解説を交えながら法華経を読もう

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 52

その時、下方にある多宝仏の国から、智積(ちしゃく)という名の菩薩が来て、多宝仏に次のように申し上げた。

「そろそろ本土にお帰り下さい。」

(注:「見宝塔品」にあったように、多宝塔と多宝如来は地面から現れ出た。つまり、多宝如来仏国土は「下方」にあるのである。その仏国土からお迎えが来たということである。)

その時、釈迦牟尼仏は智積菩薩に次のように語られた。

「良い男子よ。しばらく待つように。ここに文殊師利(もんじゅしり・文殊菩薩のこと)という菩薩がいる。その菩薩と会って、妙なる教えについて語り合って、それから本土に帰るがよい。」

その時、文殊師利は、大きさが車輪のような千葉の蓮華に座し、共に来た菩薩もまた宝の蓮華に座し、大海の裟竭羅龍宮(しゃからりゅうぐう・海の中にある竜王の宮)から自ら現われ出て、空中に留まり、霊鷲山(りょうじゅせん・この法華経が説かれている場所である耆闍崛山と同じ)に詣(もう)でて、蓮華より下りて、仏の前に至り、頭を釈迦仏と多宝仏の二世尊の足につけて礼拝し、それを終えてから智積菩薩の所に行って、互いに挨拶をして座った。

智積菩薩は文殊師利に次のように質問した。

「あなた様は、龍宮に行かれて、教化した衆生は何人でしょうか」

文殊師利は次のように答えた。

「その数は無量であって、計ることはできない。言葉にすることもできない。心で測ることではない。しばらく待たれよ。目に見える形で表そう。」

そのように言い終わらないうちに、無数の菩薩たちが宝の蓮華に座ったまま、海より現われ出て、霊鷲山に詣(もう)でて、空中に留まった。

この多くの菩薩は、みな文殊師利が教化して悟りに導いたのである。文殊師利は、菩薩の行なうべき六波羅蜜(ろくはらみつ)を彼らに説いて導いたのである。彼らのうちでもと声聞であった者には、文殊師利は空中にあって声聞の行なうべきことを説いて導いた。しかし今はみな、大乗の空の教えを修行している。

文殊師利は、智積菩薩に次のように語った。

「海において教化した者たちは、このようである。」

その時に智積菩薩は、詩偈の形をもって、讃嘆して次のように語った。

「大いなる智慧の徳を持つ健やかな勇者は 無量の衆生を教化して悟りに導かれた 今この大いなる会衆および私は 彼が実相(じっそう・あらゆる存在の真実の姿)の正しい意味を述べ伝え 一仏乗の教えを開いて 広く多くの人々を導いて 速かに悟りを成就させたことを見た」

文殊師利は次のように語った。

「私は海の中において、ただ常に妙法蓮華経を説いたのだ。」

智積菩薩は、文殊師利に質問して言った。

「この経は大変深く妙なる教えであり、あらゆる経典の中の宝であり、世においては会うことが難しい教えです。衆生がこの経に基づいて、少しくらい努力精進したところで、速かに仏になることができるでしょうか。」

文殊師利は次のように答えた。

「裟竭羅龍王の娘がいた。年齢は八歳である。智慧と能力に秀で、衆生の能力やその行ないを知り、優れた記憶力を持ち、諸仏の教えの深い秘密の意義をすべてよく受けて保ち、深く禅定に入って、あらゆる存在の真実を見極め、一瞬にして最高の悟りを求める心を起こして、退くことはなかった。何の妨げもなく教えを説き、衆生を思って慈しむことは、母親が幼い子供に接するようであった。功徳を備え、心に思うこと、口で語ることはすべて広く尊い。慈悲や情けがあり、心の底から柔和であり美しく、最高の悟りに至った。」

智積菩薩は次のように言った。

「私は釈迦如来を見たてまつるところ、無量劫において難行苦行して、功徳を積み重ねて菩薩の道を求めるに、一度も休まれることはありませんでした。三千大千世界(さんぜんだいせんせかい・すべての世界の意味)において、衆生のために、菩薩として身命を捨てなかったところなど、芥子粒ほどもありませんでした。そしてその後に、最高の悟りを得られました。この女が非常に短い期間で、悟りを成就するなど信じられません。」

このことばが終わらないうちに、龍王の娘はたちまち姿を現わして、仏を深く礼拝し、その場の片隅に座って、詩偈の形をもって次のように仏を讃嘆した。

「深く罪に対しても福に対しても それらの真実の姿を見極め その光はあらゆるところを照らされる 妙なる清い法身(ほっしん・真理が目に見える形をもって現われた仏という意味)は 仏の持つすぐれた姿をもって ご自身を厳かに飾られる 天も人も仰ぎ敬い 龍神もみな敬い礼拝する すべての衆生は 尊く仰ぎ奉らない者はない また悟りを得たということは ただ仏だけが正しく証される 私は大乗の教えをもって 苦しみの中にいる衆生を悟りに導こう」闡いて 苦の衆生を度脱せん」

その時、舎利弗は龍女に次のように語った。

「あなたは短い間に、この上ない道を得たと言ったが、このことは信じられないことである。なぜなら、女身は汚れていて、教えを受ける器ではない。どうして、この上ない悟りを得られるだろうか。仏道ははるかに高く遠く、無量劫を経て、努めて勤苦して行を積み、菩薩の行なうべき修行を完全に成就して、その後に悟るのである。また女人の身には、なお五つの障りがある。一つは梵天王になることはできない。同じく二つは帝釈、三つは魔王、四つは転輪聖王(てんりんじょうおう・世界を治める王という意味)、五つは仏身になることはできない。なぜ女の身で、速かに仏になることができるだろうか。

(注:しばらく姿を見せないと思っていた舎利弗が、突然ここで登場した。そして、自分は授記を受けて喜んだにもかかわらず、また堅苦しいことを主張して、龍王の娘が仏になったことを受け入れない。このように、やはり小乗を代表する舎利弗は、法華経でも他の大乗経典でも、このようなキャラクターで用いられるのである。そして決まって後にやり込められ、恥じ入る、という損な役柄である。)

その時に龍女は、一つの宝珠を持っていた。それには、三千大千世界と同じほどの価値があった。龍女はそれを仏に差し上げた。そして仏はすぐにそれを受け取られた。龍女は智積菩薩と舎利弗に次のように語った。

「私は宝珠を献上しました。世尊の速やかに納受されたでしょうか。」

二人は「とても速やかに納受された」と答えた。

龍女は次のように言った。「あなたの神通力をもって、私が仏となる姿を見てください。仏が宝珠を受け取られるよりも速やかでしょう。」

その時、その会衆はみな、龍女が一瞬のうちに男子となって、菩薩の行を成就して、すぐに南方の無垢(むく)世界に行き、宝の蓮華に座して、最高の悟りを得て、仏の姿の特徴をすべて身につけ、広くあらゆる方角の衆生のために、妙なる教えを説く姿を見た。

その時、娑婆世界の菩薩、声聞、天龍をはじめとした天的存在、魔的存在、人などみな、その龍女が仏となって、人や天のために教えを説く姿を見て、大いに歓喜し、その場から仰ぎ見て敬い礼拝した。無量の衆生は教えを聞いて悟りを開き、退くことのない位を得、また無量の衆生は仏になることの授記を得た。無垢世界は六つの方向に震動した。娑婆世界の三千の衆生は悟りに向かって退かない位を得、また三千の衆生は悟りを求める心を起こして授記を得た。
智積菩薩および舎利弗はじめ、あらゆる会衆は、そのすべてを黙って信じ受け入れた。

(注:龍女が、女の姿のままで仏になると思いきや、結局いったん男となるのか、と大いにツッコミを入れたくなるところであるが、それはそれとして、この章では、すでに述べたように、とても仏にはなれないような存在まで、法華経を聞くことによって仏となるのだ、ということを伝える内容である。)

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 51

妙法蓮華経 提婆達多品 第十二

 

その時に仏、多くの菩薩、および天や人や出家者や在家者のすべてに次のように語られた。

「私は、過去の無量の劫の中において、法華経を求めることに、たゆむことはなかった。多くの劫の中において、常に国王となって、願を発して、この上ない悟りを求め続け、心が退くことがなかった。

六波羅蜜(ろくはらみつ・菩薩の行なうべき六つの行ない)を満たそうと、布施を行なったが、象や馬や多くの宝、国や城や妻子、奴隷や従者、さらに自分の頭や目や髄や脳、身の肉や手足を惜しむ心はなく、命さえ惜しまなかった。

その時の世の民たちは、その寿命が無量であった。教えのために、国における位を捨て、政(まつりごと)を太子に任せ、鼓を打って四方に宣布して教えを求めた。『誰が私のために大乗を説く者はいないか。もしそのような者がいるなら、私は命が尽きるまで、その者に仕えよう。』

その時に仙人がいた。王である私のところに来て、次のように語った。

『私は大乗を持っている。それは妙法蓮華経という。もし私に従うなら、あなたのために説こう。』

王である私は、仙人の言葉を聞いて、躍り上がって喜び、すぐに仙人に従って、身の回りのことを供給し、食物を集め水を汲み、薪を拾い食卓を設け、さらに自分の身を座る椅子とするまで仕えたが、身や心にも怠けることはなかった。そのように奉仕すること千歳を経て、教えのために努めて仕え、仙人に不足がないようにした。」

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「私は非常に遠い過去を想起すれば 大いなる教えを求めるために 世の国王となっても 肉体的な楽しみなど貪らなかった 鐘をついて四方に告げた 『誰が大いなる教えを持つ者はいないか もし私のために説いてくれるなら 私はその者の奴隷となろう』

その時に阿私(あし)という仙人がいた 王である私のところに来て 次のように語った 『私は妙なる教えを持っている 世においては 知ることが非常に難しい教えである もし熱心に修行するというならば 私はあなたのために説くであろう』 その仙人の言葉を聞いて 王である私は大いに喜び すぐに時に仙人に従って 身の回りのことを供給し 薪および食物を集めて 心を尽くして食卓を設けた 妙なる教えを慕うために 身にも心にも怠けることはなかった 広く衆生のために 大いなる教えを熱心に求め また自分の身体 および肉体の楽しみのためには動かなかった 大国の王となっても 熱心にこの教えを求め その結果この教えを得て ついに仏になることができたのである このために今 あなたたちに説くのだ」

仏は多くの僧侶たちに次のように語った。

「その時の王とは今の私であるなら、その時の仙人は誰であろうか。まさに今の提婆達多(だいばだった)なのである。提婆達多が、私にとって善知識(ぜんちしき・教えを授けてくれる尊い者)であったので、菩薩の行ないを成就し、仏の持つさまざまな姿や能力を得ることができた。仏になって、最高の悟りを得て、広く衆生を導くことができたのは、すべて提婆達多が善知識になったからなのである。」

仏は多くの人々に次のように語られた。

提婆達多は、無量の劫を過ぎた後、まさに仏になるであろう。名を天王如来といい、その世界を天道と名づける。

その時に天王仏は、世にあること二十中劫(ちゅうこう・これも測ることができないほどの歳月を意味する)、広く衆生のために、妙なる教えを説くであろう。大河の砂の数ほどの衆生は、阿羅漢果(聖者の位)を得て、無量の衆生は縁覚の心を起こし、その多くの衆生は、この上ない道を求める心を起こし、空を悟って、退かない悟りの位に着くであろう。その時、天王仏が悟りを開いた後、正法が世にあること二十中劫、全身の舎利にあらゆる宝の塔を建て、その高さも広さも大きさも、測ることができないほどである。多くの天や人民たちは、みな多くの花や抹香、焼香、塗香、衣服、瓔珞、旗、宝の覆い、伎楽、歌頌などをもって、その宝の妙なる塔を礼拝し供養する。

多くの衆生は阿羅漢果を得、無数の衆生は、辟支仏を悟り、また多くの衆生は、悟りを求める心を起こして、決して後に退かない位に至るであろう。」

仏は、多くの僧侶たちに次のように語られた。

「未来の世に、もし良い男子、良い女人がいて、妙法蓮華経提婆達多品を聞いて、清らかな心において信じ敬い、疑惑を生じさせない者は、地獄、餓鬼、畜生の世に落ちることなく、あらゆる方角の仏の前に生まれるであろう。その生まれた世においては、常にこの経を聞くであろう。もし人や天の中に生まれたならば、優れて妙なる楽しみを受け、もし仏の前にあっては、蓮華より化生(けしょう・人の胎を通さず生まれること)するであろう。」

(注:今回から第十二章目にあたる「提婆達多品(だいばだったほん)」である。しかし、少しでも仏教について知っている人が、初めてこの章を読むならば、誰でも「ギョッ」とするであろう。この章では、とても仏になることができないと思われる者たちが仏になる、いやそればかりではなく、過去の釈迦を教えた人物なのだ、とまで語られているからである。提婆達多とは、仏教の伝承の中では最悪の人間である。一説には、釈迦のいとこだったと言われるが、最初、釈迦に従って出家したものの、その後、自分が教団のリーダーになろうともくろみ、次第にその思いがエスカレートして、最後は釈迦の弟子を殺害し、ついには釈迦に襲いかかって、釈迦の体を傷つけたと言われる。そのため、もちろん即、地獄に落ちたとまで伝えられる者である。そのような提婆達多が、過去の釈迦の師匠の仙人であり、仏になるという授記を与えられる。これほど、この法華経は、世の常識ばかりではなく、仏教の常識まで覆してしまうのである。)

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 50

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「聖なる主である世尊は 遠い過去に滅度されても 宝塔の中におられ この教えのために来られた 人々は教えのために努めないことがあろうか
この仏が滅度され 数えることができないほどの歳月が過ぎた 教えは常に目の前にあるのではなく 定まった場所でのみ聞くことができる それほど教えには会うことが難しい 彼の仏の本願は 私の滅度の後も 定まった場所に赴いて 常に教えを聞くことである

(注:多宝如来は、遠い昔に滅度した仏である。滅度とは、これも何度も述べているように、完全にその仏の存在がなくなることであり、それでこそ究極の悟りであるとされる。ではなぜ、多宝如来はここに来たのだろうか。それを解く鍵が、「塔」ということである。これもすでに述べたことだが、大乗仏教は、釈迦の遺骨を納めた塔廟を管理していた在家(出家者ではない一般人)の人々が中心になって起こった宗教運動であった。つまり釈迦は死んでいなくなっても、その塔の中に今でも変わらずおられるのだ、という信仰がそこにある。それが多宝如来においても当てはめられているのである。繰り返し「多宝仏の全身」という表現があることも、火葬されたがバラバラになったわけではない、という意味がこめられている。またさらに、その多宝如来の入っている塔廟の中に、釈迦仏までが入って、これからその塔廟の中から説法するのであるから、この法華経には、他の大乗経典以上に塔廟に対する信仰が如実に表されていると言える。また法華経においては、釈迦は再びこの多宝塔の中から出て来ることはないので、そのまま滅度ということになる。そのために本文でも、自分の滅度の後にこの法華経をゆだねられる者は誰か、と問われているのである。このようなことも、法華経は究極的な大乗経典だと言われる理由であろう。もちろん、霊的世界においては、仏の滅度の前も後も、結局は同じ真理の中にいることであるので、根本的な違いはないのである。)

また私の分身の 大河の砂の数ほどの諸仏が来られたのは やはり教えを聞き そして滅度された多宝如来を見るためである その国土の菩薩たちや弟子たちや天的存在や魔的存在から供養されることを捨て 教えを長く伝えるためにここに来られたのだ

私は諸仏を座に着かせるために 神通力をもって 無量の衆生を移して国を清めた 諸仏はそれぞれ宝樹の下に来られたが それは清らかな池に荘厳な蓮華が咲いたようだ その宝樹の下の 多くの立派な座には仏が座られ 光明によって厳かに飾られること まるで夜の闇の中に 大いなる灯火を燃やしているようである その身より妙なる香を出して あらゆる国を満たしている 衆生はその薫りを受けて 抑えきれないほどの喜びを抱くこと まる大風に揺らぐ小さな樹の枝のようだ このような方便をもって 教えを長く留まるようにするのだ

大衆に告げる 私の滅度の後に 誰がこの経を護持し読誦するのだろうか 今仏の前において 自ら誓って語るがよい 

多宝仏は 遠い昔に滅度されたが 大いなる誓願をもって ここに師子が吼えるように言葉を発せられる

多宝如来 および私の身と集まった分身の化仏(けぶつ) まさにこの意味を知るべきである 多くの仏の子らよ 誰がこの教えを護るだろうか まさに大願を発して この教えが長く伝えられるようにすべきである 経の教えを護る者は すなわち私と多宝物を供養するのである この多宝仏は 宝塔の中におられ 常にあらゆる方角に行き来される それはこの経のためである

またこの経の教えを護る者は 集まって来た私の化仏のそれぞれの世界を荘厳にし 光輝く者たちを供養するのである もしこの経を説くならば すなわち私と多宝如来 および多くの化仏を見るようになる

多くの良き男子たちよ それぞれ明らかに思惟せよ これは難しいことである 大いなる願を発すべきである

他の多くの経典の数は 大河の砂の数ほど多い しかしこれらをすべて説くことは 難しいこととは言えない もし須弥山(しゅみせん・仏教の世界観で世界の中心にそびえる最も高い山)を取って 他方の無数の仏国土に投げ飛ばすことも 難しいこととは言えない もし足の指をもって 大千界を動かし 遠く他国に投げ飛ばすことも 難しいこととは言えない もし有頂天(うちょうてん・天で最も高い天)に立って 人々のために 他の無量の経典を講義するとしても 難しいこととは言えない もし仏の滅度の後に 悪世の中において この経を説くならば これを本当の難しいことと言うのだ もしある人が 虚空を手でつかんで 空を飛び回ったとしても 難しいこととは言えない 私の滅度の後において この経を自ら書き写して持ち あるいは人に書かせること これを本当の難しいことと言うのだ もし大地を足の甲の上に置いて 梵天に昇ったとしても 難しいこととは言えない 仏の滅度の後に 悪世の中において 少しでもこの経を読むならば これを本当の難しいことと言うのだ とてつもない大火があって 乾いた草を背中に担いで その中に入って焼けなかったとしても 難しいこととは言えない 私の滅度の後に この経を持って 一人のために説いたとしたら これを本当の難しいことと言うのだ もし八万四千の教えや 十二部経(じゅうにぶきょう・いわゆるすべての経典)を持って 人のために講義し その聞く者にあらゆる神通力を得させたとしても 難しいこととは言えない 私の滅度の後において この経を聴受して その意味を質問すること これを本当の難しいことと言うのだ もし人が教えを説いて 千万億の大河の砂の数ほどの衆生に 阿羅漢(あらかん・聖者の意味)の結果を得させ あらゆる神通力を得させるという成果をあげたとしても 難しいことは言えない 私の滅度の後において この経典を敬って保つこと これを本当の難しいことと言うのだ

私は仏の道を得て 無量の国土において 最初から今に至るまで 広くあらゆる経を説いた しかしその中において この経が第一である もしよく保つ者があれば すなわち仏の身を持つことになるのだ

多くの良き男子たちよ 私の滅度の後において 誰がこの経を受け保ち読誦するだろうか 今仏の前において 自ら誓って言葉を述べよ

この経は保つことが難しい もし少しでも保つ者がいれば私は大いに喜ぶのだ 諸仏も同様である このような人は諸仏に褒められるのだ このような人を勇猛と言うのだ これが本当の精進である これこそ戒を保ち 執着を捨てる修行をする者と名づけるのだ すぐにこの上ない仏の道を得るであろう 来世において この経を読み保つ者は これこそ真実の仏の子 清らかな良い地に住むことになるのだ 仏の滅度の後に この経の意味を解説するならば これこそ多くの天や人の世間の眼である 恐ろしいことの多い世において 少しでもこの経を説くならば すべての天や人は その人を供養すべきである」

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 49

その時、釈迦牟尼仏は、分身の諸仏を受け入れるために、あらゆる方角の二百万億を千億倍した数の国を、みな清らかな国と変えられた。そこには、地獄、餓鬼、畜生、および阿修羅などの悪しき世界はなかった。また多くの天や人を他の国土に移した。変えられた国の地は瑠璃であり、宝樹で荘厳に飾られていた。その樹の高さは測ることができないほどであり、枝や葉、花や実などみな厳かに飾られていた。その樹の下にはみな、宝の立派な座が設けられていた。高さ五は測ることができないほどであり、あらゆる多くの宝によってできていた。また大海、江河、およびあらゆる高い山もなく、すべて宝の地面で平坦なひとつの仏国土となっていた。宝によってできている網がその上を覆い、あらゆる旗がかかり、大いなる宝の香が焚かれ、多くの天の宝の花がその上に注がれていた。

釈迦牟尼仏は、さらに諸仏が来られて座られるため、またあらゆる方角の二百万億を千億倍した数の国を、みな清らかな国と変えられた。(以下は上記と同じであるため省略する)。

その時、東方の百千万億を千億倍した数の仏国土において説法している釈迦牟尼仏の分身の諸仏は、この場所に来た。このように順次、あらゆる方角の諸仏は、みなこの場所に来て、あらゆる方角に座った。

こうして、ひとつひとつの方角の、四百万億を千億倍した数の国土に、諸仏如来は充満したのである。
この時、諸仏は各宝樹の下にある立派な座に座り、みなその侍者を遣わして、釈迦牟尼仏に挨拶をしようとした。それぞれ宝の花を侍者である菩薩に渡して、次のように言った。

「良き男子よ。あなたは耆闍崛山釈迦牟尼仏の所に往詣して、次のように言いなさい。『病少なく、悩み少なくして、気も力も安楽でいらっしゃいますか。また菩薩や声聞の方々も、みな安穏でいらっしゃいますか。』 そして、この宝の花を仏の上に散じて、次のように言って供養しなさい。『彼のそれがし(仏の名前が入る)の仏は、この宝塔を開こうと願っています』と。」

このように、他の諸仏も、使いを遣わして同じようにした。
(注:このように、最初は、釈迦の分身の諸仏を集める、ということだったが、結局、すべての諸仏が娑婆世界の釈迦のいる所に集まってきた、ということになった。

さらに、集まって来た諸仏は釈迦に侍者の菩薩を遣わして、挨拶をさせているが、この諸仏が釈迦の分身であるか、他の諸仏であるかも明らかになっていない。釈迦の分身が釈迦の本体に挨拶をする、ということがあり得るかどうか、ということも考えるべきところだが、すでに法華経の世界は常識を超えているので、そのようなこともあり得るだろう。

さらに、本文を見る限り、集まって来た諸仏がすべて娑婆世界に入った、ということではなく、みな娑婆世界の釈迦に会うために、それぞれの仏国土ごと、この娑婆世界を中心とした場所に集合した、と解釈した方がいい。娑婆世界はあくまでもあらゆる仏国土の一つに過ぎない。すべての諸仏が娑婆世界の中に入ってしまうならば、他の仏国土はみな、仏がお留守になってしまう、ということが考えられる。

ここまで繰り返して述べているように、本来、霊の世界には空間もなく時間もない。それこそ数えきれないほど記されていた「数えきれないほどの数」や「測ることのできない高さ」などの表現は、本来、霊の世界においては何ら意味のない言葉なのである。ただ、それが人間の常識をはるかに超えている、ということを表現する言葉に過ぎないのである。このような世界観を理解して法華経を読み進めなければ、誰でも理解の許容範囲を超えて、読むことさえ馬鹿馬鹿しくなって、中断を余儀なくされるのである。)
その時に釈迦牟尼仏は、分身の諸仏がみな集まり、それぞれの立派な座に着いたことをご覧になり、そして、諸仏が同じく、宝塔を開くことを願っていることを聞かれ、すぐに座より立って、空中に上りそこに留まられた。すべての人々は起立して合掌し、一心に仏を見上げた。

そこで釈迦牟尼仏は、右の指をもって七宝塔の戸を開かれた。そのとき、まるで大きな城の門の閂(かんぬき)を抜いて開く時のような、非常に大きな音がした。すぐにすべての会衆は、多宝如来が宝塔の中の立派な座に着き、全身が完全な形であり、禅定に入っているかのような姿を見た。さらにまた「良いことだ、良いことだ。釈迦牟尼仏よ。快くこの法華経を説かれた。私はこの経を聞くために、ここに来たのだ」という声を聞いた。

その時にすべての人々は、過去の無量千万億劫に滅度された仏が、このような言葉を語るのを見て、今までになかったことだと讃嘆し、天の宝の花をもって、多宝仏と釈迦牟尼仏の上に散じた。

その時、多宝仏は宝塔の中において、座の半分を分ち、釈迦牟尼仏に与えて、「釈迦牟尼仏よ。この座に着かれよ」と告げられた。すると即時に釈迦牟尼仏はその塔中に入り、その半分の座に着いて、結跏趺坐された。

その時、大衆は、二人の如来が七宝の塔中の立派な座にあって、結跏趺坐されている姿を見て、次のように思った。

「仏はあまりにも高く遠くにおられる。願わくば如来の神通力をもって、私たちも共に空中に引き上げていただきたい。」

すると即時に釈迦牟尼仏は、その神通力を用いて、多くの大衆をみな空中に引き上げられた。そして、大きな声で次のように語られた。

「誰がこの娑婆国土において、広く妙法蓮華経を説くだろうか。今はまさにその時である。如来は後わずかでまさに涅槃に入るであろう。そのため仏は、この妙法蓮華経をゆだねる者を求めているのだ。」

(注:多宝塔の門が開かれ、多宝如来の姿が見えたかと思ったら、すぐに釈迦如来もその塔の中に入って、多宝如来と仲良く並んで座った。さらに会衆までが空中に引き上げられ、空中で仏の説法を聞く、という、まさにダイナミックな場面が展開され始めた。続いて、釈迦は間もなく入滅するので、この法華経をゆだねる者を求めているという、重要な言葉を発したのである。

なお、ここで明記しなければならないことがある。この現代語訳では、あらゆる方角の諸仏と、また、あらゆる方角の釈迦の分身の諸仏とに区別があるように記したが、あくまでも法華経原文では、そこに明確な区分は読み取れない。区別があるようにも読めるし、区別がないようにも読めるのが事実である。例えば、日蓮は、すべての諸仏は釈迦の分身であると解釈しているが、『岩波文庫』のサンスクリット原典からの直訳では区別があるように訳している。しかし、上にも述べたように、そもそも霊的世界における真理においては、何ものにも明確な区別などないのであり、ましてや、仏の次元まで到達した存在はなおさらである。したがって、釈迦分身の諸仏と他の諸仏の区別についてああだこうだと思索し過ぎるのは、枝葉を見て木を見ないことである。

つづく


 #法華経 #仏教 #現代語訳

法華経 現代語訳 48

大楽説菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私たちは世尊の分身の諸仏を見て、礼拝し供養させていただきたいです。」

その時、仏が白毫(びゃくごう・仏の眉間にある白い毛の渦)から光を放つと、たちまち東方にある、大河の砂を五百万億の千億倍した数の仏国土の諸仏を見ることができた。それらの国土の土地はみな水晶であり、宝樹や宝衣によって荘厳に飾られ、無数千万億の菩薩たちがその中に満ちていた。宝の覆いが張られ、さらにその上に宝の網が掛けられていた。その国の諸仏は、大いに妙なる声をもって、あらゆる教えを説いていた。さらに無量千万億の菩薩たちが諸国に満ち、人々のために教えを説いているのが見えた。

同じく四方八方、さらに上下の世界が白毫の光で照らされ、見えるところもこれと同じであった。

その時に、そのあらゆる方角の諸仏は、それぞれの菩薩に次のように語った。

「良き男子たちよ。私は今まさに、娑婆(しゃば)世界の釈迦牟尼仏の所に行き、そして多宝如来の宝塔を供養しようと思う。」

(注:多宝塔の中にいる多宝如来を見るためには、釈迦の分身の諸仏を集めねばならないことになり、さっそく釈迦の白毫から光が放たれると、あらゆる仏国土にいる諸仏とその世界が映し出された。これと似たことが、すでに法華経の『序品』に記されていたが、『序品』では、下は地獄から上は仏の世界までのすべての様子が映し出されたが、今回は仏国土の様子だけが映し出されている。そして、その諸仏は、さすがに釈迦のいる娑婆世界で何が起きているかを言われなくてもわかっており、これから娑婆世界に赴き、釈迦如来多宝如来を供養しようと思うと、各仏国土の菩薩たちに言ったのである。ところが、この時、娑婆世界の様子が一変するのである。あらかじめ予備知識として知らねばならないことは、娑婆世界とは、今私たちが住んでいるこの世のことであるので、けっこう清らかでない者たちがたくさんいたり、仏国土にふさわしくない山や谷などのでこぼこがあったりするのである。そのようなところに、他の世界の仏様がたを集めるわけにはいかない、と言わんばかりに、ここでこの娑婆世界の様子が一変するのである。)

その時、娑婆世界はたちまち清らかな国土に変化した。地面が瑠璃(るり)の宝石であり、宝樹で荘厳に飾られ、黄金の繩が張り巡らされ、あらゆる集落・村落・城・海・江河・山川・森林などはなく、大いなる宝の香が焚かれ、天の花によって地面が覆われ、宝の網がその上に掛けられ、あらゆる宝の鈴が垂れ下がっていた。さらに、この法華経を聞くための会衆だけが残り、その他の天や人は他の国土に移された。

(注:このように、私たちが住むこの世界は、どんでもなく厳かな仏の国土らしい国土に変わった。何よりも注目されるのは、法華経の会衆だけを残し、他の者たちは他の国土に移住させられたという強引な「政策」である。このようなことが、この世で行なわれるわけがない。法華経は、歴史的釈迦が実際にインドにある耆闍崛山(ぎしゃくせん)で説いた教えであると、あくまでも主張する人々は、本当はこのような本文を読んでいないのではないかと思わざるを得ない。法華経をこの世の常識で読んでは、絶対にその霊的な意味を読み取ることはできない。法華経は、霊的世界を描いた壮大な真理のドラマである。それを読み取るためには、やはり霊的目をもって読まねばならないのである。)

その時に諸仏は、それぞれ一人の仏が一人の大菩薩を侍者として連れて娑婆世界に来て、それぞれの宝樹の下に着いた。各々の宝樹の高さは測ることができないほど高く、枝葉も花も実も荘厳であった。それぞれの宝樹の下に、仏のための立派な座があった。その高さも測ることができないほど高く、みな大いなる宝によって飾られていた。

そして諸仏は、それぞれの座に着いて結跏趺坐(けっかふざ・仏が足を組んで座ること)した。

このように、あらゆるすべての世界の仏たちは集まってきたが、しかし、釈迦牟尼仏の分身の諸仏は、ひとつの方角の仏であっても、ひとりも来てはいなかった。

(注:娑婆世界が荘厳なる世界に変わり、あらゆる方角の諸仏がその侍者を連れて集まって来て、それぞれ宝樹の下の座に着いたわけであるが、何とまだ、釈迦の分身の諸仏は誰も来てはいなかった、というのである。これはなぜであろうか。理由は書いてないが、まずは他の仏様たちからどうぞ、ということなのであろう。自分たちが先に娑婆世界に行って、後から来る仏様たちの場所がなくなっては申し訳ない、ということなのだろう。その証拠に、これから釈迦は、自分の分身の諸仏のための場所を作ることになる。このように、最初は多宝如来の姿を見るために、釈迦の分身の諸仏を集める、ということであったが、結局、すべての世界のすべての仏たちが、この娑婆世界に集まって来るという、ものすごいことが起こり始めてしまったのである。)

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

法華経 現代語訳 47

妙法蓮華経 見宝塔品 第十一

 

その時、仏の前に多くの宝によってなる塔があった。高さも縦横の長さも、測ることができないほどであった。地面より現れ出て、空中に留まった。この塔は、さまざまな宝物をもって荘厳に飾られていた。そして五千の欄かんがあって、部屋も千万あった。無数の旗が厳かに飾られ、宝石が垂れ下がり、万憶もの宝の鈴がその上に懸かっていた。四面に妙なる香木の香りを放ち、その香りは世界に充満した。その多くの旗や覆いは、金銀やあらゆる宝石、珊瑚、真珠などの宝をもってできており、その高さは四天王のいる天にまで至った。 多くの天的存在は、天の花である曼陀羅華(まんだらけ)を注いで、この宝塔に供養した。他の千万憶の天的存在、魔的存在は、あらゆる花や香、宝石、旗、伎楽をもって、宝塔に供養して、敬い尊重し讃歎した。

(注:今回から、第十一章目になる『見宝塔品』(けんほうとうほん)である。意味は文字通り、「宝塔を見る章」である。

東大寺戒壇院などにある、法華経の世界を現わした仏像は、塔の中に二人の仏像が仲良く並んでいるという形が多い。その塔が、今回仏の前にあったという塔、すなわち多宝塔であり、その二人の仏像の一人はもちろん釈迦如来、もう一人が、これから塔の中から登場する多宝如来である。ここから、法華経の最後まで、釈迦如来多宝如来法華経の説法の中心にいることになる。しかし、多宝如来はほとんど語ることはなく、引き続き語るのは釈迦如来である。その多宝如来の役割などが、ここから語られることになる。)

その時、宝塔の中より、その場を讃嘆する大きな声が聞こえ、次のように語った。

「良いことだ、良いことだ。釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん・釈迦の正式な名前)よ。平等にして大いなる智慧であり、菩薩を教化する教えであり、仏が念じ守るところの妙法蓮華経を大衆のために説かれた。それで良い、それで良い。釈迦牟尼世尊が説かれたことは、みな真実である。」

その時にあらゆる人々は、大いなる宝塔の空中に留まっているのを見て、また塔の中より発せられた声を聞いて、みな喜び、今までになかったことだと驚き、座より立ち上がり、敬って合掌し、会衆の片隅に座った。

その時、一人の大いなる菩薩がいた。名を大楽説(だいぎょうせつ)という。すべての人々、および天的存在、魔的存在の思いを知って、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。どのような因縁で、この宝塔が地面より現われ出たのですか。またなぜその中から、この声が発せられたのですか。」

その時、仏は大楽説菩薩に次のように語られた。

「この宝塔の中に、如来の全身がある。今より過去の世に、東方の国土を数えきれないほど過ぎた世界に、宝浄(ほうじょう)と名付けられた国土があった。その国に仏がおられ、名を多宝(たほう)といった。その仏は、仏になる前の菩薩の道を行じていた時、大いなる誓願を次のように立てた。『もし私が仏になり、さらに滅度の後、あらゆる方角の国土において、法華経が説かれるならば、この経を聞くために、私の塔廟がその前に現われ、その経が真実であることを証明し、讃めて「良いことだ」と言おう』。

(注:大乗経典の中には、ある仏が、仏になる前の菩薩の段階で、「私が仏になったらこのようなことをしよう」という誓願を立てた、という記述が多く見られる。いわゆるマニフェストである。有名な阿弥陀仏の「本願」も、実はマニフェスト、つまり公約なのである。阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩であった時、自分が仏になったならば、自分の名前を呼ぶ者が自分の仏国土に生まれることができるようにする、という誓願を立てたのである。それが、『無量寿経』(むりょうじゅきょう)に記されている、法蔵菩薩四十八願中の第十八願の誓願である。この法華経における多宝如来が菩薩であった時に立てた誓願は、法華経が説かれる場所がどこであろうと、必ず自分が死んだ後に建てられた塔廟がそこに現われ、「良いことだ」と褒め称えよう、というものであった。つまり、多宝如来がお墓ごとそこに現れる、ということである。その誓願通り、ついに釈迦が法華経を説いている場所に、多宝塔が地面から湧き出で、空中に留まったのである。こうして法華経は、まるでSF映画のような場面が次々に展開して行くのである。)

その多宝如来が仏になって、さらに滅度する時となり、仏は天や人間などの大衆の中において、僧侶たちに次のように語られた。

『私が滅度した後、私の全身を供養しようとする者は、まさにひとつの大きな塔を建てるべきである』。

その仏は、神通の願力をもって、あらゆる方角の世界のあらゆる場所で、もし法華経が説かれるならば、その宝塔はその前に現われ出て、皆其の前に涌出して、塔の中におられる如来の全身が、讃めて『良いことだ、良いことだ』と言うのである。

大楽説よ。今、多宝如来の塔は法華経が説かれることを聞くために、地面より現れ出て、讃めて『良いことだ、良いことだ』と言ったのである。」

この時、大楽説菩薩は如来の神通力に動かされて、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。願わくば、その仏の全身を見させてください」。

仏は大楽説菩薩摩訶薩に次のように語られた。

「この多宝仏には、深く重要な誓願があるのだ。それは、『もし私の宝塔が法華経を聞くために諸仏の前に出て、さらに私の全身をもって、会衆に示そうとするならば、その国土の仏の分身の諸仏、つまりあらゆる世界にあって説法している諸仏をすべてひとつの場所に戻して集め、その後に、私の全身を現わそう』というものである。

大楽説よ。私の分身の諸仏、つまり今あらゆる方角の世界にあって説法している者を、今まさにここに集めようではないか。」

(注:話がだんだんややこしくなってきた。仏の神通力にうながされて、大楽説菩薩は、その多宝如来の全身を見たい、と願い出た。確かに、塔廟の中からの声を聞けば、誰だってその仏そのものを見たいと願うだろう。しかし、それにはさらに条件があった。多宝如来が塔廟に入ったまま、法華経が説かれる場所に現れて、さらに全身を現わす必要が生じた時は(必要がない時などないと思われるが)、その法華経を説いている仏の分身をそこに集めねばならない、ということなのである。ここで仏の分身、という、さらにSFチックな言葉が出てきた。釈迦であろうがどの仏であろうが、仏たる者、その仏の分身である多くの仏がまた存在し、その仏たちがあらゆる方角のあらゆる仏国土で説法をしている、というのである。まさに、霊の世界の自由自在な活動を表わす事実である。したがって、ここで法華経を説いている仏は釈迦如来であるから、今、釈迦の分身をこの場に集めてこそ、多宝如来のお顔を拝することができる、ということになったのである。ここからさらに、奇想天外な場面が次々に展開し始める。)

つづく

 

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法華経 現代語訳 46

その時に仏は、また薬王菩薩摩訶薩(まかさつ・偉大な菩薩という意味)に語られた。「私の語る経典は無量千万億であり、それらはすでに説かれ、今説かれ、これから説くであろう。しかしその中において、この法華経は最も信じることが難しく、理解することが難しい。
薬王よ。この経は諸仏の秘められた重要な教えである。みだりに広めて人に与えるべきではない。諸仏世尊が守護する教えである。昔より今まで、いまだに明らかに説かれてはいない。しかもこの経は、如来が存在する現在ですら、なお非難されることが多いのであるから、如来の滅度の後はなおさらである。
薬王よ。まさに知るべきである。如来の滅度の後に、この経を書き写し、読誦し、供養し、他の人に説く者は、如来はその衣をもってその者を覆うように守のである。また、他の方角の現在の諸仏に覚えられ、守られる。その者は大いなる信仰の力、および大いなる志と願いと、多くの善を生む力がある。
まさに知るべきである。この者は、如来と寝起きを共にするようなものである。そして、如来の手をもって、その頭をなでられるのである。

(注:「如来の手をもって、その頭をなでられる」とは、仏になるであろうという授記を受ける意味とされる。そして、子供をほめるとき、「頭をなでなでする」ということがされるが、それは法華経のこの個所に由来する。いわゆる、最高にほめることを意味するのである。)

薬王よ。あらゆる場所で、この経を説き、内容を読んで理解し、読誦し、書き写し、あるいは経巻が保存されるならば、みなまさにその場所には、あらゆる宝によって作られた、大きく高い塔を建てて、荘厳な装飾を極めるべきである。
また、仏塔だからと言って、舎利(しゃり・仏の遺骨)を収納する必要はない。なぜならば、この経の中には、すでに如来の全身があるからである。その塔を、まさにすべての花や香、宝石、飾られた覆いや旗、そして伎楽や歌をもって供養し敬い、尊重し賛美すべきである。もしある人がこの塔を見て礼拝し供養したとすれば、まさに知るべきである、そのような人はみな、最高の悟りに近づいたことになるのである。
薬王よ。多くの人が、在家(ざいけ・出家をしていない一般信徒)であっても、出家者であっても、菩薩(自分の悟りだけではなく、他の人の悟りのために生きる者)の道を行っている場合、まだその者が、この法華経を見たことも聞いたことも、読誦したことも、書写したことも、供養したこともなければ、まさに知るべきである、その者は正しく菩薩の道を行っているとは言えないのである。もしこの経典を聞くことができたならば、正しく菩薩の道を行なっていることになるのである。
 衆生の中に、仏の道を求むる者があり、この法華経を見たり、聞いたり、聞き終わって信じ理解し受け保つならば、まさに知るべきである、この者は最高の悟りに近づいたことになる。
薬王よ。例えばある人が、渇乏して水を求めていたとする。ある高原で井戸を掘ろうと土を掘り下げ始めた。その過程で、乾いた土が出て来るならば、まだまだ水は遠いことがわかる。さらに努めて続けるうち、次第に湿った土が出て来て、さらに泥に至るならば、間違いなく水は近いと知ることになる。菩薩の段階もこのようなことである。もしこの法華経を、まだ聞いたことがなく、まだ理解したことがなく、まだ修学したことがなければ、まさに知るべきである、この者は仏の最高の悟りから遠いのである。もし聞いて理解し、思考をめぐらし、修学することができたならば、間違いなく仏の最高の悟りに近づいたと知るべきである。なぜなら、すべての菩薩の最高の悟りは、この経の中にあるからである。この経は、方便の門を開いて、真実の姿を示すものである。この法華経の蔵のような教えは、深く固く幽遠であり、人が簡単に到達することはできない。今仏は、菩薩を教化して、悟りを成就させるために開き示すのである。
薬王よ。もし菩薩がいて、この法華経を聞いて、驚き疑い恐れたとする。まさに知るべきである、この者は、新たに悟りを求める心を起こした菩薩と名付けられる。しかし、菩薩ではない声聞の人がこの経を聞き、驚き疑い恐れたとする。まさに知るべきである、この者は思い上がった人間なのである。

薬王よ。もし良い男子、良い女子が、如来の滅度の後に、人々のためにこの法華経を説こうとするならば、どのようにしたらよいだろうか。この良い男子、良い女子は、如来の部屋に入り、如来の衣を着て、如来の座に座り、人々のためにこの経を説くべきである。
如来の部屋とは、すべての衆生に対する大いなる慈悲の心である。如来の衣とは、柔和忍辱の心である。如来の座とは、すべては空であるということである。この中に安住し、怠惰な心を捨てて、多くの菩薩や人々のために、広くこの法華経を説くべきである。
薬王よ。私はそのような者がいる国において、化人(けにん・仏によって仮に現わされた人)を遣して、その者のために教えを聞く人々を集め、また、化人である僧侶や尼僧、在家信者の男女を遣して、その説法を聴かせよう。それらの多くの化人たちは、その教えを聞いて信じ受け、従順であって逆らわないだろう。また、その説法者が、誰もいない場所にいるならば、私は広く天的存在、魔的存在を遣して、その説法を聴かせよう。私が他国にいたとしても、度々、説法者に私の姿を現わそう。またこの経を説くにあたって、言葉を忘れたならば、私はその場所に行って語り、思い出させよう。」

(注:仏が仮に現わした人や、さらに人ではない存在に説法しても、何の意味があるのだろうか、と誰でも思うであろう。しかし、聞く人がいなければ、説くこともできないのである。霊的世界においては、もともと真理だけがあり、その真理を説く人もいなければ、聞く人もいない。真理が真理としてこの世に現わされる、ということが重要なのである。誰が説こうが、誰が聞こうが、問題ではないのである。)
その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。「あらゆる怠惰な心を捨てようとするならば まさにこの経を聞くべきである この経は聞くことが難しく 信じ受け入れることも難しいからだ
例えば ある人が渇いて水を得ようとし 高原の土を掘り下げていったとする そして 乾燥した土ばかりが出て来るならば まだ水は遠いと知る しばらくして 湿った土や泥が出て来るならば 間違いなく水は近いと知るようなものである

薬王よ あなたはまさに知るべきである 法華経を聞かない人々は 仏の智慧を遠く離れているのだ 声聞の教えを終わらせる深い真理であり あらゆる経典の王であるこの経を聞き 聞き終って明らかに思考をめぐらせるならば まさに知るべきである このような者たちは 仏の智慧に近づいたのである 
もしこの経を説こうとするならば まさに如来の部屋に入り 如来の衣を着て さらに如来の座に座り 人々に対して恐れるところなく 広く彼らのために解説して説くべきである 大いなる慈悲をその部屋とし 柔和忍辱を衣とし すべては空であるということを座として 教えを説くべきである もしこの経を説こうとする時 人々が悪口し罵り 刀杖瓦石を加えるとしても 仏を念じてまさに忍ぶべきである 私は千万億の国土において 清く堅固なる身を現わし 無量億劫において 人々のために教えを説く もし私の滅度の後 この経を説こうとする者には 私が仮に現わしたあらゆる人々 僧侶や尼僧 および信者たちを遣わして この経を説く者を供養させ 多くの人々を導いて集め その教えを聞かせよう もし悪しき人々が 刀杖および瓦石を加えようとするならば すぐに変化(へんげ)の人を遣わして この者の護衛としよう もしこの教えを説く者が 人の声さえ聞こえない寂しい場所に一人でいて この経を読誦するならば 私はその時 清らかな光明の身を現わそう もし今日の言葉を忘れるならば そのために語り思い出させよう もし人がこのような徳を得て あるいはすべての人々のために説き あるいは誰もいない場所で経を読誦するならば みな私の身を見ることができるだろう もしそのような者が 誰もいない場所にいるならば 私は天的存在、魔的存在を遣わして このための聴衆とする この者は喜んで教えを説き 何ら妨げなく解説するであろう 諸仏に覚えられ守られあるために 多くの人々を喜ばすことができるであろう もしこのような法師に親しく交われば 速やかに菩薩の道を得ることができ その師に従って学べば 大河の砂の数ほどの仏を見ることができるのである」

(注:まさにこの文字通りを行なった人物が日蓮であり、また日蓮の身の上にも、こ通りのことが起こっていった、ということも有名な話である。)

つづく

 

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