法華経の現代語訳と解説

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 67

妙法蓮華経 法師功徳品 第十九

 

(今回からは、第19章目にあたる『法師功徳品(ほっしくどくほん)』である。法師とは、以前にもあったが、法華経を受け保つ者を指す。つまり、法華経を受け保ち、それを人に説く者自身に、どのような功徳があるか、という内容である。

そして、本門に入った『従地涌出品』から前回の『随喜功徳品』までの、いわゆる本門の中心を形成する部分においては、仏の説法の対象は弥勒菩薩であった。しかし、今回の相手は常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)となる。このように、章によって相手が違ってくるが、このような違いも、その箇所が成立した順番や経緯などを考えるときにヒントを与えるものである。)

 

その時に仏は、常精進菩薩に次のように語られた。

「もし良き男子や良き女人がいて、この法華経を受け保ち、あるいは読み、あるいは読誦し、あるいは解説し、あるいは書写したとする。その人は、まさに八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の心の功徳を得るであろう。この功徳をもって、あらゆる器官を優れたものとし、清らかにするであろう。

この良き男子や良き女人は、生まれながらの清らかな肉眼をもって、あらゆる世界の内外にある山林や川や海を見ることができ、下は地獄の底から、上は天の最も高い世界に至る、すべての世界のすべての衆生を見、そのすべての業の因縁、そしてその果報の有様を見て、ことごとく知ることができるであろう。」

 

(注:「八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳」などと言われても、いったい何のことやら、と思わざるを得ない。今までのほぼすべての記述もそうであったが、法華経に関する功徳についても、とてもこの世の常識では受け入れがたい記述が続く。しかし、それは当然であり、法華経は、この世に留まらず、むしろ、過去世、未来世、そして霊的世界についての真理を表現しているのであり、この世の常識で受け取るものではないのである。法華経の真理を読み解くためには、霊的世界に対する信仰が必要である。つまり、法華経を素直に受け取り、それを読み進めること自体が、この真理の霊の世界に足を踏み入れていることであり、その世界の広がりは、この世の空間、時間を超越しているのである。)


その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「もし大衆の中において 恐れることなく この法華経を説くことについての功徳を あなたたちは聞くがよい この人は八百の 功徳ある優れた眼を得るであろう この功徳がその目に満ち溢れるために その目は非常に清らかであろう 生まれたままの眼をもって すべての世界の山々や山林 そして大海や江河の水を見ることができ その範囲は地獄の底から天上界の最も高いところに至る さらにその中にいるすべての衆生を見る まだ天眼(てんげん・神通力の一種)を得てはいないといえども その肉の眼の能力はこのようになる」

「また次に常精進よ。もし良き男子や良き女人が、この経を受け保ち、読み、読誦し、解説し、書写したとするれば、彼らは千二百の耳の功徳を得るであろう。この清らかな耳をもって、すべての世界において、下は地獄の底から上は天の最も高いところの、内外のあらゆる言語、音声、象の声、馬の声、牛の声、車の音、泣き叫ぶ声、悲しみ嘆く声、螺(ほらがい)の音、鼓(つづみ)の音、鐘の音、鈴の音、笑う声、語る声、男の声、女の声、童子の声、童女の声、教えの声、教えではない声、苦しみの声、楽しみの声、凡夫の声、聖人の声、喜ぶ声、喜んではいない声、天の声、龍の声、夜叉(やしゃ)の声、乾闥婆(けんだつば)の声、阿修羅(あしゅら)の声、迦楼羅(かるら)の声、緊那羅(きんなら)の声、摩睺羅迦(まごらか)の声、火の音、水の音、風の音、地獄の声、畜生の声、餓鬼の声、僧侶の声、尼僧の声、声聞の声、辟支仏の声、菩薩の声、仏の声を聞くであろう。

つまり、すべての世界の中の内外のあらゆる声を、まだ天の耳を得ていないといっても、生まれつきの清らかな耳をもって、みなことごとく聞いて知ることができるであろう。このようなあらゆる音声を聞き分けたとしても、耳そのものは損なわれることはない。」

 

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「生まれつきの耳が 汚れのない清らかなものとなり この耳をもって すべての世界の音を聞くことができるであろう 象や馬や車や牛の声 鐘や鈴や螺(ほらがい)や鼓(つづみ)の音 琴や琵琶の音 簫(しょう)や笛の音 清らかな歌の声 これらを聞いても執着は起こさないであろう 無数のあらゆる人の声 聞いてすべて理解するであろう またあらゆる天の声 妙なる歌の声を聞き および男女の声 童子童女の声を聞くであろう 山や川や険しい谷の中の 迦陵頻伽(かりょうびんが・天的鳥)の声 命命(みょうみょう・神話の中のキジ)などのあらゆる鳥の音声を聞くであろう 地獄のあらゆる苦痛 さまざまな痛み苦しみの声 餓鬼が飢渇に苦しめられ 飲食を求める声 あらゆる阿修羅などが 大海のほとりに住んで 互いに話をする時 大きな声を出すことすらも聞くであろう このように法華経を説く者は この世にあって 遠くあらゆる世界の衆生の声を聞いても 耳を損なうことはないであろう あらゆる世界の中の 鳥や獣が互いに呼び合う声を 法華経を説く者は この世にあってすべてこれを聞くであろう あらゆる梵天のさらに上の天 および天の最も高いところの声も 法華経を説く者は すべてこれを聞くであろう すべての僧侶たち およびあらゆる尼僧が 経典を読誦し また他の人のために説くその声も 法華経を説く者は この世にあって すべて聞くであろう また多くの菩薩たちが 経典の教えを読誦し また他の人のために説き 人々を集めてその意味を解き明かすそのすべての声を聞くであろう また大いなる聖なる世尊が衆生を教化され あらゆる会衆の中において 妙なる教えを説くその声を この法華経を保つ者は そのすべてを聞くであろう すべての世界の内外のあらゆる音声 下は地獄の底から 上は天の最も高いところに至るまで みなその音声を聞いて その耳を損ねることはないであろう その耳の能力が優れているために すべて正しく聞き分けて知ることができるであろう この法華経を保つ者は まだ天の耳を得ていないといえども 生まれつきの耳を用いて その功徳はこのようになるであろう」

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 66

妙法蓮華経 随喜功徳品 第十八

 

(注:今回は、第十八章目にあたる『随喜功徳品(ずいきくどくほん)』である。「随喜」とは、法華経においてはこの経を聞いて喜ぶことであり、すでに前の章である『分別功徳品』に、この随喜の功徳についても述べられていた。この章では、特にその随喜の功徳について、さらに詳しく述べられる内容となる。)

 

その時に弥勒菩薩摩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。もし良き男子や良き女人がいて、この法華経を聞きて喜ぶならば、どのような福を受けるのでしょうか。」

さらに詩偈の形をもって次のように申し上げた。

「世尊よ 仏の滅度の後に この経を聞いて喜ぶ者は どのような福を受けるのでしょうか」

その時に仏は、弥勒菩薩に次のように語られた。

「阿逸多よ。如来の滅度の後に、もし僧侶や尼僧や男女の信者、および他の智者であっても年配者であっても若者であっても、この経を聞いて、喜んで教えの場から出て、それぞれの場所に行ったとする。そして、僧坊あるいは寂しい場所、もしくは城壁の中の町、港、集落、農村などで、聞いた通りに父母、親族、友人、宗親、善友、指導者のために、その者の能力に従って説いたとする。この聞いた人たちが、やはり喜んで、同じように他のところで教えたとする。さらに、また聞いた人たちが喜んで、同じように他のところで教えたとする。このように、教えが伝えられて、そのようなことが五十回繰り返されたとしよう。

阿逸多よ。この五十回目の良き男子や良き女人が喜んだ時の功徳を、今、私は説こう。あなたはまさに知るべきである。もし数えきれないほどの世界のすべての衆生は、卵から生まれたり、母胎から生まれたり、湿ったところからわき出たり、突然と生まれたり、もしくは、形があり、形がなく、想念が盛んであったり、想念がなかったり、想念が静かだったり、想念の有る無しを超越していたり、足がなかったり、二足だったり四足だったり多足だったり、このようなすべての衆生に対して、ある人が福を求めて、それぞれの願うところに従って、楽しむことのできるあらゆる物を与えたとする。その各々の衆生に対して、地上に満ちる金、銀、瑠璃や珊瑚や琥珀、真珠などの妙なる珍宝、および象馬、車、七宝によって作られた宮殿や楼閣などを与えたとする。この大いなる施しをする人は、このように布施を続けて八十年を経て、次のように思った。「私はすでに、あらゆる衆生に、その願いに応じた楽しむ物を施して来た。しかし、彼らはすでに八十年が過ぎて年老い、髪白く顔にしわを刻んで、まさに死ぬ時までは長くない。私はまさに仏の教えをもって、彼らを導こう」。すなわち、このすべての衆生を集めて教えを述べ伝え、教えを示して導き、一度にさまざまな悟りの境地を得させ、あらゆる煩悩を消し、深い禅定において自由な境地を得させ、あらゆる解脱を身に着けさせたとしよう。

そこであなたはどのように思うか。この大いなる施しをする者が得る功徳は多いだろうか、少ないであろうか。」

弥勒菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この人の功徳は非常に多く、無量無辺なりです。この施しをする者が、ただ単にすべての楽しむべき物を施しただけでも、その功徳は無量です。ましてや、悟りの境地を得させるのですから、なおさらです。」

仏は、弥勒菩薩に次のように語られた。

「私は今、あなたに明らかに語る。この人は、すべての楽しむべき物をもって、数えきれないほどの世界のあらゆる衆生に施しをして、さらに悟りの境地を得させた。その得るところの功徳は、この五十回目の人が、法華経の一偈を聞いて喜ぶ功徳には届かないのだ。その百分の一、千分の一、百千万億分の一にも及ばないのだ。さらにどのような算術をしても、知ることはできないのだ。

阿逸多よ。このように五十回目の人が法華経を聞いて喜ぶ功徳は、とても測り知れないのだ。ましてや、法華経が最初に説かれる会衆の中において、それを聞いて喜ぶ者はなおさらである。その福はこれに増して、とても比べることなどできないのだ。

また阿逸多よ。もしある人が、この経を聞くために僧坊に行き、座ったり、立ったりして、少しでも聞いたとする。この功徳によって、この人が生まれ変わったならば、最上の妙なる象馬、車、珍宝の輿(こし)を得て、天宮に上るであろう。もしまたある人が、法華経が説かれる場所に座っていたとする。さらに後から人が来て、その人に勧めて座らせて聞かせたり、あるいは自分の座を分けて座らせたりしたとする。この人はその功徳によって、生まれ変わったならば、帝釈天の座る場所、もしくは梵天王の座る場所、もしくは転輪聖王の座る場所を得るであろう。

阿逸多よ。もしまたある人がいて、他の人に「法華経という経典がある。行って共に聞こう。少しでも、その教えを聞こうではないか」と言ったとする。この人はその功徳によって、生まれ変わったならば、陀羅尼菩薩(だらにぼさつ)と同じところに生まれるであろう。能力はすぐれ、智慧を得るであろう。百千万回生まれ変わっても、耳が聞こえないことや言葉を話せないことにならない。口の息は臭くなく、舌は常に病気がなく、口にもまた病気はないであろう。歯は黒くなく、黄色くなく、疎けることはなく、欠け落ちることなく、かみ合わせが悪くなく、曲ることはなく、唇は垂れ下がらず、またすぼまることなく、ざらつかず、できものがなく、欠けることなく、曲がることなく、厚くなく、大きくなく、また黒くなく、見た目の悪いところもないであろう。鼻は偏平でなく、また曲がることなく、顔は黒くなく、細長くなく、曲がっていることなく、すべて願わしくないところはないであろう。唇も舌も犬歯や歯も、みな厳かに美しいであろう。鼻は長く高くまっすぐであり、顔つきは円満であり、眉は高く長く、額は広く平たく、良い人相がそなわっているであろう。生まれ変わる世ごとに、仏に出会い、教えを聞いて、教えを信じ保つであろう。

阿逸多よ。あなたはこのことを心に刻むがよい。一人に勧めて、教えを聞かせる功徳はこのようなものである。ましてや、一心に聞いて説いて読誦し、さらに大衆に向かって、人のためにわかりやすく解説して、自らも教えによって修行する者はなおさらである。」

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「もし人が法会において この経典を聞く機会を得て たとえ一偈においても 喜び 他の人にも説いたとする そしてこのようなこと五十回続いたとする その五十回目の人がどのような福を得るか 今ここに述べよう

大いに布施する人がいて 数えきれないほどの衆生に施しをして 思いのままに行ない八十歳になった 彼は髪の毛も白くなり 顔には皺が寄り 歯が抜けて体も痩せてきたのを見て 「死はさほど遠くはないであろう 私は今まさに教えを説き 仏の道に導こう」と思い 方便を用いて涅槃についての真実の教を説いた 「この世はみな水に浮く泡や炎のように 常に定かではない あなたたちはまさに この世を嫌って離れる心を起こすべきである」 多くの人はこの教えを聞いて みな煩悩を離れた阿羅漢の位を得 あらゆる神通力とさまざまな 解脱を身につけた

法華経の一偈でも聞いて喜んだ その五十番目の人の福は 実はこの大いなる布施をした人の福より 比喩や言葉にできないほど優れているのだ ましてや法会において 最初に法華経を聞いて喜んだ人の福は言うまでもない

もしある人が他の人に 「この経は深く妙なる教えである 千万劫においても聞くことはまれだ」と言い、言われた人が行って法華経を一瞬でも聞いたとする その勧めた人の果報の福を 今まさに説こう

その人は何度生まれ変わっても 口の病気はなく 歯は黒くなく黄色くなく 唇は垂れ下がらず欠けることなく 悪しき形もないであろう 舌は適度に乾き 黒かったり短かったりしない 鼻は高くまっすぐであろう 額は広く平らであり 顔立ちは端麗であり 人が見たいと願うほどであろう 口の息も臭くなく 天の花の香りが 常にその口からただようであろう 

もしある人が僧坊に行き 法華経を聞こうと願い 一瞬でも聞いて喜んだとするな 今まさにこの福を説こう その人は後に天人の中に生れて 妙なる象や馬や車 珍宝の輿(こし)を得 さらに天の宮殿に上るであろう

もしこの経典の講義の場所において 人に勧めて座らせて聞かせたとするならば この福の因縁をもって 帝釈天梵天転輪聖王の座に着くであろう

ましてや一心に聞き その深い教えを解説し 教えの通りに行なう者はなおさらであり その福は無限である

 

つづく

 

法華経 #法華経現代語訳 #仏教

 

法華経 現代語訳 65

(注:今回は、『分別功徳品』の後半となる。以前も述べたが、法華経は、伝統的な解釈においては、前半の迹門(しゃくもん)と後半の本門(ほんもん)の二つに分けられる。そして、迹門も本門もさらに、正宗分(しょうしゅうぶん)と流通分(るつうぶん)の二つに分けられる(ただし、それぞれ最初に序分と呼ばれる部分がある)。正宗分とは本論のようなもので、流通分とは応用編のようなものだと考えて良いであろう。

後半の本門は、『従地涌出品』から始まるというのが伝統的な解釈である。そして本門の正宗分は、仏の寿命は永遠である、ということが述べられている箇所であり、流通分は、そのような偉大な真理が述べられている法華経を保つ者の功徳や、法華経に基づいて活躍している菩薩たちについて述べられている箇所となる。

実は、この『分別功徳品』は、本門の正宗分と流通分とにまたがった章なのである。前回見た『分別功徳品』の前半では、仏の寿命が永遠であるということを受け入れた者の功徳について述べられているので、正宗分に属するとされ、今回の後半は、法華経そのものを保つ者の功徳が述べられているので、今回の箇所から、流通分に属するとされたのであろう。したがって、今回の箇所から法華経の最後までが、本門の流通分である。)

 

「また阿逸多よ。もし仏の寿命がとてつもなく長いということを聞いて、その言葉の意味を理解する者がいたとする。この人が得る功徳は限りなく、如来のこの上ない智慧を生じることであろう。いわんや、この経をよく聞き、さらに人に聞かせ、また自らも保ち、また人に保たせ、また自らも書き、また人に書かせ、また花や香、瓔珞(ようらく・首飾りのこと)、飾られた旗、飾られた傘、香油、燈明をもって、経巻に供養する人はなおさらのことである。この人の功徳は無量無辺であって、すべてを知る智慧を生じることであろう。

阿逸多よ。もし良き男子や良き女人が、私の寿命のとてつもなく長いということが説かれるのを聞いて、深く心に信じ理解するならば、仏が常に耆闍崛山(ぎしゃくせん=霊鷲山)にあって、大いなる菩薩や多くの声聞たちが囲む中、教えを説いている姿を見、また、この娑婆世界の地が宝石となり、平らであり、非常に高価な金によってそれぞれの道が区切られ、宝樹が並び植えられ、宝によって作られたあらゆる楼閣があり、菩薩たちがその中にいるのを見るであろう。もしこのように見ることができる者があるならば、まさに知るべきである、これこそ深く信じ理解した姿である。また如来の滅度の後に、もしこの経を聞いて、非難せず、喜びの心を起こす者があるとすれば、まさに知るべきである、これも深く信じ理解した姿である。

いわんや、読誦し受け保つ者はなおさらである。この人は、如来を背負っているようなものである。阿逸多よ。この良き男子や良き女人は、私のために塔や寺を建て、僧坊を作り、多くの僧のすべての生活を支えて供養する必要はない。それはなぜであろうか。この経典を受け保ち、読誦するこの良き男子や良き女人は、すでに塔を起て、僧坊を造立し、多くの僧を供養していることになるのだ。すなわち、仏の舎利(しゃり・仏の遺骨のこと)をもって梵天に届くほどの高く広い七宝の塔を起て、それを多くの旗や傘、および多くの宝の鈴を掛け、花や香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、多くの鼓、伎楽、あらゆる笛などの楽器や、あらゆる舞踊、妙なる音や声をもって、歌って讃嘆することになるのだ。さらにこの供養は、すでに無量千万億劫続いていることになるのだ。

 

(注:ここまでの法華経の記述ですでに多く表われていたが、ここでも、「これはちょっと大げさすぎるのではないか」と思ってしまう表現が続いている。しかしそれは、法華経の記述を、この世の常識で解釈するために生じる感想であり、そもそも、時間と空間を超越しているのが霊の世界である。法華経は、その霊の世界をストレートに表現している経典である。その霊の世界の事実を、時間と空間に縛られているこの世の言葉によって表現する時、当然、常識的には不可解な表現となってしまう。そしてそのような表現を、あくまでもこの世の常識的な理解で押し通そうとすれば、誤った解釈に陥ってしまう。法華経などの霊的書物は、このように、霊的目を開いて読まねばならないのである。)

 

阿逸多よ。もし私の滅度の後に、この経典を聞いてよく受け保ち、また自らも書き、人に書かせる人がいるならば、それは僧坊や堂閣を建てることになるのだ。それらは、三十二の貴重な香木によって作られており、高さは、最も高い樹木の八倍であり、広大であり、厳かに飾られ、その中には百千の僧侶たちがおり、園林、浴池、経行、禅窟、衣服、飲食、床、湯薬などのすべての願わしい道具が満ちている。このような僧坊や堂閣の数は百干万億であり、これをもって私と僧侶に供養しているのだ。

したがって、如来の滅度の後に、この経を受け保ち、読誦し、他人のために説き、自らも書き、また人に書かせ、経巻を供養する者は、塔寺を建て、および僧坊を作り、多くの僧侶を供養する必要がないのだ。いわんや、この経を保ちつつ、さらに布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧(=六波羅蜜)を行じる者はなおさらのことである。その徳は最も優れており、無量無辺である。たとえば、虚空に、東西南北や上下などの方角に際限がないように、この人の功徳も、またこのようなもので、無量無辺であって、すぐにすべてを知る智慧を得るであろう。

もしこの経典を読誦し、受け保ち、他の人にも説き、また自らも書き、人に書かせる人がいるならば、その人は、塔を建て、および僧坊を作り、声聞の僧たちを供養し讃歎し、また百千万億の讃歎の教えをもって、菩薩の功徳を讃歎し、また他人のために、あらゆる因縁をもって、正しくこの法華経を解説し、また、清らかな戒を持ち、柔和の者と共に行動し、辱めを忍び、怒ることなく、志堅固にして、常に坐禅を尊び、多くの深い禅定を得、精進勇猛にして、あらゆる良き教えを受け、能力が優れて智慧があり、よく難問に答えることができるであろう。

阿逸多よ。もし私の滅度の後に、多くの良き男子や良き女人がいて、この経典を受け保ち読誦するならば、また良き多くの功徳があるであろう。まさに知るべきである。この人は、すでに道場において、最高の悟りに近づき、悟りを開くべく樹の下に座っているのだ。

阿逸多よ。この良き男子や良き女人が座るところ、立つところ、歩むところ、そのようなところには塔を建てるべきである。すべての天人たちはその塔を、仏の塔のように供養すべきなのである。」

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「もし私の滅度の後に この経を尊び仕えるならば この人の福無量なること すでに述べた通りである これすなわち私に対して あらゆる供養をしていることになるのだ 舎利(しゃり・仏の骨)をもって塔を建て その塔を七宝によって荘厳し それは非常に高く梵天に至り 宝の鈴が千万億あり 風が吹くたびに妙なる音を出し また無量劫にわたり この塔に花や香やあらゆる瓔珞 そして天の衣を着た者たちの伎楽を供養し 香油で灯火をともし 常に周りを照らすのだ

末法の悪しき世において この経を保つ者は すなわちすでに述べたような 多くの供養をしたことになるのだ もしこの経を保つ者は すなわち仏を目の前にして 優れた香木を使って僧坊を建て供養し その堂は三十二あって 非常に高く 上等な妙なる衣服 家具寝具などすべてあって 百千人が住み 園林などの沐浴の池 歩く場所と座禅をする洞窟など すべてが荘厳に備えるようなものである 

もし信じ理解する心ある者が 受け保ち読誦し書き あるいは人に書かせ および経巻を供養し 花や香や抹香を散じ すぐれて高価な油をもって 常にこの経を照らすとするならば このように供養する者は 無量の功徳を得るであろう 虚空が無辺であるように この福もまた同じである いわんやまたこの経を保って さらに布施し持戒し 辱めを忍んで禅定を願い 怒ることなく悪口を言わないならばなおさらである 塔廟を敬って尊び 多くの僧侶たちに仕え 高慢の心を捨て去り 常に智慧をもって考え 難問を振りかざす者に対して怒らず 従順に解説をするならば そのような行為をする者は その功徳は測り知れない もしこの法師が このような徳を成就していることを見るならば まさに天の花をもって散じ 天の衣をその身に覆い 足に頭をつけて礼拝し 仏のように思うべきである

またまさに次のように思うべきである この人は間もなく道場に赴いて 煩悩のない境地を得て 広く多くの天人を導くであろうと その者が歩き座り またこの経の一偈であっても説くところには まさに塔を建てて 荘厳に飾り あらゆる供養をすべきである 仏の子がこの境地にあれば すなわち仏は受け入れられる 常に仏はそこ中に住まわれ 共に歩き共に座るであろう」

 

つづく

 

法華経 #仏教 #現代語訳

 

法華経 現代語訳 64

妙法蓮華経 分別功徳品 第十七

 

(注:今回から、十七章目にあたる『分別功徳品(ふんべつくどくほん)』である。「分別」とは、ここまで多く見られた言葉であるが、そもそもこの言葉には「わきまえる」という意味がある。仏の本当の寿命は永遠なのだ、ということを信じ受け入れた者の功徳は、どれほど大きいものなのか、よくわきまえる、という意味である。)

 

その時、そこに集まっていたすべての聴衆は、仏の寿命が永遠であることを聞いて、大いに豊かな恵みを受けた。
そして世尊は、弥勒菩薩に次のように語られた。

「阿逸多よ。私はこのように、如来の寿命が永遠であることを説いたが、この聴衆の中の、大河の砂の数を千億倍して、さらにそれを六百八十万億倍した数の衆生は、無生法忍(むしょうぼうにん・すべての存在は生滅変化の道理を超えていることを悟ること)を得、また、その千倍の大いなる菩薩たちは、聞持陀羅尼門(もんじだらにもん・聞くことを忘れないという力)を得、また、一つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、楽説無礙弁才(ぎょうせつむげべんざい・相手の求めに応じて巧みに教えを説く力)を得、また、一つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、百千万億無量の旃陀羅尼(せんだらに・煩悩と仏の智慧を分ける力)を得、また、三千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、決して退くことのない教えを説く力を得、二千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、清らかな教えを説く力を得た。また、千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、八回生まれ変わった後に、まさに最高の仏の悟りを得るであろう。また、四つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、四回生まれ変わった後に、まさに最高の仏の悟りを得るであろう。また、三つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、三回生まれ変わった後に、まさに最高の仏の悟りを得るであろう。また、二つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、二回生まれ変わった後に、まさに最高の仏の悟りを得るであろう。また、一つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは、一回生まれ変わった後に、まさに最高の仏の悟りを得るであろう。また、三千を八倍した世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる衆生は、みな、最高の仏の悟りを求める心を起こした。」

仏が、このように多くの大いなる菩薩たちが、偉大なる教えによる恵みを得ることを説かれた時、虚空の中より、曼陀羅華(まんだらけ・天の花の意味)、摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ・「まか」は大という意味)が降り、無量百千万億の宝樹の下にある立派な座に座っている諸仏に注ぎ、また七宝塔の中の立派な座の釈迦牟尼仏、および遠い過去に滅度した多宝如来注ぎ、またすべての大いなる菩薩、およびすべての人々に注いだ。そして、細かい香木の粉が降り、虚空の中で、天の鼓が自ら鳴って、深遠で妙なる音が響いた。また、千種もの天衣が降り、あらゆる種類の首飾りがあらゆる方角にかかった。また、あらゆる宝の香炉に、値がつけられないほどの高価な香が焚かれ、自然にまわりに広がって、すべての聴衆を供養した。一人一人の仏の上に、多くの菩薩があって、宝の傘を持っており、それが連なって梵天のいる天にまで届いた。この多くの菩薩たちは、妙なる声をもって、無量の詩頌を歌って、諸仏を讃歎した。

その時に弥勒菩薩は、座より立って、右の肩を出して合掌し、仏に向って次のような詩偈を説いた。

「仏は希有なる教を説かれた 昔より聞いたことのない 世尊は大いに力があり 寿命は測ることができない 無数の仏の子は 世尊がわかりやすく 恵みの教えを説かれたことを聞き その身が歓喜に満たされた

ある者は退くことのない境地に至り ある者は陀羅尼を得 ある者は相手の求めに応じて巧みに教えを説く力を得、万億の煩悩と仏の智慧を分ける力を得、

また三千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは 決して退くことのない教えを説く力を得 二千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは 清らかな教えを説く力を得た また千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは 八回生まれ変わった後に まさに最高の仏の悟りを得るであろう。また四つ・三つ・二つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは その世界の数の回数生まれ変わった後に まさに最高の仏の悟りを得るであろう また一つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは 一回生まれ変わった後に まさに最高の仏の悟りを得るであろう このような衆生は 仏の寿命がとてつもなく長いことを聞いて 煩悩のない清らかな果報を得 また三千を八倍した世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる衆生は みな最高の仏の悟りを求める心を起こした

世尊が無量不可思議の教えを説かれた時 多くの者に注がれた恵みは 虚空が無辺のように測ることができない

天の曼陀羅 摩訶曼陀羅は降って 帝釈天梵天は大河の砂の数ほど多くの仏国土より来た 高価な香木の粉は 飛んだ鳥が空から降りて来るように降って諸仏に注ぎ供養し 天の鼓は虚空の中に 自然と妙なる音を出し 千万億の天衣は下り あらゆる宝の香炉に高価な香が焚かれて 自然にまわりに広がって 多くの世尊を供養した 多くの大いなる菩薩たちは 妙なる高い七宝の傘を持ち 連なって梵天まで届いた 一人一人の諸仏の前に 宝の旗が掛けられた また千万の偈をもって 多くの如来を讃嘆した

このようなあらゆる出来事は 昔より今までなかったことである 仏の寿命が無量であることを聞いて みな歓喜した 仏の名はあらゆる方角に聞えて 広く衆生を悟りに導く 一切の善根を備えさせ 最高の悟りを求める心を導く」 その時に仏は、弥勒菩薩摩訶薩に次のように語られた。

「阿逸多よ。仏の寿命がこのように、とてつもなくの長いことを聞いて、一念でも信じ理解するならば、その人が得るところの功徳は測り知れない。もし良き男子や良き女人がいて、最高の悟りのために、千億を八十万億倍した劫において、

六波羅蜜(ろくはらみつ・菩薩の行なうべき六つの修行項目)における智慧以外の布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五つを行なったとする(注:智慧は具体的に行なうべき項目とは言えないので除外されている)。その功徳と、仏の寿命を一念でも信じ理解する功徳を比較すると、前者は後者の百分、千分、百千万億分の一にもおよばない。さらに、あらゆる計算や比喩をもっても知ることができないのだ。もし良き男子が、このような功徳を得るならば、最高の悟りを求める道において、退くことは決してない。」

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「もし人が仏の智慧を求めて 千億を八十万億倍した劫の間中 菩薩の五つの修行を行なったとする この多くの劫の中において 仏および縁覚の弟子 ならびに多くの菩薩たちに布施し供養したとする 珍しいあらゆる飲食物 上等の服と家具と 香木をもって修行道場を建て 園林をもって厳かに飾るなどの布施を あらゆる方法によって行ない この多くの劫数を尽くして 仏の道に回向(えこう・功徳を振り向けること)したとする(注:以上が「布施」)

またもし戒律を保ち 清らかにして煩悩なく 仏が讃嘆するこの上ない道を求めたとする(注:以上が「持戒」)

またもし忍辱を行じて よく調えられた柔和な心を持ち たとえ人々から悪を行なわれたとしても その心は微動だにしなかったとする 仏の教えを受けていながら 思い上がった心を持つ者たちに悩まされたとしても そのようなこともよく忍んだとする(注:以上が「忍辱」)

またもし精進し 志は常に堅固であり 無量億劫において 怠ける心を一度も起こしたことがないとする(注:以上が「精進」)

また無数劫において 何もなく静かな場所に住んで 座ったり歩き回ったり 眠っている以外は常に心を統一したとする この方法でよく多くの禅定を成就し 八十億万劫にわたって 安住して心乱れず このような心の統一をもって この上ない道を願い求め すべてを知る智慧を得て あらゆる禅定を行ない尽したとする(注:以上が「禅定」)。

このような人が 百千万億の劫数において この多くの功徳を上記のように行なったとする しかし一方 良き男女がいて 私の寿命について聞いて 一念においてでさえ信じるならば この福は前者以上なのである

もし全く疑うことなく 心深く一瞬でも信じるならば その人の福はこのようになるのだ 無量劫において道を行ずる菩薩たちが 私の寿命について聞いて よく信じ受け入れるならば そのような人たちは この経典を敬って受け 「私は未来において長く生き続け 人々を悟りに導こう」と 今日の世尊が シャーキャ族の王として世に出て 道場において師子吼(ししく)し 教えを説くにあたって恐れるところがないように 「私たちも未来世に すべての人に尊敬せられ道場に座る時 このように寿命について説こう」と願うのだ 深い心ある者は 清らかにして素直に 多くの教えを聞いてよく記憶し 正しい教えにしたがって仏の言葉を理解するであろう このような人々は このことについて疑いはないのだ

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 63

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「私は仏になって今まで その経て来た劫の数は無量であり   百千万億年を測り知れないほど倍にした長さである その間常に教えを説いて 無数億の衆生を教化して 仏の道に入らせた それから今まで無量劫である 衆生を悟りに導こうとするために 方便して涅槃を現わす しかも実は滅度していない 常にここにあって教えを説く 私は常にここにいるが さまざまの神通力をもって 迷いの衆生には 近くにいても見えないようにしている 衆生は私の滅度を見て 広く舎利を供養し みな慕う心を抱いて 渇仰の心を起こす 衆生が信じる心を持ち 素直で心が柔らかに 一心に仏を見ようと願って 自らの身命までも惜しまないようになった時 私は多くの僧侶たちと共に 霊鷲山(りょうじゅせん・この法華経の説かれる場所)に出現する そして私は次のように語る 『私は常にここにあって滅びることはない 方便の力をもって滅不滅の姿を現わす 他の国の衆生で 敬い信じ願う者があるならば 私はまたその中において 無上の教えを説く』 あなたたちはこのことを聞くことがなかったので 私がただ滅度したのだと思ったのだ

私は衆生を見るに 苦しみの海に沈んでいる そのため私の姿を現わさず それによって私を渇仰する心を生じさせるのだ その慕う心に応じて 私は世に出現して教えを説く 私の神通力はこのようなものだ 阿僧祇劫(あそうぎこう)という非常に長い間 私は常に霊鷲山および他の場所に居続けている 世の中が大火で焼かれていると人々が見る時も 私の国土は安穏であり 天人たち常に充満している 園や林にある多くの堂閣は あらゆる宝をもって荘厳に飾られ 宝樹の華や果は多く 衆生が遊び楽しむ所である 諸天は天の鼓を打って 常に多くの伎楽を演奏し 天の華を降らせて 仏と大衆に注いでいる 私の浄土は滅びることがないにもかかわらず 多くの人々は この世は焼け尽きて 憂いや怖れの苦悩が充満していると見る この多くの罪の衆生は 悪業の因縁をもって 千億劫を過ぎたとしても 仏と教えと僧侶の三つ宝の名を聞かない 多くのあらゆる功徳を修し 柔和で素直な心を持つ者は すなわちみな私がここにあって教えを説く姿を見ることができる ある時はこの人々のために 仏の寿命は無量であると説く しかし長い間仏を見ずに ようやく仏を見た者には 仏に会うことは難しいと説く 私の智慧の力はこのようなものだ 智慧の光は無量の世界を照らして 寿命も無数劫である これは私が前世における誓願を果たして仏になったためである あなたたちの中で智慧のある者は このことにおいて疑いを生じさせてはならない まさにそのような疑いは永遠に断じ尽くさねばならない 仏の言葉は真実にして偽りではない

医者が良い方便をもって 本心を失った子を癒すために 実際は死んでいないにもかかわらず死んだと伝えたように 偽りをもってではなく 私もこの父のように 多くの苦しみや患いを救う者なのである 迷いの衆生は本心を失っているために 実際は存在しているにもかかわらず 私は滅度する もし常に私を見るならば 自己満足の心を起こし 放逸になって肉の欲に執着し 悪しき道の中に落ちるであろう

私は常に衆生の 仏の道を行じているかいないかを知って まさに導くところに応じて あらゆる教えを説くのだ どのようにしたら人々をこの上ない仏の道に入らせ 速やかに仏となるように導くことができるか 私は常に考えているのだ」

 

(注:この『如来寿量品』の詩偈の部分の冒頭は、「自我得佛来」であり、書き下すと「我佛を得て自(よ)り来(このかた)」となる。そして、読経の時はそのまま音読して、「じーがーとくぶつらーい」となるが、この冒頭の言葉より、この詩偈全体の通称として「自我偈(じがげ)」と呼ばれる。『如来寿量品』はまさに『法華経』の中心と言うことができ、さらにその詩偈は、この章の内容を要約したものであるから、「自我偈」は、『法華経』の中心の中心と言われるのである。そのため、『法華経』を中心的経典としている宗派や宗教団体では、この「自我偈」が読経の時に最も多く読まれる。重要な箇所であり、さらに名文であり、しかも短いので、まさに「読経に最適」なのである。

しかし、この詩偈の中ほどには、いわゆる久遠実成の釈迦の国は、決して滅びることはない、ということが記されているが、そのような内容は、散文の部分にはない。そして、この永遠の国のことを、『法華経』が説かれた場所である「霊鷲山(りょうじゅせん)」にちなんで、「霊山浄土(りょうぜんじょうど)」と呼ぶことがある(くれぐれも、「れいざん」とは読まないこと)。

さて、この『法華経』には、他にも多くの仏とその仏国土が記されている。ひとりの仏には必ずその仏の国土があることになっている。したがって、この『法華経』を説いている釈迦の国土は、この娑婆世界なのである。実際インドにある霊鷲山も、言うまでもなく娑婆世界の中にある。

すると、永遠ではない娑婆世界の中に、永遠なる霊山浄土があることになってしまう。さらに、この『法華経』は、あくまでも娑婆世界の釈迦が説いているのであり、久遠実成の釈迦が説いているのではない。本文中にも、「私は多くの僧侶たちと共に 霊鷲山に出現する そして私は次のように語る 『私は常にここにあって滅びることはない 方便の力をもって滅不滅の姿を現わす 他の国の衆生で 敬い信じ願う者があるならば 私はまたその中において 無上の教えを説く』」とある。つまり、霊鷲山にも出現するが、他の国にも出現するのである。あくまでも、本仏である久遠実成の釈迦にとっては、この霊鷲山は、その身を迹仏(本仏が仮に現れた姿)として現わす場所の一つに過ぎないのである。

したがって、久遠実成の釈迦の国土を、『法華経』が説かれている場所にちなんで、「霊山浄土」と呼ぶのはおかしいことになる。そもそも、釈迦も、この娑婆世界の実在人物の名であるから、「久遠実成の釈迦」という言葉もおかしい。

やはり、永遠の存在には名前はつけられず、その永遠の存在の国にも、名前はつけられないのだ。真理は言葉には表現できず、無理やり言葉に表現した途端、それは真理ではなく、真理の表現となる、ということは、まさに真理である。)

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 62

例えば、智慧が豊かで、薬の知識が豊富で、よく多くの病を治す良医がいたとする。その人の子供たちは多く、十、二十、あるいは百人以上だったとする。ある時、用事があって遠い国に出かけた。その間に子供たちは毒薬を飲んでしまい、苦しんで地に転げまわった。そして父が家に帰ったが、子供たちの中には、毒を飲んで本心を失ってしまった者もあり、あるいは失っていない者もいた。遠くに父の姿を見て、みな大いに喜んで挨拶し、次のように言った。『よくご無事で帰られました。私たちは愚かにも、毒薬を飲んでしまいました。願わくば治療してくださり、命を長らえさせてください。』父は、子供たちが苦しんでいるのを見て、多くの医学書に基づいて、色も香りも味も良い薬草を求めて調合し、子供たちに与えた。そして次のように言った。『この大いなる良薬は、色も香りも味も良く、効能がある。あなたたちは飲みなさい。速やかに苦しみが消え、他の患いもなくなるであろう。』その子供たちの中で、本心を失わない者は、その良薬の色も香りも味も良いことを見て、すぐにこれを飲み、病はすべて癒された。他の本心を失ってしまった者たちは、その父が帰って来たことを見て喜び、病を治してほしいと求めはしたものの、その薬が与えられても、あえて飲もうとはしなかった。なぜなら、毒気が深く入ってしまい、本心を失っていたために、色も香りも味も良い薬にもかかわらず、良い薬とは思わなかったのである。

これを見た父は、次のように思った。『この子たちは憐れむべき者たちだ。毒によって心が混乱してしまっている。私を見て、喜んで治療されることを求めても、この良い薬を飲もうとはしない。私は今、方便を用いて、この薬を飲ませるべきである。』そして次のように言った。『あなたたちはまさに知るべきである。私は今老衰によって死の時が近づいている。この良い薬をここに置いておく。あなたたちは取って飲みなさい。治らないと心配することはない。』

このように教えて、他の国に行き、そこから使いを送って、『あなたたちの父は死んだ』と伝えさせた。この時、子供たちは父が亡くなったということを聞いて大いに憂い、次のように思った。『父がいる時は、私たちを慈しみ、よく救い守ってくださった。今、私たちから離れて、遠くの国で亡くなった。私たちは孤独になり、頼る者もいなくなってしまった。』このような悲しみを常に抱いているうちに、心はついに覚醒した。すなわち、この薬が色も香りも味も良いことを知って、ただちに取って飲み、毒の病がみな癒された。その父は、子供たちがみなすでに癒されたことを聞いて、すぐに帰り来たって、子供たちの前に姿を現わした。多くの良き男子たちよ。あなたたちはどう思うか。この良医は、嘘偽りを語った罪があるだろうか。」

「いいえ。世尊よ。」

仏は次のように語られた。

「私もまたこれと同じなのだ。仏となってから今まで、無量無辺百千万億那由佗阿僧祇劫である。衆生のために方便の力をもって、まさに滅度するであろうと言う。私の教えもそうであって、私が偽りを説いたと言う者はないのだ。」

 

(注:薬を飲まない子供たちに、薬を飲ませるために、例え話の中の父親は、一度遠い所に出かけて、そこから「父は死んだ」という知らせを伝え、その知らせを聞いた子供たちは、悲しみのうちに心が元に戻り、薬を飲んで癒された、というのであるが、これは一度聞いただけでは、すぐに納得がいかない話ではないか。悲しむ心が、一度失った本心を取り戻させる、ということは必ずしも言えない。

実は、ここには隠されたヒントがあって、それが「危機感」ということである、と思わざるを得ないのである。子供たちは、薬が良薬だとは思えず飲まなかったのであるが、ただ飲まなかった理由がそれだけだとは思えないのである。そこには、危機感というものがなかったのではないだろうか。

前回見たように、いつも仏が目の前にいる、という状態では、緊張感は薄れ、怠惰になって、悟りを求めようとする気持ちを持たない。同じように、いつも父がそばにいて、自分たちを守って導いてくれている、という状態だと、「良医である父がいるのだから、少々毒を飲んで苦しんでも、死ぬことはあるまい、もし本当に死にそうな状態になれば、必ず父が助けてくれるだろう」と思い、自分たちが毒を飲んで苦しんでいることは理解していても、それほど大きな危機感を抱かないということは十分考えられる。そのため、自分の目には良薬だとは思えない薬は飲まないのである。
しかし、その父が死んだとなれば、もう自分たちを常に助けてくれる人はいなくなったのだから、自分で何とかしなければならない、という危機感を抱く。まさに本文にも、「父がいる時は、私たちを慈しみ、よく救い守ってくださった。今、私たちから離れて、遠くの国で亡くなった。私たちは孤独になり、頼る者もいなくなってしまった」と思ったことが記されている。このため、まず自分たちができることは、父が置いて行ってくれた薬を飲むことだ、ということになり、飲んで癒された、ということである。

人が真理を求めるためには、このような危機感が必要であることは確かである。この世での生活に満足し、何ら危機感を抱かないならば、人は誰でも、真理とは何か、人生とは何か、などとは考えず、日々の生活を楽しむだけである。それでは、その人には、悟りとか、救いなどということは無縁である。この「良医の譬」と呼ばれる例え話は、実に深い真理を物語っているのである。

さて、この『如来寿量品』も散文の部分は終わり、詩偈の部分がこれに続くが、この詩偈の部分が、法華経の中心の中心と言われる箇所であり、まさに訳者鳩摩羅什の名文によって、多くの人々に親しまれて来た『自我偈(じがげ)』である。)

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 61

多くの良き男子たちよ。如来は、劣った教えを願う、徳の薄い汚れが重い衆生見るならば、その人のために、『私は若い時に出家して、後に最高の悟りを得たのだ』と説くのである。しかし、私は仏になってから今まで、実に膨大な年月を経て来たことは、すでに述べた通りである。ただ方便をもって、衆生を教化して仏の道に入らせようと、このような教えを説いたのだ。

多くの良き男子たちよ。如来が述べる経典は、みな衆生を悟りに導くためである。あるいは私自身の過去の因縁を説き、あるいは他の仏の過去の因縁を説き、あるいは私の分身を現わし、あるいは他の仏の身となり、あるいは私が仏になったことから始まって涅槃に至ることなどを説き、あるいはその他の菩薩や仏や、さらに衆生に関するあらゆることを説くのだ。これらのことはすべて真実であり、偽りではない。

それはなぜであろうか。如来如実に、迷いの世界を知り、ありのままを見るからである。迷いの世界は、生まれることもなく死ぬこともなく、退くこともなく、出ることもなく、また存在することもなく、滅び去ることもない。真実でもなく、偽りでもなく、同じこともなく、異なることもなく、迷いの世界が迷いの世界を見るようなこともない。このようなこと如来は明かに見て、誤ることはないのである。

多くの衆生は、それぞれの性質を持ち、それぞれの願いを持ち、それぞれの行ないがあり、それぞれの思いや判断力があるために、多くの善根(ぜんこん・良い結果を生じさせる要素)を得させようと願い、さまざまな因縁、譬喩、言葉をもって、さまざまに教えを説くのである。これらのことは、今まで一度も変更したり取り消したりしたことはない。

このように、私は仏になってから今まで、実に長い年月を経てきた。私の寿命は無量阿僧祇劫である。常に存在して世を去ることはない。

多くの良き男子たちよ。私は過去に菩薩の道を行じて得たところの寿命は、今なお尽きることはない。先に述べた年数の倍以上あるのだ。しかし今、本当の滅度ではないが、まさに滅度すると言うのだ。

如来はこの方便をもって、衆生を教化する。それはなぜであろうか。もし仏が長い間この世にいるならば、徳の薄い者は善根を種えようともせず、貧しく劣ったままであり、あらゆる欲望に執着し、妄想や誤った考えの網の中に入ってしまうであろう。もし如来が、常にこの世にいて、去ってしまうことがないと知れば、人々は意識が麻痺し、怠けた心を起こし、仏に会うことは困難だという思いや、仏を敬う思いを持つことがないであろう。このために如来は、方便をもって説くのである。

僧侶たちよ。まさに知るべきである。諸仏が世に出現することに遭遇することは難しいのである。それはなぜであろうか。多くの徳の薄い者たちは、無量百千万億劫を過ぎて、やっと仏を見ることができるのであり、またそれでも見ることのできない者もある。このために、私は『多くの僧侶たちよ。如来を見ることは難しいのである』と言うのである。衆生はこのような言葉を聞くならば、必ず仏に会うことは難しいのだと気づき、心に仏を慕う思いを抱き、仏を渇仰して、すぐに善根を積むようになるであろう。このために如来は、実際には世を去ることはないが、滅度するのだと言うのだ。

また良き男子たちよ。諸仏如来の教えはみなこのようなものだ。衆生を悟りに導こうとするのであり、みな真実であり、偽りはない。

 

(注:いつも仏が人々の前にいるならば、人々は怠け心を起こし、仏を敬ったり、悟りを求めようとはしなくなるので、実際は仏は世を去ることはないけれども、滅度、つまり仏の死の姿を現わすのだ、と述べられているが、果たしてそうであろうか。いつも仏が目の前にいれば、むしろ喜ばしく、常に安心であり、幸せな毎日とならないであろうか。

ここで気づかねばならないことは、仏がどうのこうのではなく、私たち人間が、どのような存在であるか、ということである。まさに仏がいつも目の前に見える姿でいるということは、わかりやすく言うならば、極楽浄土にいるようなものである。となると、よくこの世の人々が笑い話などで言うのであるが、さぞかし、極楽浄土は退屈であろう、ということになる。最初は、きれいな蓮の花を見ては喜び、仏のすばらしい姿を見て敬うかもしれない。でも、すぐにそれらに飽きて、やがては寝っ転がってあくびばかりしている毎日になる、という話を落語で聞いたことがあるが、まさにその通りであろう。なにせ、働く必要もなく、死ぬこともないのであるから、すぐに退屈してしまう。今の私たちは、まさにそのような存在なのである。

このことに気づけば、ここで法華経に記されている通り、いつも仏が目の前にいるならば、すぐにその状態に飽きてしまい、仏を敬う気持ちも薄れ、もちろん悟りを得なければならない、という気持ちも起こすわけがない、ということに納得がいく。

そもそも、それはなぜかと言えば、その答えは、むしろ聖書にある通り、人間そのものが真理から離れてしまい、自分勝手に生きるようになっているからなのであるが、仏教ではそのようなことは説かず、そのような人間の現状を説き、そのような状態から逃れる道を示すのが、仏教の特徴なのである。)

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳