法華玄義 現代語訳  86

『法華玄義』現代語訳  86

 

①―B.b.出世間禅

「出世間禅(しゅっせけんぜん)」には四つの項目がある。一つ目はⅠ.「観禅(かんぜん」であり、二つ目はⅡ.「練禅(れんぜん)」であり、三つ目はⅢ.「熏禅(くんぜん)」であり、四つ目はⅣ.「修禅(じゅぜん)」である。

Ⅰ.観禅

「観」とは、「九想(くそう・身体の九つの不浄なことを観じる不浄観。後に説明あり)」、「八背捨(はっぱいしゃ・八通りの執着を捨てる方法)」、「八勝処(はちしょうしょ・八通りの認識の対象を観じて執着を捨てる方法)」、「十一切処(じゅういっさいしょ・すべての実在を十種類に分類して観じる方法)」である。これらをまとめて「観禅」という。修行者は、淫乱な想念を破るために、必ずすべての想念を増して純粋に深く修すべきである。想念が観じる対象と一致した時、禅定と相応する。想念と禅定を心に定め、心に分散がなく、世間の貪愛を除くのである。ここでは次の六つ(a.~f.)の欲を破る。ある人は、a.赤白黄黒などの色彩に執着があり、あるいはb.良い姿形に執着があり、あるいはc.立居振舞の姿に執着し、あるいはd.艶やかな言葉に執着し、あるいはe.滑らかな肌の人体に執着し、あるいはf.自分と心の合う人に執着する。このような六つの欲は淵のように修行者をおぼれさせる。よく「九想(①~⑨)」を修して、この六つの賊を除かねばならない。①「死想」はa.立居振舞とd.艶やかな言葉の二つの欲を破り、②「脹想(ちょうそう・死体が腐って脹れることを観じる)」、③「壊想(えそう・死体が崩れていくことを観じる)」、④「噉想(かんそう・死体が虫などに食われることを観じる)」はb.良い姿形の欲を破り、⑤「血塗想(けつずそう・体の中の血を観じる)」、⑥「青瘀想(しょうおそう・体の中の青黒いものを観じる)」、⑦「膿爛想(のうらんそう・体の中の膿を観じる)」は、総じて色欲を破り、⑧「骨想」、⑨「焼想」は、滑らかな肌の人体の執着を破る。このような「九想」は総じて人間に執着する欲を除き、同時にまた、「噉想」などの人体が破壊されていくことを観じることは、f.自分と心の合う人に対する執着を除く。この「九想」によって欲望を除けば、また怒りや愚かさも薄くなり、九十八種ある誤った見解や思想の煩悩も揺るがされる。これが「不浄観」の初歩の段階であるといっても、必ず大きな成果をあげられることは、海は必ず死体を留めておかず、自然に浜に打ち上げるようなものである。

「八背捨」は、個人を超えた視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚による欲に背き、執着する心を捨てることから、「背捨」と名付けられる。修行者は、持戒清浄であり、大いなる誓願を発し、大事を成し遂げることを願う。身心を正し、明らかに自らの足の親指を観じて、大豆のように腫れ膨らんでいると想念する。この想念が起こる時、さらに進んで藤豆の大きさに想念し、さらに一つの指の大きさに想念し、さらにニワトリの卵のように想念する。次に第二指、第三指、第四指、第五指も同様である。次に、足の裏、かかと、くるぶし、ふくらはぎ、膝、もも、尻を観じて、すべて腫れていると想念する。次に右足も同様である。また、大小便道、腰、背骨、腹、背中、胸、脇もすべて腫れていると想念する。また右の肩甲骨、腕、ひじ、手首、手のひら、五本の指を感じ、また、頭、あごなどである。そして足より頭に至り、頭より足に至り、身体を巡って観察し、ただ腫れていることを想念すれば、心に嫌悪が生じる。また、形が崩れ、膿が出て、腐ることを観じるべきである。大小便道から虫や膿が流れ出し、その臭さは死臭より激しい。このように自らの身体を観じることができれば、愛するところの人を観じるのも同様になる。内に我を見ることを破り、外に貪愛を破る。これを長く観察すれば、世に対する貪愛を除くことができる。次に皮膚と肉を除く。白骨を明らかに観じて、それぞれの骨の色が異なっていることを想念する。青、黄、白、赤あんどである。このように、骨の姿にもそこに我はない。この観心を「欲界定」と名付ける。次に骨の青を観じる時、この大地の東西南北がみな青であると想念する。黄、白、赤も同様である。これは「未到定」と名付ける。また人の骨を観じると、眉間から光が発せられ、光の中に仏を見るようになる。それは、「背捨」の最初の段階が成就した姿である。このように順番に「八背捨」が発する姿に至ることについては、『次第禅門』に記した通りである。

「八勝処」とは、第一、第二の「勝処」は、「初禅」の位である。第三、第四の「勝処」は、「二禅」の位である。続く四つの「勝処」は、「四禅」の位である。「三禅」は「楽」が多く、心が鈍いので「勝処」として立てない。前に述べた「八背捨」は、観心の対象の多少を自在にすることはできない。そのため、「勝処」はさらに細分化して、多少、そして好醜を観察して、すべてを優れた知見とする。優れた軍馬が敵陣を破り、そして自らも制することができるようなものである。

「十一切処」は、「八色両心(はっしきりょうしん・青、黄、赤、白、および、万物の根元とされる六大の中の地、水、火、風と、六大の中の空、識を観じる二つの心)」を駆使して広く観心の対象が遍満して転変自在である。具体的に詳しくは『次第禅門』にある通りである。

Ⅱ.練禅

「練禅」とは、ここまで八種類の禅定を述べたが、それらはそれぞれに間隔があった。ここでは、熟練して最初の浅い段階から後の深い段階まで究めるために、順番に修して、しかもその間に垢や滓(おり・かすのこと)や隙間や汚れがなく、順序に従って修すことのできない者を順序に従わせる。これは煩悩のない状態によって煩悩のある状態を熟練させ、あらゆる乱れを除くために、「練禅」と名付ける。またこれは他のあらゆる禅定を整え、禅定の智慧をもって平らに間隔をなくすのである。

『阿毘曇論』に、「熏禅」と「練禅」が述べられているが、ただ「四禅」を煩悩のない状態にさせると述べるのみである。ここでは、煩悩のない状態をもって、八種類の禅定の境地を熟練させるのである。このようにして、順番に無間三昧(むけんざんまい・順序に従って間なく行なわれる禅定)に入るのである。

Ⅲ.熏禅

「熏禅」とは、「獅子奮迅三昧(ししふんじんざんまい)」のことである。前に述べた禅定は、順番に従って禅定に入るのであるが、この場合も順番に従って禅定に入り、また順番に従って禅定を出る。麁や間隔や教えに対する執着や愛着を除くことが、まるで獅子が進退自在であり、あらゆる塵や土を振るい落とすようなものである。修行者はこの禅定に入り、すべての禅定を熟練させ、よく通じ、転変自在である。動物の皮をよく熟成させれば、あらゆる物を作ることができるようなものである。

Ⅳ.修禅

「修禅」とは、「超越三昧(ちょうえつざんまい)」のことである。程度の低い禅定から高い禅定に至るまで、その区別を超越して、その超越した禅定に留まる。この禅定は功徳が最も深いので、「頂禅」と名付ける。あらゆる法門において、自在に出入りするのである。

法華玄義 現代語訳  85

『法華玄義』現代語訳  85

 

①―B.a.Ⅱ.根本浄禅

「根本浄禅」は、先にも述べた通り、「不隠没」、「無垢」、「有記」である。前の「根本味禅」とは異なっている。そしてこれには「六妙門(ろくみょうもん)」と「十六特勝(じゅうろくとくしょう・六妙門の数息観をさらに細分化したもの)」と「通明(つうみょう・前述の四禅、四空定などを指す)」の三つがある。涅槃自体が「妙」である。この涅槃に通じる「数息観」「随息観」「止門」「観門」「還門」「浄門」の「六妙門」が「妙」と名付けられるのである。この三つは、「慧性(えしょう・智慧の本質)」が多い場合と、「定性(じょうしょう・禅定の本質)」が多い場合と、「慧性」と「定性」が等しい場合の三つに対応する。「慧性」が多い場合は、「六妙門」を説く。このひとつひとつの教えは、欲が残っている次元において、よく煩悩から離れさせるからである。もし「定性」が多い場合は、「十六特勝」を説く。初歩的な段階では煩悩から離れられず、程度の高い禅定においてよく悟ることができるからである。そして、「慧性」と「定性」が等しい場合は、「通明」を説く。「通明」の観心の智慧は深く微細で、初歩的段階から程度の高い段階に引き上げ、煩悩から離れさせる。これは、修行者の程度の違いによって説くものである。もし、その時その時の状態に対応する教えについて述べるなら、また別にある。もし広く修習について説き明かせば、すべての禅定を網羅しなければならない。今はただ、段階的に生じる状態に対する竪の見方による意義を説いたのみである。

この「六妙門」を修す時、修行と証悟が合わされば、十二の法がある。仏は「十二の法に自在に留まり、十二の法を出生する」と言っている。すなわちこれは、最初の「数息観」を修行し、「数息観」を証悟し、最後の「浄門」までを修行し、「浄門」証悟することである。「数息観」を修行するとは、修行者は初めに息を調和させ、滞ることなく滑らかすぎることもなく、心安らかにゆっくり数え、一から十に至る。心を収めて数に集中し、散乱させない。これが「数息観」を修行することである。「数息観」に相応することは、目覚めた心を一から十に至るまで、力を加えず、心自らを数に留める。息は微細となり心も微細となる。これが「数息観」を証悟することである。もし「数息観」が乱れてしまうならば、数を数えることはやめて、「随息観」を修すべきである。これは、最後の「浄門」に至るまで同じであり、「六妙門」のそれぞれにこの修行と証悟があるので、十二となる。

さらに「六妙門」の中の「観門」に三つある。一つめは、真理を観じる「慧観」である。二つめは、仮想(けそう)を観じる「得解観」である。三つめは、「実観」である。このうち、最初は「実観」を用い、後に「慧観」を用いる。「実観」を修すとは、次の通りである。禅定の心の中において、心の眼をもって明らかに自分の身体を観じて、微細に出入りする息の姿は、空中の風のようで、体を構成する皮膚や筋や肉や骨などは、中身が入っていない芭蕉の幹のようなものであり、外側も内側も不浄であり嫌悪すべきものだと知る。また、禅定の中の「喜」「楽」などは、すべて確固たるものではなく、これは結局、苦であって楽ではないことを知る。また、禅定の中の心における認識を観じて、それは無常であって、一瞬たりとも定まらず、拠り所となるものはないと知る。また、禅定中の善悪の想念を観じると、すべて因縁によって生じているもので、みな自らの定まった本性はないことを知る。このように観じる時、「四顛倒(してんどう・無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と認識する誤り)」を破って、自我が消滅するので、頼るものは何もなくなる。これを「修観」と名付ける。このように修する時、呼吸がすべての毛孔に及んでいることを悟り、心の眼が開き、体の中のあらゆる臓器や器官、およびあらゆる微生物、内外すべてのものが不浄であることを徹見する。それらはもともとあらゆる苦しみに逼迫し、一瞬に変化するものである。すべての実在は、ことごとく定まった本性などないと見る。心に悲しみや喜びを感じて、寄り頼むべきところなどない。「四念処」を得て、「四顛倒」を破る。これを、観と相応するという。具体的にすべて記すことはできない。仏は樹下に座って、内に平安を得ている。ひとつは「数息観」であり、二つは「随息観」などである。以上が「六妙門」の禅定である。

次に「十六特勝(①~⑯)」とは、まず名称を解釈する。これは十六項目の特に優れた禅定という意味である。修行の形は、「数息観」の代わりに、①息の入ることを知り、②息の出ることを知るのである。それは、息を綿細に整え、一心に息に委ねる。入る時は鼻より臍に至ると知り、出る時は臍から鼻に至ると知り、そのように照らすことにおいて乱れない。音の出る息や、あえぐ息や、乱れる息を「麁」であるとし、息を微細に知る。「麁」の状態になったことを知れば、すぐに整えて微細にする。門を守る人が、誰が入ったか、誰が出たかということを知り、悪しき者は遮り、良い者は通らせるようなものである。渋滑、軽重、冷暖、遠近、難易などみな知る。息は命の依るところとなり、一つの息が還らなければ、命は尽きると知る。生きと命とは危うく無常であることを悟って、愛着や慢心を生ぜず、息は自我ではないと知れば、誤った見解を持つことはない。そして、③息の長短を知ることは「欲界定」に相当し、④息が体全体に行き渡ることを知ることは「未到地」に相当し、⑤あらゆる身体の動きを除くことは「初禅」の「覚」と「観」に相当し、⑥喜びが生じることは「喜」に相当し、⑦楽が生じることは「楽」に相当し、⑧あらゆる心の動きが生じることは「一心」に相当し、⑨心の中に喜びが生じることは「喜」と共にある禅定、⑩心にすべてを摂取することは「二禅」の「一心」、⑪心が解脱することは「三禅」の「楽」、⑫無常を観じることは「四禅」の「不動」、⑬出散(しゅっさん・無限の広がり)を観じることは「空無辺処」、⑭欲を離れることを観じることは「識無辺処」、⑮滅を観じることは「無所有処」、⑯棄捨を観じることは「非想非非想処」に相当する。棄捨を観じるならば、すぐに声聞、縁覚、菩薩の「三乗」の涅槃を獲得する。もし同等の位の観心の智慧について述べるならば、それは「四念処」に相当する。

次に「通明禅」とは、修行者が「息」「認識対象」「心」の三つを観じる時、その区別がないことである。明らかに「息」の出入りを観じる時、入っても積み重なっていくという感覚はなく、出ても分散していくという感覚はなく、入って来るということに、どこかを経て来たという感覚はなく、出て去って行くということに、干渉することはない。空中の風のようであり、本性はない。「息」は本来、身体的作用であるが、身体はもともと存在しないのであり、存在すると感じることは、前世からの業による妄想であり、それが結果的に現在の身体を作り上げているのである。虚空を囲んで、これが身体だと言っているようなものである。頭、胴体、両手両足、さまざまな臓器、視覚、嗅覚、味覚、触覚のどれを取っても身体ではない。身体を観じることは心によるのである。心はさまざまな条件によって起る。生滅が目まぐるしく、留まるところやその姿は見えない。ただ心という名称あるだけである。その名称さえ「空」である。このように「息」「認識対象」「心」を観じる時、この三つの本性の違いはない。このように三つの本性がないのであるから、すべての実在もない。これは修行の形式的なことである。

修行の証とは、内に「真諦」の「空」を証することであり、すでに「六妙門」の「観門」のところで述べた通りである。次第にこの身に体得して、「認識対象」も「息」も分明となる。また世間の天文学や地理学で言われることも、この身体に相当することを知る。よくこの世の禅定を備え、「非想非非想処」に微細な煩悩があることを知り、煩悩の迷いを破り、真理を悟り、声聞、縁覚、菩薩の「三乗」の涅槃を得る。以上すべては、『次第禅門』に記されている。以上、「根本浄禅」の説明は終わり、これで、「根本味禅」と「根本浄禅」の「世間禅」の説明は終わったことになる。

法華玄義 現代語訳  84

『法華玄義』現代語訳  84

 

①―B.定聖行(じょうしょうぎょう)

「定聖行」について述べるにあたって、三つの項目を立てる。第一はa.「世間禅(せけんぜん)」、第二はb.「出世間禅(しゅっせけんぜん)」、第三はc.「出世間上上禅(しゅっせけんじょうじょうぜん)」である。

「世間禅」にも二つの項目がある。一つ目はⅠ.「根本味禅(こんぽんみぜん)」であり、これは「隠没(おんもつ)」、「有垢(うく)」、「無記(むき)」である。二つ目はⅡ.「根本浄禅(こんぽんじょうぜん)」であり、これは「不隠没」、「無垢」、「有記(うき)」である。

「根本味禅」と「根本浄禅」の「根本」とは、「世(この世の次元)」と「出世(霊的次元)」の根本である。『涅槃経』に「諸仏の成道、転法輪、入涅槃は、すべて禅の中にある」とある。よくこの「根本」を観じれば、そこから最も優れた「上定(じょうじょう・優れた禅定)」が生じるので、「根本」という。

(注:ここまで見てきたように、天台大師はすべての経典に記されているすべての項目、用語を網羅しようとする一方、自分の造語も多く述べている。そのため、畳みかけるようにさらに用語が多くなることは避けられない。しかし、究極的に伝えようとしていることは「絶待妙」であり、「開麁顕妙」であることは一貫しているので、それを見失わない限り、用語の海に迷うことはない。これよりは、禅定についての細かな内容となる)。

 

①―B.a.Ⅰ.根本味禅

「隠没」とは、悟っておらず、「観心」の智慧がないことである。「有垢」とは、観心のそれぞれの段階に執着があることである。「無記」とは、行の段階に明らかな区別がついていないことである。ここに三つある。すなわち「十二門禅(じゅうにもんぜん)」を三つに分けたものであり、この世の次元の禅定である「初禅」、「二禅」、「三禅」、「四禅」の「四禅(しぜん)」と、「四無量心(しむりょうしん・慈、悲、喜、捨の四つによって無量の衆生を救おうとする心)」と、「四空定(しくうじょう・空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の精神的世界における四つの禅定)」である。

最初に禅定に入るための方便を修し、音の出る呼吸や乱れた呼吸を捨て、正しい呼吸法を知るべきである。ゆったりと呼吸の数を数え、増やしたり減らしたりはしない。もし数が定かでなくなれば、調節して散逸にならないようにして、心を粗雑な状態から繊細な状態に安定させるようにする。そして体をまっすぐに安定させる。さらに進んで、肉体の欲がそのままであっても禅定の状態に入り、体の微妙な感触が起こる。そして、「覚」、「観」、「喜」、「楽」、「一心」の五つが起こる。

こうして「初禅」が成就する。『大智度論』に「すでに淫らな思いの火から離れることができれば、清涼なる禅定を得る。暑い状態から冷たい地に入れば、涼しさを楽しむようなものである」とある。もし先に進むことを願えば、出家していない一般人の者ならば、「六行観(ろくぎょうかん・これから述べられるところの「苦」、「麁」、「障」を離れて、「勝」、「妙」、「出」に至る観心のこと)」を修し、出家者は「八聖種(はししょうしゅ・「初禅」の状態を「病」「癰(おう・できもの)」「瘡(そう・湿疹)」「刺」のように観じ、「苦」「空」「無常」「無我」と観じること)」を修す。行者は、「覚」と「観」の状態において、「覚」と「観」を嫌い離れ、この「初禅」の段階も「苦」、「麁」、「障」とする。「覚」と「観」は結局、禅定の心を乱すために、「苦」である。「覚」と「観」から「喜」と「楽」が生じるので「麁」である。「覚」と「観」はさらに上の禅定を妨げるので「障」である。

(注:最初に禅定が思い通りに行くように思えると、その状態に留まり、しばし得られた平安に満足してしまい、それ以上のものを求めなくなることがないように、その平安な状態さえ厭い離れるようにする、ということである)。

「二禅」は「初禅」と異なっているので、「勝」、「妙」、「出」と名付ける。総合的に言えば、「初禅」の誤りを知って執着せず、次に呵責し、さらに析破(しゃくは)して「初禅」を離れる。これが「二禅」を修す姿とする。巧みに「初禅」を嫌い離れれば、内側も外側も明るくなり喜びと共に「内」「浄」「喜」「楽」の四つが起こる。このために『大智度論』に「このために覚と観を除き、統一した精神状態に入る。内の心が清浄となるために、確実に喜と楽を得る」とある。「二禅」のなか、すでに「覚」と「観」を離れているので、方便を用いる必要はない。禅定から出る時、さらに上を求めることにおいて、「初禅」から「二禅」に進む時と同様、「六行観」を修す。

(注:人は、何か今までとは違った「悟り」のようなものを体験すると、それにしがみつこうとしてしまう。それは当然のことであろう。しかしそれでは一生、その体験に留まってしまい、全く全進がなくなり、新たな体験もできなくなる。そして融通性のない頑なな宗教人となってしまう。「初禅」に至ったならば、すぐに「二禅」に進むよう、徹底的に「初禅」の体験を嫌い、さらに「二禅」からも離れるようにする、ということは、人間の本来の姿を見抜いた導きと言える)。

よく修行するために、心が明らかに開けて、呼吸に左右されず、執着を捨てることが起こって、明るい空に陽に静寂となり、「不苦不楽」「捨」「念」「一心」が成就する。「楽」が妨げであることを知って「不動」を得れば、大いに平安である。「憂」と「喜」はすでに除かれ、「苦」「楽」も今ここで断たれる。

修行する者はすでに内に「四禅」まで修し、外に福徳を修することを願うならば、まさに「慈」「悲」「喜」「捨」の「四無量心」を学ぶべきである。これには「通修」と「別修」がある。「通修」とは、『大智度論』に「この慈は、この世において欲を離れた四禅の中間に修すことができる」とある。この言葉は「通」である。「別修」とは、「初禅」の「覚」と「観」は、「四無量心」の「悲」を修しやすくし、同じく「初禅」の「喜」は「四無量心」の「喜」を修しやすくし、「楽」は「慈」を修しやすくし、「一心」は「捨」を修しやすくする。また次に、「初禅」は「悲」を修しやすくし、「二禅」は「喜」を修しやすくし、「三禅」は「慈」を修しやすくし、「四禅」は「捨」を修しやすくする。これらはすなわち、「四無量心」の「禅定」を修すことである。

また次に、修する時、先輩の修行者が苦を離れ、楽を得、歓喜し、平等の智慧をえる姿によって禅定に入る。禅定が発する時、内に喜びや楽や平等の智慧を得て、同時に、先輩の修行者の苦を離れ、楽を得ることを見る。あるいは、内にそれらを得ても外には表われず、あるいは、外にそれが表われているようだが、実は内には得ていない、ということもある。真実と偽りを見分けることが必要である。

修行者は、認識対象に囲まれている状態から出ようと願い、「四空定(しくじょう)」を修す。認識の対象が滅してもなお心があり、その心は存続するために「四空」と名付ける。程度の低い状態を嫌って、さらに上を目指すことは、確かに執着の心であるが、それを方便として用いるべきである。認識対象は苦しみの本である。そこには飢渇寒熱があり、認識対象を苦の集まりという。空をあがめて「浄妙」とする。あらゆる逼迫を離れる。すべての認識対象を過ぎて、「空定」の状態になれば、「不苦不楽」はますますさらに増長する。深い禅定の中において、ただ虚空を見るだけであり、あらゆる認識対象の姿はなく、心は分散しない。

また次に、この「空定」を得るために、認識対象のみが存在する「色界(しきかい・この世の次元を表わす欲界、色界、無色界の中間)」を出る。それは、すべての認識対象の姿を過ぎることである。空の真理が心を満たし、あらゆる認識対象が起こらないために、それは、対象となる姿形を滅ぼすことである。すでに「空定」を得て、揺るぎなく認識対象を捨てて、思ったり慕ったりしない。それはあらゆる認識の姿を念じないことである。程度の低い状態を嫌って、さらに上を目指す方便は、あらゆる場合にある。詳しくは『次第禅門(しだいぜんもん・天台大師講述の禅定についての書)』にある。

以上で、「根本味禅」を述べ終わる。

法華玄義 現代語訳  83

『法華玄義』現代語訳  83

 

また、先にあげた「四弘誓願」は総合的な「総願」であるが、個別的な「別願」について次に述べる。自分自身の心を抑制することから「別願」が起こる。たとえこの身が熱せられた鉄の床に臥すようなことになっても、破戒することになるなら、他の床には移らないというほどの決意である。具体的な「十二の誓願」をもって、自らの心を抑制するのである。

またさらに『涅槃経』には、自分ばかりではなく他の者のために「誓願」を起こすことが次のように記されている。「願わくはすべての衆生が、禁戒を持ち保つことができ、清浄戒、善戒、不欠戒、不析戒、大乗戒、不退戒、随順戒、畢竟戒、具足諸波羅蜜戒を得ることを」。この十の「誓願」をもって、衆生を守る。菩薩は一つの「持戒」の心、多くの「誓願」の「行」をもって、「戒律」を荘厳するのである。他の「行」の心もまた同様である。

しかし、この「誓願」の中にある十の他を守る「戒律」は、先に述べた自分の五種類の中から出る。第一の「根本業清浄戒」と第二の「前後眷属余清浄戒」から、「禁戒」、「清浄戒」、「善戒」が出る。なぜなら、「戒律」の具体的項目は「禁戒」であるからである。そして、「禁戒」を犯さなければ「清浄」となる。「清浄戒」は動きのない善であり、一方、次の「善戒」は行動を伴う善である。

そして、第三の「非諸悪覚覚清浄戒」から「不欠戒」が出る。なぜなら、身の行ないから出る悪を防御できたとしても、妄念はしばしば起こって煩悩が生じるからである。もしさらに禅定に進めば、具体的な事柄において欠けるところはなく、禅定に根差せば、本性として欠けることがなくなる。

第四の「護持正念念清浄戒」から「不析戒」が出る。これは「道共戒」によることである。認識の対象を滅して「空」を悟るのは、「析空観」の教えである。さらに「体空観」によって「空」を悟るために、「不析」と名付ける。また内に「道共戒」を得て真理に向かえば、「戒律」そのものが牢固となり、破られることはない。

第五の「廻向具足無上道戒」から、「大乗戒」、「不退戒」、「随順戒」、「畢竟戒」、「具足諸波羅蜜戒」が出る。「大乗戒」とは、菩薩は「性重戒」と「息世譏嫌戒」を保ち、等しく行じる。自ら悟りを求めるにおいて、「性重戒」は重要である。そして衆生を導くことにおいて、「息世譏嫌戒」は重要である。小乗の人が自らを整えるためには、「性重戒」は重要であるが、衆生を導くことはないので、「息世譏嫌戒」は重要ではない。菩薩はこの二つの「戒律」を平等に保つので「大乗戒」というのである。次の「不退戒」とは、道から外れたところにおいても行じる優れた方便をもって、売春宿や酒場や非法がはびこる場所においても、巧みに人を導き、それでも本人は「禁戒」から退くことはない。医者が病を治療して、本人はその病にかからないようなものである。このために「不退戒」というのである。「随順戒」とは、物事の適切な対応において、その道理に従うので、「随順戒」というのである。「畢竟戒」とは、堅く無上の教えを究竟することである。そして、「具足諸波羅蜜戒」とは、広くすべてを満たし、欠けた所のないことをいう。

大智度論』にもまた十種類の「戒律」をあげている。「不破戒」「不欠戒」「不穿戒(ふせんかい)」「不雑戒」の四種は、上に述べた『涅槃経』の「根本業清浄戒」の中の「禁戒」「清浄戒」「善戒」「不欠戒」のことである。『大智度論』の「随道戒」は、『涅槃経』の「護持正念念清浄戒」の中の「不析戒」のことである。『大智度論』の「無著戒(むじゃくかい)」は、『涅槃経』の「廻向具足無上道戒」の中の「不退戒」である。『大智度論』の「智所讃戒(ちしょさんかい)」は、『涅槃経』の「大乗戒」である。『大智度論』の「自在戒」は、『涅槃経』の「自在戒」である。『大智度論』の「随定戒(じゅいじょうかい)」は、『涅槃経』の「随順戒」である。『大智度論』の「具足戒」は、『涅槃経』の「具足諸波羅蜜戒」である。そして、『涅槃経』には「畢竟戒」とあるが、『大智度論』では「随定戒」とある。これらは大同小異であり、意義においては同じである。

『涅槃経』は、菩薩の次第に進む「聖行」を述べようとするために、すべてあらゆる「戒律」の浅深の最初から最後まで連ねている。それらをよく保てば、修行の最初の段階である「初不動地」に入る。「不動」「不退」「不堕」「不散」を「戒聖行」と名付ける。

「戒聖行」は、始めの浅い「行」から深い「行」に至るので、その「麁」と「妙」を判別する。「禁戒」「清浄戒」「善戒」の三つの「戒律」は、「律儀戒」に属する。「律儀戒」はすべての人に共通するものなので、能力の高い人に向けての「戒律」や能力の低い人に向けての「戒律」の順序がある。菩薩や仏も包含されるとはいえ、特に別に項目を立てないので、同じである。ただ、そこに仏の悟りがあるかないかによる。ここから、「律儀戒」は「三蔵教」の「戒律」であることがわかる。すでに述べたように、「不欠戒」は「定共戒」から出るものであり、これは根本禅であり具体的な事柄であるので、また「三蔵教」に属する。このために「麁」である。「不析戒」は「体空観」の「道共戒」なので「通教」である。「大乗戒」「不退戒」は「別教」である。また「通教」も兼ねる。「通教」の人は「仮」から出る場合があり、その人の能力に応じ、真理に応じ、道において退くことがない。しかし、「真諦」において「別教」の人には及ばない。「別教」の人を「妙」とするのである。「随順戒」「畢竟戒」「具足戒」は「円教」である。心の作用をすべて滅ぼした瞑想によらないまま、あらゆる姿を表わし、真理の道を捨てることなく、一般人に対応するので「随順戒」という。「畢竟戒」は、仏だけが保っている「浄戒」であり、これに比べると他の人の「戒律」はすべて「汚戒」となるので、このように名付けられる。そして、「具足波羅蜜戒」は、この「戒律」の対象はすべての世界であり、すべての「仏法」と「衆生法」を備え、「戒律」により悟りに至るのでこのように名付けられる。『維摩経』に「このようなことを戒律を奉じることとし、よく理解することとする」とあり、『法華経』には「私たちは長い間、仏の清らかな戒律を保ち、教えの王である仏の教えの中において清らかな行を修し、はじめて今日、その報いを得ました」とあり、また「羅睺羅は戒律を緻密に守っていることを私はよく知っている」とある。このような「円教」の「戒律」は「妙」であり、他の「戒律」はすべて「麁」でなくて何であろうか。

また次に最初の「戒律」を保つことは「乳味」の教えに等しく、中間は三つの味の教えであり、最終的な「戒律」は「醍醐味」の教えに等しく、それを「妙」とするのである。

「戒律」に関する「開麁顕妙」については、ある者が、「『梵網経』の戒律は菩薩戒である」と言っている。

問う:「菩薩戒」とは何か。もし「蔵教と通教の菩薩戒である」というならば、別に大乗の菩薩たちがいるはずである。しかし、人々が同じならば、なぜ異なる「戒律」があるのであろうか。また、もし別に「菩薩戒」のようなものがあるなら、「縁覚戒」というものもあるだろう。

答える:「三蔵教」の声聞、縁覚、菩薩の三乗に区別がないので、別に「菩薩戒」「縁覚戒」というものはない。しかし「別教」「円教」の菩薩は別である。なぜなら、それらは三乗に通じる菩薩の他に菩薩が存在するので、その菩薩のための「戒律」があるのである。

問う:三乗以外に別の「菩薩戒」があるなら、「縁覚戒」は何であるか。

答える:三乗以外に、別の縁覚はいない。このようなことは、あくまでも「麁」に相対する次元での「戒律」である。

「麁」を開けば次の通りである。「戒律」の学問は、大乗の学問である。学問のことを古代インド語の「シキシャ」というが、その意味は大乗である。「第一義諦」は、光が青でもなく、黄色でもなく、赤や白でもないことに喩えられる。仏法僧に帰依することから始まり、基本的な「五戒」や二百五十ある僧侶の「戒律」に至るまで、すべて大乗である。それらの「麁」の戒は、「妙」の戒と別物ではない。「戒律」は最初から「妙」であるので、その「戒律」を保つ人も「妙」である。『法華経』に「あなたは私(仏)の子である」とあるのはこの意味である。これを「絶待妙」の「妙戒」という。

法華玄義 現代語訳  82

『法華玄義』現代語訳  82

 

次に、「五種の行(五行)」によって「行妙」について述べる。まず「別教」の「五行」について明らかにし、次に「円教」の「五行」について明らかにする。

(注:これから、「五行」によって「行妙」が明らかにされるわけであるが、最初に述べられる「別教」の「五行」の内容は、他のどの箇所よりも非常に長い箇所となる。それはほぼ一巻の半分以上の分量となる。それは各経典にそれぞれ少しずつ異なった「行」や、それに伴う「戒律」が記されているからで、天台大師はあくまでもすべての「行」を網羅しようとするため、述べるべき項目が非常に多くなるのである。

それに比べて、「円教」の「五行」についての記述はそれほど長くない。その箇所に「円の行は遠く求むべからず。心に即してしかも是なり」とある通り、「円教」の「行」は個別を超越しており、しかも心にすべて備わって円融しているからである。

ではなぜ「蔵教」と「通教」は飛ばされ、いきなり「別教」からなのであろうか。それはすでに述べられたように、「蔵教」の教えは程度が低く、その「行」の種類も限定的である。そして次の「通教」も、これもすでに述べられていたが、すべての教えに通じるという性格から、特に「通教」の「行」というものを限定できないからである)。

 

「別教の五行」

「別教の五行」は、『涅槃経』に、「五種の行とは、①聖行、②梵行、③天行、④嬰児行、⑤病行のことである」とある。

 

①聖行(しょうぎょう)

この聖行にも三種類ある。①―A.戒聖行、①―B.定聖行、①―C.慧聖行である。

 

①―A.戒聖行(かいしょうぎょう)

誓願」を発し終わって、次に修行を始めるわけであるが、家にいたままでは牢獄のような逼迫があり、命終わるまで清い行ないを貫くことは不可能であり、それに対して出家は静寂極まりないこと、虚空のようであると知り、家を捨てて「戒律」を受ける儀式をして「性重戒(しょうじゅうかい・不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒などの、釈迦以前から存在する、犯せばそれ自体が罪となる事柄を禁じる戒律)」や「息世譏嫌戒(そくせきげんかい・譏嫌は機嫌の本の文字。世間から悪い評価を受けないよう、一般人の機嫌を損ねないようにするための戒律で、不飲酒戒はこれに当たる。その他に、食五辛戒のように、口の息が臭くなるネギやニラなどを禁ずる戒律がある)」などを保って、すべて等しく守る。愛見の羅刹(らせつ=鬼)に「戒律」を保っている袋を破られないようにすることは、『摩訶止観』に記されている通りである。

この持戒によって、「根本業清浄戒」、「前後眷属余清浄戒」、「非諸悪覚覚清浄戒」、「護持正念念清浄戒」、「廻向具足無上道戒」をすべて保つ。

「根本業清浄戒(こんぽんごうしょうじょうかい)」とは、「十善性戒(じゅうぜんしょうかい・殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見の十悪を禁じる戒律)」であり、あらゆる「戒律」の根本である。煩悩を断つ心から生じるために、「清浄」という。

「前後眷属余清浄戒(ぜんごけんぞくよしょうじょうかい)」の「前眷属」とは、未遂の罪や重罪を犯さないための方便の「戒律」であり、「後眷属」とは、僧侶の資格を一定期間剥奪される重罪のことである。そして「余」とは、「律蔵(りつぞう・戒律を専門とした経典)」には記されていないが、他の諸経典に記されている「戒律」のことである。たとえば、『大方等陀羅尼経』に記されている二十四戒のようなものである。以上の二つの「戒律」は「律儀戒(りつぎかい・悪を抑制する戒律のこと)」であり、受戒の儀式的作法によって受けるものである。

後の三つの「戒律」は、作法によって受けるものではなく、修行によって得るものである。修行を通してこの「戒律」を自ら得るのである。

「非諸悪覚覚清浄戒(ひしょあくかくかくしょうじょうかい)」とは、「定共戒(じょうぐかい)」である。「定共戒」とは、この世の次元における禅定の状態において得る「戒律」である。その「戒律」そのものはまだ清浄ではないので、瞑想は実現していない。さらにそこから進めば、身体から来る妨げは除かれ、さらに修行が継続され、心から来る妨げが除かれ、さらに深い瞑想へと導かれる。禅定における悪い感覚を除くために「定共戒」というのである。

「護持正念念清浄戒(ごじしょうねんねんしょうじょうかい)」とは、「四念処(しねんじょ・説明前述)」のことであり、真理を観じる正しい念である。まだ真理に到達していないといっても、真理から来る念に似ることにより、よく真理の道に導かれ、「道共戒(どうぐかい・煩悩から離れ、真理の道に入った時に得られる戒律)」を成就するために、「正念念清浄戒」と名付ける。前の「定共戒」は禅定の心から発せられ、「止観」における「善戒」に属するが、「道共戒」は真理に基づいて分別する心から発せられ、行ないにおける「善戒」に属する。禅定の「不動」と行ないの「動」も、共に「戒律」である。なぜなら、「戒」とは悪を防止するものであり、「定共戒」の心を得れば、また悪は起こさない。同じように「道共戒」を得て真理に向かう心を発すれば、そのままの状態にあれば罪過はない。そのために、共に「戒律」となるのである。

「廻向具足無上道戒(えこうぐそくむじょうどうかい)」とは、すなわち菩薩は諸戒律の中において、「四弘誓願(しぐせいがん・四つの誓願のこと。衆生無辺誓願度・べての人を悟りに導く誓願、煩悩無量誓願断・すべての煩悩を断つ誓願、法門無尽誓願学・仏の教えをすべて学ぶ誓願仏道無上誓願成・この上ない悟りを成就する誓願)」と「六波羅蜜(ろくはらみつ)」を保ち、誓願を発して心を悟りに向けるために、これを「大乗戒」と名付ける。「四弘誓願」については前に述べた。

六波羅蜜」とは、次の六つの「波羅蜜(はらみつ・古代インド語のパーラミターの音写文字。完成という意味)」のことである。(注:これ以降、六つの「波羅蜜」についての説明となるが、ここでは「戒律」という範疇のものとしての「六波羅蜜」を語っているので、一般的な「六波羅蜜」の解釈とは異なって、あくまでも「戒律」を中心に説明がされている)。

六波羅蜜」の第一は「布施波羅蜜(ふせはらみつ・檀波羅蜜(だんはらみつ)ともいう)」であり、悪を嫌って出家し、愛するところを断つことである(注:「布施」とは、惜しみなく与えるという意味であるが、ここも、「戒律」を守るために惜しみなく家を捨てる、という解釈がされている)。

第二は「持戒波羅蜜(じかいはらみつ・尸羅波羅蜜(しらはらみつ)ともいう)」であり、少しも「戒律」を犯さず、煩悩の羅刹に反逆することである。

第三は「忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)」である。よく身と心を制御し、罵倒されても耐え忍ぶことを「生忍(しょうにん)」と名付ける。心を動揺させるあらゆること、寒熱、貪り、瞋恚に耐えることを「法忍(ほうにん)」と名付ける。煩悩も損することができないことが忍辱である。

第四は「精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)」であり、「戒律」を守り、犯す心を起こさせないことである。

第五は「禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)」である。志を確固たるものとして「戒律」を守り、迷いを断ち切り、専心不動であることである。

第六は「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)」である。明らかに因果を知り、「戒律」は悟りへの正しい本(もと)であり、声聞、縁覚、菩薩の三乗の聖人を生み出すものと知る。そして外道の多くの価値のない教えなどとは異なったものであると知ることである。

法華玄義 現代語訳  81

『法華玄義』現代語訳  81

 

次に、一つずつ増して行く「行」について、「教」に当てはめて述べる。

「三蔵教の行について」

まず「三蔵教」の一つずつ増して行く「行」について述べれば、それは『阿含経』の中に記されている通りである。

最初に、一つの行について述べれば、仏は僧侶たちに次のように語った。「まさに一つの行を修するべきである。そうすれば、私はあなたがたが四沙門果(ししゃもんか)の悟りを得ることを証明するであろう。その一つは心不放逸(しんふほういつ)である。それは心をよく守って、行をやめるという放逸に陥らないことであり、それを広演広布(こうえんこうふ)すれば、なすべき行は満ち、正しく涅槃を得る」。また僧侶たちに「まさに一つの行を修すべきである。それ以外のものを取らないことを願う」とある。すると、僧侶たちは仏に「私たちはすでにそれを知っています」と言ったので、仏は「あなたたちは何を知ったのか」と述べると、僧侶たちは仏に「その他のものとは、六境である色・声・香・味・触・法です」と言った。すると仏は「よろしい。もしこの六境を取らねば、なすべき行は満ち、正しく涅槃を得る」と言った。この言うところの「広演広布」とは、不放逸の心をもって、すべての教えを経て、この世の次元と「六境」のすべてにおいて放逸せず、悟りを得ることを言うのである。

次に一つ増して二つの行とは、『阿含経』に「静かな修行道場にいる僧侶たちは、まさに二つの行を修すべきである」とある。それは「止」と「観」のことである。「止」を修すとは、すなわちあらゆる悪をせず、戒律、威儀、あらゆる行、禁戒をすべて失わず、あらゆる功徳を成就することである。また「観」を修すとは、すなわち人生は苦しみであることを観じ、それを体験として知ることである。これが「苦諦」であるが、次に苦の原因を知る「集諦」を行じ、苦の滅を知る「滅諦」、苦から離れる具体的な道である「道諦」を観じて、体験的にこれを知ることである。そして、煩悩を滅ぼし、この世に再び生まれないようにする。如来もこのように修したのである。

次に一つ増して三つの行とは、「戒」「定」「慧」の「三学」のことである。この「三学」はこの世から離れる三つの段階であり、仏の教えの軌儀(きぎ)である。『戒経』に「あらゆる悪をするな。あらゆる善はせよ。自らの心を清めよ。これは諸仏の教えである」とある。「あらゆる悪」とは、七種類の罪のことであり、軽重の違反である。「律」についての五学派それぞれにその具体的な事項が明らかにされている。このような悪は戒律の禁止するところである。「あらゆる善」とは、初歩的な瞑想である「散禅」、欲から離れた「静禅」、そして数多くの瞑想における「前後の方便」の「三業」を指す。これらは上の霊的次元に引き上げるものなので、「善」というのである。「自らの心を清めよ」とは、あらゆる誤った見解を破り、この世と霊的次元での因果、仏の教えの核心と補助的な教えを理解し、心の垢を除いて、あらゆる汚れを清める。これが智慧でなくて何であろうか。

(注:ここにある「あらゆる悪をするな。あらゆる善はせよ。自らの心を清めよ。これは諸仏の教えである」とは、「阿含経典類」に記されているところの、いわゆる「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ・過去から現在の仏までの七仏に共通する基本的な教え)」と呼ばれる教えである。これは仏教における基本的な教えであるが、一般的には、実生活の中で実践されるものという認識が強い。しかし天台大師は、あくまでもこの教えも「観心」における「止観」で行なわれるべきものとしていることに注目しなければならない。これは、あくまでも「観心」を中心とするという、天台大師の仏教全般に対する認識の特徴を示す一つの事例である)。

仏の海のように広い教えは、この「三学」に集約できる。この意義を知れば、四、五、六、七、そして百千万億の教えを行として、ここに同様に集約できる。以上は、「蔵教」の「下智」によって「行」を導くことである。

「通教の行について」

次に「通教」の一つずつ増して行く「行」について述べれば、そもそも「通教」とは、すべての経典の教えに通じるという意味なので、ある特定の教えをあげることはできない。ただここでは、声聞と縁覚と菩薩の「三乗」共学の教えを取って、「通教」とする。

大智度論』の一段階ずつ進んで行く「行」について述べられている箇所を引用して述べる。そこには、「菩薩が般若を行じる時、すべての教えがただ一つの形であるということを知るとしても、同時に、すべての教えのそれぞれ個別の形も知る。そしてすべての教えのそれぞれ個別の形も知るとしても、同時に、すべての教えがただ一つの形であるということを知る」とある。「すべての教えがただ一つの形であるということを観じる」とはどのようなことか。それは、いわゆる、「すべての教えには形がない」ということである。たとえば、すべての存在を形成するとされる「地」「水」「火」「風」の「四大」がばらばらでないようなものである。「地」に「水」「火」「風」がある。ただ「地」が多ければ、「地」と名付けられただけである。「水」「火」「風」もまた同様である。このように、異なった形があるのではないことを観じるのである。もし「火」の中に「風」「地」「水」があれば、この三つは同様に熱いであろう。もし「地」「水」「風」の三つが「火」の中にあっても、熱くはないので「火」と名付けないまでである。もしこの三つが同様に熱ければ、三つのそれぞれの自性(じしょう)はなくなり、みな「火」と名付けられ、この三つはなくなる。もし三つがあるが、あまりにも微細であり知ることができないとするならば、それは「無」とどうして異なるであろうか。もし粗雑なものとして認識できるならば、そこに微細なものもあることを知る。もし粗雑なものがなければ、微細なものもない。したがって、「火」の中にあらゆる形を認めることはできない。すべての教えの形も同様である。このために、すべての教えはすべて一つの形である。これは一つの形であるということをもって、異なる形を否定することである。また、形がないということをもって、一つの形であるということを否定することである。形がないということも自ら消える。木に火があれば、その火はあらゆる薪を燃やし尽くし、また元の木も燃えてなくなるようなものである。これが、すべての教えは一つの形であり、一つの形は形がないということを観じることである。このように、無量のすべての教えはすべてみな一つの形であり、一つの形は形がないことである。そして、一つの教えから進んで、二つの教えをもとに行じてすべての「行」を総括し、さらに百の教え、千万億の教えをもとに行じてすべての「行」を総括することも、同様に考えるべきである。細かくは記さない。

「別教の行について」

次に「別教」の一つずつ増して行く「行」について述べれば、『華厳経』の「入法界品」に記されている善財童子(ぜんざいどうじ)の物語をあげる。一人の良き師匠の所において、あらゆる教えを聞いてそれを行じた。ある時はあらゆるものを作り出す「如幻三昧(にょげんざんまい)を行じ、ある時は岩に身を投げたり火の中に入ったり、砂の数を知り、ほくろによって占ったりした。悟りを求める心を起こして道を求めたのであるが、それについて一つ一つの行がある。そして「仏の教えは海のようである。私はただこの一つの教えを知るのみである。他は知らない」とある。どうように、その良き師匠が百十人いても、一つ一つの教えは同様である。このような「行」は「無明」を破って、深い境界に入る。二つの教え、三つの教え、そして百千万億の教えもまた同様である。

「円教の行について」

次に「円教」の一つずつ増して行く「行」について述べれば、『文殊問経』(注:実際は、『文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経』)に次のように記されている通りである。「菩薩は常座三昧(じょうざざんまい)を修する時、静かな部屋において結跏趺坐(けっかふざ)し、すべての世界を対象とし、一念をすべての世界と一つとして、すべての顛倒した無明は、虚空のように永遠に寂なるものにするのである」。この一つの行を修す人は、すなわちすべてにおいて妨げのない人であり、一つの道より生死の繰り返しを出るのである。すべての実在において、すべてを平等に観じることができる。智慧の理解の心は寂然として、この世の次元のものではなくなっている。これはすなわち一つの行にすべての行が総括されていることである。ここから、一つの行を増して二つとし、すべての行を総括すれば、いわゆる「止観」となり、さらに一つの行を増して三つとし、すべての行を総括すれば、「聞」「思」「修」または「戒」「定」「慧」となり、さらに一つの行を増して四つとし、すべての行を総括すれば、「四念処」となり、さらに一つの行を増して五つとし、すべての行を総括すれば、「五門禅(ごもんぜん・無常、苦、空、無我、寂滅の五種)」となり、さらに一つの行を増して六つとし、すべての行を総括すれば、「六波羅蜜」となり、さらに一つの行を増して七つとし、すべての行を総括すれば、「七善法(しちぜんぽう・仏の説法の七種類の優れたところ)となり、さらに一つの行を増して八つとし、すべての行を総括すれば、「八正道」となり、さらに一つの行を増して九つとし、すべての行を総括すれば、「九種の大禅(だいぜん・最高の九種の禅)」となり、さらに一つの行を増して十とし、すべての行を総括すれば、「十境界(じゅっきょうかい・十種類の観心の対象)」または「十観成乗(じっかんじょうじょう・十種類の観心の方法)」となる。

百、千万億、阿僧祇不可説(あそうぎふかせつ・とても数が多く言葉に表現できないと言う意味)の教えの門を増して「行」とすることについては、もちろんすべて記すことはできない。以上の意義を理解すれば、自然とわかるであろう。

しかし、このように「行」が増して行っても、すべての「行」が同じということはない。ここでも「麁」と「妙」を判別するべきである。

「三蔵教」の増数の「行」は、「生滅」の「智」をもって導き、ただ苦から出ることだけを期待するのであり、まさにこれは『法華経』に記されているところの、旅の途中の仮に作られた町に留まってしまうようなものである。このため「麁」である。

「通教」の増数の「行」は、「体空観」が巧みであるといっても、ただ導かれて苦から出るだけである。ただ煩悩が灰となって消えるのと同じである。

「別教」の増数の「行」は、智慧が遠くまで導いてくれることは確かである。しかし、浅い所から深い所に上り、それぞれの「行」がばらばらであり、具体的な事柄は融合しない。そのために「麁」である。

「円教」の増数の「行」は、「行」が融合して「智」が円満である。このために「妙」とする。『法華経』は「円教」の増数の「行」に属する。『法華経』の「結経」である『観普賢菩薩行法経』に「二十一日間、一心に精進する」とあり、これは一つの「行」における「行妙」を指す。また『法華経』に「あるいは歩きながら、あるいは座ってこの経を思惟する」とあり、これは二つの「行」における「行妙」を指す。また『法華経』に「もしこの経を聞いて、思惟し修し学べば、菩薩の道を歩む」とある。これは三つの「行」における「行妙」を指す。また『法華経』にある「四安楽行(しあんらくぎょう・身、口、意、誓願の四つにおける安楽に至る行)」は、四つの「行」における「行妙」を指す。「円教」の段階である「五品弟子位(ごほんでしい・智慧が中道に応じている位で、随喜、読誦、説法、兼行六度、正行六度の五つ)」においては、五つの「行」における「行妙」を指す。同じく「円教」の段階である「六根清浄位(ろっこんしょうじょうい・この世における見思の惑(けんしのわく・説明前出)が滅び、無明を抑えて眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が清められる位)」においては、六つの「行」における「行妙」を指す。これらは、「麁」に対する「妙」である。

「麁」を開いて「妙」を述べれば、『法華経』に記されている通り、仏に対して、少しでも頭を下げたり、手を挙げたり、土を積んだり、遊びでも砂を積んだりすることは、すべて仏の道を行じていることになるのである。仏があらゆる教えを説くことも、すべてそれは『法華経』の「一乗(いちじょう・すべての者が仏になるということ。『法華経』の迹門の主題)」のためである。すべての「行」はみな「妙」であるので、「麁」に相対することなく、「相待妙」ではなく「絶待妙」なのである。

法華玄義 現代語訳  80

『法華玄義』現代語訳  80

 

◎「行妙」について詳しく述べる

 

第三に、「行妙」について詳しく述べるにあたって、二つある。ひとつは、一つずつ増して行く「行」について概略的に述べ、ふたつは、「教」に当てはめて一つずつ増して行く「行」について述べる。

そもそも、「行」は進んでこそ意味をなすものであるが、「智」がなければ進まない。「智」による理解は「行」を導くが、「境」がなければ正しい「行」とはならない。「智」を目とし、「行」を足として、悟りの清涼地に至るのである。しかし「智」による理解は「行」の本である。「行」は「智」を生じさせるので、「行」が満足してこそ「智」が円満となる。「智」は真理を表わす。真理を究めれば、「智」もやむ。このように、相対的に共に関係し合って用いられるものは、「妙行」ではない。「妙行」とは、一行が一切行となるのである。『法華経』に、「もと無数の仏に従って、完全にあらゆる道を行じる」とある通りである。また「ことごとく諸仏のあらゆる道法を行じる」とある。すでに具し、また深く、また尽くすのである。この「具」とはすなわち「広」という意味であり、「深」はすなわち「高」という意味であり、「尽」とはすなわち「究竟」という意味である。この「妙行」は、前に述べた「境」と「智」と一つであり、しかも三つであり、三つにして一つである。前に述べた「境」は法相(ほっそう・具体的な教えの姿)のようであり、法相もまたこの三つを備えるので「秘密蔵」と名付ける。前に述べた「智」は法相にそって理解を生じさせる。その理解にまたこの三つを備えることは、顔に目が三つあるようなものである。今ここで述べる「行」はまさに文字通り行じることである。この「行」にもまた三つを備えることは、悉曇文字の「伊」字(三つの点によって成り立っている文字)のようである。三つであっても一つであっても、何ら欠けるところがないために、「妙行」と呼ぶのである。

前に「境」に対して「智」を述べたが、ここではまた「智」に対して「行」を明らかにする。一つの「智」に対して「行」を明らかにすれば、その「行」は塵や砂のように多くあって、とても述べ尽くすことはできない。ましてや、あらゆる「智」に対して、それぞれの「行」を述べて導くことなどできようか。すなわち、その広いことはどこまでも広がる虚空のようである。このように真実を前にして言葉を失うのであるから、説くことはできない。『大智度論』に「菩薩は般若(最高の智慧という意味)を行じる時、特定の一つの教えをもって行としてすべての行を総括し、あるいは特定の一つ教えにおける無量の教えを行としてすべての行を総括し、あるいは特定の一つ教えにおける二つの教えを行としてすべての行を総括し、あるいは特定の二つの教えにおける無量の教えを行としてすべての行を総括し、このように、十の教え、百の教え、千万億の教えを行としてすべての行を総括し、あるいは、十の教えにおける無量の教え、千万億の教えにおける無量の教えを行としてすべての行を総括する」とある。「行」は多いとしても、「智」をもって本とする。「智」は導き手のようであり、「行」はそれに導かれる商人のようである。「智」は鋭い針のようであり、「行」は長い糸のようである。「智」が「行」の牛をよく操れば、車は安全に目的地に向かって進むのである。この数多い「行」を用いて、前に述べた「十如是」や「四諦」などの「智」にはじまって、「一実諦」とその「智」が指し示すところに向かうのである。この意味を理解すれば、正しい「智」をもってあらゆる「行」が導かれ、正しい「境」の中に入る。この意義は知識だけではなく、まさに「行」をもって知るべきであるので、これ以上はここに述べない。