『法華玄義』現代語訳 86
①―B.b.出世間禅
「出世間禅(しゅっせけんぜん)」には四つの項目がある。一つ目はⅠ.「観禅(かんぜん」であり、二つ目はⅡ.「練禅(れんぜん)」であり、三つ目はⅢ.「熏禅(くんぜん)」であり、四つ目はⅣ.「修禅(じゅぜん)」である。
Ⅰ.観禅
「観」とは、「九想(くそう・身体の九つの不浄なことを観じる不浄観。後に説明あり)」、「八背捨(はっぱいしゃ・八通りの執着を捨てる方法)」、「八勝処(はちしょうしょ・八通りの認識の対象を観じて執着を捨てる方法)」、「十一切処(じゅういっさいしょ・すべての実在を十種類に分類して観じる方法)」である。これらをまとめて「観禅」という。修行者は、淫乱な想念を破るために、必ずすべての想念を増して純粋に深く修すべきである。想念が観じる対象と一致した時、禅定と相応する。想念と禅定を心に定め、心に分散がなく、世間の貪愛を除くのである。ここでは次の六つ(a.~f.)の欲を破る。ある人は、a.赤白黄黒などの色彩に執着があり、あるいはb.良い姿形に執着があり、あるいはc.立居振舞の姿に執着し、あるいはd.艶やかな言葉に執着し、あるいはe.滑らかな肌の人体に執着し、あるいはf.自分と心の合う人に執着する。このような六つの欲は淵のように修行者をおぼれさせる。よく「九想(①~⑨)」を修して、この六つの賊を除かねばならない。①「死想」はa.立居振舞とd.艶やかな言葉の二つの欲を破り、②「脹想(ちょうそう・死体が腐って脹れることを観じる)」、③「壊想(えそう・死体が崩れていくことを観じる)」、④「噉想(かんそう・死体が虫などに食われることを観じる)」はb.良い姿形の欲を破り、⑤「血塗想(けつずそう・体の中の血を観じる)」、⑥「青瘀想(しょうおそう・体の中の青黒いものを観じる)」、⑦「膿爛想(のうらんそう・体の中の膿を観じる)」は、総じて色欲を破り、⑧「骨想」、⑨「焼想」は、滑らかな肌の人体の執着を破る。このような「九想」は総じて人間に執着する欲を除き、同時にまた、「噉想」などの人体が破壊されていくことを観じることは、f.自分と心の合う人に対する執着を除く。この「九想」によって欲望を除けば、また怒りや愚かさも薄くなり、九十八種ある誤った見解や思想の煩悩も揺るがされる。これが「不浄観」の初歩の段階であるといっても、必ず大きな成果をあげられることは、海は必ず死体を留めておかず、自然に浜に打ち上げるようなものである。
「八背捨」は、個人を超えた視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚による欲に背き、執着する心を捨てることから、「背捨」と名付けられる。修行者は、持戒清浄であり、大いなる誓願を発し、大事を成し遂げることを願う。身心を正し、明らかに自らの足の親指を観じて、大豆のように腫れ膨らんでいると想念する。この想念が起こる時、さらに進んで藤豆の大きさに想念し、さらに一つの指の大きさに想念し、さらにニワトリの卵のように想念する。次に第二指、第三指、第四指、第五指も同様である。次に、足の裏、かかと、くるぶし、ふくらはぎ、膝、もも、尻を観じて、すべて腫れていると想念する。次に右足も同様である。また、大小便道、腰、背骨、腹、背中、胸、脇もすべて腫れていると想念する。また右の肩甲骨、腕、ひじ、手首、手のひら、五本の指を感じ、また、頭、あごなどである。そして足より頭に至り、頭より足に至り、身体を巡って観察し、ただ腫れていることを想念すれば、心に嫌悪が生じる。また、形が崩れ、膿が出て、腐ることを観じるべきである。大小便道から虫や膿が流れ出し、その臭さは死臭より激しい。このように自らの身体を観じることができれば、愛するところの人を観じるのも同様になる。内に我を見ることを破り、外に貪愛を破る。これを長く観察すれば、世に対する貪愛を除くことができる。次に皮膚と肉を除く。白骨を明らかに観じて、それぞれの骨の色が異なっていることを想念する。青、黄、白、赤あんどである。このように、骨の姿にもそこに我はない。この観心を「欲界定」と名付ける。次に骨の青を観じる時、この大地の東西南北がみな青であると想念する。黄、白、赤も同様である。これは「未到定」と名付ける。また人の骨を観じると、眉間から光が発せられ、光の中に仏を見るようになる。それは、「背捨」の最初の段階が成就した姿である。このように順番に「八背捨」が発する姿に至ることについては、『次第禅門』に記した通りである。
「八勝処」とは、第一、第二の「勝処」は、「初禅」の位である。第三、第四の「勝処」は、「二禅」の位である。続く四つの「勝処」は、「四禅」の位である。「三禅」は「楽」が多く、心が鈍いので「勝処」として立てない。前に述べた「八背捨」は、観心の対象の多少を自在にすることはできない。そのため、「勝処」はさらに細分化して、多少、そして好醜を観察して、すべてを優れた知見とする。優れた軍馬が敵陣を破り、そして自らも制することができるようなものである。
「十一切処」は、「八色両心(はっしきりょうしん・青、黄、赤、白、および、万物の根元とされる六大の中の地、水、火、風と、六大の中の空、識を観じる二つの心)」を駆使して広く観心の対象が遍満して転変自在である。具体的に詳しくは『次第禅門』にある通りである。
Ⅱ.練禅
「練禅」とは、ここまで八種類の禅定を述べたが、それらはそれぞれに間隔があった。ここでは、熟練して最初の浅い段階から後の深い段階まで究めるために、順番に修して、しかもその間に垢や滓(おり・かすのこと)や隙間や汚れがなく、順序に従って修すことのできない者を順序に従わせる。これは煩悩のない状態によって煩悩のある状態を熟練させ、あらゆる乱れを除くために、「練禅」と名付ける。またこれは他のあらゆる禅定を整え、禅定の智慧をもって平らに間隔をなくすのである。
『阿毘曇論』に、「熏禅」と「練禅」が述べられているが、ただ「四禅」を煩悩のない状態にさせると述べるのみである。ここでは、煩悩のない状態をもって、八種類の禅定の境地を熟練させるのである。このようにして、順番に無間三昧(むけんざんまい・順序に従って間なく行なわれる禅定)に入るのである。
Ⅲ.熏禅
「熏禅」とは、「獅子奮迅三昧(ししふんじんざんまい)」のことである。前に述べた禅定は、順番に従って禅定に入るのであるが、この場合も順番に従って禅定に入り、また順番に従って禅定を出る。麁や間隔や教えに対する執着や愛着を除くことが、まるで獅子が進退自在であり、あらゆる塵や土を振るい落とすようなものである。修行者はこの禅定に入り、すべての禅定を熟練させ、よく通じ、転変自在である。動物の皮をよく熟成させれば、あらゆる物を作ることができるようなものである。
Ⅳ.修禅
「修禅」とは、「超越三昧(ちょうえつざんまい)」のことである。程度の低い禅定から高い禅定に至るまで、その区別を超越して、その超越した禅定に留まる。この禅定は功徳が最も深いので、「頂禅」と名付ける。あらゆる法門において、自在に出入りするのである。