大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 162

『法華玄義』現代語訳 162

 

〇蓮華をもって行妙を喩える

蓮華の種は小さいといっても、その中に根、茎、花、葉が備わっていることは「行妙」を喩える。茎は「慈悲」、葉は「智慧」、しべは「三昧」、花が開くことは「解脱」である。また葉は三つの「慈悲」を喩えるが、まず、水を覆う青葉は、衆生の縁の「慈悲」を喩え、水を覆う黄色い葉は、法の縁の「慈悲」を喩え、丸まった葉は無縁の「慈悲」を喩える。つぼみが出てくれば、間もなく花が開くことである。無縁の「慈悲」が成就すれば、間もなく「授記」を得る。また、根、花、種、葉が、人や蜂に「利益」を与えることは、「檀波羅蜜」である。香気は「尸波羅蜜」である。泥から生まれることを恥じないのは「忍波羅蜜」である。成長することは「精進波羅蜜」である。柔らかく湿気を持つことは「禅定波羅蜜」である。汚れが付かないことは「慧波羅蜜」である。このように「行妙」を喩えるのである。

 

〇蓮華をもって位妙を喩える

蓮華は「理即」の「位」を喩える。芽が種の皮を破ることは、「麁住」の「位」(欲界における数息観の第一であり、音の出る息や、あえぐ息や、乱れる息を「麁」であると知る段階)であり、芽がその皮を出ることは、「細住」の「位」(欲界における数息観の第二であり、息が「麁」の状態になったことを知れば、すぐに整えて微細にする段階)であり、芽が泥を分かつことは「欲定」の「位」(欲界における数息観の第三であり、息の長短を知る段階)であり、芽が泥に留まることは「未到」の「位」(数息観の第四であり、息が体全体に行き渡ることを知る段階)であり、芽が泥を出て水の中にあるのは「四禅」の「位」(欲界を離れた色界の禅定)である。「禅定」は水のようであり、よく「欲界」の塵を洗う。水にあって成長することは、「無色界」の「位」を喩える。これによって「観行即」の蓮華の「位」を喩える。水を出ることは、「見思惑」を破ることを喩え、「相似即」の蓮華は「十信」の「位」である。虚空にあって花が開こうとすることは、「十住」の「位」を喩える。しべの台が生じることは「十行」の「位」を喩える。太陽に応じて花が開き始めることは、「十廻向」の「位」を喩え、花が開き終えて蝶や蜂が来ることは「十地」の「位」を喩え、しべや葉が落ちてしべの台だけがひとつ残ることは、あらゆる行が休息し、「妙覚」の「位」が円満し、「仏果」が確立され、真実に常であり安定していることを喩える。これはみな「位妙」を喩えることである。

 

〇蓮華をもって三法妙を喩える

蓮華が「色」「香」「味」「触」の「四微」の対象となることは「真性軌」を喩え、種の房の中と茎や蓮根の中が空洞であることは「観照軌」を喩え、花托に囲まれていることは「資成軌」を喩える。これは三法妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって感応妙を喩える

蓮華が開いて虚空にあり、影が清らな水に映ることは、「顕機顕応」を喩え、影が濁った水に映ることは、「冥機冥応」を喩え、影が波風の立った水に映ることは、「亦冥亦顕」を喩える。『涅槃経』に「闇の中の樹の影」とある。夜の影が水に映ることは、「非冥非顕」の「機」と「応」を喩える。これは感応妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって神通妙を喩える

風が蓮華を揺るがし、東に上がり西に倒れ、南に向かい、北の水に映り、下の風には花は閉じ、上の風には開くならば、すなわちこれは大地の震動を表わすことである。これは「地動瑞」の「神通」を喩える。日が暮れて花が閉じることは「入定瑞」の「神通」を喩え、陽が出て花が開くことは「説法瑞」の「神通」を喩える。遠くから見れば赤く、近くから見れば白く、赤い花、青い葉が互いに映り合い、輝きを放つことは「放光瑞」の「神通」を喩える。香気が野に広く渡ることは「栴檀風瑞」の「神通」を喩え、花粉が広がることは「天雨華瑞」の「神通」を喩え、風が吹き雨が降り、蓮に打ち当たることは、「天鼓自然鳴瑞(てんくじねんみょうずい)」の「神通」を喩える。これらはみな「神通妙」を喩えるのである。

 

〇蓮華をもって説法妙を喩える

花が閉じて開かないのは、「一乗」を隠して分別して「三乗」と説くことを喩える。各葉が正しく開くことは、「会三帰一」して、ただ「一乗」を説くのみのことを喩える。花が落ちて実があることは、教えを絶して理法が深い次元で一致することを喩える。如来は常に説法するわけではなく、さまざまな方法で真理を表わすということを知ることは、「多聞(たもん)」と名付ける。これらは「説法妙」を喩えるのだえる。

 

〇蓮華をもって眷属妙を喩える

片隅の一辺より一つの花が生じ、次々とまた無量の蓮華を生じることは、「業生」の「眷属妙」を喩える。一つの蓮華の房より種を泥の中に落とし、さらに蓮華が生じ、次々にまた無量の蓮華が生じることは、「神通」の「眷属妙」を喩える。掘って蓮根を移し、種を取って他の池に植えると、蓮華が盛んになることは、「願生」の「眷属妙」を喩える。他の池から、かげろうや薄い霧のように飛んで来て、この池に入って蓮華が盛んになることは、「応生」の「眷属妙」を喩える。

 

〇蓮華をもって功徳利益妙を喩える

魚が蓮華の下に集まって呼吸し、蜂や蝶が蓮華の上に集まることは、衆生の「果報」の「清涼」の「妙」なる「利益」を喩える。蓮華を見る者が喜ぶことは「因」の「利益」を喩え、蓮華の葉を取って用いることは、三種の薬草の「利益」を喩え、蓮華の花を取って用いることは、「妙」なる「小樹」の「利益」を喩え、蓮華の種を取って用いることは、「妙」なる「大樹」の「利益」を喩え、蓮根を取って用いることは、「妙」なる「実事」の「利益」を喩える。これらは「功徳利益妙」を喩えるのである。

以上の喩え、および無量の譬喩は、「迹門」の中の「十妙」を喩えるのである。

 

〇蓮華をもって本門を喩える

たとえば、一つの池に蓮華が最初に熟し、熟し終わって種が泥水の中に落ちて、また生長し、さらに成熟し、このように何度も成熟を繰り返し、歳月が流れて、ついに大きい池に遍く田のように蓮華が敷きつめられるようなものである。仏もまたこのようである。「本初」に「因」を修し、「果」を証することはすでに終わっている。衆生のために、さらに「方便」を起こし、生死の中にあって、初めての発心を示し、また究竟を示す。このように数々の生滅を繰り返すことは、無数百千である。「本地」から「応」を垂れ、下に対して凡俗に同化して、さらに次の「五行(①~⑤)」を修す。蓮華が更に茎と葉を生じさせることは、①「聖行」を修することを喩える。「色・声・香・味」の対象としての蓮の種が少しずつ成長することは、②「天行」を修することを喩える。丸まった葉が初めて生じることは、③「梵行」を修することを喩える。蓮の種が泥に落ちることは、諸悪に同化して④「病行」を修することを喩える。蓮華の芽の初めて萌え出ることは、「小善」に同化して⑤「嬰児行」を修することを喩える。このように、「三世」に衆生に「利益」を与えることは計り知れない。「法界」に遍満して、「分身」、「垂迹」、「開迹」、「廃迹」などの「利益」でないことはない。

もし蓮華でなければ、何によって遍くこのようなあらゆる事柄を喩えることができようか。「法」についての喩えを並べて表現するために、「妙法蓮華」と称するのである。

 

(注:以上、蓮華の譬喩について見てきたが、全体を通して、かなりの当てこすりと思わざるを得ない内容である。しかしそれはともかく、そのような論述を通して、「迹門」と「本門」の「十妙」の論述パターンが再び繰り返されているところが興味深い)。

法華玄義 現代語訳 161

『法華玄義』現代語訳 161

 

〇蓮華をもって十如是の境を喩える(①~⑩)

①たとえば、硬い蓮の実のようである。黒いことは染めがたいことを意味し、硬ければ壊れにくい。四角でもなく丸くもなく、生まれもせず滅びもせず、「劫初」には種もないために生じることがなく、今も初めと異ならないために滅びない。これが蓮の種の相と名付ける。すべての衆生の「自性」の清浄である心もまたこのようである。外からの煩悩に染まることがない。生死が積み重なっても、「心性」は留まることはなく、動かず、生じることなく、滅びることがない。すなわちこれは「仏界」の「如是相」である。『維摩経』に「すべての衆生はすなわち菩提の相である」とあるのは、この意義である。

②たとえば、蓮の種が、黒い皮や泥の中にあっても、その中心の白い肉は変わらないようなものである。すべての衆生の「了因」の「智慧」も、またこのようである。「五住地惑」の泥、生死の「果報」があっても、「一切智」の願はなお失われることはない。これは「仏界」の「如是性」の相と名付ける。このために「煩悩はすなわち菩提」という。また『大智度論』に「諸法は不生であるが、般若は生じる」とあるのは、この意義である。

③たとえば、蓮の種が泥の中にあっても、「色」「香」「味」「触」の「四微(しび・微は妙の意味と同じ。対象を認識することも、妙を認識することという深い洞察から来る言葉。また、人の認識の種類として、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(しょく)の五境(ごきょう)があげられるが、蓮華を認識する場合、声はないとして、この四つを挙げられている)の対象となることには変わりないことを、蓮の種の本体とするようなものである。すべての衆生の「正因仏性」も、またこれと同じである。「常・楽・我・浄」が不動不壊であることを、「仏界」の「如是体」と名付ける。『涅槃経』に「この薬草の薬の味は真実であって、山に生えている。草木叢林も覆い隠すことはできない」と記されていることは、この意義である。

④たとえば、蓮の種が皮の殻に覆われていて、泥の中にあるとしても、やがて花を咲かせようとする意志があって、成長の気があるようなものである。すべての衆生の心も、またこのようである。「苦果」に縛られ、執着に沈められているとはいっても、その中で悟りを求める心は大いに勇猛である。獅子の出す乳のようであり、その体の筋のようである。これを「仏界」の「如是力」と名付ける。ある経典に「もし菩提心を起こせば、無辺の生死を動揺させ、無始の有の輪を破る。閻浮提の人はまだ果を見ることができないが、よく勇猛に発心する」とある。

⑤たとえば、蓮の種は小さいとはいえ、黒い皮の中に、明らかに根、茎、花、葉、しべ、花托(かたく・蓮の種が収まっている蜂の巣のような部位)がすべて収まっているようなものである。これは蓮の種の「如是作」と名付ける。すべての衆生が初めて菩提心を起こすことはこのようなものである。明らかに理解し決心し、「慈悲」「四弘誓願」をもって上に求め下を教化し、誓って成就を取り、志が疲労しない。これを「仏界」の「如是作」と名付ける。『華首経』に「すべてのあらゆる功徳は、みな初めの菩提心の中にある」とあるのは、この意義である。

⑥たとえば、蓮根は泥の中にあっても、花は虚空にあり、風に揺れ陽に照らされ、昼夜に増長し、栄養も足りる。すべての衆生もまたこのようである。「無明」の中から菩提心を発し、菩薩の行を修し、生死を離れて「法性」の中に入る。「因」としての修行が成就し、太陽のような仏に会って、神通力の風を被り、この心は念々に「薩婆若海(さつばにゃかい・一切種智の広大なさまを海に喩えた古代インド語の音写語)」に入る。これを「仏界」の「如是因」と名付ける。ある経典に「無量劫において得る功徳は、五つの茎の蓮華をもって然燈仏に捧げて得た功徳が多いことには及ばない。これは真の因の成就である」とあるのは、この意義である。

⑦たとえば、蓮華がしべに囲まれて、花の中や外に出ているようなものである。これを蓮華の「如是縁」と名付ける。菩薩もまたこのようである。真の「因」の中において、すべての修行や六波羅蜜を具足する。一つの行はすべての行であり、「因」を助けることは、しべが花の中にあるようなものである。「果」を得る時は、あらゆる行が終息することは、しべが花の外にあるようなものである。これを「仏界」の「如是縁」と名付ける。『法華経』に「諸仏のあらゆる道法を行じる」とあるのは、この意義である。

⑧たとえば、蓮華の花が開いて実を結び、その後、葉も花びらも落ちて、花托が残るようなものである。これを蓮の種の「如是果」と名付ける。菩薩もまたこのようである。真の「因」の感じるところの無上菩提の大いなる「果」が円満し、究竟して実を結ぶ。これを「仏界」の「如是果」と名付ける。このために『法華経』に「仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏となることができる」とあるのは、この意義である。

⑨たとえば、蓮の実が花托に囲まれているようなものである。これを蓮の種の「如是報」と名付ける。菩薩もまた同じである。大いなる「果」が円満し、無上の報いが満たされる。「習果」の「果」は、「報果」によることは、実が花托によるようなものである。『法華経』に「このような大果報は、長く修行をして得るところである」とあるのは、この意義である。

⑩たとえば、「色」「香」「味」「触」の「四微」の対象となる泥の中の蓮と、同じく「四微」の対象となる虚空にある蓮と、最初と最後が異ならないようなものである。これを蓮の種の「本末等」と名付ける。すべての衆生もまた同じである。「本有」の「常・楽・我・浄」の「四徳」が隠されていることを「如来蔵」と名付け、修行の結果の「四徳」が顕われることを「法身」と名付ける。「性徳(=如来蔵)」と「修徳(=法身)」の「常・楽・我・浄」は、一つであって二つではない。これを「仏界」の「十如」の「本末究竟等」と名付ける。『首楞厳経』に「衆生の如と仏の如は一如であって二如ではない」というのは、この意義である。

以上で、蓮華を用いて「十如」の「境」を喩えることを終わる。

 

〇蓮華をもって境妙を喩える(①~⑥)

①十二因縁を喩える

蓮の種が黒い皮と泥と水草などで覆われていることは、共通して上に説く通りである。すなわちこれは、「十二因縁」の最初の「無明」の種のことである。よく生じる力は「行」である。中に花やしべが巻かれるようにして備わっていることは「識・名色・六処・触・受」である。種にすでに潤いがあるのは「愛・取・有」である。種が丸く閉じているために出ることができないのは、「老死」である。よく芽が萌え出て黒い皮を切り裂くことは、「無明」の滅である。また黒い皮の中にあって生じないことは、「諸行」の滅である。黒い皮の外に出るのは、「老死」の滅である。これは概略的に「蔵・通・別・円」の「四種」の「十二因縁」を喩えることである。

四諦を喩える

黒い皮は「界内」の「苦諦」を喩え、白い肉は「界内」の「集諦」を喩え、泥は「界外」の「集諦」を喩え、水は「界外」の「苦諦」を喩える。「道諦」と「滅諦」はわかるであろう。これは共通して「四種」の「四諦」を喩えることである。

③二諦を喩える

蓮根や茎や葉などは「俗諦」を喩え、蓮根や茎や葉などの中は空洞であることは、「真諦」を喩える。これは共通して「蔵教・通教・別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教」の「七種」の「二諦」を喩えることである。

④三諦を喩える

「真諦」と「俗諦」は上に述べた通りである。蓮華が「四微」の対象となることは「常・楽・我・浄」に対応し、「中道第一義諦」を喩える。これは共通して「別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教」の「五種」の「三諦」を喩えることである。

⑤一実諦を喩える

蓮華が「四微」の対象となり、無生無滅であることは、「一実諦」を喩える。

⑥無諦を喩える

「劫初」に蓮華の生なく、今に蓮華の滅がないことは、「無諦」の「無説」を喩える。

以上、蓮華を用いて「境妙」を喩えることを終わる。次に残りの「九妙」を喩える。

 

〇蓮華をもって智妙を喩える

蓮華の内に「生性(しょうしょう・生じる本性)があることは「智妙」を喩え、これから生じる部位が巻かれて備わり、それらに「生性」があることは「空」の「智妙」を喩え、しべや葉の「生性」は「仮」の「智妙」を喩え、「四微」の対象となる花托の「生性」は「中」の「智妙」を喩える。この三つの「生性」は、「一心三智」の「妙」を喩えるのである。

法華玄義 現代語訳 160

『法華玄義』現代語訳 160

 

A.4.2.c.④正しく解釈する

もし『大集経』によるならば、修行の法の「因果」を蓮華とし、菩薩が蓮華の上に坐ることは、「因」の花、仏の蓮華を礼拝することは、「果」の花である。もし『法華論』によるならば、その住む所の国土を蓮華とする。また菩薩が蓮華の行を修することにより、その報いによって蓮華の国土を得る。まさに知るべきである。国土とそこに住む者の「因果」はすべて蓮華の法である。どうして譬喩が必要であろうか。能力の低い者に、「法性」の蓮華を理解させるために、この世の花を用いて喩えとすることにおいても、妨げはない。

しかし、『法華経』の中の二か所に「優曇鉢華(うどんはつげ・三千年に一度だけ咲く花)が一度だけ現われるのみ」とある。この花はもし生じれば、転輪聖王が世に出る。この『法華経』を説くならば、仏は「授記」を授ける。法の王は世間の王である。この霊瑞の花は、蓮華に似ているために、喩えとしている。この意義に従えば、これは喩えをもって「妙法」を表わしている。

譬喩には、部分的な譬喩と全体的な譬喩がある。『涅槃経』の通りである。ただ部分的な譬喩は、まるで月をもって顔を喩えても、眉毛や目は表現できないようなものである。雪山をもって象を喩えても、その尾や牙は表現できないようなものである。この「法華三昧」は、喩えとするものがないが、ただこの蓮華を喩えとするだけである。

花には多種ある。すでに前に説いた通りである。ただこの蓮華だけが、花と実が共に多い。「因」に万の修行があり、「果」に万の完全な徳があることに喩えられる。このために喩えとする。

また他の花は「麁」であり、「九法界」の「十如是」の「因果」を喩える。この花は「妙」であり、「仏法界」の「十如」の「因果」を喩える。

〇二門六譬

(注:これ以降の長い記述には、特に段落が設けられていない。しかし内容はいくつかの段落に分けられる。そのため、原文にはないが適宜に段落と見出しをつけながら進めて行く)

またこの蓮華の花をもって「仏法界」の「迹門」と「本門」(注:二門)を喩えれば、それぞれに三つの譬喩(注:合計六つの譬喩)がある。

「迹門」の三つの譬喩とは、次の通りである。

一つめは、花があれば必ず実がある。実のための花であるので、実は外からは見えない。これは、「実(じつ)」について「権」を明らかにすることであり、その意義は「実」にある。「権」は見えて、「実」を知る者がいないことに喩える。『法華経』に「私の意は測ることが難しく、問いを発する者もいない」とある。また「適宜に説く内容の意趣は理解することが難しい」とある。

二つめは、花が開くと実が現われる。しかも、花を用いて実を養う。「権」の中に「実」があっても、知ることができないことを喩える。今、「開権顕実」するに際して、その意義において「権」が用いられる。広く大河の砂の数ほどの仏法を知ることは、ただ「実」を成就させ、深く仏の「知見」を知らせるためのみである。

三つめは、花が落ちて実が成ることは、すなわち「三乗」を排除して「一乗」を顕わすことを喩える。「ただ一仏乗をもって直ちに道場に至る」とある。菩薩は修行があるので、見ることは明瞭ではない。しかし諸仏は修行はないので、見ることは明瞭である。たとえば、花が落ちて実がなるようなものである。

以上の三つは、「迹門」の最初の「方便」から導いて「大乗」に入り、最終的に円満することを喩えている。

また、三つの譬喩をもって「本門」を喩えるのは次の通りである。

一つめは、花に必ず実があるのは、「迹」に必ず「本」があり、「迹」に「本」が含まれることを喩える。その意義は「本」にあるといっても、仏の趣旨は知ることが難しい。弥勒菩薩も知ることができない。

二つめは、花が開いて実が現われるのは、「開迹顕本」を喩える。その意義は「迹」にある。よく菩薩に仏の「方便」を知らせる。すでに「迹」を知り終われば、かえって「本」を知り、生死を減らして仏道を進める。

三つめは、花が落ちて実が成るのは、「廃迹顕本」を喩える。すでに「本」を知り終えれば、また「迹」に迷うことはない。ただ「法身」において道を修し、さらに上の「位」を円満するのである。

この三つの譬喩は、「本門」の始めの「初開」より終りの「本地」に至ることを喩える。

この「二門六譬」は、それぞれさらに当てはまるものがある。

始めの「迹門」の一つめの譬喩は、「仏界」の「十如」より「九界」の「十如」を出すことについてである。次の「迹門」の二つめの譬喩は、「九界」の「十如」を開いて、「仏界」の「十如」を顕わす。「迹門」の三つめの譬喩は、「九界」の「十如」を排除して、「仏界」の「十如」を成就する。この三つの譬喩は「迹門」の最初から最後までを収め尽くす。もしこの意義を知れば、「十二因縁」「四諦」「三諦」など、「智妙」「行妙」「位妙」から始まって「功徳利益妙」までも、またこの譬喩を用いて喩えることができる。

「本門」の一つめの譬喩は、「本門」の「仏界」の「十如」から、「迹門」の中の「仏界」の「十如」を出すことについてである。「本門」の二つめの譬喩は、「迹門」の中の「仏界」の「十如」を開いて、「本門」の中の「仏界」の「十如」を顕わし出すことである。「本門」の三つめの譬喩は、「迹門」の中の「仏界」の「十如」を排除して、「本門」の中の「仏界」の「十如」を成就することである。最初から最後まで円満して、「開合」が具足する。以上が部分的に蓮華を用いて喩えとすることである。

次に、総合的な譬喩とは、次の通りである。『大智度論』に「獅子吼(ししく・仏の説法が獅子が吠えるように力強いこと)」の意義を理解するにあたって、深山の谷に住む純粋な血統から成長し、身力、手足、爪牙、頭尾、吠える声などの喩えをもって、「獅子吼」の法門を喩える。また『涅槃経』に「波利質多樹(はりしったじゅ・赤い花をつける樹木)」の黄色い葉と、尖った箇所と、斑点、果実などによって、広く修行者を喩えているようなものである。蓮華も同様である。最初の種子から実が成るまで、「妙法」を喩える。たとえば、堅くなった蓮の実の黒い皮の中に白い肉がある。「色」「香」「味」「触」によって知られ、開花する時になって、細かな部位がある。花を開きしべを敷き、蓮の実の房ができるが、最初と最後は異なることはない。蓮華の最初と最後は、「十如是」が具足していることを表わす。「仏界」の衆生は始めの「無明」から終わりの「仏果」に至るまで、「十如是」の法に欠けたところがないことを喩える。以上、総合的に喩えることを終わる。

法華玄義 現代語訳 159

『法華玄義』現代語訳 159

 

A.釈名

A.4.正しく解釈する

A.4.2.詳細に説き明かす

A.4.2.c.蓮華について述べる

 

蓮華について述べるにあたって、四つの項目を立てる。①「法譬」を定める。②「旧釈」を引用する。③「経論」を引用する。④正しく解釈する。

 

A.4.2.c.①法譬を定める

「権実」は顕われにくいので、蓮華に喩えて「妙法」を述べるのである。また『法華経』自体に、七つの大きな喩えがあるように、経題においても喩えを用いるのである。

また、蓮華について解釈して、「蓮華は喩えではなく、そのものである」という。たとえば、「劫初(こうしょ・すべての始まり)」には万物には名はなく、聖人が理法を感じて、その法則に準じて名称を作ったようなものである。また蜘蛛が巣の糸を引くのに習って網を作り、野を転がる蓬(ほう・砂地に生える植物。秋には枯れて野を転がることにより増えていく)を見て車を作り、浮いている筏を見て船を作り、鳥の足跡を見て文字を作るようなものであり、みな理法に則って事象を制定するのである。

今、蓮華の名称は、喩えによるのではない。すなわちこれは『法華』の法門である。『法華』の法門は、清浄であり「因果」が微妙であるので、この法門を蓮華と名付ける。すなわちこれは「法華三昧」そのものの名称であり、譬喩ではない。他の経典には多く自ら名称を解釈するが、この『法華経』は解釈する必要はない。あるいはその解釈の文書が中国に渡っていないのみである。そしてこの譬喩か譬喩でないかの二つの解釈にはいずれも道理がある。今、この二つの解釈をまとめることにする。

問う:蓮華は「法華三昧」の蓮華であるのか。あるいは、植物の蓮華であるのか。

答える:これは法の蓮華である。法の蓮華は理解することが難しいので、植物の蓮華に喩えるのである。能力の高い者は名称をもって理法を理解するので、譬喩を必要としない。ただ法の華の理解をするのみである。能力が中、下の者は、悟ることができないので、喩えを用いて知るのである。理解しやすい蓮華をもって、理解するのが難しい蓮華を喩えるのである。このために、『法華経』では、「三周の説法(理法をそのまま説く法説、たとえを説く譬喩説、過去の因縁を説く宿世因縁説の三つ)」があって、能力の上、中、下の者に施すのである。能力の上の者に合わせれば、法の名となる。中と下の者に合わせれば、喩えの名となる。上中下を合わせて論じれば、「法譬」となる。このように理解すれば、誰と争う必要があろうか。今は、しばらく「法譬」によって解釈する。

 

A.4.2.c.②旧釈を引用する

僧叡の記した『法華経後序』に「まだ花が開かないものを屈摩羅(くつまら・古代インド語の音写で意味はつぼみ)と名付け、まさに落ちようとしているものを迦摩羅(かまら・青蓮華という意味)と名付け、その中間に盛んに咲いている時を分陀利(ふんだり・白蓮華と訳され、妙法蓮華経の経題に使用されている言葉)と名付ける」とある。

慧遠は「分陀利迦(ふんだりか)は蓮華が開いた譬喩である。しかし、見た目は時を追って変わり、名称は色に従って変わる。このために三つの名称がある」と言っている。『涅槃経』には「人の中の蓮華は分陀利華」とある。二つの名称を並べるのは、まさに通称と別称があるためである。ここでは、蓮華は通称、分陀利は別称と理解する。

道朗は「鮮やかな白色である。あるいは赤色と翻訳し、あるいは最香とする」と言っている。

このようなものはみな開いて最も盛んな時の意義である。分陀利はこれらを兼ねている。

問う:梵語の本は別称を挙げ、中国では通称を用いるのはなぜか。

答える:外国には三つの時の名称がある。中国にはそれはない。ただ通称を挙げることは、自ら別称を兼ねているのである。

その他、蓮華を解釈することに、十六の意義がある。

蓮華が縁(生育条件のこと)によって生じるのは、「仏性」の縁によって起ることを喩えている。

蓮華が梵天を生じさせることは、縁によって仏を生じることを喩える。

蓮華は必ず泥から生じるのは、『法華経』の理解はこの世の生死から起ることを喩える。

蓮華はめでたいものであり、見る者を喜ばすのは、『法華経』を見る者が成仏することを喩える。

蓮華は初めは小さくても、大きく成長するのは、『法華経』に記されている通り、仏に対する一礼一念も、それが仏になるきっかけになることを喩える。

蓮華が花と実が共にあるのは、『法華経』には「因果」が共にあることを喩える。

蓮華の花には必ず蓮の実があるのは、「因」が必ず仏となることを喩える。

蓮華は、人々が導かれて蓮華世界に入ることを喩える。

蓮華は仏の座となるのは、多くの聖者が蓮華によって生まれることを喩える。

以上の十種(注:実際は九種しかない)の譬喩はただ『法華経』の教えの「行妙」を喩える中の一部に過ぎない。

蓮華は泥から生じて、泥に染まらないのは、「一乗」は「三乗」の中にあって、「三乗」は「一乗」を染めないことを喩える。

蓮華は一日の内の三つの時にそれぞれ異なることは、「三乗」を開けば、ただ「一乗」であることを喩える。

蓮華が開閉することは、縁に対する目に見える結果と目に見えない結果があることを喩える。

蓮華はあらゆる花の中で最も優れているのは、『法華経』が経典の中の第一であることを喩える。

蓮華の花が開いて実が顕われるのは、『法華経』の巧みな説法により理法が顕われることを喩える。

蓮華は一日の内の三つの時にそれぞれ異なることは、「権実」の時にかなうことを喩える。

以上の六種の譬喩は、『法華経』の教えの「説法妙」の中の一部に過ぎない。

光宅寺法雲は次のように言っている。すなわち「他の花は、花と実が共になく、それは他の経典が偏って因果を明らかにしていることを喩える。この蓮華は、花と実が必ず共にある。これは、『法華経』において因果が共に述べられていることを喩える。弟子門(最初から安楽行品まで)は因を明らかにして、師門(従地涌出品から最後まで)には果を明らかにするために、蓮華をもって喩えとする」。

この解釈は、言葉は簡略であり、意義が偏っている。「迹門」においては、師も弟子も「因果」がある。『法華経』に「私は諸仏のあらゆる道法をすべて行じて、道場で悟りの果をえることができた」とある。すなわちこれは師の「因果」である。「会三帰一」はすなわち弟子の「因」である。「授記」を得て仏となるのは、すなわち弟子の「果」である。「本門」に「私は昔、菩薩の道を行じる時」とあるのは、すなわち師の「因」である。「私は仏となってから今まで、非常に長い歳月が経過している」というのは、すなわち師の「果」である。「私は昔、舎利弗に初発心を教えた」とあるのは、すなわち弟子の「因」である。「今、みな不退の位に住み、すべて仏となることを得るであろう」とあるのは、すなわち弟子の「果」である。法雲の義は偏っていて簡略なので、用いない。

ここで譬喩について補助的に述べるならば、ここで述べる蓮の花や実ということは、「色」「香」「味」「触」の対象となる実際の存在について述べるわけではないが、その実際の存在を用いて花を論じ実を論じるのである。今述べている「実相」の理法は、「本」と「迹」の「因果」を超越しているが、「本」と「迹」の「因果」を明らかにすることによって理法を論じるのである。また「色」「香」「味」「触」の対象は、「開合」するものではないが、その対象を用いて「開合」を論じる。「実相」は「権実」を超越しているが、「開権顕実」「発迹顕本」を論じることにより「実相」を明らかにするだけである。

 

A.4.2.c.③経論を引用する

『法華論』に十七の名称を連ねている。一に「無量義」、二に「最勝」、三に「大方等」、四に「教菩薩法」、五に「仏所護念」、六に「諸仏秘蔵」、七に「一切仏蔵」、八に「一切仏密字」、九に「生一切仏」、十に「一切仏道場」、十一に「一切仏所転法輪」、十二に「一切仏堅固舎利」、十三に「諸仏大巧方便」、十四に「説一乗」、十五に「第一義住」、十六に「妙法蓮華」、十七に「法門摂無量名字句身頻婆羅阿閦婆等」である。他の名前は解釈しない。ただ名称を連ねるだけである。

次に蓮華を解釈すれば、二つの意義がある。一つは水から出るという意義である。『法華経』は水に沈まず、小乗の泥の濁りの中から出るからである。またもう一つの意義がある。蓮華が泥水から出るのは、あらゆる声聞が如来の大衆の中に入って坐れば、あらゆる菩薩のように蓮華の上に坐ることに喩える。無上の「智慧」や清浄の「境界」を説くことを聞いて、如来の秘密の教えの蔵を証するからである。二つめに、花が開くことは、衆生は「大乗」の中において、心が弱く信じることができないので、如来の清浄であり「妙」である「法身」を開き示し、信心を生じさせるからである。

ここで『法華論』の意義を解釈すれば、もし衆生に清浄であり「妙」である「法身」を見せるとすれば、これは「妙因開発」することをもって蓮華とするのである。もし如来の大衆の中に入って蓮華の上に坐るとすれば、これは「妙報国土」をもって蓮華とするのである。なぜなら、廬舎那仏は、蓮華蔵海にあって大菩薩たちと共にいて、みな生死の人ではないからである。もし声聞がここに入ることができれば、すなわち、「妙報国土」をもって蓮華とするのである。その『法華論』を『法華経』の意義と比較すれば、これは「行妙」「位妙」の二つの「妙」に過ぎない。

『大集経』に「哀れみを茎として、智慧は葉、三昧をしべとし、解脱は開花を意味する。女王蜂のような菩薩は甘い蜜を食べる。私は今、仏の蓮華を礼拝する。また、戒・定・慧・陀羅尼をもって瓔珞とし、菩薩を荘厳する」とある。ここでこの経典を解釈すると、まさにこれは菩薩が「戒・定・慧・陀羅尼」の「四法」をとって仮の人を成就することは、蜂が花にいるように、また前の「四法」をもって自ら助けることは、蜂が花の蜜を食べるようなものである。

法華玄義 現代語訳 158

『法華玄義』現代語訳 158

 

第九.利益

「本門の十妙」の解釈における第九は、「利益」である。先に「生身(しょうしん・この世に現われた身)」の「利益」を明らかにし、次に「法身」の「利益」を明らかにする。「生身」は「迹門」と「本門」の両方に「利益」を得る。「迹門」に「会三帰一」し、「開権顕実」して、「生身」の菩薩が「利益」を得るのは、「十妙」の中において「境妙」「三法妙」「感応妙」「神通妙」「説法妙」の「五妙」の「利益」を得る。なぜならば、「境妙」はすべてに通じて、すべてを備えている。「三法妙」は個別的なもので究竟は仏にある。「感応妙」「神通妙」「説法妙」はみな「果」の上の「利益」である。もしまだ「果」を証せずにいれば、この「利益」に当てはまらない。

「六即」の「位」の中に置いては、「理即」「名字即」「分真即」「究竟即」の「四即」の「利益」を得る。「理即」と「究竟即」については前に説いた通りである。ただ「名字即」の中の「智妙」「行妙」「位妙」「眷属妙」「功徳妙」そして「分真即」の中の「智妙」「行妙」「位妙」「眷属妙」「功徳妙」を得るのみである。舎利弗が「授記」を得るようなものであり、また、僧侶、尼僧、男女の在家信者と天龍八部衆歓喜して、偈を説いて「大いなる智慧舎利弗。今、世尊の授記を受けることができた。私たちもまた同じである。みなまさに仏になることができるであろう」と言った。すなわちこれは「生身」の菩薩が、「迹門」の説法を聞いて「利益」を得る相である。

「本」を発して「迹」を顕わし、仏の寿命は長遠であると説けば、「観仏三昧」を大いに増長することができる。これにより、「生身」の菩薩は、「十妙」の中の「五妙」の「利益」を得る。「六即」の中の「四即」の「利益」を得る。生死を減らし、仏の道を増す。「二住」の「位」から「等覚」の「位」に至るまで、みなこれは「法身」であり、「十妙」の中の「五妙」の「利益」を得る。なぜであろうか。「応生」は「本地」の功徳を聞けば、「観仏三昧」がさらに深く広くなり、測ることができないほどとなる。前に述べた「迹門」の中の「利益」に比べることができない。なぜなら仏の「境」は非常に深ければ、功徳もまた大きい。このために『法華経』の「分別功徳品」に「仏は希有の教えを説く。昔から今まで、かつて聞いたことのないものである。世尊に大いなる力があり、寿命は測ることができない。法の利益を得ることができる者について説くと、歓喜が身に充満する。あるいは不退地に住み、あるいは陀羅尼を得る」とある。すなわちこれが、「生身」と「法身」の「二身」の「利益」を得る相である。

もし「実道」の「利益」を得ることを述べれば、「迹門」と「本門」は異なることはない。しかし、「権智」の事象的な働きは、比較することができない。たとえば、「慧解脱(えげだつ・知性的な理解のみの解脱という意味)」と「俱解脱(ぐげだつ・理性的次元のみならず具体的次元を伴った行を修して、具体的次元と理性的次元の煩悩を破ること)」の「無漏」は「不二」であるが、功徳の優劣はあるようなものである。前の「迹門」の「得道」は、ただ「無生法忍」に限り、「本門」の「得道」は、「等覚」の「位」に限り、塵の数ほどある。多少深浅など、どうして「迹門」と同じであろうか。まさにその文を選ぶべきである。発心のところによれば、すなわち「六根清浄」の「位」である。そしてこの「等覚」の「位」は、最後の「分真即」に相当する。

次に「流通(るつう・教えを広めること)」の「利益」を述べる。前に「迹門」を「流通」することは、あらゆる「誓願」を発する菩薩や「授記」を受けたあらゆる「阿羅漢」が、この国土や他の国土に『法華経』を広めるのである。その功徳を述べた文を見ると、ただ目に見えない「利益」を明らかにするのみであり、目に見える「利益」を説かない。今、「本門」について述べれば、すべての諸仏のあらゆる教えを委ね、兼ねて「迹門」の教えを得る。『法華経』の「神力品」に「秘奥の蔵(=秘要の蔵)」とあることは、すなわち「本門」と「迹門」の中の「実相」である。「一切甚深の事」とは、「本門」と「迹門」の中の「因果」である。このような教えを、千世界の塵の数ほどいる菩薩に委ね、「法身」の地に『法華経』を広める。これがどうして、「生身」のこの国土や他の国土に広めることと同じであろうか。「十法界」の身があらゆる国土に遊戯すれば、すなわち目に見える「利益」と目に見えない「利益」の両方がある。

疑う者は「法身は常に仏である。なぜ菩薩が広める必要があるのか」という。

ただこれを広めることが人によることであるならば、時間が必要であり、協力者が必要である。仏は世にいるとはいっても、『法華経』の「提婆達多品」にあるように、文殊菩薩が仏に代わって龍宮に入るようなものである。「法身」の場所に仏がいるといっても、外的な条件が必要である。このために、仏は教えを委ねるのである。舌を出し、頭をなでて、あらゆる形を通して、丁寧に委ね、この教えを広めさせ、無量の微妙の功徳を得る。これを聞く者の「妙」の「功徳」は数えることができない。このために経文に「もし仏が寿命を説くことを聞くことができれば、すべての者たちが歓喜し、無量の無漏の功徳の果報を得る」とあり、それはこの意義である。

 

第十.観心

「本門の十妙」の解釈における第十は、「観心」である。「本」の「妙」は長遠である。どうして心に観じることができようか。しかし、心そのものではないとしても、心を離れるものではない。なぜならば、仏の「如(にょ・真理は言葉に表現できないので、そのようなものだ、という意味の如という言葉で表現する)」と衆生の「如」は、「一如」であって「二如」ではない。仏はすでに心を観じて、この「本」の「如」を得ているので、「迹」の働きは広大であり、言葉で表現できない。私の「如」は仏の「如」の如くである。またまさに心を観じて、この大いなる「利益」を出すべきである。また願わくは、私の「如」は速やかに仏の「如」の如くになることを。このために、『法華経』に「仏の寿命について聞いて、よく信じ受け入れるならば、そのような人たちはこの経典を敬って受け、『私は未来において長く生き続け、人々を悟りに導こう』と。今日の世尊が、シャーキャ族の王として世に出て、道場において師子吼(ししく)し、教えを説くにあたって恐れるところがないように『私たちも未来世に、すべての人に尊敬せられ道場に座る時、このように寿命について説こう』と願うのだ」とある。これはすなわち「観心」の「本」の「妙」に、「六即」の「位」の「利益」を得る相である。

(注:実質的にはここで「本門の十妙」の内容は終わる。つまり「妙」の項目自体も終わるわけであるが、最後に「妙」と「大乗」の関係について問答方式の箇所がある)。

問う:「大乗」と「妙」の関係はどうか。

答える:これは『法華経』の中の三組の言葉の六つの句によって分別すべきである。経文に「仏は自ら大乗に住む」とある。また「このような大果報」とある。また「大車(大乗を喩えるもの)あり」と。しかし、『法華経』の経題は「妙」としている。また、『涅槃経』には「大般涅槃微妙の経典」とあって、この経題は「大」としている。「妙」に即して「大」、「大」に即して「妙」である。『大品般若経』に「五陰の色(しき)は深ではなく妙ではなく、(最後の)識は深ではなく妙ではない」とある。これは「大乗」の教理をもって「妙」を破っていることである。『法華経』には「すべての実在は空寂であり、無漏であり、無為であり、無大であり無小である」とある。これは「妙」が「大乗」の教理を破っていることである。「小乗」の大阿羅漢の者もなお「妙」を修す。「四諦」の「十六相」の「滅諦」の「滅・止・妙・離」においては、「妙」はなお「大乗」の教理を修す。

問う:もし「大乗」と「妙」が一つであり等しければ、他の大乗経典もまさに「妙」と呼ぶべきではないか。

答える:他の大乗経典は共通して「大乗」の教理を述べるものである。理法的に述べれば、「大乗」の教理と「妙」は異ならない。しかし、個別的には「方便」を帯びる。この『法華経』は「方便」を帯びることがないので、個別的に「妙」とする。そこには「小乗」も入ることができる。「発迹顕本」するために、個別的に「妙」とする。

問う:「大乗」と「小乗」が共に「妙」とすれば、「大乗」と「小乗」は共に「大乗」の教理である「常・楽・我・浄」の「常」を明らかにしているのか。

答える:一往はそうである。しかし、根本的には排除される。「小乗」の「滅・止・妙・離」は名称は同じく、「大乗」のそれとは理法が異なる。それは「常」を得ることができない。

問う:繰り返して言うが、それは「妙」ということができるのか。

答える:「妙」は不可思議という意味で名付けられる。「小乗」の「真諦」は、言葉をなくし、思慮を絶する。共通してこれも不思議とすることができるので、共通して「妙」とするのみである。このことは他のことにもすべて当てはまる。また「三無為(さんむい・この世における三つの常に変わらないものとされる三つ。虚空、悟り、縁がないために生じないものの三つを指す)」を「常」とするが、その意義は「大乗」の「常」とは異なる。

また問う:すでに共に「常」とすれば、また一つになるのか。

答える:あらゆる見解を合わせて同じく「真」に入るが、それは一つになることではない。

また問う:それは、共に「無常」であるのか。共に「麁」であるのか。共に一つにならないのか。

答える:比較すれば共通するが、意義は異なる。

問う:どうして「大乗」は「無常」なのか。

答える:「大乗」はただ「無常」がないだけではない。また「常」もない。「常」がないために「無常」という。

問う:どうして「大乗」は「麁」なのであるか。

答える:言葉で表現する限り、それらは「麁」である。

問う:どうして「大乗」の各教説は一つとならないのか。

答える:すべての実在はすべて仏の教えそのものであるので、どうして一つとなる必要があるのか。

法華玄義 現代語訳 157

『法華玄義』現代語訳 157

 

第六.料簡

「本門の十妙」の解釈における第六は、「料簡」である。過去現在未来の「三世」について考察する。『法華経』に「如来の自在な神通力と、如来の大いなる勢いと威厳の力と、如来の獅子奮迅の力」とあるのは、すなわちこれは「三世」にわたって衆生に「利益」を与えるという意味の文である。過去に最初に悟りを証するところの「権」と「実」の法を「本」と名付ける。「本」が証されて以降、「方便」をもって他を教化し、「開三顕一」「発迹顕本」することは、最初を指して「本」とするためである。中間の示現、「発迹顕本」もまた最初を指して「本」とするためである。今日における「発迹顕本」もまた、最初を指して「本」とするためである。未来の「発迹顕本」もまた、最初を指して「本」とするためである。「三世」は異なっているとはいえ、毘盧遮那仏の一つの「本」は異なっていない。百千の枝葉も同じ一つの根から生えているようなものである。

問う:現在見ることのできる無量の仏はすべて釈迦の分身である。なお他の仏があって、その他の仏にもまた分身があるのだろうか。

答える:『観普賢菩薩行法経』に「東の方角に仏がいて、善徳という。その仏にまた分身の諸仏がいる」とある。もしそうならば、また他の諸仏がいて、その諸仏にも分身がいる。また『法華経』の「神力品」に「仏が指を鳴らし咳払いすると、その二つの音は遍くあらゆる方角の諸仏の世界に至る。その仏の僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、遥か遠くからその仏を供養する。その散じた諸物はあらゆる方角から来たが、それはたとえば雲の集まるようであり、遍くその間の諸仏の上を覆った」とある。このために知る。諸仏がいて、その諸仏にも分身がいるということである。

問う:「三世」の諸仏にみな分身がいるならば、なぜ多宝如来は全身があるのみで分身せず、禅定に入っているような姿であると記されているのか。もし分身とならなければ、なぜあらゆる方角に遊戯し、『法華経』を証すというのか。この二つの意義はどうやって通じるのか。

答える:『大智度論』に「念仏」について解釈する中で、「多宝如来は、人から説法を請われることがないので、涅槃に入り、後に仏身と七宝の塔を化作して法華経を証す」とある。もしこの『大智度論』の解釈に従うならば、すなわち全身を化作したのである。分身がないのではない。南岳師は「もし説法はしないとするならば、なぜ僧侶や尼僧や男女の在家信者に、私の滅度の後に一つの大きな塔を立てよと告げたのか。全く説法をしなかったわけではない。まさに『法華経』は説かなかったということである」と言っている。このために大誓願を発して、生身の骨を砕かず、全身散らさずに、現われて「円教」を証するのである。「禅定に入っているような姿」とは、不滅を表わしているのであり、現われて常住の経典を証することは、偏っていないことを表わしている。不偏不滅であり、「円教」の常住の義が顕われている。「口に真実の清浄の大いなる法を語る」とある。「真実」とは常住である。ここには略して「常」「浄」の「二徳」を挙げる。他の「我」「楽」はわかるであろう。能力の劣った者は経文を読んでも、自分では悟れない。

問う:「三世」の諸仏はみな「本」を顕わすならば、釈迦の最初の「実成(じつじょう・釈迦が最初に悟った時を指す。『法華経』によれば、測ることのできないほどの昔であるとする)」についてどのように「本」を顕わすのか。

答える:諸仏も必ずしもすべて「本」は顕わさない。今、具体的なことを通して述べるならば、最初の「妙覚」は、「初住」の「位」を「本」とする。もし「初住」からさらに進んで「妙覚」の「位」に至るならば、やはり「初住」を「本」とする。「初住」の前の「位」には、時間の経過において指すものがない。空間の広がりにおいては、仏の本体の働きがあるので、どうしてそれが「本」でないことがあろうか。また「誓願」を発するために、寿命の長遠を説く。それは経文の通りである。

また、最初の仏は、長遠、昔と今、「権」と「実」などの「本」と「迹」を顕わすものがないといっても、本体の働き、教えと修行、理法の教え、理法と事象などの「本」と「迹」を顕わすことはある。またもし抽象的なことを通して述べるならば、最初に悟った仏は、すでに初めて「本」を得て、まだ「迹」を下していないわけであるから、遠い過去の「迹」も発することもなく、遠い過去の「本」を顕わすこともない。「久遠実成」の仏は、釈迦の例のように、東方を喩えとする。それより昔の場合は、四方を喩えとし、さらに昔の場合は、十方を喩えとする。これより近い過去は、釈迦の東方を除いた方角を喩えとし、全くないものについては喩えるものもない。

問う:もし「久遠実成」において、さらに昔の「本」を顕わすことがないならば、どうして『法華経』に、「これは私の方便である。諸仏もまた同様である」とあるのか。

答える:「久遠実成」に「本」がないとしても、「方便」を用いれば、仏に劫を延ばしたり縮めたりする「智慧」がある。七日を延ばして無量劫にするなどである。

問う:仏にもし「久遠実成」と「始成(しじょう・この世で仏となること)」があり、「迹」を発することと発しないことがあれば、また「開三顕一」をすることとしないことはあるのか。

答える:菩薩がもし声聞と共にいれば、「開三顕一」はある。もし菩薩だけだったら、どうして「開三顕一」の必要があろうか。

問う:もし「開三顕一」をしなければ、諸仏と釈迦仏、また「三世」の仏はどうなのか。答える:同じく声聞と菩薩が共にいるような「五濁(ごじょく・劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく)」の悪世であるならば、「開三顕一」をするが、浄土の仏はそれはない。

問う:「十麁」を破って「十妙」を顕わせば、すなわち「無明惑」が尽き、「一実」の理法が顕われる。今、さらに「迹」の「妙」を破って「麁」とし、「本」を顕わして「妙」とする。いったい何の煩悩を破って、何の理法を顕わすのか。

答える:「無明惑」の数はとても多い。「実相」の海は、深く無量である。このように破って「妙」を顕わすことに、誤りはない。

問う:もしそうならば、むしろ「妙」をもって「妙」を破ることになる。破る対象は「妙」であり、しかも「麁」である。またまさに「麁」をもって「麁」を破れば、破られるところの「麁」は、上の説によれば、「妙」ということにならないだろうか。破られるところの「四住(しじゅう・四住地惑のこと。三界の見思惑を指す。第一は見一切住地で、三界のすべての見惑のこと。第二は欲愛住地で、欲界のすべての思惑のこと。第三は色愛住地で、色界のすべての思惑のこと。第四は有愛住地で、無色界のすべての思惑のこと)」も、上の説によれば、「妙」ということにならないだろうか。

答える:「頓教」について意義を明らかにすれば、ただ「四住」はすなわち「妙」においてあるのみである。どうして「四住」を破る「智慧」は、「妙」でないことがあろうか。

また問う:もしそうであるならば、ただ「頓教」の意義あるのみで、まさに「漸教」の意義はないであろう。

答える:もし「漸教」と「頓教」を分けるならば、「漸教」の働きとその破る対象は共に「麁」であり、「頓教」の働きとその破る対象は共に「妙」である。

問う:中間に「偏」と「円」、「権」と「実」があっても、同じくこれを「権」とすれば、またまさに同じく「偏」とするべきであろうか。

答える:「通教」の意義においてはそうである。「別教」の意義においてはそうではない。「偏」と「円」は真理においてのことである。真理はすなわちすでに定まっているので、「偏」は「円」ではない。「円」は「偏」ではない。一方、「権」と「実」は教えにおいてのことである。「迹」の中で教えを設けることは、同じくみな「仮」であるために、「仮」において「権」を論じるのみである。

問う:すでに「麁」を帯びる「妙」がある。また「麁」を帯びない「妙」があれば、またまさに「妙」を帯びる「麁」、「妙」を帯びない「麁」があるであろう。

答える:これはまさに、次の四種である。「麁」を帯びる「妙」は、すなわち「別教」である。「麁」を帯びない「妙」は、すなわち「円教」である。「妙」を帯びる「麁」は、すなわち「通教」である。「妙」を帯びない「麁」は、すなわち「三蔵教」である。

また「麁」を帯びる「妙」は「通教」のようで、「麁」を帯びない「妙」は、すなわち「円教」のようであり、また、「麁」を帯びまた「麁」を帯びないのは「別教」のようであり、帯びるのではなく、帯びないのでもないのは「円入別教」のようであり、また「別入通教」と「円入通教」のようである。

また、「五味」の教えについて述べれば、「麁」であり「妙」を帯びないのは「酪味」の教えのようであり、「妙」であり「麁」を帯びないのは「醍醐味」の教えのようであり、また「麁」を帯びまた帯びないのは「生蘇味」と「熟蘇味」の教えのようであり、「麁」を帯びるのではなく、「麁」を帯びないのでもないのは「乳味」の教えのようである。

問う:二つの「麁」が同じでなければ、どうして同じく「麁」と呼ぶのか。

答える:事象に浅深の違いがあるために二つとし、共に「妙」の理法ではないので、同じく「麁」である。

問う:まさに「方便」を帯びる「実」と「方便」を帯びない「実」があることになる。

答える:前の例のように理解せよ。

問う:またまさに「二」を帯びる「一」、「二」を帯びない「一」があることになる。

答える:前の例のように理解せよ。共通して述べれば、「本」と「迹」はただ「権」と「実」であるのみである。個別的に述べれば、高低については「本」と「迹」を用いるべきである。空間的に「真」と「偽」を述べれば、「権」と「実」を用いるべきである。「本」と「迹」は仏の身体についてであり、「位」についてである。「権」と「実」は「智慧」についてであり、教えについてである。

問う:「本地」の「十妙」は、前に述べられた「昔」「今」「中間」「体用」「教行」「理教」の六種の「本」と「迹」について述べれば、どのように分けられるのか。

答える:「昔」「今」ではなく、「中間」ではなく、すなわち「体用」「教行」「理教」など、共に「十妙」を述べるのである。

 

第七.麁妙を論じる

「本門の十妙」の解釈における第七は、「麁妙を論じる」である。「迹」の中のすでに得た「十麁」を「麁」とし、「十妙」を「妙」とする。このように、まだ「十麁」を開いていないことを「麁」とし、「十麁」を開くことを「妙」とする。具体的には前に説く通りである。「迹」の中の「麁」に相対する「妙」と、「麁」を開く「妙」とは、同じく「本」の「妙」と異なることはない。しかし、今、初めて得たと言えば、初めて得るものを「麁」とするのだが、それは「本」の中に先に成就していたものである。あるいは、「麁」もしくは「妙」もしくは「麁」を開く「妙」も、また「迹」の「妙」に異なることはない。しかし、これは先に得たものである。先に得るものを「妙」とする。

また「迹」の中の事象と理法において、初めて得るものを「麁」とし、「本」の中の事象と理法において、先に得るものを「妙」とする。「迹」の中の「理教」「教行」「体用」「権実」もまたこのようである。

また、もしまだ「発迹顕本」をしなければ、ただ「迹」の中の事象と理法の「麁」と「妙」を解釈するのみであり、最後まで「本」の中の事象的な「麁」を理解することはできない。ましてや「本」の中の理法的な「妙」をどうして理解することができようか。弥勒菩薩ですら、達することができない。どうして他の人が達することができようか。

もし「迹」の中の事象と理法から、「本」の中の事象と理法を顕わせば、また「本」の中の事象と理法によって、「迹」の中の事象と理法を顕わすことを知る。「迹」はすでに「本」によるものであれば、すなわち「本」は「妙」であり、「迹」は「麁」である。すでに「本」と「迹」に異なりがあるために、「麁妙」という。「妙」の理法はすなわち「迹」ではなく「本」でもない。不思議な次元で一である。「理教」「教行」「体用」「権実」「昔と今」もまた同じである。

 

第八.権実を明らかにする

「本門の十妙」の解釈における第八は、「権実を明らかにする」である。「迹」の中の「十麁」の「境」を照らすことを「権」とし、「迹」の中の「十妙」の「境」を照らすことを「実」とする。そして、「中間三世(ちゅうげんさんぜ・本の昔から今に至る過去現在未来の期間を指す)」において照らすところの「十麁」の「境」を「権」とし、「十妙」の「境」を「実」とする。もしくは「権」もしくは「実」、これらはすべて「迹」である。「迹」であるために、「権」とする。このような中間に、無量さらに無量の不可説、一節一節に「権実」がある。『法華経』以外の経典には、中間の一つの「権」すらない。ましてや、一つの「実」があろうか。なお中間の一つの「権実」すらない。どうして無量の「権実」があろうか。なお中間の「権実」すらない。どうして「本地」の「権実」があろうか。中間の「権実」をみな「権」とし、「本初」に「十麁」「十妙」を照らすものをみな「実」とする。

「迹」の「権」、「本」の「実」は、共に不思議である。不思議はすなわち「法性」である。「法性」の理法は、古いことはなく今でもない。「本」でもなく「迹」でもない。「権」でなく「実」でない。ただこの「法性」において、「本迹」「権実」「麁妙」を論じるのみである。ただ世俗の文字に過去未来現在があるので、「菩提」にも過去未来現在あるというのではない。

また次に、「権実」を分別すれば、すなわち三種ある。「自行」「化他」「自行化他」をいう。具体的には「境妙」の中で説いた通りである。「本地」の「自行」をもって成就するところの「権実」の「二智」を、仏の「自行」の「権実」と名付ける。「本」から今まで、すなわち釈迦が説法した「鹿野苑」に至るまで、あらゆる「方便」は、「随他意語」である。この「二智」を説いて、何の妨げなく説法することを、仏の「化他」の「権実二智」と名付ける。「化他」に二種あるといっても、みな「権」とし、「自行」に二種あるといっても、みな「実」とする。これは「自行化他」に「権実」を説くことである。

また次に「迹」の中に「実」について「権」を述べれば、その意義は「実」にある。しかも「実」の意義は測ることは難しい。なぜなら、人々を休ませるために仮に化作した「化城」は「権」であるが、人は「実」であると思う。これは「権」を知らないことであり、また「実」を知らないことである。もし「廃権(はいごん・権を退けること)」して「実」を顕わせば、その意義は「権」にある。「権」はすなわち測り安い。なぜなら、すでに「化城」の出来事は仏の「施権(せごん・権を与えること)」だと知れば、すなわち遍く数えきれないほどの「仏法」に達し、久遠の劫の「方便」に通じる。このために『華厳経』の中に「阿鞞跋致(あびばっち・不退転ともいう。仏道修行を後戻りしない境地)のために、多くの事柄を明らかにする」とあることは、この意義である。もし「開権顕実」すれば、事象と理法に達し、「権」の意義は終結する。また「権」を離れて遠く「実」を求めるようなことはしない。「権」はすなわち「実」であれば、また別の「権」はない。このために「開権顕実」するというのである。

「迹」の中に「施権」「開権」「廃権」の三つの意義については以上の通りである。「迹」は「本」によって来る。「本」もまた同じである。「本」と「迹」は異なっているといっても、不思議な次元では一である。

法華玄義 現代語訳 156

『法華玄義』現代語訳 156

 

⑦本眷属妙

法華経』に「このあらゆる菩薩は、下方の空中に住む。彼らは私の子、私はすなわち父である」とある。「下方」とは、「下」を「底」とする。『大品般若経』に「諸法底三昧(しょほうていざんまい)」について記されている。『大智度論』に「智度の大道は、仏が底を究めたことである」とある。まさに知るべきである。このあらゆる菩薩たちは、仏の側にあって智度の底を究めたのである。「空中(=虚空)」とは、「法性虚空」の「寂光」のことである。「本時」の「寂光」は、空中から今の時の「寂光」の空中に出る(注:この時の『法華経』の場面は空中となっているため)。今の時の「寂光」の空中にいる者は、「本時」の者を知らない。このために「私は諸国に修行のために遊行したが、この中の一人も知らない」と言っている。この「地涌の菩薩」は、みな「本時」の「応生」の「眷属」である。

「本時」に「業生」「願生」「神通生」がないのは、非常に長い時間が経過しているので、「権」が「実」に転換しているからである。ただ「応生」のみあって、三つの「眷属」はない。あるいは、「応生」を挙げて、三つの「眷属」があることを知るべきである。「本」より「迹」が出て、「迹」の中に初めて成仏する時、また「業生」「願生」「神通生」「応生」がある。中間の教化するところにもこの四つの「眷属」がある。文殊菩薩、観世音菩薩、提婆達多などは、ある時は師と呼び、ある時は弟子と呼ぶ。迷う者にはまだ理解されない。

もし中間を「権」として排除すれば、「迹」でないものはない。すなわち「迹」と「本」は理解すべきである。もし「迹」に執着して「本」とすれば、二つの義が共に失う。

問う:「迹」と「本」を比べれば、「地涌の菩薩」の数よりも、「分別功徳品」に記されている道を進めた衆生の数の方が圧倒的に多い。「本」と「迹」の「法身」は、浅深の違いがあるのだろうか。

答える:「法身」はまず先に満了して、道を進めることもなく、煩悩を断じることもない。衆生を教化するにあたって、広狭の違いがあるのみである。

問う:もしそうならば「初住」「二住」の教化の対象に浅深多少の違いがある。「法身」の「応生」に浅深の違いはないことになるが、どうなのか。

答える:菩薩は「位」がまだ極まっていないので、「実」を証するにあたって、浅深を分別する。仏の「位」はすでに満了している。ただ「権」を教化するに際して、四句あって広狭を論じるだけである。

問う:「因果」などを明らかにするにあたって、みな「迹仏」に合わせて「本」を指す。しかし「眷属」を明らかにするにあたっては、「本」を召して「迹」に至るのはなぜか。

答える:「因果」などの法は、幽玄微妙(注:抽象的という意味)であり明らめることが難しい。このために、「迹」に合わせて「本」を表わす。「眷属」は人であるので(注:具体的という意味)、召して証することがたやすい。あるいは「本」の人をもって「迹」の人を示し、あるいは「迹」の法をもって「本」の法を表わすべきである。互いに意義を表わすのみである。

 

⑧本涅槃妙

法華経』に「この涅槃に入ることは、真実の滅度ではないが、まさに滅度に入ると言うのである」とある。「真実の滅度ではない」とは、変わらない「本寂」を指す。「まさに滅度に入ると言う」とは、衆生を調伏するためである。すべて「本時」の「涅槃」であり、「迹」の「涅槃」ではない。「迹」とは、『涅槃経』に「音声や映像によって成り立っているものは、あらゆる弟子から虫やサソリにいたるまでである。無辺身菩薩などの弟子の「位」の者は、身体が無辺である。どうして釈迦が死ぬ間際に背中が痛んだ、ということがあろうか」とある。これは、仏は生身(しょうしん)の病を示して滅度を示すが、「法身」には病などなく、常に存在して変わらない。あるいは、「析空観」における「因」が滅して、「果」が消されることを用いて「有余涅槃(ゆよねはん・まだ肉体が残っている状態での涅槃)」「無余涅槃(むよねはん・肉体も完全になくなった状態での涅槃)」の「涅槃」を明かすことである。

生身の「迹」が滅するとは、『阿含経』の中に記されている通りである。「業」によって生まれた身は、父母から生まれる。国を捨て、王を捨て、六年間苦行し、「三十四心」に「煩悩」を断じて成道した。八十二歳の老比丘の身、純陀(じゅんだ・個人の名)の家に至って、鉢をもって托鉢し食を請い、キノコと野菜の煮物を食べて、その後、説法した。「果報」の寿命はその夜に尽き、「無余涅槃」に入った。火をもって火葬し、舎利を集めるのは、「三蔵教」の仏の「涅槃」の相である。

また『大智度論』には「六地の位の菩薩は見思惑はすでに尽き、七地の位より以上は、他の者を助ける誓願のために、残った習気(じっけ・煩悩が残した余熱、惰性のようなもの)を用いて生死の身を受ける。そして、上界に生まれ、下界に生まれ、最後に一瞬の心における智慧によってその習気を断じて成仏する。教化すべき衆生の縁が尽きれば、教化をやめて無余涅槃に入る」とある。これは「通教」の仏の「涅槃」の相である。

地論宗」の人は次のように言っている。「意識的な修行によって無意識的に自然と行なわれる修行を起こす。菩提の果が満了して大涅槃を成就する。これを方便浄涅槃という」。また『涅槃経』に「この外界に存在すると思っている色(しき・五蘊=五陰の最初の「色」を指す)を滅ぼすことにより、真実の変わらない存在を得る。五蘊の残りの受、想、行、識もまた同じである。これを色解脱、受、想、行、識解脱という」とある。すなわち、これは、「分断生死(三界の中で繰り返される生死)」、「変易生死(三界の外にあっても自分の意志で生死を現わすこと)」の「因」が尽きて、常住の「有余涅槃」を得るのである。そして、二種の生死の「五蘊=五陰」の「果」の身が尽きて、常住の「無余涅槃」を得る。これは前の「三蔵教」と「通教」とは異なっている。これは「別教」の仏の「涅槃」の相である。

『涅槃経』に「大いなる涅槃は常住不変であり、あらゆる示現をもって衆生を調伏する」

とある。『首楞厳経』に詳しく説く通りである。「大涅槃常楽我浄」と名付ける。これは前の「三蔵教」と「通教」と「別教」とは異なっている。これは「円教」の仏の「涅槃」の相である。

『像法決疑経』には「今日の聴衆の座にいる数えることができないほどの多くの衆生は、それぞれ見る対象は異なっている。ある者は、如来が涅槃に入ることを見て、ある者は如来が世に住む期間が一劫または一劫に少し足りない期間だと見て、ある者は如来が世に住む期間が無量劫だと見て、ある者は丈六の身体だと見て、ある者は小さい身体、大きい身体と見て、ある者は報身の蓮華蔵世界海に坐して百千億の釈迦牟尼仏のために心地の法門を説くことを見て、ある者は法身が虚空と同じとなって分別することができず、無相無礙であり、遍く法界の虚空に同じだと見て、ある者はこの世の釈迦が入滅した沙羅双樹の林は単なる土砂草木石壁だと見て、ある者はその場所は金銀七宝によって清浄に荘厳されていると見て、ある者はその場所は三世の諸仏の遊ぶ所だと見て、ある者はその場所は不可思議な諸仏の境界の真実の法体だと見る」とある。これは仏身の国土と本体にそれぞれ「蔵教」「通教」「別教」「円教」の四つの相があることを明にしている。すなわち前に述べた四涅槃の相である。

『涅槃経』は『法華経』と説く意義は同じである。『涅槃経』は常住をもって経の主要とする。『涅槃経』の中で、迦葉菩薩が最初に長寿について質問したところ、仏の答えの中に、あらゆる場所に多くの未来の常住を顕わし、過去の寿命については少ししか明らかにしていない。『法華経』に過去の寿命についてはすでに説かれているためである。『涅槃経』は、過去に成就した寿命については少し説くけれども、それによって近い過去の寿命は短命だと判断してはならない。『法華経』は完全に「発迹顕本」を明らかにするのである。無量の寿命を主要な教えとするならば、未来の常住は少ししか説かない。数か所で未来の寿命について説くけれども、それが常住ではないと判断してはならない。この二経は互いに述べている。能力の高い者は、「本(=遠い過去)」の寿命は常住だとしれば、未来もまた常住だと知る。未来の長寿を理解すれば、また「本」の長寿を理解する。この義は同じである。また『法華経』に「しばしば生を現わし滅を現わす」とあるのは、生も実の生ではなく、滅も実の滅ではなく、それによって、常住の義が顕わされているのである。また二万の日月灯明仏や過去仏である迦葉仏は『涅槃経』は説かない。ただ『法華経』において、「本」の常住、未来の常住を明らかにするのみである。これによっても『法華経』は常住を明らかにする義を顕わしていると見ることができる。

「本」と「迹」と「中間」の三つの意義によって、あらゆる「涅槃」は「迹」であって「本」ではないことがわかる。初めて「涅槃」に入るために、入ってまたそこから出るからであり、中間を「権」として排除するからである。この「迹」の「涅槃」は、みな「本」から来ている。どうして「迹」に執着して、それを「本」というのだろうか。これは「迹」も「本」も知らないからである。もし「迹」を排除して「本」を顕わせば、この二つの意義に迷うことはない。「迹」ではなく「本」ではなく、不思議な次元では一つである。

 

⑨本寿命妙

前に説いた「因妙」の中には、「智慧」をもって命とする。これはすなわち長でもなく短でもなく、非長非短の「慧妙」によって、長短となる。この中に正しく長短の寿命を明らかにしている。『法華経』に「あらゆる場所に自らの名前の不同、年紀の大小を説く」とある。「年紀」とは寿命のことである。「大小」とは長短のことである。同じく『法華経』に「中間、あらゆる場所、年紀の大小」とあるのは、「迹」において、遠く「本」を指しているからである。

「迹」における不同とは、「三蔵教」の仏は、父母と同じ生身で、八十二歳で尽き、その身は灰となり「智慧」は滅して、もう再び生まれることはない。「通教」の仏は、「誓願」の身であり、教化する縁が終われば、また灰となり、もう再び生まれることはない。この二人の仏は、ただ「業」により、「縁」により、非長非短の「慧命」を得ない。長となり短となり、大小の寿命となることはできないのである。「別教」は「十地」の「位」に至って「無明」を破り、如来の「一身無量身」を得る。「一身」は自然と安住し、「無量身」は「百法界」において仏となり、また「九界」の身を現わし、年紀の大小を論じることができ、大はすなわち大乗の常の寿命、小はすなわち小乗の無常の寿命である。「円教」は「十住」の「位」に至る時も、またこれと同じである。

これらはみな「因中」の菩薩であり、常ではなく無常ではなく、同時に常、無常、大小の寿命となる。どうしてそれ以上の「位」がそうでないだろうか。どうして「妙覚」がそうでないであろうか。このような寿命は、「本」と「迹」と「中間」の三つの意義によって、みな「迹」の中の「因果」の寿命であることがわかる。この寿命はみな「本地」の「因果」が円満であることによって、この「迹」が来ている。「迹」はすでにこのようである。どうしてまた「本」がそうであろうか。『法華経』に「私が昔、菩薩の道を行じる時、成就した寿命はまだ尽きていない」とあるのは、「本因」を指す。「因」の寿命すらなお尽きていないのである。どうして「本果」の寿命が尽きているだろうか。もし「迹」に執着すれば、すなわち「本」を知ることができない。もし「迹」を排除すれば、「本」を知る。また、この二つは不思議な次元では一つである。

 

⑩本利益妙

法華経』に「みな歓喜を得させる」とある。「歓喜」とはすなわち「利益」の相である。「迹」の中の「三乗」が共にする「十地」、「別教」の「十地」、「開権顕実」、「位」に立脚する「妙」、「位」に入る「妙」などの「利益」から始まって、仏の寿命を聞いて、煩悩を断じ道を進めることなどは、みな「迹」の中の「利益」である。さらに中間の「権実」の「利益」も、また「迹」の中の「利益」である。「迹」と「本」を比較すると、「本」もまた偏と円の「利益」がある。下の世界の菩薩がみな虚空に住む理由は、みな「寂光」にいるからである。それは「本」の「利益」である。このために「本」の「本」は、「迹」を下し、「迹」を借りて「本」を知る。また具体的には記さない。