述べて顕かにするならば、必ず多くの論議をするべきである。川や沢で漁をする場合、たくさんのわなを結ぶようなものである。どうして漁をする者が、たくさんのわなを好んで仕掛けるだろうか。たくさんの魚を捕るために、やむを得ず多くするだけである。

天台大師は「私は五章をもって概略的に玄義を語ったが、言葉で表現できない妙を語ることができるわけではない。特にこれは、ただ心に抱くところを述べるだけである。常に残念に思うことは、言葉は真意を述べることができないということである。ましてや、また記す場合、記された言葉は真意を尽くすことができるだろうか。とは言え、先に七番共解を学び、次に十妙を通じて学び、次に五重玄義の各段落にある七番共解を研鑽するならば、それによって五重玄義は鎖が複雑に絡み合うようにつながり、刺繍のように途切れることがない。経典から引用して確証し、前後の文が合わさって離れない。ただあらゆる仏の教えを包み、半字と満字を総括するだけではない。また、事象的なことに即して観心を成就し、凡夫の乾いた土地を掘って、聖なる法の水を含んだ泥を見る。円満に通じる道は、ここにおいて開通する。観心の遍く照らすことは、ここにおいて明らかとなる」と言っている。

この『法華玄義』は『法華文句』の前に備えたものであり、今、さらに『法華文句』において、『法華経』の各文を解釈して行く。

 

(ここで『法華玄義』は終わる)

法華玄義 現代語訳 209

『法華玄義』現代語訳 209

 

①.d.昔の五時および七階の相違を破る

達摩欝多羅(だつまうったら)は、「教」と「迹」についての意義を解釈して「教とは仏が人々に与える言葉のことである。迹とは、足跡の意味である。またそこに応跡(おうしゃく)、化跡(けしゃく)がある」と言っている。その言うところは、聖人の布教は、それぞれ帰するところと従うところがある。しかし、さまざまの学者の「判教」は一つではない。

まず「釈迦の一代は、漸教と頓教を出ない。漸教に七階と五時がある。このことについては、世の誰も異論がない」とある。また「五時については、どうして固定的な区別ができるだろうか。仏の入滅以前の教えはみな不完全である。涅槃の教えこそ、完成された教えとする」とある。また「仏は一つの声をもって万民に与えるが、衆生は大小さまざまであり、それぞれ受ける。どうして頓教と漸教によって定めることができようか。頓教や漸教はないと判断する」とある。

今、これを経論によって検証すれば、むやみに憶測してとやかく言うだけである。なぜならば、ある人は「仏の教えは頓教と漸教を出ない」という。しかし実は、「頓教」「漸教」だけで教えを摂取することはできない。『四阿含経』『五部戒律』などは、教えはまだ深いところを究めていないので、「頓教」と名付けることはできない。その述べるところは、あらゆる事柄に及ぶので、大乗の前の段階とすることもできない。これは「頓教」にも「漸教」にも摂取させることはできない。どうして、「仏の教えは頓教と漸教を出ない」というのか。

さらに「頓教」がないわけではない。全く破ることはできない。なぜなら、およそ「頓教」と「漸教」を論じることは、説教する相手による。もし如来について言えば、実に小乗と大乗を並べて述べる。その「時」に前後はない。ただ聞く者は、悟りや理解に違いがある。自ら「頓教」として受ける者もあり、あるいは「漸教」から入る者もいる。聞くところに従って経典となる。どうして、「頓教」がないと言えようか。

ただその時節を定めて、その浅深を比較することができないだけである。

またある人は「漸教の中に七階、五時がある」という。また「仏は初めて悟りを開いて、提謂や波利(『提謂波利経』の聞き手の二人の長者)のために五戒と十善の人天の教門を説く」と言う。

しかし、仏は衆生に従って、相手に聞く能力があれば説くのである。どうしてただ最初の時に限って、この二人のために「五戒」を説くというのだろうか。またその『提謂波利経』の中には、「二人の長者は不起法忍を得て、三百人は信忍を得て、二百人は須陀洹を得る」とある。『普曜経』の中には、仏は二人の長者のために「授記」を与え、密成如来とする。もしそうならば、最初、二人のために人天の教門を説くというのは、その意義はどこにあるのだろうか。さらにこの二人の長者は、仏から教えを聞き、仏を礼拝して去って、最後まで鹿野苑に向かったことはない。最初に「五戒」を説く時、まだ最初の弟子である阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)は教化されていない。何と結び付けて「漸教」とするのだろうか。

またある人は「第二時、十二年の中に、三乗別教を説く」と言う。もしそうならば、十二年を過ぎて、「四諦」「十二因縁」「六波羅蜜」を聞くことができる者がいれば、どうして説かないことがあろうか。もし説けば、すなわち「三乗別教」は、ただ十二年の中にあるだけではない。もし説かなければ、ある時期が過ぎた後、聞くことのできる者に、仏はどうして教化しないことがあろうか。間違いなく、このことはあり得ない。『法華経』に「声聞のために四諦を説き、そして六波羅蜜を説く」とある。ただ十二年だけではない。ただし一代の中で、聞くにふさわしい者に従って説くのみである。『四阿含経』『五部律』などは、声聞のために説く。そして涅槃に終わる。すなわちこのことである。このために『増一阿含経』に「釈迦は、十二年の中で略して戒律を説く。後に足らない所があれば、詳しく説く」とある。『長阿含経』「遊行経」には「涅槃」までのことが記されている。どうして小乗はすべて十二年の間のことだけだと言えようか。

ある人は「第三時の三十年の中に、空宗の『般若経』『維摩経』『思益経』を説く」と言う。どの経文によって三十年とわかるのだろうか。

「四十年の後に『法華経』の一乗を説く」と言うのは、『法華経』の中に、弥勒菩薩が「仏は悟りを開いてから今まで、最初の四十年が過ぎた」と言っている。しかし、『法華経』は『大品般若経』の後にあると言うべきではない。なぜだろうか。『大智度論』に「須菩提は『法華経』の中において、仏に対して手を挙げるだけでも、頭を低くするだけでも、それによってみな仏になることができると説かれたことを聞いた。それによって、ここで菩薩が仏になることは定まっているのか、定まっておらず退くこともあるのか、と質問したのである」とある。もしそうならば、『大品般若経』と『法華経』と前後が固定できるだろうか。

しかし『大品般若経』『法華経』および『涅槃経』の三教の浅深は、たやすく言うことができない。なぜならば、『涅槃経』の「仏性」は、また「般若」と名付けられ、また「一乗」と名付けられる。「一乗」は『法華経』の宗であり、「般若」は『大品般若経』で説かれるのである。すなわち「仏性」を明らかにしている。どこに不完全な教えがあるだろうか。

大品般若経』の中に「第一義空」を説くのは、『涅槃経』に「空」を明らかにすることと異なりがない。みな「色は空、そして大涅槃もまた空である」という。また『大品般若経』には「涅槃」は神通力で作り出されたものではないと説き、『維摩経』には、仏身は「無常」「無強」「無力」「無堅」「速朽」の「五非常」を離れていると説かれている。『涅槃経』に「常住」を説いていることと、「涅槃」は神通力で作り出されたものではないと説くことと、何の異なりがあるだろうか。しかし自ら分別して『維摩経』は「常住」だけを説くとして、『大品般若経』はただ「空」を説くとしているのである。

ある人は、阿難などのあらゆる声聞が『大品般若経』の会衆にあり、また『法華経』の会衆を経て、最後に『涅槃経』の会衆にあることをもって、『大品般若経』『法華経』『涅槃経』はまさに浅深の区別があると知ることができるという。しかし、その意義は必ずしもそうではない。なぜなら、阿難や摩訶迦葉の二人は、『法華経』の会衆を経て、もしまだ「常住」が説かれることを聞くことがなければ、『涅槃経』の会衆の中にこの二人はいなかったわけであるから、どのようにして「常住」の理解を得て、『涅槃経』を伝えるであろうか。また次に、舎利弗は、仏の「涅槃」の前の七日前に亡くなった。目犍連は外道(執杖梵士・しょうじょうぼんし)から打たれ、やはり仏の「涅槃」の前に亡くなっている。彼らはみな、釈迦の入滅の沙羅双樹にはいなかった。どうして『涅槃経』の「常住」の理解を得ることができたであろうか。このために知ることができる。『法華経』の中にすでに「常住」を悟り終わって、さらに聞く必要はなかったのである。

また舎利弗などのあらゆる声聞は、みな如来を助けるために現われた菩薩の化身である。『法華経』に説く通りである。衆生は小乗の法を願って、大乗の「智慧」を恐れていると知っている。このために、あらゆる菩薩は、声聞や縁覚の姿となるのである。『涅槃経』に「私の法において最初の子は、大迦葉である。阿難は多く聞くことができる者であり、よくすべての疑いを断じ、自然によくこの常住と無常を理解する」とある。このために知ることができる。如来を助けるために現われた菩薩の化身は、大乗にあっては大乗の者であり、小乗にあっては小乗の者である。どうしてこの人たちにおいて、段階の違いを定めることができようか。また、もし『法華経』から後に「涅槃」に入れば、『法華経』の中で、釈迦は王宮を出て初めて悟りを開いたのではなく、久遠の昔に悟りを開いているということを知るわけであるから、どうして、『涅槃経』の中で、菩提樹の下で初めて悟りを得たということを引用して、歴史的事実に執着して迷うことがあろうか。このために知ることができる。一部の衆生が最後に「常住」を聞く必要があるために、『涅槃経』を説いたのである。『法華経』を聞く者は、『涅槃経』を必ずしも聞く必要はないのである。

法華玄義 現代語訳 208

『法華玄義』現代語訳 208

 

〇記者が私的に異説について記す。

 

①.異説を挙げて記す

 

①.a.『法華経』と『般若経』の比較

ある人が、『大智度論』の「会宗品」に、十の大いなる経典を挙げていることを引用している。「『雲経』『大雲経』『法華経』がある。『般若経』は最大である」とある。また「大用品」に、「あらゆる善法は、般若の中に入る。『法華経』もまた善法である」とある。また第百巻に「『法華経』は秘密であり、『般若経』は秘密ではない。二乗が仏になることを明らかにしていないためである」とある。また「般若、法華は名称が異なっているだけでる」とある。ここに、『般若経』が『法華経』より優れていること、『法華経』が『般若経』より優れていること、『般若経』と『法華経』が同じであることの三種の説が見られるが、これはどのように通じるのであろうか。

ある人はこれらを合わせて次のように言っている。「あらゆる聖人は無心をもって無相と一つになるとするが、これはあらゆる川が同じ海に入るようなものである。もし衆生を教化するにあたって、無相を宗とすれば、空(そら)がすべてを抱擁するようなものである。『般若経』に盛んにこの無心と無相を明らかにしている。このために十経の中で最大である。また『般若経』に「第一義悉檀」を明らかにしている。このために最大である。また『般若経』の九十品の内の前の六十六品は「実」の「智慧」を明らかにし、「無尽品」より後は「方便」の「智慧」を明らかにしている。この「実」と「方便」の二つの「智慧」は三世の仏の「法身」の父母のようなものである。このために最大である。あらゆる経典にこの二つを明らかにすることは、みな『般若経』に摂取される。問う。あらゆる経典にこの二つを明らかにするというが、この『般若経』自体はあらゆる経典に摂取されるべきではないか。答える。『大品般若経』は最初にもっぱらこの二つを明らかにしているが、他の経典はそうではない。古来、『般若経』は悟りを得る経典とされる。そのため最大である」。

今、言う。そもそもこれは『大智度論』の言葉であり、もっぱら「大」ということについて述べられている。どうして合わせて通じさせる必要があろうか。もし通じさせるならば、「共般若」「不共般若」があるではないか。「不共般若」は最大である。他の経典にもし「不共般若」を明らかにしているならば、その経典は正しい。

その他、合わせて次のように言っている。「『法華経』に二乗が仏になることを明らかにしていることは、秘密である。『般若経』に二乗が仏になることを明らかにしていないので、秘密ではない。秘密はすなわち深く、『般若経』は浅い。なぜなら、『般若経』に菩薩は仏の因であると明らかにしている。意義においてわかりやすいために、秘密ではない。二乗が仏になることは、昔の教えに反する。意義においてわかりにくいので、秘密である。『大智度論』に『薬を用いて薬とするのは、やさしいことであり、毒を用いて薬とすることは難しいようなものである』とある。しかし、秘密教と顕示教は大乗と小乗に共通する。『大智度論』の第四に『顕示教には、阿羅漢は煩悩を断じるので清浄である、菩薩は煩悩を断じていないので清浄ではないと明らかにしている。このために、菩薩は阿羅漢の後に名を連ねている。秘密教の法では、菩薩は六神通を得て、すべての煩悩を断じ、二乗の上を超えていると明らかにしている』。まさに知るべきである。顕示教は浅く、秘密教は深い。今、『般若経』と『法華経』においては、菩薩はみな無法生忍を得て、六神通を備えていると明らかにしている。共に秘密であり、共に大である。秘密についてさらに秘密、不秘密を論じれば、『般若経』に二乗が仏になることを明らかにしていないので、この一つを欠いているために、不秘密というのである。問う。『般若経』はまだ権を開いていないので、まさにこれは秘密である。『法華経』は権を開いているので、まさに顕示教ではないか。答える。もし開権を取れば、問いの通りである。今、浅くやさしいということを取って顕示教としているだけである。問う。もしそうならば、未了(みりょう・まだ明らかにしていないものという意味)をどうして大とするのか。答える。二つの「智慧」によって深く大きいとして、二乗が仏となることを明らかにしていないことを未了とする。問う。すでに深く大きいといえば、どうして二乗は方便であって、仏になることができると説かないのか。この意義が未了ならば、またどうして大なのか。答える。これは一人の解釈ではない。僧叡師も次のように言っている。『般若経』は智慧によって照らし、『法華経』は真実である。理を究め本性を尽くして、すべての行を明らかにすることを論じれば、すなわち真実は智慧によって照らすことに及ばない。大いに真実の教化を明らかにし、もともと三乗はないと理解することを取れば、智慧によって照らすことは真実に及ばない。このように言っているので、深いことを讃嘆すれば、『般若経』の功徳は重い。真実を褒めれば、『法華経』の働きは高い」。

問う:僧叡師を引用しているといっても、枯れ木に登って力を求めても、人と枯れ木が共に倒れてしまうようなものである。この解釈は未了である。今、言う。「不共般若」はいつ二乗が仏になることを明らかにしないことがあろうか。『法華経』の平等大慧とまたどうして相違するだろうか。

 

①.b.あらゆる経論における蔵(教えを蔵に喩えていう言葉)の離合を明らかにする

あらゆる経論に、教えを明らかにすることは一つではない。「論蔵」においては、二蔵がある。「声聞蔵」と「菩薩蔵」である。またあらゆる経典に三蔵がある。先の二つに「雑蔵」を加えるのである。「十一部経」を分類するのは「声聞蔵」であり、「方広部」は「菩薩蔵」であり、「十二部経」を合わせるのは「雑蔵」である。また四蔵があって、これにさらに「仏蔵」を開く。『菩薩処胎経』に八蔵がある。「胎化蔵」「中陰蔵」「摩訶衍方等蔵」「戒律蔵」「十住蔵」「雑蔵」「金剛蔵」「仏蔵」である。これらの蔵はどのように会通するのであろうか。

二蔵を会通すれば、その一つは「声聞蔵」に通じ、二つは「菩薩蔵」に通じる。三蔵を会通すれば、最初の教えは「声聞蔵」に通じ、次は「雑蔵」に通じ、次は「菩薩蔵」に通じる。四蔵を会通すれば、一つ一つが会通する。八蔵を会通すれば、八蔵は魂が母胎に宿って後のことである。四教は仏が教えを説いた後のことである。時節に異なりがある。今は教えを説いた以降の八教をもって会通する。もし「胎化蔵」「中陰蔵」は、まだ『菩薩処胎経』が阿難のために説かれていない時であるので、すなわち「秘密教」である。阿難のために説く時は、すなわち「不定教」である。「摩訶衍方等蔵」は「頓教」である。「戒律蔵」「十住蔵」「雑蔵」「金剛蔵」「仏蔵」の五蔵は、「漸教」における次第である。「戒律蔵」は、「三蔵教」である。「十住蔵」は「方等教」である。「雑蔵」は「通教」である。「金剛蔵」は「別教」である。「仏蔵」は「円教」である。しかし仏の意義は測りがたい。一応比較して、この会通を作る。

 

①.c.四教の名義の典拠を明らかにする

問う:「四教」の名義は、どの経典にあるのか。

答える:『長阿含経』の「遊行経」に、「仏は円弥城の北にある尸舎婆村にあって、四つの偉大な教えを説いた。それは仏に従って聞き、多くの比丘から聞き、数人の比丘から聞き、一人の比丘から聞く。これを四つの偉大な教えと名付ける」とある。

『月灯三昧経』の第六巻に、四種の「修多羅」を明らかにしている。「諸行」「訶責」「煩悩」「清浄」である。私的にこれを解釈して合わせれば、「諸行」は「因縁生」の法である。すなわち「三蔵教」の意義である。「訶責(かしゃく)」は罪を体で知ることなので「通教」の意義である。「煩悩」は、海に入らなければ宝珠を得ることはできない。もし「煩悩」がなければ、「智慧」もない。すなわち「別教」の意義である。「清浄」は、すでに「常楽我浄」の内の一つをあげているので、当然「常楽我」がある。つまり「円教」である。

また一つ一つの教えに四種の「修多羅」が備わっている。「諸行」はすなわち「集諦」、「諸行」の「果」はすなわち「苦諦」、「諸行」は「対治」によって煩悩を「対治」することは、すなわち「道諦」、「諸行」が清浄であることは、すなわち「滅諦」である。これは「三蔵教」の中に四種の「修多羅」を備えることである。

また、「諸行」を訶責することはすなわち「集諦」、「諸有」を訶責することはすなわち「苦諦」、煩悩を訶責する「対治」はすなわち「道諦」、煩悩が清浄となることはすなわち「滅諦」である。これは「通教」の中に四種の「修多羅」を備えることである。

また、煩悩の「諸行」はすなわち「集諦」、煩悩の「諸有」はすなわち「苦諦」、煩悩の行が訶責されることはすなわち「道諦」、煩悩が清浄となることはすなわち「滅諦」である。これは「別教」の中に四種の「修多羅」を備えることである。

また、「涅槃」がそのまま「生死」であることは「苦諦」の清浄である。「菩提」がそのまま「煩悩」であることは、「集諦」の清浄である。「煩悩」がそのまま「菩提」であることは「道諦」の清浄である。「生死」がそのまま「涅槃」であることは、「滅諦」の清浄である。これは「円教」の中に四種の「修多羅」である。

『月灯三昧経』にまた「四論」「四法」「四境界」「四門」「四断煩悩」「四苦」「四集」「四道」を明らかにしていることは、みな「四教」と相応する。具体的にはその経典に記されている通りであり、わかるであろう。

『十地経論』の第九巻に「一念の心に十波羅蜜、四摂事(布施、愛語、利行、同事)、三十七道品、四家を備える」とある。「四家」を解釈して「般若家、諦家、捨煩悩家、苦清浄家である」とある。

私的に解釈すれば、「苦諦」について「初門」とし、「三十七道品」を修して苦を清浄とすることは「三蔵教」の意義である。「捨煩悩家」については、「無相」を体得することを「捨」とし、「色」は「空」であるように「捨」が「無相」であることをもって「三十七道品」を修することを論じることは、「通教」の意義である。「般若家」とは、「般若」の「智慧」が照らせば、「諸法」は明瞭となる。大河の砂の数ほどの法門をみなすべて通達して「三十七道品」を修することは、「別教」の意義である。「諦家」とは、「諦」は「実相」の理法である。すなわちこれは「円教」であり、「実相」について「三十七道品」を修すことである。具体的にはその経典に記されている通りである。

法華玄義 現代語訳 207

『法華玄義』現代語訳 207

 

E.5.6.「増数」に教えを明らかにする

まず「迹」について述べ、次に「本」について述べる。そもそも、教えとは衆生に与えるものである。衆生の能力は一つではないので、教え(=法:法の意味は多いが、ここでは教えを法としているので、以下「教え」とする)である「迹」は数が多い。どうしてただ「半字」「満字」「五時」だけであろうか。まさに知るべきである。教えは無量である。その無量の教えをここでは「一法」から「八法」までとして述べる。

まず「一法」について「開合」を明らかにする。「あらゆる仏国土の中にはただ一乗の法があるのみである」とある。この教えについて理解できなければ、全く乳のように生(なま)のままである。もし「開合」しようとすれば、「円教」を開いて「別教」の「一乗」を出す。もし「別教」において理解できなければ、全く乳のように生のままである。また「通教」の「一乗」を開く。もし「通教」において理解できなければ、全く乳のように生のままである。また「三蔵教」の「一乗」を開く。開いて「四教」とするといっても、みな一つの大乗の教えと名付け、共に「仏果」を求めるのである。

もし「三蔵教」の「一乗」において理解できれば、すなわち乳から酪ができる。そして「本」の「一乗」に入るのである。もし「四教」の「一乗」において理解できなければ、またさらに「三蔵教」において、声聞、縁覚の教えを開いて出す。もし煩悩を断じて「果」を証して、心がようやく通じて安泰となれば、すなわち「二乗」を退けて、ただ大乗をもって仏を求める。そして『般若経』をもって淘汰して、心を調熟させる。すなわち「方便」の「一乗」を廃して、ただ「円教」の「実」のみの「一乗」である。このために「私がもともと誓願したように、今、すでに満足された。すべての衆生を教化して、みな仏道に入らせる。もし小乗をもって教化すれば、私は物惜しみしたことになる。このことはあり得ない」とある。このために初めに「一乗」から始まり、しかも「一乗」を開いて、終わりに「一乗」より「一乗」に帰す。

次に「二法」について「開合」を論じるが、これは「半字」「満字」の二つの教えについてである。最初に『華厳経』の「満字」を明らかにする。もし衆生にこれに耐える能力がなければ、次に「満字」について「半字」を開く。次に「方等教」において「半字」に対して「満字」を明らかにする。次に『般若経』に「半字」を帯びて「満字」を明らかにする。次に『法華経』に「半字」を捨てて「満字」を明らかにする。始めは「満字」より「半字」を開き、終わりは「半字」を廃して「満字」に帰す。

次に「三法」について「開合」を論じるが、これは「一仏乗」において「方便」の三つの教えを説く。すでに休みを得れば、仮の町を滅却する。また「三善」について述べれば、声聞を「下善」とする。

次に「四法」について「開合」を論じるが、これは「四教」である。「円教」について「別教」を開き、「別教」について「通教」を開き、次に「三蔵教」を開く。このように次第に開いて「円教」に融合する。また「有門(うもん)・すべてのものは因縁によって存在しているという教え」「空門(くうもん)・すべてのものは実体がないという教え」「亦有亦空門(やくうやくくうもん)・すべてのものは実体がないという在り方において存在するという教え」「非有非空門(ひうひくうもん)・すべてのものは存在せず、同時に実体がないのではないという教え」の「四門」について論じる。もともとこれは「円教」の「四門」である。衆生が理解しなければ、「別教」の「四門」そして「通教」「三蔵教」の「四門」を開いて出す。能力の高い者は次々と入ることができ、能力の低い者は「五味」の教えによって調えられ入る。

次に「五法」について「開合」を論じるが、これは「五味」の教えである。最初の「十二部経」から「修多羅」そして『涅槃経』を開き、教えごとに「五味」の教えを論じる。始めの「五味」より、あらゆる「五味」を開き、細かく次第に融合させ、「円満」の「五味」に帰す。

次に「六法」について「開合」を論じるとは、これは「四教」の大乗の「六波羅蜜」「七覚分」「八正道」である(注:「四教」の「六波羅蜜」で四つであり、そこに「七覚支」「八正道」の二つを加えて六つとなっている)。最初に「円教」を開いて「別教」を出し、そして「三蔵教」となる。このように縮小して融合し、一つの「円教」の道に帰す。

次に「七法」について「開合」を論じるとは、「四教」「二乗」ならびに「人天乗」をいう。もし上に向かえば、「円教」と「別教」を融合し、下に向かえば、「人天乗」を融合して七つの数を満たす。「開合」は(以下文なし)。

次に「八法」について「開合」を論じるとは、前の「八法」について「開合」する(以下文なし)。

第二に、「本門」について、教えの「開合」を明らかにするが、これは「迹」を借りて「本」を知ることである。「本」もまた同じである。

また次に、「本門」の中に、あるいは自らの身を示し、あるいは他の身を示し、あるいは自らの教えを説き、あるいは他の教えを説くことが明らかにされている。自らの身とは、仏の「法界」の像であり、他の身とは、他の九つの「法界」の像である。自らの教えとは、「円頓」の仏の知見である。これ以外はすべて他の教えである。あらゆる身の形を示すといっても、それは悟りに導こうとするためである。あらゆる道を説くといっても、その実は「一乗」のためである。これは「開合」の意義である。

このように「開合」すれば、「半字」「満字」「五味」が完全となり欠けたところはなくなる。次第することについては明らかである。次第の意義ではないことについては、理解すべきである。「不定教」については、さらに理解しやすいであろう。

一から一を開くということは、「あらゆる方角の仏の国土の中には、ただ一乗の法があるのみでる」とある。衆生が理解しなければ、全く乳のように生のままである。この「円教」の「一乗」より、「別教」の「一乗」を開き出す。衆生がまた理解しなければ、また全く乳のように生のままである。また「体空観」の「一乗」を開き出す。衆生がまた理解しなければ、また全く乳のように生のままである。また「析空観」の「一乗」を開き出す。衆生が理解すれば、これは乳から酪を作ることである。次に「体空観」に入ることは、酪から生蘇を出すことである。次に「別教」の「一乗」に入ることは、生蘇から熟蘇を出すことである。次に「円教」の「一乗」に入ることは、熟蘇から醍醐を出すことである。この中、それぞれに「頓教」「漸教」「不定教」がある。これは一より一をもって開き、一より一に帰すことである。

次に、二より二をもって開くことは、もとこれは「如来蔵」である。「如来蔵」の中に、それぞれ「半字」「満字」の不思議の二がある。衆生が理解しなければ、全く乳のように生のままである。また、「半字」を帯びる「満字」を開き出す。衆生がまた理解しなければ、また全く乳のように生のままである。また「半字」を破る「満字」を開き出す。衆生がまた理解しなければ、また全く乳のように生のままである。また単に「半字」を説く。衆生が理解すれば、これは乳から酪を作ることである。次に「半字」を破る「満字」を説くことは、酪から生蘇を出すことである。次に「半字」を帯びる「満字」を説いて、衆生を一の熟蘇とする。次に、もっぱら不思議の「満字」を説けば、衆生は醍醐のようになる。この中、それぞれに「頓教」「漸教」「不定教」がある。これは二より二を開き、二より二に帰すことである。

次に、三より三に帰す。もとこれは「即空」「即仮」「即中」の三つである。衆生が理解しなければ、次第の「三諦」を開く。また理解しなければ、「体空観」の三を開く。また理解しなければ、「析空観」の三を開く。能力の高い者は、「析空観」の三より「体空観」の三に入り、「体空観」の三より次第の「三諦」に入り、次第の「三諦」より「即空」「即仮」「即中」の「三諦」に入る。能力の低い者は、「析空観」の三に留まるために、「即空」の三を用いてこれを調える。すなわち生蘇である。また、次第の「三諦」を用いて調えて熟蘇とする。今、まさに「即空」「即仮」「即中」に入ることができる。これは「三法」について「開合」を論じることである。

次に「四法」の「開合」とは、もとこれは「円教」の「四門」である。衆生が理解しなければ、「別教」の「四門」、そして「三蔵教」の「四門」を開く。次第して入らせることは、前と同じである。

「五法」について「開合」を論じるとは、「五味」の教えについてである。前と同じである。そして「八法」までまた同じである。

 

(注:以上で『法華玄義』の本文は終わる)

法華玄義 現代語訳 206

『法華玄義』現代語訳 206

 

E.5.5.「通別料簡」

「料簡」にあたって、三つの項目を立てる。一つめはa.「通別について」であり、二つめはb.「益・不益」であり、三つめはc.「諸教について」である。

 

E.5.5.a.通別について

「五味の教え」と「半字」「満字」については、その教えが説かれた次第を個別に論じるならば、それぞれの時に限定される。一方、共通することを論じるならば、最初から最後までに共通する。『華厳経』の「頓教」と「乳味」については、個別的にはただ最初ということであり、共通的には最後まで通じる。このため『無量義経』に「次に般若の歴劫修行、華厳海空を説く」とある。『法華経』において仏の「智慧」に「開会」して入る。これはすなわち共通的に『法華経』と『般若経』の二経に至ることである。

また『像法決疑経』に次のようにある。「今日、聴衆の無数の人々は、それぞれ見ることは同じではない。あるいは如来が涅槃に入ることも見て、あるいは如来がこの世に一劫、あるいは一劫に足らないほど、あるいは無量劫の間住んでいると見る。あるいは如来の一丈六尺の身体を見て、あるいは小さな身体と見て、あるいは大きな身体と見る。あるいは報身が蓮華蔵世界海において、千百億の釈迦牟尼仏のために、心地の法門を説くことを見る。あるいは法身が虚空に同化して別ではなく、無相無礙であり法界に遍く同じているのを見る。あるいはこの場所は山林土地土砂であるあと見て、あるいは七宝を見て、あるいはこの場所は三世の諸仏の行じる所と見て、あるいはこの場所は不可思議諸仏の境界であり真実の法であると見る」。太陽は最初昇ってまず高山を照らす。その太陽が沈む時にも、また高い峰々に残りの光がある。このために、蓮華蔵海は、通して『涅槃経』の後にまで至る。どうして前の経にも通じないことがあろうか。

「修多羅」の「半字」「酪味」の教えは、個別的に述べれば、「第二時」である。共通して述べれば、また後にまで至る。なぜなら、迦留陀夷は『法華経』の中において、仏の面前で「授記」を得たが、後に町において殺され、それが、戒律が設定される機縁となった。また舎利弗は『法華経』における聞き手である。後に入滅する。均提は三衣を持って来る。仏は質問する。どうして「三蔵教」が後にまで至らないことがあろうか。『大智度論』に「最初の鹿野苑より涅槃の夜に至るまで、説いたところの戒律と禅定と智慧をまとめて修妬路経(しゅとろきょう)などの蔵とした」とある。まさに知るべきである。「三蔵教」は通じて後に至る。

「方等教」の「半字」と「満字」が相対する教えは、「生蘇味」の教えである。個別的に述べれば、「第三時」であり、共通して述べればまた後にまで至る。なぜなら、『大方等陀羅尼経』に「まず王舎城においてあらゆる声聞に授記を授け、今また舎衛国の祇陀林の中において、また声聞に授記を授ける。昔、鹿野苑において、声聞に授記を授ける」とある。また舎利弗は「世尊には虚偽はなく、語るところは真実である。このためによく第二、第三に私たちに授記を授けられる」とある。このために「方等教」は『法華経』の後まで至る。

般若経』は、「半字」を帯びて「満字」を論じる。これは「熟蘇味」の教えである。個別的に述べれば「第四時」であり、共通して述べればまた最初から最後まで至る。なぜなら、「悟りを得た夜から涅槃の夜に至るまで、常に般若を説く」とある。また『大智度論』に「須菩提は、菩薩の成仏が確定しているか確定していないかを問う」とある。まさに知るべきである。『般若経』もまた後に至る。

『涅槃経』の「醍醐味」「満字」の教えは、個別的に述べれば「第五時」であり、共通して述べれば、また最初まで至る(注:『涅槃経』は最後に説かれた経典とされるため)。なぜなら、『大智度論』に「最初の発心より、常に涅槃を観じて道を行じる」とある。前のあらゆる教えは、どうして発心の菩薩が涅槃を観じることでないことがあろうか。『涅槃経』に「私は道場の菩提樹の下に坐って、最初悟りを開いた。その時、無量阿僧祇恒沙の世界のあらゆる菩薩もまた私に非常に深い意義を質問した。しかし、その質問するところの語句と意義、功徳もまたみな今のこの時と全く同じであり、異なりはない。このように質問する者は、すなわち無量の衆生に利益を与えるのである」とある。これはすなわち、前に通じる。

もし『法華経』を顕露の立場で述べれば、前にあることはない。秘密の立場で述べれば、その理法に妨げはない。このために舎利弗は「私は昔、仏に従ってこの法を聞き、あらゆる菩薩に授記を授けて仏になることを見た」とある。これがどうして昔に通じる「授記」を証する文でないことがあろうか。

問う:『涅槃経』には過去にさかのぼって「四教」を説く。「方等教」には正しく「四教」を開いて、「別教」にもまた「生無生」「修無量」「修無作」「証無作」の四種がある。これをどのように区別したらよいのか。

答える:『涅槃経』は「四教」それぞれに共通して「仏性」に入り、「別教」は次第に後に「仏性」を見て、「方等教」は証を保ち、「蔵教」と「通教」は「仏性」を見ない。

 

E.5.5.b.益・不益

もし『華厳経』を「乳味」とし、「三蔵教」を「酪味」とすれば、これはすなわち「方便」の味が濃く、大乗の味は薄い。これを解釈するにあたって、三つある。

第一は、「利益」があるところを取って述べる。貴重な薬だからといって、必ず病が治るわけではない。一般的な薬でも病に適合する時もあり、貴重な薬でも病に適合しない時もあるため、いたずらに薬を服することも「利益」がないようなものである。

最初、『華厳経』を説いたが、初心の者に対しては深い「利益」はなかった。「漸教」の能力の人に対してもまだ「利益」はなかった。「蔵教」と「通教」の能力の者に対しては乳のようである。「漸教」の能力の者は、「三蔵教」を受けて、よく「見思惑」を断じ、「三毒」が次第に尽きて、凡夫から聖者となる。それは乳が酪になったようなものである。用いて「利益」があるからといって、劣ったものを優れていると言い、用いて「利益」がないからといって、貴重なものを劣っていると言うべきではない。『華厳経』もまた同じである。小乗においては乳のようであり、大乗においては醍醐のようである。これはあくまでも部分的な譬喩であり、全体に及ぶものではない。

第二は、良医に一つの秘方があって、十二の薬(十二部経を喩える)を備えているようなものである。三種(十二部経の最初の三種)は最も貴重であり、よく病の相と性質を見抜き、最初まで病状に背いて誤って処方することはない。仏もまた同じである。円満な方法で絶妙に治療することは、「十二部経」を備えることである。「十二部経」の最初の「無問自説」「方広」「授記」は、最も深い教えである。菩薩は「智慧」が優れているので、具足してすべて服する。「二乗」は病が重いので、他の「九部経」をもって薬とする。もしこれで効果がなければ、病において「利益」がない。効果がない場合においては乳とし、効果がある場合においては酪とする。これは説教の順序を取って喩えとしており、「五味」の教えの濃薄浅深を用いていない。

第三は、修行者の心について述べる。『華厳経』を説く時、凡夫の「見思惑」はそのままであるので、乳のようだという。「三蔵教」を説く時、「見思惑」を断じるために、酪のようだという。「方等教」に至る時、小乗の思いがくじかれ恥じ入り、真実の極みと言わないために、生蘇のようである。『般若経』に至る時、教えを理解し法を知るので、熟蘇のようである。『法華経』に至る時、「無明」を破り、仏の知見を開き、「授記」を受け仏となり、心がすでに清浄となるために、醍醐のようだという。修行者の心が生(なま)ならば、教えもまだ説かれない。修行者の心が熟せば、教えもまた従って熟す。

問う:一人の人が「五味」の教えを受けるのか、五人が受けるのか。

答える:自ら一人が一つの味の教えを受けることがある。『華厳経』の中の純一の能力の者は、すなわち「醍醐味」の教えとして受け、「五味」を経ない。『涅槃経』に「雪山に草がある。牛がもしこれを食べれば醍醐を出す」とある。また、自ら一人が「五味」を経る場合がある。小乗の能力の者は、「頓教」においては「乳味」の教えであり、「三蔵教」においては「酪味」の教えであり、最後の「醍醐味」の教えで究竟する。『涅槃経』に「牛より乳が出て、そして蘇より醍醐が出る」とある。また、自ら能力の高い菩薩、または聖者の「位」に入っていない声聞がいて、「三蔵教」の中において「仏性」を見れば、それは「乳味」と「酪味」の二つの味の教えを経ることである。また自ら「方等教」の中に「仏性」を見る者がある。これは「乳味」「酪味」「生蘇」の三つの味の教えを経ることである。『般若経』の中に「仏性」を見る者は、「乳味」「酪味」「生蘇」「熟蘇」の三つの味の教えを経ることである。三百人の比丘のようである。『涅槃経』に「毒を乳の中に入れれば、五味の中に遍く広がり、すべてよく人を殺す」とある。すなわちこの意味である。

 

E.5.5.c.諸教について

『涅槃経』に「凡夫は乳のようであり、声聞は酪のようであり、菩薩は生蘇と熟蘇のようであり、仏は醍醐のようである」とある。今、この喩えを解釈すれば、総合的には「半字」「満字」「五時」の教えを喩えているのである。凡夫は病を治す道はなく、全く乳のように生である。声聞は真理を発するので、通じてみな酪のようである。「通教」の菩薩および「二乗」は生蘇のようである。「別教」は熟蘇のようである。「円教」は醍醐のようである。

今、各教えにおいて「五味」の教えを判断する。まず『涅槃経』に「凡夫は乳のようであり、須陀洹は酪のようであり、斯陀含は生蘇のようであり、阿那含は熟蘇のようであり、阿羅漢、縁覚、仏は醍醐のようである」とある。「超果」があれば、すなわち醍醐を得る。あるいは、各味に順番に入る者がある。以上はすなわち「三蔵教」の中の「頓教」「漸教」「不定教」の三つの意義である。

次に「通教」の「五味」を見れば、『涅槃経』の三十二巻に「凡夫の仏性は、血の混じった乳のようである。血とはすなわち無明・行などのすべての煩悩である。乳とはすなわち善の五陰である。このために『あらゆる煩悩および善の五陰に従って悟りを得る』という。衆生の身は、みな精錬された血によって成就することができるようなものである。仏性もまた同じである。須陀洹、斯陀含は少しの煩悩を断じれば、真の乳のようであり、阿那含は酪のようであり、阿羅漢は生蘇のようであり、縁覚から十地の菩薩までは熟蘇のようであり、仏は醍醐のようである」とある。「超果」「不定教」は(以下文はない)。

次に「別教」に自ら「五味」を明らかにすれば、『涅槃経』の第九巻に「衆生は、牛が新たに生まれ、血と乳がまだ分かれていないようなものであり、声聞と縁覚は酪のようであり、菩薩の人は生蘇、熟蘇のようであり、諸仏世尊はなお醍醐のようである」とある。具体的には「超果」「不定教」がある。

次に「円教」は、ただ一つの味の教えだけである。『涅槃経』に「雪山に草がある。忍辱と名付けられる。牛がもしこれを食べれば醍醐を出す」とある。正直純一であるために、「五味」を論じない。もし無差別の中に差別を設ければ、「名字即」から「究竟即」に至るまでの「位」に当てはめて、「五味」の生成を述べることができる。仏から「十二部経」が出る。すなわちこれは乳を出すのである。優れた医者が乳の薬を用いるべき時は用いるようなものである。「四善根」について、毒の効力が発することに対して「五味」とすることができる。

法華玄義 現代語訳 205

『法華玄義』現代語訳 205

 

E.5.3.「五味半満相成」

もしただ「五味の教え」だけを論じるだけならば、なお「南師」の「方便」を得た説と同じである。もしただ「半字」「満字」だけならば、なお「北師」の「実」を得た説と同じである。ここで、「五味の教え」は「半満」を離れず、「半満」は「五味の教え」を離れないと明らかにする。「五味の教え」に「半満」があれば、すなわち「智慧」がある「方便」の解釈となる。「半満」に「五味の教え」があれば、「方便」がある「智慧」の解釈となる。「権」と「実」が共に遊戯することは、鳥の二つの翼のようである。また共に遊戯するといっても、収穫と蔵に収めることとがそろう。

華厳経』は、「頓教」であり「満字」であり、大乗の家業であり、ただ「一実」を明らかにするのみであり、「方便」を用いていない。ただ「満字」だけであり「半字」ではない。「漸教」においては乳を出す。客人のような「三蔵教」は、ただ「方便」であるだけであり、「半字」だけで「満字」ではない。「漸教」においては酪を出す。「方等教」の小乗を非難する教えは、すなわち「半字」と「満字」が相対して、「満字」をもって「半字」を退ける。「漸教」においては生蘇を出す。『大品般若経』の教えを理解することは、「半字」を帯びて「満字」を論じる。「半字」はすなわち共通して「三乗」のために説き、「満字」はすなわち菩薩だけのために説く。「漸教」においては熟蘇を出す。『法華経』の財産を委ねる教えは、「半字」を廃して「満字」を明らかにする。もし「半字」の「方便」をもって、能力の低い者を調熟させることがなければ、すなわちまた「満字」の「仏知見」を開くことがない。「漸教」においては醍醐を出す。

如来が丁寧に「方便」を称賛することは、「半字」に「満字」を成就する功徳があるからである。意義はここにある。四大声聞が理解した告白に、無上の宝聚が求めていないのに自ら得られて、「実相」の「智慧」の中に安住できたとあるのは、みな「半字」と「満字」が互いに成就するからである。意義はここにある。

 

E.5.4.「合不合」を明らかにする

「半満五味」はすでに共通してあらゆる経典にあるが、その内容は同じではない。そのため、ここでその「開合」について述べる(注:ここでは「開」と「合」を別々の概念として述べられているところがあるので、その場合、「開」は「開く」とし、「合」は「統合」と表現する)。

華厳経』は、正しく小乗を隔てて大乗を明らかにする。その最初の部分においてはずっと声聞がいない。後の部分にはいる。また、聴衆の座にいるとはいっても、耳の聞こえず口がきけない人のようであり、教えを聞いているとはいえない。その時は、なおまだ「半字」はないのである。どうして「開合」を論じられようか。

次に、「三乗」を開いて小乗の能力の者を導き、「見思惑」を断じさせる。すなわち小乗をもって大乗を隔てる。すでに「満字」はないので、どうして統合すべきところがあろうか。このために『無量義経』に「三乗の三法、声聞の四果、漸教と頓教はそれぞれ別々である」とある。「別々である」とは統合されていないことである。

「方等教」は、あるものは「半字」と「満字」を並べて明らかにし、あるものは「満字」をもって「半字」を非難し、「半字」を受けて「満字」として聞く。小乗を恥じることを知るといっても、なお大乗に入ることはない。このために「草庵に住む」という。劣った心はなお改めることができないので、「半字」と「満字」は統合しない。

般若経』は、「満字」をもって「半字」を淘汰し、家業を継がせるようなものである。「半字」の「方便」は共通して「無生法忍」に入り、「半字」の法門はみな大乗であると明らかにする。これは教えを統合することである。しかし、一回の食事の分でさえ自分のものと思わないという喩えは、その人を統合していないことである。このために「半字」と「満字」は「開合」しない。

もし『法華経』に至るならば、「方便」として仮に作られた町を、真実ではないという。「あなたたちの修行するところは、菩薩の道である」という。すなわちこれは法を統合することである。「あなたたちは私の子である」という。すなわちこれは人を統合する。人と法と共に「開合」するのである。

鹿野苑に「権」の「方便」を開いてから、あらゆる経典を経て『法華経』に至って、初めて「権」は「実」に統合することができるのである。このために『無量義経』に「四十年あまり、まだ真実を顕わさない」とある。もし『法華経』においてまた「開合」しないならば、『涅槃経』において「開合」することができる。『法性論』に中と下の二種の能力の者が法界に入ることを明らかにしているのは、すなわち菩薩を統合することである。

もし声聞の統合について述べるならば、二つあり、一つは「秘密の統合」であり、二つは「顕露の統合」である。

「秘密の統合」とは次の通りである。仏は最初、提謂のために五戒の法を説く。その時、すでに密かに「無生法忍」を悟る者がいる。ましてや「修多羅」「方等教」『般若経』において、密かに悟らない者がいないことがあろうか。このことについては、詳しく述べない。

次に「顕露の統合」とは次の通りである。「見道」以前の「位」の声聞は、ところどころ統合することができる。たとえば、『般若経』において、三百人の比丘が「授記」を得るようなものである。もし「四果」の「位」の声聞ならば、『法華経』に至って深く信じて統合する。もし統合しなければ、増上慢である。まだ「見道」の「位」に入らない五千人の者は、『法華経』の聴衆として選ばれずに立ち去ったが、『涅槃経』の中において、また統合することができる。

総合して、あらゆる教えについて共通して「四句」を述べれば、『華厳経』と「三蔵教」は、統合でもなければ統合でないこともない。「方等教」『般若経』は、まったく統合しない。『法華経』は、すべて統合する。『涅槃経』は、統合し、また統合しない。なぜなら、『涅槃経』は末代のために、さらにあらゆる「権」を開いて、後の代の能力の劣った者たちを導く。このためにまた統合しないという。

問う:菩薩が『法華経』によって法界に入ることは、『華厳経』と同じである。しかし、『華厳経』によって「一乗」に入って、『法華経』と統合することがないのはなぜか。

答える:『華厳経』によって法界に入ることは、すなわち「一乗」に入ることである。