大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 12 (完)

守護国家論 現代語訳 12 (完)

 

第七章

 

全体を七門に分けた第七として、問答形式によって答える。

もし末代の愚人が、上に述べた六門に依って、万が一も『法華経』を信じるならば、権宗の諸人は、自らの迷いに執着するために、偏った教えに執着するために、その『法華経』の行者を破ろうと、『法華経』以前の四十余年ならびに『涅槃経』などの諸経から多くを引用して、非難して来るであろう。

しかし、権教を信じる人は多く権力を持っており、あるいは世間の財力があり、あるいは世間を渡るために人々の心に従っており、あるいは、権教には学者が多く、実教には智者が少ないこともあり、このように万が一も実教を信じる者はいないのである。したがって、この段落を記すことにより、権教の人の邪悪な批判を防ぐことにする。

問う:(注1)諸宗の学者は、非難して次のように言っている。「『華厳経』は報身如来の所説、七処八会はみな頓極頓証の法門である。『法華経』は応身如来の所説、教主にすでに『華厳経』との優劣がある。したがって、法門においては、どうして浅深の違いがないわけがあろうか。このために、説法の対象となっている衆生も、『華厳経』では、法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩などである。二乗を全く交えていない。『法華経』は舎利弗などを説法の対象としている」。以上は華厳宗の論難である。

また、法相宗は、『解深密経』などをもって拠り所とし、論難を加えて次のように言っている。「『解深密経』は文殊菩薩観音菩薩などをもって説法の対象としている。勝義生菩薩の領解には、釈迦一代の説法を有・空・中に分けている。その中とは、『華厳経』・『法華経』・『涅槃経』・『解深密経』などである。『法華経』の「信解品」の長者窮子の喩えに基づく五時の領解は四大声聞による。菩薩と声聞とは、その勝劣に天と地の違いがある」と言っている。

また、浄土宗は、道理を立てて、次のように言っている。「私たちは、『法華経』などの諸経を誹謗しているのではない。それらの諸経は、大いに智慧が進んだ人を第一の対象としており、凡夫は正規の対象ではない。煩悩を断じて理法を証する深い理法の教えであって、末代の私たちは、これらを修行しても、その千人の中で一人もそれにふさわしい能力の者はいない。また、在家の人々のほとんどは文字が読めない。また、『華厳経』や法相宗などの言葉さえ聞いたことがない。ましてやその教義などどうして知ることができるだろうか。浄土宗の意趣は、私たちのような凡夫は、ただ口に任せて六字の名号を称えれば、今のこの時には、阿弥陀如来は二十五の菩薩たちを遣わして、その身に影がついて回るように、百重千重にも行者を囲って守って下さる。このために、現世においては、七難即滅七福即生し、さらに臨終の時は必ず来迎があって、観音の蓮台に乗り、瞬く間に浄土に至り、業に従って蓮華が開き、『法華経』を聞いて実相を悟る。どうして煩わしくこの穢土において、さまざまな修行をして、何かの悟りを得る必要があろうか。ただ、すべてを投げ打って、一向に名号を称えよ」と言っている。

禅宗などの人は次のように言っている。「一代の聖教は月を指す指のようなものである。天地日月なども、私たちの妄心より生じたものである。十方の浄土も、執着する心の映像である。釈迦の分身の十方の仏陀は、あなたの悟る心を表わしている。文字に執着する者は、株を植えずにただ守っている愚人である。私たちの祖師である達磨大師は文字を立てなかった。方便を用いずに、一代の聖教の外に、仏が摩訶迦葉に示してこの教えを伝えたのだ。『法華経』などは未だ真実を宣べているものではない」と言っている。

これらの諸宗の論難は、一つや二つではない。これらを見れば、どうして『法華経』信心が打ち破られずにいられようか。

答える:『法華経』の行者は、心中に、『法華経』以前の四十余年の諸経・すでに説き、今説き、まさに説くであろう・これらはみな真実である・法に依って人に依らず、などの経文を刻んで、しかも口に言葉としてこれらを出さないものである。論難に対して、まず次のように問うべきである。そもそも、立てられた宗義は、どの経典に依っているのか。その者が経典を引用するならば、その経典に従ってこのように尋ねるべきである。「釈迦一代五十年の間の説法の中において、それは『法華経』より先か、後か、同時であるか、またその先か後かは定まっていないか」と。もし先だと答えれば、それは未顕真実だとする文を用いてこれを責めよ。あえて、その経典の教えの形を尋ねる必要はない。また、後だと答えれば、「まさに説くであろう」という経文を用いてこれを責めよ。また、同時だと答えれば、「今説き」の経文を用いてこれを責めよ。定まっていないと答えれば、不定の経典は体系を持つ経典ではなく、一時一会の説法であり、物の数に入らない。その上、不定の経典といっても、「すでに説き、今説き、まさに説くであろう」の三説を出ない。たとい百千万の義を立てるとしても、『法華経』以前の四十余年の経文を挙げて、虚妄だとする以外は用いるべきではない。仏の遺言に「不了義経に依らず」とあるためである。また、智儼・嘉祥大師・慈恩大師・善導などを挙げて、その徳を立てて論難してきても、『法華経』・『涅槃経』の教義に相違する人師は用いるべきではない。「法に依って人に依らず」の金言を仰ぐためである。

また、『法華経』を信じない愚者のために、二種の信心について述べる。一つめは、仏によって信心を起こすことを述べ、二つめは、経典によって信心を起こすことを述べる。

まず、仏によって信心を起こすことを述べる。権宗の学者が次のように論難してきた。「善導和尚は三昧発得の人師、本地は弥陀の化身である。慈恩大師は十一面観音の化身、また、筆の端から舎利を降らす。これらの諸人はみなそれぞれの経典に依って、みな証がある。どうして、あなたはそれらの経典に依らず、またそれらの師の教義を用いないのか」。

答える:よく聞くが良い。すべての権宗の大師先徳ならびに舎利弗・目連・普賢・文殊・観音そして阿弥陀・藥師・釈迦如来が、私たちの前に集まって、次のように言ったとする。「『法華経』はあなたたちの能力にはふさわしくない。念仏などの権経の行を修して往生を遂げて、後に『法華経』を悟れ」と。このような言葉を聞いたとしても、それを用いてはならない。なぜならば、『法華経』以前の四十余年の諸経には、『法華経』の名字さえ語られていないのだから、どうして能力にふさわしくないか、ふさわしいかを判断することができようか。『法華経』においては、多宝・釈迦・十方諸仏が一処に集まって、定めて次のように述べている。「この法を永遠に存在させる」「如来の滅後において、閻浮提の内に広く流布させて絶えることのないようにする」と。これ以外に、今、仏が現われて、『法華経』を末代には不相応だと定めるならば、それはすでに『法華経』に相違することになる。このために、この仏は『涅槃経』で説かれている滅後の魔仏であることがわかる。これを信用してはならない。これ以下の菩薩・声聞・比丘たちについては、言うまでもないことである。これらは疑いようがなく、『涅槃経』に記されている滅後の魔が変化した菩薩たちである。なぜならば、『法華経』の座は三千大千世界の外、四百万億阿僧祇の世界に及ぶ。その中に充満している菩薩・二乗・人天・天龍八部衆などは、みな如来の告げる命令を蒙り、それぞれの所在の国土において『法華経』を広めることを願い出ている。善導などが、もし権者ならば、どうして竜樹・天親たちのように、先に権教を広めて、後に『法華経』を弘めないのか。『法華経』を広める命令を受けた者の数に入らないのか。どうして仏のように、まず権教を広めて、後に『法華経』を広めないのか。もしこの義がなければ、たとい仏だといっても、これを信じてはならない。今は『法華経』の中の仏を信じるために、仏について信心を起こすというのである。

問う:釈迦如来の所説を、他の仏がこれを証することを実説というならば、どうして『阿弥陀経』を信じないのか。

答える:『阿弥陀経』には、『法華経』のような証明がないために信じないのである。

問う:『阿弥陀経』を見ると、釈迦如来が説かれた「一日七日の念仏」を、六万の諸仏が舌を出し三千世界を覆うことによって、これを証明している。どうして証明がないと言うのか。

答える:『阿弥陀経』には、全く『法華経』のような証明はない。ただ釈迦一仏が舎利弗に向かって、「私一人が『阿弥陀経』を説くのみではなく、六万の諸仏が舌を出して三千世界を覆って、『阿弥陀経』を説く」といっても、これらは釈迦一仏の説法である。あえて諸仏は来てはいない。これらは権文である。『法華経』以前の四十余年の間は、教主も権仏であり、この世で初めて悟った仏である。仏が権であるために、所説もまた権である。したがって、『法華経』以前の四十余年の権仏の説は信じるべきではない。今の『法華経』・『涅槃経』は、久遠実成の円教の仏の実説であり、十界互具の実言である。また多宝仏と十方の諸仏が来て、これを証明された。このために信じるべきである。『阿弥陀経』の説法は、『無量義経』に記されている未顕真実の語に破られている。全く釈迦一仏の言葉であって、諸仏の証明の言葉ではない。

二つめに、経典によって信心を起こすことを述べる。『無量義経』に、『法華経』以前の四十余年の諸経を挙げて、未顕真実と述べられている。『涅槃経』には、「如来には虚妄の言葉はないといっても、もし衆生が虚妄の説法によって法の利益を得るとわかれば、適宜に方便を用いてこれを説かれる」とある。また、「了義経に依って不了義経に依るな」とある。

このような文は一つや二つではない。『法華経』以前の四十余年の仏が自ら説かれた諸経を、みな虚妄・方便・不了義経・魔説と述べている。これはみな人がその経典を捨てて、『法華経』・『涅槃経』に入らせるためである。しかし、何の根拠があって、妄語の経典をそのまま留めて、行儀を設けて悟りを得ることを期待するのか。今、権教に対する感情的な執着を捨てて、偏に実経を信じるべきである。このために、経典によって信心を起こすというのである。

問う:善導和尚も、人によって信心を起こし、行によって信心を起こした。そこに何の差別があるのか。

答える:彼は『阿弥陀経』などの「浄土三部経」に依って信心を起こし、釈迦一代の経典において、了義経・不了義経を分けずに信心を起こしたのである。このために、了義経である『法華経』・『涅槃経』の教義に対して論難する時は、不了義経の教義は自ら壊れてしまうのである。

 守護国家論

 

(完)

 

注1・この問いの部分は、他の宗派などの論難を具体的にあげているため、非常に長い。

『法華経』現代語訳と解説 (完)

法華経』現代語訳と解説 その48

 

妙法蓮華経 普賢菩薩勧発品 第二十八

 

その時に普賢菩薩は、自在の神通力と偉大な威徳をもって、数えることのできないほどの多くの大いなる菩薩と共に、東方から来た(注1)。その経過したところ諸国はすべてみな震動し、宝の蓮華を降らせ、無量百千万億のあらゆる伎楽が響いた。

普賢菩薩はまた、無数の天龍八部衆に囲まれ、それぞれの威徳と神通力を現わして、娑婆世界の耆闍崛山に着き、釈迦牟尼仏の足を頭につけて礼拝し、右に七周して、次のように申し上げた。

「世尊よ。私は宝威徳上王仏(ほういとくじょうおうぶつ)の国において、遥かにこの娑婆世界で『法華経』が説かれていることを聞き、無量無辺百千万億の多くの菩薩たちと共に、それを聞くために来ました。ただ願わくは世尊よ。まさに説かれますことを願います。良き男子や良き女子は、如来の滅度の後において、どのようにしたらこの『法華経』を聞くことができるでしょうか」。

仏は普賢菩薩に次のように語られた。

「もし良き男子や良き女子が、次に述べる四つの事柄を成就すれば、如来の滅度の後において、この『法華経』を聞くことができるであろう。

第一は、諸仏に守られていることであり、第二は、多くの良き因縁を積んでいることであり、第三は、悟りに到達することが決定していることであり、第四は、すべての人々を救おうとする心を起こしていることである。

良き男子や良き女子がこのような四つの事柄を成就するならば、如来の滅度の後において、必ずこの経を聞くことができるであろう」。

その時に普賢菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。最後の時である最後の五百年が経過している間(注2)、汚れた悪しき世の中においてであっても、私はこの経典を受持する者があるならば、まさにその者を守護して、その憂いや患いを除き、安穏であることを得させ、その者の短所を求める者は、それを得ることができないようにしましょう。魔、または魔子、または魔女、または魔民、または魔に憑かれた者、または夜叉、または羅刹、または鳩槃荼、または毘舎闍(びしゃじゃ)、または吉蔗(きっしゃ)、または富単那(ふたんな)、または韋陀羅(いだら・注3)などの人を悩ますものも、その者を見つけることができないようにしましょう。その人が歩きながら、または立ってこの『法華経』を読誦するならば、私は六つの牙を持つ白い象の王に乗って、大いなる菩薩たちと共にそのところに行って、自ら身を現わし、供養し守護してその心を安らかに慰めましょう。またそれは、『法華経』を供養するためです。

その人がもし、座ってこの経を考えるならば、私は白い象の王に乗ってその人の前に現われます。その人がもし『法華経』の一句一偈であっても忘れるようなことがあるならば、私はそれを教えて共に読誦し、その意味を悟らせましょう。

その時に『法華経』を受持し読誦する者は、私の身を見ることができ、大変喜んで、またさらに精進するでしょう。私を見ることによって、即座に三昧および陀羅尼を得るでしょう。それらを名づけて旋陀羅尼(せんだらに)、百千万億旋陀羅尼、法音方便陀羅尼(ほうおんほうべんだらに・注4)と言います。このような陀羅尼を得るでしょう。

世尊よ。最後の時である最後の五百年間の汚れた悪しき世の中において、僧侶や尼僧や男女の在家信者たちが、この『法華経』を求め、受持し、読誦し、書写し、修習しようとするならば、二十一日の間、まさに一心に精進すべきです。その期間を満了するならば、私はまさに、六つの牙の白い象に乗って、無量の菩薩たちに囲まれ、すべての人が見たいと願う姿をもって、その人の前に現われ、その人のために教えを説いて、心を励ましましょう。

またさらに、その人に陀羅尼の呪を与えましょう。この陀羅尼を得るならば、悪しき者などが害を加えることはないでしょう。また、女人に惑わされることはないでしょう。私自らが、その人を守りましょう。ただ願わくは世尊よ。私にその陀羅尼を説くことをお許しください」。

普賢菩薩は仏の前において、呪を次のように語った。

「あたんだい、たんだはち、たんだばてい、たんだくしゃれい、たんだしゅだれい、しゅだれい、しゅだらはち、ぼだはせんねい、さるばだらにあばたに、さるばばしゃあばたに、しゅあばたに、そうぎゃばびしゃに、そうぎゃねきゃだに、あそうぎ、そうぎゃはぎゃち、ていれいあだそうぎゃとりゃあらていはらてい、さるばそうぎゃさまちきゃらんち、さるばだるましゅはりせってい、さるばさたろだき。

世尊よ。もし菩薩にふさわしい者がいて、この陀羅尼を聞くことができた者は、まさにこれこそ、普賢神通の力であると知るべきです。またもし『法華経』をこの地で実践し続ける者は、まさにこれこそ、普賢威神の力であると知るべきです。もし、この経を受持し、読誦し、正しく記憶し、その意味を理解し、その説に従って修行するならば、その人は、普賢の行を行じていると知るべきです。その者は、無量無辺の諸仏のところにおいて、深く良い因縁を積む者となり、多くの如来の手によって、その頭をなでてもらうことになるでしょう。

もしただ書写するだけの者であっても、その人の命が終わって後、忉利天(とうりてん)に生まれるでしょう。その時に八万四千の天女たちが、多くの伎楽を演奏しながら迎えに来るでしょう。その人は七宝の冠をかぶって、天女たちの中で楽しむでしょう。ましてや、受持し、読誦し、正しく記憶し、その意味を理解し、説に従って修行する者は、それ以上です。

もしある人が、この経を受持し、読誦し、その意味を理解したとします。この人の命が終わるならば、千仏の手が差し伸べられて、恐れることなく、悪しき世界に落ちることなく、兜率天(とそつてん)の弥勒菩薩の世界に行くでしょう。弥勒菩薩は、すぐれた三十二の姿を成就しており、大いなる菩薩たちに囲まれており、百千万億の天女や従者たちがいて、その者はその中に生まれるでしょう。このような功徳や優れたことがあるでしょう。このために、智恵のある者は、まさに一心に『法華経』を自らも書き、また人に書かせて、受持し、読誦し、正しく記憶し、説にしたがって修行すべきです。

世尊よ。私は今、神通力をもってこの経を守護し、如来の滅度の後に、この世に広く流布させ、決して絶えることのないようにします」。

その時に釈迦牟尼仏は、普賢菩薩を褒めて次のように語られた。

「良いことだ。良いことだ。普賢菩薩よ。あなたはよくこの経を守護し、多くのところにいる衆生を安楽に導いた。あなたはすでに、思いもおよばない功徳と深大な慈悲を成就したのだ。遠い昔から今まで、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こして、この神通力の誓願を立て、この経を守護した。私はまさに神通力をもって、普賢菩薩の名を受持する者を守護しよう。

普賢菩薩よ。もしこの『法華経』を受持し、読誦し、正しく記憶し、修習し、書写する者がいるならば、まさに知るべきである。この人は、釈迦牟尼仏を見ているのだ。仏の口よりこの経典を聞いていることになるのだ。またまさに知るべきである。この人は、釈迦牟尼仏を供養しているのだ。またまさに知るべきである。この人は、仏に『良いことだ』と褒められるのだ。またまさに知るべきである。この人は、釈迦牟尼仏の手に、その頭をなでられるのだ。またまさに知るべきである。この人は、釈迦牟尼仏の衣に覆われるのだ。

このような人は、再び世の楽しみに対して貪欲になることはない。他の誤った宗教の経書や書簡などを好むことはない。またこの人は、屠殺目的で猪や羊や鶏や犬を飼う者、あるいは猟師、または女の色を売る悪しき者に親しく近づくことを願わない。この人は、心や志が素直であり、正しい考え方を持っており、福徳の力がある。この人は、貪欲、怒り、無知に悩まされることはない。また嫉妬、高ぶり、邪見、自惚れに悩まされることはない。この人は、欲が少なく智慧が十分にあり、よく普賢の行を修すであろう。

普賢菩薩よ。もし最後の時である最後の五百年が経過している間において、『法華経』を受持し、読誦する者を見るならば、まさに次のような思いを持つべきである。

『この人は間もなく、悟りの道場に進んで、多くの魔を破り、阿耨多羅三藐三菩提を得て、教えを説き、教えの鼓を打ち、教えの螺を吹き、教えの雨を降らすであろう。まさに天や人の大衆の中にある、立派な教えの座の上に座るであろう』。

普賢菩薩よ。後の世において、この経典を受持し、読誦する者は、衣服や家具や飲食や生活物資に執着しないであろう。またその願いは空しくならないであろう。また現世において、その福の果報を得るであろう。

もしある人が、この経典を受持する者を軽蔑して罵り、「あれは気が狂っているだけだ。無駄な行をして、何も得るところはないだろう」と言ったとする。そのような罪の報いは、何度生まれ変わっても目のない者に生まれるようになる。

もしある人が、この経典を受持する者を供養し、讃歎するならば、まさに今の世において、良い果報を目の当たりにするであろう。

もしある人が、この経典を受持する者を見て、その者の失敗や悪を言い広めたとする。その失敗や悪が本当だとしても嘘だとしても、この人はこの世において、らい病になるであろう。

もしある人が、この経典を受持する者を軽蔑して笑うならば、何度生まれ変わっても、歯が欠けていて、唇も醜く、鼻が低く、手足が曲がっており、目が片寄っており、体が臭く膿が出て、腹に水がたまり、結核などの悪しき重い病気にかかるであろう。

このために普賢菩薩よ。もしこの経典を受持する者を見るならば、遠くであっても立ち上がって、仏を敬うように迎えるべきである」。

この「普賢菩薩勧発品」が説かれた時、大河の砂の数ほどの無量無辺の菩薩たちは、百千万億旋陀羅尼を得、すべての世界を微塵にしたほどの数の菩薩たちは、普賢の道を身につけた。

仏がこの経を説かれた時、普賢菩薩などの菩薩たち、舎利弗などの声聞たち、および多くの天龍八部衆などのすべての会衆は、みな大いに歓喜し、仏の言葉を受持し、礼拝して去って行った。

 

 

注1・『法華経』の最終の章である「普賢菩薩勧発品(ふけんぼさつかんぼつほん)」は、妙音菩薩がそうであったように、普賢菩薩が他の国から訪ね来ることによって始まる。勧発とは、人に勧めて心を鼓舞するという意味である。まさに、『法華経』の最後の箇所にふさわしいと言える。

注2・「最後の時である最後の五百年が経過している間」 この個所の漢訳原文は、「於後五百歳。濁悪世中」であり、サンスクリット原文からの直訳では、上記の通りになる。

「後五百歳」とは、伝統的に『大集経』に記されている「第五の五百年」のことと解釈されており、鳩摩羅什もその解釈に立っていると考えられる。

この『大集経』の言葉は、「五百年が五つ重なった時」という意味である。つまり、第一の五百年は、1年から499年までであり、第二の五百年は、500年から999年までであり、第三の五百年は、1000年から1499年まで、第四の五百年は、1500年から1999年まで、そして第五の五百年は、2000年から2499年までである。そして『大集経』によれば、釈迦の死後二千年から末法が始まるとするので、第五の五百年から末法が始まるとするのである。この鳩摩羅什が訳した「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、「第五の五百年」と解釈することは、すなわち、末法の始まりを意味することになる。

日本の日蓮上人も、このように解釈しているが、それは、日蓮上人が非常に尊敬し、日蓮が書いた大曼荼羅本尊にも名前があがる妙楽大師湛然(たんねん・711~782・中国唐の僧侶。天台教学の中興の祖)がそのように解釈しているからである。湛然は、『法華経』の「如来の滅後、後の五百歳」の意味を、『大集経』の「第五の五百年」と解釈しており、日蓮上人は、その説を受け入れているのである。

日蓮上人は、この湛然の解釈の通り、この『法華経』の「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、仏の滅度の後の第五の五百年、つまり末法の始まりと解釈しており、そのため、日蓮上人は、末法の時代でこそ、『法華経』は広まるのであり、そのように釈迦は『法華経』を委ねられたのだと主張しているのである。

注3・「毘舎闍」は人の肉を食うとされる鬼、・「吉蔗」は死体を動かす鬼、「富単那」は吸血鬼、韋陀羅は殺人鬼のこと。

注4・旋陀羅尼は教えを説く能力、百千万億旋陀羅尼は数多くの教えを説く能力、法音方便陀羅尼は、あらゆる言葉に通じて教えを説く能力のこと。

守護国家論 現代語訳 11

守護国家論 現代語訳 11

 

第六章

 

全体を七門に分けた第六として、『法華経』と『涅槃経』に依る行者の心得を明らかにする。一代教門の勝劣・浅深・難易などについては、すでに前の段落で述べた。この段落では、一向に後世を願う末代の常に迷いに沈む五逆・謗法・一闡提などの愚人のために記す。概略的に三節に分ける。一節には、在家の諸人は、正法を護持すれば生死を離れ、悪法を持てば三悪道に堕ちることを明らかにし、二節には、ただ『法華経』の名号だけを唱えて三悪道を離れるべきことを明らかにし、三節には、『涅槃経』は『法華経』のための流通(るつう・補助・宣布という意味)であることを明らかにする。

 

第六章 一節

 

第一に、在家の諸人は、正法を護持すれば生死を離れ、悪法を持てば三悪道に堕ちることを明らかにする。『涅槃経』第三巻には、「仏は摩訶迦葉に告げられた。よく正法を護持する因縁をもって、この金剛の身を成就することができた」とある。また、「時にある国王がいた。名を有徳という。(中略)法を護るために、(中略)この破戒の多くの悪比丘と激しく戦った。(中略)王はこの時、法を聞くことができ、心は大に歓喜し、そして命が終わった後、阿閦仏の国に生まれた」とある。この文の通りならば、在家の諸人は特に智慧と修行がないといっても、謗法の者を対治する功徳に依って、生死を離れることができるのである。

問う:在家の諸人が仏法を護持すべき姿はどのようなものか。

答える:『涅槃経』には、「もし衆生が財物に貪著するならば、私はその者に財を施して、その後にこの『大涅槃経』を勧めて読ませよう。(中略)まず愛語をもってその思いに従い、その後に次第にこの大乗の『大涅槃経』を勧めて読ませよう。もし凡夫庶民であるならば、威勢を用いて迫って読ませよう。もし高慢の者には、私はその者のために僕の使いとなって、その思いに随順し、その者を歓喜させ、その後にまさに『大涅槃経』に教え導こう。もし「大乗経」を誹謗する者がいるならば、まさに勢力をもってこれを砕き服従させ、服従させた後に勧めて『大涅槃経』を読ませよう。もし「大乗経」を愛し願う者がいるならば、私は自ら趣いて恭敬し供養し尊重し讃歎しよう」とある。

問う:今の世の道俗は偏に『選択本願念仏集』に執着して、『法華経』・『涅槃経』に対しては、自身不相応の念をもって、守り惜しみ建立する心はない。たまたま、それは邪義だと言う人がいれば、念仏誹謗の者と称し、悪名を天下に広める。これはどのようなことか。

答える:私が答えを出すまでもなく、仏自らこの事を次のように記しておられる。『仁王経』には、「大王よ、私の滅度の後、未来世の中の僧侶や尼僧や男女の在家信者四の弟子、多くの小国の王・太子・王子、すなわち三宝を堅持して護る者が、かえって三宝を破り滅ぼすことは、師子の身中の虫が自ら師子を食うようなものである。それは外道ではなく、多くの者が私の仏法を破り、大いなる罪過を得るだろう。正法が衰え希薄になり、民に正しい行ないがなく、次第に悪事を行なうために、その寿命は日毎に減じて百歳に至るであろう。人は仏法を破るためにまた親孝行の子はいなくなり、六親は不和となり、天神も助けることなく、疫病の悪鬼が日毎に来て侵害し、災いや異変が連続して起こり、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるだろう」とある。また続いて、「大王よ。未来世の中の諸の小国の王・僧侶や尼僧や男女の在家信者の弟子たちが、自らこの罪をなすことは、破国の因縁となる。(中略)諸の悪比丘が多く名利を求め、国王・太子・王子の前で自ら仏法を破る因縁、国を破る因縁を説くであろう。その王は分別できずにその言葉を信じ聞き入れ、(中略)その時になっては、正法は間もなく滅んでしまう」。

私は『選択本願念仏集』を見て、この文の未来記に違わないと知った。『選択本願念仏集』は、法華・真言の正法を雑行難行と定め、末代の私たちにとっては、時機相応せず、これを行じる者は千人の中に一人もなく、仏が『法華経』などを説かれたといっても、法華・真言の諸行の門を閉じて、念仏の一門を開かれたのであり、末代においてこれを行じる者は群賊と定め、今の世の一切の道俗にこの書を信じさせ、この義を如来の金言と思っている。このために、世間の道俗は仏法を建立する心なく、法華・真言の正法の法水はたちまち涸れ、天人は減少して三悪が日に日に増長している。偏に『選択本願念仏集』の悪法に促されて起こす邪見である。この経文に、仏が「私の滅度の後」と記されているのは、正法の末八十年、像法の末八百年、末法の末八千年のことである。『選択本願念仏集』が出た時は像法の末、末法の始めであるので、八百年の内である。『仁王経』に記されている時節に該当する。諸の小国の王とは日本国の王である。中品と下品の善行は、その他の粟を散らした数の王たちを指す。「如師子身中虫」とは仏弟子源空法然のことである。「諸悪比丘」とは、その教化された人々である。「説破仏法因縁破国因縁」とは、上にあげた『選択本願念仏集』に記された言葉である。「其王不別信聴比語」とは、今の世の道俗が邪義を知らずに、むやみにこれを信じていることである。

請い願はくは、道俗たちが法の邪正を分別して、これから後、正法について後世を願え。今度人身を失い、三悪道に堕ちた後に後悔しても遅いのである。

 

第六章 第二節

 

第二に、ただ『法華経』の題目だけを唱へて、三悪道を離れるべきことを明らかにする。『法華経』第五巻には、「文殊師利よ、この『法華経』は無量の国の中において、(中略)名字さえ聞くことはできない」とある。また、第八巻には、「あなたたちは、ただよく法華の名を受持する者を擁護する福を測り知ることはできない」とある。「提婆達多品」には、「『妙法蓮華経』の提婆達多品を聞いて、心清く信敬して疑惑を生じない者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちることはない」とある。『大般涅槃経』の「名字功徳品」には、「もし善き男子・善き女子がこの経の名を聞いて、それでも悪趣に生じてしまうということはあり得ない」とある。『涅槃経』は、『法華経』の流通であるために、これを引用した。

問う:ただ『法華経』の題目を聞くといっても、経典の内容を理解する心がなければ、どうして三悪趣を逃れることができるのか。

答える:『法華経』が流布している国に生れて、この経の題名を聞き、信心を生じることは、過去世からの善い業が深く厚いことによる。たとい、今生は悪人で無智だとしても、間違いなく過去世の善い業があるために、この経の名を聞いて信心を起こす者なのである。このために、悪道には堕ちない。

問う:過去世の善い業とは何か。

答える:『法華経』第二巻には、「もしこの経の教えを信受する者がいるならば、この者はすでにかつて、過去の仏を見奉り恭敬し供養したため、またこの教えを聞くこととなったのである」とある。また「法師品」には、「また如来滅度の後、もしある人が『妙法蓮華経』の一偈一句でも聞いて、一念でも随喜するならば、(中略)まさに知るべきである。この人々は、すでにかつて十万億の仏を供養したのである」とある。『法華経』の流通である『涅槃経』には、「煕連河(きれんが・ガンジス川の支流)にある砂の数ほどの諸仏ものとで菩提心を起こした者こそ、よくこの悪世において、この経典を受持して誹謗する心を生じさせないのである。善き男子よ。大河の砂の数ほどの諸仏世尊のもとで菩提心を起こしたということをもって、後の悪世の中で、この教えを謗らず、この経典の法を愛敬するのである」とある。

これらの文の通りならば、たとい先ず経典の内容を理解する心がなくても、この『法華経』を聞いて謗らないのは、過去世の大いなる善い業が生み出したものである。そもそも、三悪道の生を受けることは、大地の微塵の数より多く、人間の生を受けることは、爪の上の土より少ない。さらに、『法華経』以前の四十余年の諸経に会うことは、大地の微塵の数より多く、『法華経』・『涅槃経』に会うことは、爪の上の土より少ない。上に引用した『涅槃経』第三十三巻の文を見るべきである。たとい一字一句だとしても、この経を信ずることは、過去世の業に多くの幸いがあったからである。

問う:たとい、『法華経』を信じるといっても、悪縁に従ってしまえば、どうして三悪道に堕ちることがないだろうか。

答える:理解する心がない者が、権教の悪知識に会って実経から退いてしまえば、悪師を信じた過失によって、必ず三悪道に堕ちるのである。常不軽菩薩を軽蔑した者たちは権教の人である。大通智勝如来の時に結縁した者が、それから三千塵点劫という測り知れないほどの時間を経たのは、『法華経』から退いて、権教に帰ってしまったためである。『法華経』を信じる者が、『法華経』の信心を捨てて権教の人に従うこと以外は、どんな世間の悪業も『法華経』の功徳には及ばないので、三悪道に堕ちることはない。

問う:日本国は『法華経』・『涅槃経』と因縁がある地であるのかどうか。

答える:『法華経』第八巻には、「如来の滅後に閻浮提の内に広く流布させ、断絶することがないようにする」とある。また、第七巻には、「広く宣べ流布して、閻浮提において断絶することがないようにする」とある。また『涅槃経』第九巻には、「この大乗経典である『大涅槃経』もまたこの通りである。南方のあらゆる菩薩のために、まさに広く流布させるべきである」とある。

三千世界は広いといっても、仏自らが南方を『法華経』・『涅槃経』の流布の場所と定められている。南方の諸国の中でも、日本国は特に『法華経』が流布すべき場所である。

問う:その証拠となる経文は何か。

答える:僧肇(そうじょう・『法華経』を漢訳した鳩摩羅什の弟子)が記した、『法華経』翻訳の後記には、「鳩摩羅什三蔵は、須利耶蘇摩(しゅりやそま)三蔵に会って『法華経』を授かった時の言葉に、仏の日は西山に隠れ、その残りの輝きが東北を照らしている。この経典は、東北の諸国に縁がある。あなたは慎んで伝え広めよ」とある。東北とは日本である。西南のインドより東北の日本を指しているのである。このために、慧心僧都源信の『一乗要決』には、「日本一州の円教の機縁は純一であり、朝野遠近同じく一乗に帰し、道俗貴賤みな成仏を願う」とある。

願はくは日本国の今の世の道俗が、『選択本願念仏集』を学び続けることをやめ、『法華経』・『涅槃経』の経文に依り、僧肇・慧心僧都の日本に対する未来記を見て、法華修行の安心を企てよ。

問う:『法華経』を修行する者は、どの浄土を願うのか。

答える:『法華経』全二十八品の肝心である「如来寿量品」には、「我常在此娑婆世界」とある。また、「我常住於此」とある。また、「我此土安穏」とある。

この文の通りならば、本地において久遠の昔に成仏している円教の仏は、この世界におられる。この土を捨てて、どの国土を願うべきであろうか。このために、『法華経』を修行する者がいる場所を浄土と思うべきである。どうして煩わしく他の国土を求めることがあろうか。したがって、「如来神力品」には、「もし経巻がある場所ならば、それが園中であっても、林中であっても、樹下であっても、僧坊であっても、在家の家であっても、殿堂であっても、山谷広野であっても、(中略)まさに知るべきである。この場所はすなわち道場である」とある。『涅槃経』には、「善き男子よ。この微妙な『大涅槃経』が流布される場所は、まさに知るべきである、その地はすなわち金剛である。この中の人々もまた金剛のようである」とある。『法華経』・『涅槃経』を信じる行者は、他の場所を求めるべきではない。この経を信じる人のいる場所がすなわち浄土である。

問う:『華厳経』・「方等経」・『般若経』・『阿含経』・『観無量寿経』などの諸経を見れば、兜卒天・西方極楽浄土・十方の浄土を勧めている。その上、『法華経』の文を見れば、また兜卒天・西方極楽浄土・十方の浄土を勧めている。どうして、これらの文に相違して、ただこの瓦礫荊棘(がりゃくけいこく・小石やいばらのこと)の穢土を勧めるのか。

答える:『法華経』以前の経典の浄土は、久遠実成の釈迦如来が現わされた浄土であって、実の穢土である。『法華経』もまた、「方便品」と「如来寿量品」の二品が中心となる。「如来寿量品」に至って、実の浄土を定める時、この土はすなわち浄土であると定められた。ただし、兜卒天・安養国・十方の浄土については、『法華経』以前の名目を改めずに、この国土において、兜卒天・安養国などの名称を付けるのである。たとえば、この経に三乗の名称があるといっても、三乗はないようなものである。妙楽大師が、「さらに『観無量寿経』などを指すことを用いない」と解釈している意味はこれである。『法華経』に結縁していない衆生が、この世で西方浄土を願うことは、瓦礫の国土を願うことだということはこれである。『法華経』を信じない衆生は、誠にこの国土を分けて浄土と呼んでいるだけで、実際の浄土さえない者なのである。

 

第六章 第三節

 

第三に、『涅槃経』は『法華経』の流通のために説かれたことを明らかにする。

問う:光宅寺法雲法師ならびに道場寺慧観たちの碩徳は、『法華経』を第四時の経と定め、無常熟蘇味と立てている(注1)。天台智者大師は『法華経』と『涅槃経』は同味であると立てているが、捃拾(くんじゅう・注2)の教義がある。二師共に菩薩の権化である。共に徳行を具えた人物である。どちらを正しい教えとして、私たちの迷う心を晴らすべきだろうか。

答える:たとい論師や訳者だとしても、仏教に相違して権実二教を正しく判断しなければ、疑いを加えるばかりである。ましてや、中国の人師である天台大師・南岳大師・光宅寺法雲・道場寺慧観・智儼・嘉祥大師・善導などの解釈においてはなおさらである。たとい末代の学者だとしても、依法不依人の意義を堅持し、本経本論に相違しなければ、信用を加えるのである。

問う:『涅槃経』第十四巻を開いて見ると、五十年の諸大乗経を挙げて前四味に喩え、『涅槃経』をもって醍醐味に喩えている。諸大乗経は『涅槃経』より百千万倍劣っていると定めている。その上、迦葉童子の領解には、「私は今日初めて正見を得た。今までの私たちは、すべて邪見の人と言わなければならない」とある。この文の意趣は、『涅槃経』以前の『法華経』などのすべての経典は、みな邪見ということである。まさに知るべきである。『法華経』は邪見の経であり、未だ正見の仏性を明かしてはいない。このために、天親菩薩の『涅槃論』には、諸経と『涅槃経』との勝劣を定める時、『法華経』をもって『般若経』と同等と見て、同じく第四時に入れている。どうして正見の『涅槃経』をもって、邪見の『法華経』の流通とするのであるか。

答える:『法華経』の文を見ると、仏の本懐に残されたところはない。「方便品」には、「今まさしくその時である」とある。また「如来寿量品」には、「常に自ら『どのようにして衆生を無上道に入らせ、速やかに仏身を成就することができるか』ということを考えている」とある。また、「如来神力品」には、「要を取ってこれを言えば、如来の一切の所有の法、(中略)みなこの経において宣べ示し顕わし説く」とある。

これらの文は、釈迦如来の内証は、みなこの経に尽くされていることを示している。その上、多宝如来ならびに十方の諸仏が来集している場において、釈迦如来の「すでに説き、今説き、まさに説くであろう」という「已今当」の言葉が証しされ、『法華経』のような経典は他にはないということが定められている。しかし、多宝如来や諸仏が本土に帰られた後、ただ釈迦一仏のみが変わられ、『涅槃経』を説き、『法華経』を卑しめられたとすれば、誰がこれを信じるだろうか。深くこの意義を覚えよ。したがって、『涅槃経』第九巻を見ると、『法華経』を流通して説いて、「この経が世に出ることは、果実が実って、多くの人々に利益を与え、大いに安楽にするようなものである。よく衆生に仏性を見させるのである。『法華経』の中の八千人の声聞が、記を授かって、大いなる果実を成就することは、秋に収穫して冬に蔵に収めるならば、それ以上なすことがないようなものである」と説いている。

この文の通りならば、『法華経』がもし邪見ならば、『涅槃経』もどうして邪見でないわけがあろうか。『法華経』は大収であり、『涅槃経』は捃拾である。『涅槃経』は自ら『法華経』に劣っている理由を示している。『法華経』の「まさに説くであろう」の文にも相違はない。ただし、摩訶迦葉の領解ならびに第十四巻の文は、『法華経』を低めている文ではない。摩訶迦葉自身ならびに教化された衆生は、今初めて『法華経』の説く常住仏性・久遠実成を悟ったのである。このために、自分自身を指して、これまでは邪見だったと言うのである。『法華経』以前の『無量義経』が退けた諸経を、『涅槃経』においても重ねてこれらを挙げて退けているのである。『法華経』を退けているのではない。

また、『涅槃論』では、これらの論書は、そこに記されているように、天親菩薩の著作であり、菩提流支の訳である。『法華論』もまた天親菩薩の著作であり、菩提流支の訳である。経文と相違する箇所が多い。『涅槃論』もまた、『涅槃経』に相違する。まさに知るべきである。それらは訳者の誤りである。信用するに及ばない。

問う:前に説かれた教えに漏れた者を、後の教えでそれらを受け取って、悟りに導くことを流通というならば、『阿含経』は、『華厳経』の流通となるのか。そして、『法華経』は、前の四味に喩えられる諸経の流通となるのかどうか。

答える:前の四味の諸経は、菩薩や人天たちが悟りを得ることを認めているとはいえ、決定性の二乗・無性・一闡提の成仏は認めていない。その上、仏の意趣を深く検討して、またその実をもってこれを検討すれば、結局、菩薩や人天たちの悟りもないことになる。それは、十界互具を説かないためであり、久遠実成がないためである。

問う:その証文は何か。

答える:『法華経』の「方便」品には、「もし小乗を用いて一人でも教化するならば、私は慳貪に堕すことになる。このようなことは絶対にない」とある。この文の意味については、今は『選択本願念仏集』の邪義を破るためにこの書を記しているのであるので、それ以外のことは述べることはしない。したがって、『法華経』以前の諸経において悟りを得るか得られないか、ということについては、その真実の教義は述べることはできない。追ってこれを検討するべきである。ただし、『法華経』以前の四十余年の諸経では、実に凡夫が悟りを得ることはないために、『法華経』を以前の諸経の流通とはしない。『法華経』において、十界互具・久遠実成が表わされているのである。このために、『涅槃経』は『法華経』の流通となるのである。

 

注1・釈迦一代の諸経の勝劣と、説かれた順序を定めるために、各祖師たちは、たとえば五時の分別を立て、それぞれ、『涅槃経』の記述に基づいて、乳製品の発酵過程を喩えとした五味(ごみ)などを立てているが、それぞれの祖師たちの見解はさまざまである。その中で、天台大師の立てた五時教判は最も有名である。

注2・『法華経』で、釈迦一代の教化は終了したことになるが、しかし、たとえば、『法華経』が説かれようとしたとき、聴く必要はないと五千人が座を立ったように、まだ『法華経』で導かれていない人々もいる。その人々を導くために、『法華経』の後に『涅槃経』が説かれた、とすることが「捃拾」である。捃拾とは、落穂拾いのような「拾い集める」という意味がある。これに対して、『法華経』は、「大いなる収穫」という意味の「大収」という。

『法華経』現代語訳と解説 その47

法華経』現代語訳と解説 その47

 

妙法蓮華経 妙荘厳王本事品 第二十七

 

その時に仏は、大衆に次のように語られた。

「無量無辺不可思議阿僧祇劫の遠い過去に、仏がいた。その名を雲雷音宿王華智多陀阿伽度阿羅訶三藐三仏陀(うんらいしゅくおうけちただあかど・あらか・さんみゃくさんぶっだ)という。その仏の教えを受ける者たちの中に王がいた。その名を妙荘厳(みょうしょうごん)という。その王の夫人の名を浄徳(じょうとく)という。二人の子供がいて、ひとりを浄蔵(じょうぞう)と名づけ、もうひとりを浄眼(じょうげん)と名づける。

その二人の子には、大いなる神通力、福徳、智慧があって、長い間、菩薩の行なうべき道を修した。いわゆる六波羅蜜の檀波羅蜜・尸羅波羅蜜・羼提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禅波羅蜜般若波羅蜜、そして方便波羅蜜、また四無量心の慈悲喜捨、そして三十七道品の助道の法(注1)を、みなことごとく明らかに成就した。また、菩薩の浄三昧・日星宿三昧・浄光三昧・浄色三昧・浄照明三昧・長荘厳三昧・大威徳蔵三昧をすべて成就した。

その時その仏は、妙荘厳王を導くため、および衆生を憐れまれ、この『法華経』を説かれた。

その時に浄蔵と浄眼の二人の子は、その母のところに行き、合掌して次のように語った。

『願わくは母上。雲雷音宿王華智仏のところに礼拝するために行かせてください。私たちは従い仕え、供養し礼拝しようと思います。なぜならば、この仏は、すべての天と人々の中において、『法華経』を説かれています。私たちも聞くことを願います』。

母は子に次のように語った。

『あなたの父は、外道を信じ受け入れ、深く婆羅門の教えに執着しています。あなたがたは父のところに行き、共に行くようにしなさい』。

浄蔵と浄眼は、合掌して母に次のように語った。

『私たちは教えの王である仏の子です。しかし、他の宗教の家に生まれました』。

母は子に次のように語った。

『あなたたちは、あなたたちの父を気の毒に思い、そのために神変を現わすべきです。もし父がそれを見るならば、心は必ず清らかとなるでしょう。そうなれば、私たちの仏のところに行くことを聞き入れるでしょう』。

そこで二人の子は、その父を思って、非常に高く虚空に上り、そこに留まってあらゆる神通力による変化を現わした。虚空の中において行住坐臥し、身の上より水を出し、身の下より火を出し、身の下より水を出し、身の上より火を出し、あるいは身を大きくして虚空の中に満ち、また身を小さくしてまた大きくし、空中において消え、また突然地面に姿を現わした。そして、地面の中に水がしみこむように入り、また水の上を歩いた。このようなあらゆる神変を現わして、その父である王の心を清くして信じ受け入れるようにした。

その時に父は、子の大いなる神通力を見て、未曾有と大変喜んで、合掌して子に向かって次のように語った。

『あなたたちの師は誰であるか、あなたたちは誰の弟子か』。

二人の子は次のように語った。

『大王よ。あの雲雷音宿王華智仏が、今、七宝の菩提樹下の法座の上に座っておられます。すべての世界の天や人々の中で、広く『法華経』を説いておられます。この仏が、私たちの師です。私たちはこの仏の弟子です』。

父は子に次のように語った。

『私も今、あなたたちの師に会いたいと思う。共に行こうではないか』。

そこで二人の子は、空中より下りて、母のところに行き、合掌して次のように語った。

『王である父は、今信じ受け入れ、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こす条件を満たされました。私たちは父のために、すでに仏の教えの中でなすべきことをなし終えました。願わくは母上。あの仏のところにおいて、出家して道を修することを許してください』。

その時に二人の子は、再びこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語った。

『願わくは母よ 私たちが出家して僧侶となることを許したまえ 諸仏にお会いすることは非常に難しいことです 私たちは仏に従って学ぶことを願います 三千年に一度花が咲くという優曇波羅(うどんぱら)のように 仏にお会いすることはこれよりも難しいことです 仏に会うことを妨げることから脱することもまた難しいことです 願わくは私たちの出家をお許しください』。

母は次のように語った。

『あなたたちの出家を許します。なぜならば、仏に会うことは非常に難しいからです』。

そこで二人の子は、その父母に次のように語った。

『父上、母上、ありがとうございます。願わくは共に、雲雷音宿王華智仏のところに行き、親しく供養してください。なぜなら、仏に会うことは難しいからです。三千年に一度咲く優曇波羅華のように、また片目の亀が大海に浮いた木の穴に顔を入れるように、非常に稀なことです。しかし、私たちは前世において植えられた福が深く厚く、仏の教えに会うことができました。このために、父上、母上よ。私たちを許して出家させてください。なぜならば、諸仏に会うことは難しく、また、仏がおられる時代に遭遇することも難しいからです』。

この時すでに、妙荘厳王に仕える八万四千の人々は、みなこの『法華経』を受持するにふさわしい人々であった。子の浄眼はまさに菩薩にふさわしく、すでに法華三昧を成就していた。またもう一人の子である浄蔵はまさに菩薩にふさわしく、すでに無量百干万億劫において、離諸悪趣三昧(りしょあくしゅざんまい)を成就していた。すべての人々が、あらゆる悪の世界から離れることを願ってのことであった。そしてこの王の夫人は、諸仏集三昧(しょぶつしゅうざんまい)を得て、よく諸仏の秘密の教えを知ることに至っていた。

このように、二人の子は、方便の力をもって、その父が仏の教えを信じ受けることを願うように導いた。

こうして妙荘厳王は群臣や従者と共に、浄徳夫人は宮に仕える女官や従者と共に、王の二人の子は四万二千人と共に、仏のところに行った。そして頭面を仏の足につけて礼拝し、仏の周りを三周して、その片隅に座った。

その時に仏は、王のために教えを説き、その心を奮い立たせた。王は大いに喜んだ。

その時に妙荘厳王とその夫人は、大変高価な首飾りの真珠を解いて、仏の上に注いだ。それらは虚空の中において、四つの柱がある宝の台となった。その台の中に大宝の床があり、百千万の天の衣が敷かれていた。その上に仏が結跏趺坐して大光明を放たれた。

その時に妙荘厳王は次のように思った。

『仏の身は非常に尊く、その尊厳と美しさは際立っている。最も妙なるお姿を成就されている』。

その時に雲雷音宿王華智仏は、僧侶や尼僧や男女の在家信者に、次のように語られた。

『あなたたちはこの妙荘厳王が私の前において、合掌して立っている姿を見ているか。この王は、私のもとで僧侶となり、仏の道に進ませる教えを精進し、まさに仏となるであろう。その名を娑羅樹王(しゃらじゅおう)という。その国を大光と名づけ、劫を大高王と名づける。その娑羅樹王仏には、無量の菩薩たちや声聞たちがいて、その国はすべて平らである。その仏国土にはこのような功徳があるのだ』。

その王は、即時に国を弟に譲り、王と夫人と二人の子、ならびに多くの従者と共に、その仏のもと出家して道を修した。王は出家して、八万四千年において、常に勤めて精進して『妙法蓮華経』を修行した。この後、一切浄功徳荘厳三昧と名付けられる瞑想を得た(注2)。

王はその三昧の中で、非常に高く虚空に昇り、仏に次のように申し上げた。

『世尊、この私の二人の子は、仏の道を行なう中で、神通力による変化をもって、私の誤った心を転じて仏の教えを受け入れるようにさせ、世尊にお会いすることができました。この二人の子は、私にとって善知識です。前世までの良い因縁を発揮して、私を導くために、私の家に生まれてくれました』。

その時に雲雷音宿王華智仏は、妙荘厳王に次のように語られた。

『その通りだ。その通りだ。あなたが言った通りだ。もし良き男子や良き女子が、善根を積むならば、何度生まれ変わっても、その時その時に善知識に会うのだ。その善知識は、仏の道を進ませ、心を奮い立たせて、阿耨多羅三藐三菩提に入らせるのだ。大王よ。まさに知るべきである。良い導き手はすばらしい因縁の結果である。教化して導き、仏に会わせ、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こさせるのだ。大王よ。あなたの二人の子を見ているか。この二人の子は、すでにかつて六十五百千万億那由他の大河の砂の数ほどの諸仏を供養し、親しく近づき敬い、諸仏のところにおいて『法華経』を受持し、誤った考えの衆生を憐れみ、正しい教えに立たせたのだ』。

妙荘厳王は、即座に虚空の中から下りて、仏に次のように申し上げた。

『世尊よ。如来は非常に尊いお方です。その功徳と智慧をもって、肉髻の光明は照り輝いています。その眼は長く広く、紺青の色をしています。眉間の白毫の白いことは満月のようです。その歯は白く、整然と並んでおり常に光明があります。唇の色は素晴らしい赤い色で果実のようです』。

その時に妙荘厳王は、このような仏の無量百千万億の功徳を讃歎し終わって、如来の前において一心に合掌して、また仏に次のように申し上げた。

『世尊よ。このようなことは今までにありませんでした。如来の教えは、不思議であり、妙なる功徳をすべて成就しています。教えや戒めを行なう時、心は心地よく平安となります。私は今日より、自らの心の赴くままには従わず、誤った見解や高慢な心や、怒りやあらゆる悪しき心を生じさせません』。

この言葉を説き終わって、仏を礼拝して出て行った(注3)」。

仏は、大衆に次のように語られた。

「あなたたちはどのように思うか。妙荘厳王は、他の誰でもない。今の華徳菩薩である。その浄徳夫人は、今、仏の前にいる光照荘厳相(こうしょうそうごんそう)菩薩である。この菩薩は、妙荘厳王および多くの従者を憐れんで、彼の時代に生まれたのである。そしてその二人の子は、今の薬王菩薩と薬上菩薩である。この薬王菩薩と薬上菩薩は、このような大いなる功徳を成就して、無量百千万億の諸仏のもとで、多くの功徳の因縁を積んで、思いも及ばない多くの良き功徳を成就した。もしある人が、この二人の菩薩の名を知るならば、すべての天と人から敬われるであろう」。

仏がこの「妙荘厳王本事品」を説かれた時、八万四千人が汚れを離れ、あらゆる存在の中において、清らかな悟りの眼を得た。

 

注1・「六波羅蜜の檀波羅蜜・尸羅波羅蜜・羼提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禅波羅蜜般若波羅蜜、そして方便波羅蜜、また四無量心の慈悲喜捨、そして三十七道」

六波羅蜜は、①檀(那)波羅蜜(だん(な)はらみつ=布施波羅蜜)、②尸羅波羅蜜(しらはらみつ=持戒波羅蜜)、③羼提波羅蜜(せんだいはらみつ=忍辱波羅蜜)、④毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ=精進波羅蜜)、⑤禅(定)波羅蜜、⑥般若波羅蜜の六つである。つづいて、方便波羅蜜がここであげられているが、十波羅蜜となると、六波羅蜜般若波羅蜜が派生した形で、方便・願・力・智の四つが加わる。この中で方便波羅蜜だけがあげられていると解釈すべきか。続く慈悲喜捨は四無量心といい、特に禅定に入る前の落ち着いた心を得るためのものである。次の三十七道品(さんじゅうしちどうほん)は、悟りのための三十七種の修行方法であり、さらに分けると、四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道となる。

注2・ここまで、さまざまな三昧の名が出て来たが、そもそも三昧=瞑想は霊の次元における宗教的体験であるため、その内容は説明するべきものでもなく、説明されるものでもない。一応、名がつけられているが、その内容を知らねばならないということはない。

注3・仏が説かれる、妙荘厳王の過去の話が長いので、つい混同してしまうのだが、ここまでが、釈迦如来が語った昔の話である。これ以降は、今、『法華経』を説いている場における言葉となる。

『法華経』現代語訳と解説 その46

法華経』現代語訳と解説 その46

 

妙法蓮華経 陀羅尼品 第二十六

 

その時に薬王菩薩は、座より立って、右の肩を現わして合掌し、仏に向かって次のように申し上げた。

「世尊よ。もし良き男子や良き女子がいて、『法華経』を受持し、読誦し、深く理解し、経巻を書写するならば、どれほどの福を得るのでしょうか」。

仏は、薬王菩薩に次のように語られた。

「もし良き男子や良き女子がいて、八百万億那由他の大河の砂の数ほどの諸仏を供養したとする。あなたはどう思うか。その得るところの福は多いか少ないか」。

「非常に多いです。世尊よ」。

仏は次のように語られた。

「もし良き男子や良き女子がいて、この『法華経』のひとつの四句の偈を受持し、読誦し、意味を解釈し、説くところに従って修行するとしたら、その功徳はさらに多いのだ」。

その時に薬王菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ、私は今まさに説法者に陀羅尼呪を与えて、これをもって守護します」。

すなわち、次のように呪を説いた。

「あに、まに、まねい、ままねい、しれい、しゃりてい、しゃみや、しゃびたい、せんてい、もくてい、もくたび、しゃび、あいしゃび、そうび、しゃび、しゃえい、あきしゃえい、あぎに、せんてい、しゃび、だらに、あろきゃばさいはしゃびしゃに、ねいびてい、あべんたらねいびてい、あたんだはれいしゅたい、うくれい、むくれい、あられい、はられい、しゅぎゃし、あさんまさんび、ぼつだびきりじりてい、だるまはりしてい、そうぎゃちりくしゃねい、ばしゃばしゃしゅたい、まんたら、まんたらしゃやた、うろたうろた、きょうしゃりゃ、あきしゃら、あきしゃやたや、あばろ、あまにゃなたや。

世尊よ。この陀羅尼神呪は、六十二億の大河の砂ほどの数の諸仏が説くところです。もしこの法師を罵る者がいるならば、すなわち諸仏を罵ることになります」。

その時に釈迦牟尼仏は、薬王菩薩を褒めて次のように語られた。

「良いことだ。良いことだ。薬王菩薩よ。あなたはこの『法華経』の法師を憐れみ守るために、この陀羅尼を説いた。あらゆる衆生に益となることが多いであろう」。

その時に勇施菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私もまた、『法華経』を読誦し受持する者を守るために、陀羅尼を説きます。もしその法師がこの陀羅尼を得るならば、夜叉や羅刹などの悪しき鬼たちが、その者の短所を求めても、それを見つけ出すことはできないでしょう」。

すなわち仏の前において、呪を次のように説いた。

「ざれい、まかざれい、うき、もき、あれい、あらばてい、ちりてい、ちりたはてい、いちに、いちに、しちに、にりちに、にりちはち。

世尊よ。この陀羅尼神呪は、大河の砂の数ほどの諸仏の所説です。またみなこれを喜ばれます。もしこの法師を罵る者がいるならば、すなわち、この諸仏を罵ったことになります」。

その時に世を守る毘沙門天は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私もまた衆生を憐れみ、この『法華経』の法師を守るために、この陀羅尼を説きます」

すなわち、呪を次のように説いた。

「あり、なり、となり、あなろ、なび、くなび。

世尊よ。この神呪をもって法師を守ります。また私自らもまさにこの経典を保つ者を守って、広い範囲にわたって、あらゆる憂いや困難がないようにします」。

その時に持国天(じこくてん)は、この会衆の中にあって、千万億那由他乾闥婆(けんだつば)たちを従えて、進んで仏のところに進み出て合掌して、次のように申し上げた。

「世尊よ。私もまた陀羅尼神呪をもって、『法華経』を保つ者を守ります」。

すなわち、呪を次のように説いた。

「あきゃねい、きゃねい、くり、けんだり、せんだり、まとうぎ、じょうぐり、ふろしゃに、あんち。

世尊よ。この陀羅尼神呪は、四十二億の諸仏の所説です。もしこの法師を罵る者がいるならば、すなわちこの諸仏を罵ったことになります」。

その時に羅刹女(らせつにょ)たちがいた。名は藍婆(らんば)、毘藍婆(びらんば)、曲歯(こくし)、華歯(けし)、黒歯(こくし)、多髪(たほつ)、無厭足(むえんぞく)、持瓔珞(じようらく)、皇諦(こうたい)、奪一切衆生精気(だついっさいしゅじょうしょうけ)といい、この十人の羅刹女鬼子母神(きしぼじん)とその子、ならびに従者たちと共に仏のところに進み出て、声を同じくして仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私たちもまた、『法華経』を読誦し受持する者を守り、その憂いや困難を除こうと願います。もし、その法師の短所を求める者がいたとしても、それを見つけ出すことはできないでしょう」。

すなわち、仏の前において、呪を次のように説いた。

「いでいび、いでいびん、いでいび、あでいび、いでいび、でいび、でいび、でいび、でいび、でいび、ろけい、ろけい、ろけい、ろけい、たけい、たけい、たけい、とけい、とけい。

私の頭の上に上ったとしても、法師を悩ますことは許しません。あらゆる鬼神たち、あるいは熱病であっても、一日、二日、三日、四日、さらに七日、あるいは常に熱で苦しめる病であっても、あるいは男の形、女の形、男子の形、女子の形、あるいは夢の中であっても、悩ますことを許しません」。

すなわち、仏の前において、偈の形で次のように説いた。

「もし私の呪に従わず 説法者を悩ますならば その頭は阿梨樹の木の枝のように七つに裂けるであろう 父母を殺す罪のように また不正な油を作る者 升をごまかして商売する者 僧団を分裂させる者のように 重い罰を受けるであろう 」。

羅刹女たちは、この偈を説き終わって、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私たちはまさに、この身をもって、この経を受持し読誦し修行する者を守り、安穏でいることを得させ、あらゆる憂いや困難を離れ、多くの毒を消させます」。

仏は羅刹女たちに次のように語られた。

「良いことだ。良いことだ。あなたたちはよく、法華の名だけでも受持する者さえ守ろうとする。その福は測ることができない。ましてや、経典を完全に受持し、経巻に花や香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、飾られた旗や傘、伎楽を供養し、あらゆる尊い妙なる燈火を百千種も灯し、これをもって供養する法師は、この羅刹女たちによって守られるべきである」。

この「陀羅尼品」を説かれた時、六万八千人が無生法忍(むしょうほうにん・注1)を得た。

 

注1・「無生法忍」 すべての存在はもともと生じることはない、ということを悟ること。

『法華経』現代語訳と解説 その45

法華経』現代語訳と解説 その45

 

妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五

 

その時に無尽意(むじんに)菩薩は、座より立って、片方の右の肩を現わして(注1)、合掌し仏に向かって次のように申し上げた。

「世尊よ。観世音菩薩はどのような因縁によって、観世音と名づけられるのでしょうか」(注2)。

仏は無尽意菩薩に次のように語られた。

「良き男子よ。もし無量百千万億の衆生が、あらゆる苦悩を受けた時、この観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を唱えれば、観世音菩薩は即時にその声を聞き分け、みなその苦しみから脱することを得させるのだ。

もしこの観世音菩薩の名を保つ者は、たとえ大火の中に入ってしまっても、火はその者を焼くことはできないであろう。この菩薩の威神力によるためである。もし大水の中に漂ってしまっても、この名号を唱えれば、即時に浅いところにたどり着くであろう。もし百千万億の衆生が、金や銀、瑠璃、硨磲、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠などの宝を求めて大海に入り、暴風がその船に吹き付け、悪鬼の国に流れ着いたとする。その中のひとりが、観世音菩薩の名を唱えれば、それらの人々は、悪鬼の難から逃れることができるであろう。このような因縁をもって、観世音と名づけるのである。

もしある人がいて、まさに切り殺されるという時になって、観世音菩薩の名を唱えれば、その刀杖はバラバラに壊れて、その難から逃れることができるであろう。もしすべての国々の中に満ちている夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)などの鬼神が来て、人々を悩まそうとした時、この観世音菩薩の名を唱えれば、これらの悪鬼たちはその悪眼をもって彼らを見ることはできなくなるであろう。ましてや、害を加えることはできないであろう。もしある人がいて、有罪あるいは無罪で鎖につながれていても、観世音菩薩の名を唱えれば、鎖は砕けて、すぐに逃れることができるであろう。もしあらゆる国々に満ちる盗賊がいて、ひとりの商人の主が、多くの商人を率いて高価な宝を持って、その険しい道を通過しようとしていたとする。その中のひとりが、次のように言ったとする。『多くの良き男子たちよ。恐れることはない。あなたたちはまさに、一心に観世音菩薩の名号を唱えるべきである。この菩薩は、よく無畏(むい・注3)を衆生に施す。あなたがたがもしその名を唱えれば、この盗賊の難から逃れることができるであろう。』多くの商人たちはこれを聞いて共に声を発して、『南無観世音菩薩』と唱えたとする。そしてその名を唱えたために、この難から逃れることができるであろう。

無尽意菩薩よ。大いなる観世音菩薩の威神力は、このように高く尊いのである。

もし婬欲が多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、欲を離れることができるであろう。もし怒りの思いが多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、怒りを離れることができるであろう。もし愚痴が多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、愚痴を離れることができるであろう。

無尽意菩薩よ。大いなる観世音菩薩は、このように偉大な威神力があり、多くの人々を導くのである。このために、人々は常に心に念ずべきである。

もしある女人がいて、男子を産むことを願って、観世音菩薩を礼拝し供養するならば、福徳と智慧のある男子を産むであろう。もし女子を産むことを求めるならば、姿かたちの整った、徳を備えて人々に愛され敬われる女子を産むであろう。

無尽意菩薩よ。観世音菩薩には、このような力がある。もし人々が観世音菩薩をつつしみ敬い礼拝するならば、その福は空しくはならないのである。このために人々は、まさにみな観世音菩薩の名号を受け保つべきである。

無尽意菩薩よ。もしある人がいて、六十二億の大河の砂の数ほどの菩薩の名を受持し、力の限り飲食、衣服、寝具、医薬などを供養したとする。あなたはどう思うか。この良き男子や良き女人の功徳は多いか少ないか」。

無尽意菩薩は次のように申し上げた。

「大変多いです。世尊よ」。

仏は次のように語られた。

「また、もしある人がいて、観世音菩薩の名を受持し、たとえ一時であっても礼拝し供養したとする。この二人の福は、全く同じであって異なることはなく、百千万億劫の間も尽きることはない。無尽意菩薩よ。観世音菩薩の名を受持するならば、このように無量無辺の福徳の利を得るのである」。

無尽意菩薩は仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。観世音菩薩は、どのようにしてこの娑婆世界にわざをなすのでしょうか。どのようにして衆生のために教えを説くのでしょうか。その方便の力はどのようなものなのでしょうか」。

仏は、無尽意菩薩に次のように語られた。

「良き男子よ。この国土の衆生において、仏によって導かれる者には、観世音菩薩は仏の身を現わして教えを説き、辟支仏によって導かれる者には、観世音菩薩は辟支仏の身を現わして教えを説き、声聞によって導かれる者には、声聞の身を現わして教えを説き、帝釈天によって導かれる者には、帝釈天の身を現わして教えを説き、自在天によって導かれる者には、自在天の身を現わして教えを説き、大自在天によって導かれる者には、大自在天の身を現わして教えを説き、天大将軍によって導かれる者には、天大将軍の身を現わして教えを説き、毘沙門天によって導かれる者には、毘沙門天の身を現わして教えを説き、小王によって導かれる者には、小王の身を現わして教えを説き、長者によって導かれる者には、長者の身を現わして教えを説き、貿易商人によって導かれる者には、貿易商人の身を現わして教えを説き、宰官によって導かれる者には、宰官の身を現わして教えを説き、婆羅門によって導かれる者には、婆羅門の身を現わして教えを説き、僧侶や尼僧や男女の在家信者によって導かれる者には、僧侶や尼僧や男女の在家信者の身を現わして教えを説き、長者や貿易商人や宰官や婆羅門の婦人によって導かれる者には、婦人の身を現わして教えを説き、男子や女子によって導かれる者には、男子や女子の身を現わして教えを説き、天龍八部衆によって導かれる者には、天龍八部衆の身を現わして教えを説き、金剛力士によって導かれる者には、金剛力士の身を現わして教えを説く。

無尽意菩薩よ。この観世音菩薩は、このような功徳を成就して、あらゆる姿となって、国土において衆生を導くのである。このために、あなたがたは、まさに一心に観世音菩薩を供養すべきである。この大いなる観世音菩薩は、突如の災難による恐怖の中において、よく無畏を施す。このために、この娑婆世界では、みなこの菩薩を施無畏者(せむいしゃ)と呼ぶのだ」。

無尽意菩薩は仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私は今まさに観世音菩薩を供養します」。

無尽意菩薩は首にかけた百千両金の価値のある宝珠の首飾りをはずし、これを与えようとして、次のように語った。

「この珍宝の首飾りを、教えに対する施しとしてお受けください」。

その時、観世音菩薩はこれを受け取ろうとしなかった。

無尽意菩薩は、また観世音菩薩に次のように語った。

「どうか私たちを憐れんで、この首飾りをお受けください。」

その時に仏は、観世音菩薩に次のように語られた。

「まさにこの無尽意菩薩、および僧侶や尼僧や男女の在家信者、さらに天龍八部衆たちを憐れんで、この首飾りを受け取るべきである」。

その時、観世音菩薩は、僧侶や尼僧や男女の在家信者および天龍八部衆たちを憐れんで、この首飾りを受け取り、それをふたつに分けて、一方を釈迦牟尼仏に捧げ、一方を多宝仏塔に捧げた。

「無尽意菩薩よ。観世音菩薩はこのような自在の神通力をもって、この娑婆世界にわざをなすのである」。

その時に無尽意菩薩は、偈をもって次のように申し上げた。

「妙なる姿の世尊よ 私は今重ねて彼についてお尋ねします この仏の子はどのような因縁あって 観世音と名付けられるのでしょうか 」。

妙なる姿の世尊は 偈をもって無尽意に答えられた。

「あなたは観音のわざを聞くがよい あらゆるところに応じて身を現わす その誓願の広く深いことは海のようだ 測り知れないほどの時間をかけても知ることはできない 千億の多くの仏に仕えて 大いなる清らかな誓願を立てた 私はあなたのために略して説こう 名を聞きおよび身を見 心に念じて空しく過ごさなければ あらゆる苦しみを滅ぼすことができる たとい悪意によって 大きな火の穴に突き落とされても 観音の力を念ずるならば その火の穴は池となるであろう あるいは大海原に漂流して 龍魚や諸鬼の難にあっても 観音の力を念ずるならば 波も沈めることはできない あるいは須弥山から 人に突き落とされても 観音の力を念じるならば 太陽のように虚空に留まるであろう あるいは悪人に追われ 金剛山より落ちても 観音の力を念じるならば 髪の毛の一本も損なうことはないであろう あるいは怨賊に襲われ 刀によって殺されそうになっても 観音の力を念じるならば 相手は憐れみの心を起こすであろう あるいは王の権力によって捕らえられ 処刑されるにあたって 観音の力を念じるならば その刀は砕けるであろう あるいは鎖に縛られ囚人となり 手足に枷(かせ)をはめられても 観音の力を念じるならば それらは解けて脱することができるであろう 呪詛や毒薬を盛られ 身を害されようとしている者が 観音の力を念じるならば その害はかえって相手につくであろう あるいは悪しき羅刹 毒龍や諸鬼などにあっても 観音の力を念じるならば それらは害を与えることはないであろう あるいは悪しき獣に囲まれ 鋭い牙や爪が迫って来ても 観音の力を念じるならば それらは急いで逃げ去るであろう トカゲやヘビやサソリの毒が 煙や火のように迫って来ても 観音の力を念じるならば それらは自ら去って行くであろう 雲が起こり雷鳴と雷光が激しく 雹が降って大雨となっても 観音の力を念じるならば それらは消えていくであろう 衆生は困難や災いによって 無量の苦しみが身に迫っているが 観音の妙なる智慧の力は よく世間の苦しみを救うのである 神通力を持ち 広く智慧による方便を修して あらゆる方角の多く国土に 身を現わさないところはない さまざまの悪しき世界 地獄餓鬼畜生 生老病死の苦 次第にすべて消滅する 真理を見る眼と清らかな眼 広大な智慧の眼 慈悲の眼を持つ 常に願い常に仰ぎ見るべきである 汚れない清らかな光があり 智慧の太陽の光は闇を破り 風や火の災難を鎮め 遍く明かに世間を照らす 慈悲からの戒めは鳴り響く雷のようであり 慈悲からの心の妙なることは大きな雲のようであり 甘露の教えの雨を注ぎ 煩悩の炎を滅ぼし除く 訴えられて裁判にかけられ 軍隊の中に入れられ死を恐れても 観音の力を念じるならば それらの怨敵はすべて退散するであろう 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音(注4) このために常に念ずべきである 一念一念 疑いを生ずることがないようにせよ 観世音は清らかであり聖であり 苦悩死厄において その頼る拠り所となる 一切の功徳をそなえ 慈悲の眼をもって衆生を見る 福聚の海は無量である そのためにまさに拝すべきである 」。

その時に持地菩薩(じぢぼさつ=地蔵菩薩)は、座より立って、前に進んで仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。もし衆生の中で、この『観世音菩薩品』に記されている自在のわざ、普門示現の神通力を聞く者がいるならば、その人の功徳は少なくないとまさに知るべきです」。

仏がこの「普門品」を説かれた時、大衆の中の八万四千の衆生は、みなこの上ない阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こした。

 

注1・「片方の右の肩を現わして」 仏を礼拝する姿勢。

注2・この章は、一般的に『観音経』と言われる、「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」である。まず「普門」とは、「あらゆる方角に普(あまね)く開かれた門」という意味である。そして、「観世音」の原語は、「アヴァロキテーシヴァラ」であり、意味は、「自由自在に世間の声を聞き分ける」というものである。唐の玄奘(げんじょう)が訳した『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の冒頭にもこの菩薩の名があるが、玄奘はこれを「観自在菩薩」と訳している。つまり、玄奘は「自由自在」というところにスポットを当てて訳したわけであるが、この『法華経』を訳した鳩摩羅什は、「世間の声」というところにスポットを当てて訳したのである。「観世音菩薩」が省略されて「観音様」と呼ばれているので、鳩摩羅什の訳した名前が一般的になっているのである。

注3・「無畏」 恐れがないという意味。

注4・「妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音」 この三句は完全に文学的漢文表現であり、訳すことは不可能であるが、意味は伝わってくるであろう。

『法華経』現代語訳と解説 その44

法華経』現代語訳と解説 その44

 

妙法蓮華経 妙音菩薩品 第二十四

 

その時に釈迦牟尼仏は、大いなる肉髻(にくけい)から光明を放ち、および眉間にある白毫(びゃくごう)から光を放って、東方にある、百八万億那由他の大河の砂の数の諸仏の世界を広く照らされた。それほどの数の仏国土を過ぎたところに浄光荘厳(じょうこうしょうごん)という世界があった。

その国に仏がおられて、その名を浄華宿王智(じょうけしゅくおうち)如来といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達し、世間を理解し、無上のお方であり、人を良く導き、天と人との師であり、仏であり、世尊である。無量無辺の数の菩薩の大衆から敬われ、囲まれて、彼らのために教えを説いていた。釈迦牟尼仏の白毫の光明は、広くその国を照らされた。

その時に、一切浄光荘厳国(いっさいじょうこうしょうごんこく)と名付けられた国の中にひとりの菩薩がいた。その名を妙音(みょうおん)という。長い間、徳を積んで、無量百千万億の諸仏を供養し、親しく仏に近づき、非常に深い智慧を成就し、妙幢相三昧・法華三昧・浄徳三昧・宿王戯三昧・無縁三昧・智印三昧・解一切衆生語言三昧・集一切功徳三昧・清浄三昧・神通遊戯三昧・慧炬三昧・荘厳王三昧・浄光明三昧・浄蔵三昧・不共三昧・日旋三昧であり、このように、百千万億の大河の砂の数ほどの多くの大いなる三昧を得た。

そして、釈迦牟尼仏の光が、その妙音菩薩の身を照らした時、妙音菩薩は浄華宿王智仏に次のように言った。

「世尊よ。私は娑婆世界に行き、釈迦牟尼仏を礼拝し、親しく近づき、供養し、さらに教えの王子である文殊菩薩、薬王菩薩、勇施(ゆせ)菩薩、宿王華菩薩、上行意(じょうぎょうい)菩薩、荘厳王(しょうごんおう)菩薩、薬上(やくじょう)菩薩に会おうと思います」。

その時に浄華宿王智仏は、妙音菩薩に次のように語られた。

「あなたはその国を蔑み、下劣の思いを生じさせることのないようにせよ。良き男子よ。その娑婆世界は、高低があり、土や石があり、多くの山があり、汚れや悪が充満している。仏の身は小さく、菩薩たちも小さい。しかしあなたの身は、四万二千由旬(ゆじゅん、私の身は六百八十万由旬である。あなたの身は何よりも美しく、百千万の福があり、妙なる光明に満ちている。そのために、その国に行ってその国の状態を軽んじ、仏、菩薩、およびその国土に対して、下劣の思いを生じさせることのないようにせよ」。

妙音菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私が今、娑婆世界に礼拝するために行くことは、すべて如来の力、如来の神通力であり、あらゆる世界に行くことのできる力であり、如来の功徳と智慧の厳かな表われに他なりません」。

そして妙音菩薩は、その座を立たず、身を動かさずに瞑想に入り、その瞑想の力によって、『法華経』の説かれている耆闍崛山(ぎじゃくせん)の教えの座から遠くない場所に、八万四千のあらゆる宝の蓮華を作った。妙なる金を茎とし、白銀を葉とし、金剛を毛とし、赤い色の宝をもってその台とした。

その時に文殊菩薩は、それらの蓮華を見て、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。何の因縁によって、この不思議なしるしが現われたのでしょうか。約千万の蓮華が現われ、妙なる金を茎とし、白銀を葉とし、金剛を毛とし、赤い色の宝をその台としています」。

その時に釈迦牟尼仏は、文殊菩薩に次のように語られた。

「これは大いなる妙音菩薩が、浄華宿王智仏の国より八万四千の菩薩を従えて、この娑婆世界に来て、私を供養し、親しく近づき、礼拝しようと願い、また『法華経』を供養し、聞くことを願ってのことである」。

文殊菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この菩薩は、どのような良き因縁を備え、どのような功徳を修して、このような大いなる神通力があるのでしょうか。どのような瞑想を行じるのでしょうか。願わくは私たちのために、この瞑想の名を説いてください。私たちもまたそれを勤めて修行したいと願います。その瞑想を行じて、この菩薩の姿の大小、その立ち居振る舞いを見たいと願います。願わくは世尊よ。神通力をもってその菩薩が来られたならば、私がそれを見ることができるようにさせてください」。

その時に釈迦牟尼仏は、文殊菩薩に次のように語られた。

「ここにおられる、遠い昔に滅度された多宝如来が、まさにあなたのために、その姿を見せられるであろう」。

その時に多宝仏は、妙音菩薩に次のように語られた。

「良き男子よ来れ。文殊菩薩があなたの身を見たいと願っている」。

その時に妙音菩薩は、その国において姿を消し、八万四千の菩薩と共に出発した。その通過して経た多くの国は六通りに震動して、みな七宝の蓮華が雨のように降り、百千の天の音楽が演奏されることなしに、自然と鳴り響いた。

この菩薩の目は、広大な青蓮華の葉のようである。たとい百千万の月を合わせても、その顔の美しさには及ばない。その身は真の金色であり、無量百千の功徳で厳かに飾られている。その威徳は絶大であり、その光明は輝き、あらゆる良い姿が備わっており、引き締まった身体をしていた。七宝の台に乗って、非常に高く虚空に上り、多くの菩薩たちを従えて、この娑婆世界の耆闍崛山に礼拝するために来た。

妙音菩薩は娑婆世界に着き、七宝の台を降り、百千金の値の瓔珞を持って釈迦牟尼仏の所に至り、その足に頭面をつけて礼拝し、瓔珞を捧げて次のように申し上げた。

「世尊よ。浄華宿王智仏は世尊に次のように訪ねておられます。『病少なく悩み少なく、立ち居振る舞いも軽やかで、安楽にお過ごしですか。健康でいらっしゃいますか。世に起こることは忍びやすいでしょうか。衆生は導きやすいでしょうか。貪欲、怒り、愚癡、嫉妬、慢心が多くないでしょうか。父母に孝行せず、僧侶を敬わず、邪見不善の心で感情を収めることができないようなことはないでしょうか。世尊よ。衆生は多くの魔や怨を退けているでしょうか。遠い昔に滅度された多宝如来は、七宝の塔の中におられ、教えを聞いておられるでしょうか。』また、多宝如来に次のように訪ねておられます。『安穏であり悩み少なく、引き続き、娑婆世界におられますか。』世尊よ。私は今、多宝仏を拝し奉ることを願います。世尊よ。私に示し、拝させてください」。

その時に釈迦牟尼仏は、多宝仏に次のように語られた。

「この妙音菩薩は、あなたのお姿を拝することを願っています」。

その時に多宝仏は、妙音菩薩に次のように語られた。

「良いことだ。良いことだ。あなたは釈迦牟尼仏を供養し、および『法華経』を聞き、ならびに文殊菩薩たちを拝するためによくここに来られた」。

その時に華徳(けとく)菩薩は仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この妙音菩薩は、どのような善根を積み、どのような功徳を修して、このような神通力を得たのでしょうか」。

仏は華徳菩薩に次のように語られた。

「過去に仏がおられた。その名を雲雷音王・多陀阿伽度阿羅訶三藐三仏陀(うんらいおんおうただあかどあらかさんみゃくさんぶっだ)という。その国を現一切世間(げんいっさいせけん)という。その劫を喜見(きけん)という。妙音菩薩は一万二千年間、あらゆる伎楽をもって、雲雷音王仏を供養し、ならびに八万四千の七宝の鉢を捧げた。その因縁の果報によって、今、淨華宿王智仏の国に生まれ、この神通力があるのだ。

華徳菩薩よ。あなたはどう思うか。その時に、雲雷音王仏の所に妙音菩薩として、伎楽をもって供養し、宝器を捧げた者は誰でもない、今この大いなる妙音菩薩なのだ。

華徳菩薩よ。この妙音菩薩は、かつて無量の諸仏を供養し、親しく近づいて、長い間徳本を植え、また大河の砂の数に等しい百千万億那由他の仏に従ったのだ。

華徳菩薩よ。あなたはただ妙音菩薩の身体はひとつだと見ているが、この菩薩は、あらゆる姿になって、あらゆるところの衆生のためにこの経典を説くのだ。

ある時は梵天の姿となって、ある時は帝釈天の姿となって、ある時は自在天(じざいてんの姿となって、ある時は大自在天の姿となって、ある時は天大将軍の姿となって、ある時は毘沙門天の姿となって、ある時は転輪聖王の姿となって、ある時は小王の姿となって、ある時は長者の姿となって、ある時は貿易商人の姿となって、ある時は宰官の姿となって、ある時は婆羅門の姿となって、ある時は僧侶、尼僧、男女の在家信者の姿となって、ある時は長者や貿易商人の婦人の姿となって、ある時は宰官の婦人の姿となって、ある時は婆羅門の婦人の姿となって、ある時は男女の子供の姿となって、ある時は天龍八部衆の姿となって、この経を説く。そのようにして、地獄、餓鬼、畜生、および多くの仏の道に妨げになるところにいる者たちを救済する。さらに王の宮殿においては、変じて女の身となってこの経を説く。

華徳菩薩よ。この妙音菩薩は、娑婆世界の多くの衆生を救い守る者である。この妙音菩薩はこのようにあらゆる姿になって、この娑婆国土に現われ、多くの衆生のためにこの経典を説くのだ。神通力、変化、智慧においては衰えることはない。この菩薩は、その智慧をもって明らかに娑婆世界を照らして衆生に知られ、またあらゆる方角の大河の砂の数ほどの世界の中においてもそうなのである。

また、声聞の姿によって導かれる者には、声聞の姿を現わして教えを説き、辟支仏の姿によって導かれる者には、辟支仏の姿を現わして教えを説き、菩薩の姿によって導かれる者には、菩薩の姿を現わして教えを説き、仏の姿によって導かれる者には、仏の姿を現わして教えを説く。

このように、さまざまな姿をもって、導くべき者に従って姿を現わすのだ。さらに、滅度することをもって導くべきものには、滅度の姿を現わすのだ。華徳菩薩よ。大いなる妙音菩は、このように大いなる神通力や智慧の力を成就している。

その時に華徳菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この妙音菩薩は、深く善根を植えています。世尊よ。この菩薩はどのような三昧の中にあって、このように姿を変えて衆生を導くのでしょうか」。

仏は華徳菩薩に次のように語られた。

「良き男子よ。この三昧を現一切色身と名づける。妙音菩薩はこの三昧の中にあって、このように無量の衆生を導くのだ」。

仏がこの「妙音菩薩品」を説かれた時、妙音菩薩と共に来た八万四千の菩薩たちは、みな現一切色身三昧を得、この娑婆世界の無量の菩薩もまた、この三昧および陀羅尼を得た。

その時に大いなる妙音菩薩は、釈迦牟尼仏および多宝仏塔を供養し終わって、本土に帰った。その時通過したあらゆる国は、六通りに震動して宝の蓮華を降らせ、百千万億のあらゆる伎楽を奏でた。

妙音菩薩は本国に着いて、共に従った八万四千の菩薩たちと、浄華宿王智仏のところに行き、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私は娑婆世界に行き、衆生を教え、釈迦牟尼仏にお会いし、および多宝仏塔にお会いして礼拝供養し、また教えの王子である文殊菩薩に会い、および薬王菩薩、得勤精進力菩薩、勇施菩薩等に会いました。また、この八万四千の菩薩が現一切色身三昧を得るように導きました。

仏がこの「妙音菩薩来往品」(=「妙音菩薩品」)を説かれた時、四万二千の天子たちは、この世に存在に対する悟りを得、華徳菩薩は法華三昧を得た。