大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 12 (完)

守護国家論 現代語訳 12 (完)

 

第七章

 

全体を七門に分けた第七として、問答形式によって答える。

もし末代の愚人が、上に述べた六門に依って、万が一も『法華経』を信じるならば、権宗の諸人は、自らの迷いに執着するために、偏った教えに執着するために、その『法華経』の行者を破ろうと、『法華経』以前の四十余年ならびに『涅槃経』などの諸経から多くを引用して、非難して来るであろう。

しかし、権教を信じる人は多く権力を持っており、あるいは世間の財力があり、あるいは世間を渡るために人々の心に従っており、あるいは、権教には学者が多く、実教には智者が少ないこともあり、このように万が一も実教を信じる者はいないのである。したがって、この段落を記すことにより、権教の人の邪悪な批判を防ぐことにする。

問う:(注1)諸宗の学者は、非難して次のように言っている。「『華厳経』は報身如来の所説、七処八会はみな頓極頓証の法門である。『法華経』は応身如来の所説、教主にすでに『華厳経』との優劣がある。したがって、法門においては、どうして浅深の違いがないわけがあろうか。このために、説法の対象となっている衆生も、『華厳経』では、法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩などである。二乗を全く交えていない。『法華経』は舎利弗などを説法の対象としている」。以上は華厳宗の論難である。

また、法相宗は、『解深密経』などをもって拠り所とし、論難を加えて次のように言っている。「『解深密経』は文殊菩薩観音菩薩などをもって説法の対象としている。勝義生菩薩の領解には、釈迦一代の説法を有・空・中に分けている。その中とは、『華厳経』・『法華経』・『涅槃経』・『解深密経』などである。『法華経』の「信解品」の長者窮子の喩えに基づく五時の領解は四大声聞による。菩薩と声聞とは、その勝劣に天と地の違いがある」と言っている。

また、浄土宗は、道理を立てて、次のように言っている。「私たちは、『法華経』などの諸経を誹謗しているのではない。それらの諸経は、大いに智慧が進んだ人を第一の対象としており、凡夫は正規の対象ではない。煩悩を断じて理法を証する深い理法の教えであって、末代の私たちは、これらを修行しても、その千人の中で一人もそれにふさわしい能力の者はいない。また、在家の人々のほとんどは文字が読めない。また、『華厳経』や法相宗などの言葉さえ聞いたことがない。ましてやその教義などどうして知ることができるだろうか。浄土宗の意趣は、私たちのような凡夫は、ただ口に任せて六字の名号を称えれば、今のこの時には、阿弥陀如来は二十五の菩薩たちを遣わして、その身に影がついて回るように、百重千重にも行者を囲って守って下さる。このために、現世においては、七難即滅七福即生し、さらに臨終の時は必ず来迎があって、観音の蓮台に乗り、瞬く間に浄土に至り、業に従って蓮華が開き、『法華経』を聞いて実相を悟る。どうして煩わしくこの穢土において、さまざまな修行をして、何かの悟りを得る必要があろうか。ただ、すべてを投げ打って、一向に名号を称えよ」と言っている。

禅宗などの人は次のように言っている。「一代の聖教は月を指す指のようなものである。天地日月なども、私たちの妄心より生じたものである。十方の浄土も、執着する心の映像である。釈迦の分身の十方の仏陀は、あなたの悟る心を表わしている。文字に執着する者は、株を植えずにただ守っている愚人である。私たちの祖師である達磨大師は文字を立てなかった。方便を用いずに、一代の聖教の外に、仏が摩訶迦葉に示してこの教えを伝えたのだ。『法華経』などは未だ真実を宣べているものではない」と言っている。

これらの諸宗の論難は、一つや二つではない。これらを見れば、どうして『法華経』信心が打ち破られずにいられようか。

答える:『法華経』の行者は、心中に、『法華経』以前の四十余年の諸経・すでに説き、今説き、まさに説くであろう・これらはみな真実である・法に依って人に依らず、などの経文を刻んで、しかも口に言葉としてこれらを出さないものである。論難に対して、まず次のように問うべきである。そもそも、立てられた宗義は、どの経典に依っているのか。その者が経典を引用するならば、その経典に従ってこのように尋ねるべきである。「釈迦一代五十年の間の説法の中において、それは『法華経』より先か、後か、同時であるか、またその先か後かは定まっていないか」と。もし先だと答えれば、それは未顕真実だとする文を用いてこれを責めよ。あえて、その経典の教えの形を尋ねる必要はない。また、後だと答えれば、「まさに説くであろう」という経文を用いてこれを責めよ。また、同時だと答えれば、「今説き」の経文を用いてこれを責めよ。定まっていないと答えれば、不定の経典は体系を持つ経典ではなく、一時一会の説法であり、物の数に入らない。その上、不定の経典といっても、「すでに説き、今説き、まさに説くであろう」の三説を出ない。たとい百千万の義を立てるとしても、『法華経』以前の四十余年の経文を挙げて、虚妄だとする以外は用いるべきではない。仏の遺言に「不了義経に依らず」とあるためである。また、智儼・嘉祥大師・慈恩大師・善導などを挙げて、その徳を立てて論難してきても、『法華経』・『涅槃経』の教義に相違する人師は用いるべきではない。「法に依って人に依らず」の金言を仰ぐためである。

また、『法華経』を信じない愚者のために、二種の信心について述べる。一つめは、仏によって信心を起こすことを述べ、二つめは、経典によって信心を起こすことを述べる。

まず、仏によって信心を起こすことを述べる。権宗の学者が次のように論難してきた。「善導和尚は三昧発得の人師、本地は弥陀の化身である。慈恩大師は十一面観音の化身、また、筆の端から舎利を降らす。これらの諸人はみなそれぞれの経典に依って、みな証がある。どうして、あなたはそれらの経典に依らず、またそれらの師の教義を用いないのか」。

答える:よく聞くが良い。すべての権宗の大師先徳ならびに舎利弗・目連・普賢・文殊・観音そして阿弥陀・藥師・釈迦如来が、私たちの前に集まって、次のように言ったとする。「『法華経』はあなたたちの能力にはふさわしくない。念仏などの権経の行を修して往生を遂げて、後に『法華経』を悟れ」と。このような言葉を聞いたとしても、それを用いてはならない。なぜならば、『法華経』以前の四十余年の諸経には、『法華経』の名字さえ語られていないのだから、どうして能力にふさわしくないか、ふさわしいかを判断することができようか。『法華経』においては、多宝・釈迦・十方諸仏が一処に集まって、定めて次のように述べている。「この法を永遠に存在させる」「如来の滅後において、閻浮提の内に広く流布させて絶えることのないようにする」と。これ以外に、今、仏が現われて、『法華経』を末代には不相応だと定めるならば、それはすでに『法華経』に相違することになる。このために、この仏は『涅槃経』で説かれている滅後の魔仏であることがわかる。これを信用してはならない。これ以下の菩薩・声聞・比丘たちについては、言うまでもないことである。これらは疑いようがなく、『涅槃経』に記されている滅後の魔が変化した菩薩たちである。なぜならば、『法華経』の座は三千大千世界の外、四百万億阿僧祇の世界に及ぶ。その中に充満している菩薩・二乗・人天・天龍八部衆などは、みな如来の告げる命令を蒙り、それぞれの所在の国土において『法華経』を広めることを願い出ている。善導などが、もし権者ならば、どうして竜樹・天親たちのように、先に権教を広めて、後に『法華経』を弘めないのか。『法華経』を広める命令を受けた者の数に入らないのか。どうして仏のように、まず権教を広めて、後に『法華経』を広めないのか。もしこの義がなければ、たとい仏だといっても、これを信じてはならない。今は『法華経』の中の仏を信じるために、仏について信心を起こすというのである。

問う:釈迦如来の所説を、他の仏がこれを証することを実説というならば、どうして『阿弥陀経』を信じないのか。

答える:『阿弥陀経』には、『法華経』のような証明がないために信じないのである。

問う:『阿弥陀経』を見ると、釈迦如来が説かれた「一日七日の念仏」を、六万の諸仏が舌を出し三千世界を覆うことによって、これを証明している。どうして証明がないと言うのか。

答える:『阿弥陀経』には、全く『法華経』のような証明はない。ただ釈迦一仏が舎利弗に向かって、「私一人が『阿弥陀経』を説くのみではなく、六万の諸仏が舌を出して三千世界を覆って、『阿弥陀経』を説く」といっても、これらは釈迦一仏の説法である。あえて諸仏は来てはいない。これらは権文である。『法華経』以前の四十余年の間は、教主も権仏であり、この世で初めて悟った仏である。仏が権であるために、所説もまた権である。したがって、『法華経』以前の四十余年の権仏の説は信じるべきではない。今の『法華経』・『涅槃経』は、久遠実成の円教の仏の実説であり、十界互具の実言である。また多宝仏と十方の諸仏が来て、これを証明された。このために信じるべきである。『阿弥陀経』の説法は、『無量義経』に記されている未顕真実の語に破られている。全く釈迦一仏の言葉であって、諸仏の証明の言葉ではない。

二つめに、経典によって信心を起こすことを述べる。『無量義経』に、『法華経』以前の四十余年の諸経を挙げて、未顕真実と述べられている。『涅槃経』には、「如来には虚妄の言葉はないといっても、もし衆生が虚妄の説法によって法の利益を得るとわかれば、適宜に方便を用いてこれを説かれる」とある。また、「了義経に依って不了義経に依るな」とある。

このような文は一つや二つではない。『法華経』以前の四十余年の仏が自ら説かれた諸経を、みな虚妄・方便・不了義経・魔説と述べている。これはみな人がその経典を捨てて、『法華経』・『涅槃経』に入らせるためである。しかし、何の根拠があって、妄語の経典をそのまま留めて、行儀を設けて悟りを得ることを期待するのか。今、権教に対する感情的な執着を捨てて、偏に実経を信じるべきである。このために、経典によって信心を起こすというのである。

問う:善導和尚も、人によって信心を起こし、行によって信心を起こした。そこに何の差別があるのか。

答える:彼は『阿弥陀経』などの「浄土三部経」に依って信心を起こし、釈迦一代の経典において、了義経・不了義経を分けずに信心を起こしたのである。このために、了義経である『法華経』・『涅槃経』の教義に対して論難する時は、不了義経の教義は自ら壊れてしまうのである。

 守護国家論

 

(完)

 

注1・この問いの部分は、他の宗派などの論難を具体的にあげているため、非常に長い。