大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 (完)

法華経』現代語訳と解説 その48

 

妙法蓮華経 普賢菩薩勧発品 第二十八

 

その時に普賢菩薩は、自在の神通力と偉大な威徳をもって、数えることのできないほどの多くの大いなる菩薩と共に、東方から来た(注1)。その経過したところ諸国はすべてみな震動し、宝の蓮華を降らせ、無量百千万億のあらゆる伎楽が響いた。

普賢菩薩はまた、無数の天龍八部衆に囲まれ、それぞれの威徳と神通力を現わして、娑婆世界の耆闍崛山に着き、釈迦牟尼仏の足を頭につけて礼拝し、右に七周して、次のように申し上げた。

「世尊よ。私は宝威徳上王仏(ほういとくじょうおうぶつ)の国において、遥かにこの娑婆世界で『法華経』が説かれていることを聞き、無量無辺百千万億の多くの菩薩たちと共に、それを聞くために来ました。ただ願わくは世尊よ。まさに説かれますことを願います。良き男子や良き女子は、如来の滅度の後において、どのようにしたらこの『法華経』を聞くことができるでしょうか」。

仏は普賢菩薩に次のように語られた。

「もし良き男子や良き女子が、次に述べる四つの事柄を成就すれば、如来の滅度の後において、この『法華経』を聞くことができるであろう。

第一は、諸仏に守られていることであり、第二は、多くの良き因縁を積んでいることであり、第三は、悟りに到達することが決定していることであり、第四は、すべての人々を救おうとする心を起こしていることである。

良き男子や良き女子がこのような四つの事柄を成就するならば、如来の滅度の後において、必ずこの経を聞くことができるであろう」。

その時に普賢菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。最後の時である最後の五百年が経過している間(注2)、汚れた悪しき世の中においてであっても、私はこの経典を受持する者があるならば、まさにその者を守護して、その憂いや患いを除き、安穏であることを得させ、その者の短所を求める者は、それを得ることができないようにしましょう。魔、または魔子、または魔女、または魔民、または魔に憑かれた者、または夜叉、または羅刹、または鳩槃荼、または毘舎闍(びしゃじゃ)、または吉蔗(きっしゃ)、または富単那(ふたんな)、または韋陀羅(いだら・注3)などの人を悩ますものも、その者を見つけることができないようにしましょう。その人が歩きながら、または立ってこの『法華経』を読誦するならば、私は六つの牙を持つ白い象の王に乗って、大いなる菩薩たちと共にそのところに行って、自ら身を現わし、供養し守護してその心を安らかに慰めましょう。またそれは、『法華経』を供養するためです。

その人がもし、座ってこの経を考えるならば、私は白い象の王に乗ってその人の前に現われます。その人がもし『法華経』の一句一偈であっても忘れるようなことがあるならば、私はそれを教えて共に読誦し、その意味を悟らせましょう。

その時に『法華経』を受持し読誦する者は、私の身を見ることができ、大変喜んで、またさらに精進するでしょう。私を見ることによって、即座に三昧および陀羅尼を得るでしょう。それらを名づけて旋陀羅尼(せんだらに)、百千万億旋陀羅尼、法音方便陀羅尼(ほうおんほうべんだらに・注4)と言います。このような陀羅尼を得るでしょう。

世尊よ。最後の時である最後の五百年間の汚れた悪しき世の中において、僧侶や尼僧や男女の在家信者たちが、この『法華経』を求め、受持し、読誦し、書写し、修習しようとするならば、二十一日の間、まさに一心に精進すべきです。その期間を満了するならば、私はまさに、六つの牙の白い象に乗って、無量の菩薩たちに囲まれ、すべての人が見たいと願う姿をもって、その人の前に現われ、その人のために教えを説いて、心を励ましましょう。

またさらに、その人に陀羅尼の呪を与えましょう。この陀羅尼を得るならば、悪しき者などが害を加えることはないでしょう。また、女人に惑わされることはないでしょう。私自らが、その人を守りましょう。ただ願わくは世尊よ。私にその陀羅尼を説くことをお許しください」。

普賢菩薩は仏の前において、呪を次のように語った。

「あたんだい、たんだはち、たんだばてい、たんだくしゃれい、たんだしゅだれい、しゅだれい、しゅだらはち、ぼだはせんねい、さるばだらにあばたに、さるばばしゃあばたに、しゅあばたに、そうぎゃばびしゃに、そうぎゃねきゃだに、あそうぎ、そうぎゃはぎゃち、ていれいあだそうぎゃとりゃあらていはらてい、さるばそうぎゃさまちきゃらんち、さるばだるましゅはりせってい、さるばさたろだき。

世尊よ。もし菩薩にふさわしい者がいて、この陀羅尼を聞くことができた者は、まさにこれこそ、普賢神通の力であると知るべきです。またもし『法華経』をこの地で実践し続ける者は、まさにこれこそ、普賢威神の力であると知るべきです。もし、この経を受持し、読誦し、正しく記憶し、その意味を理解し、その説に従って修行するならば、その人は、普賢の行を行じていると知るべきです。その者は、無量無辺の諸仏のところにおいて、深く良い因縁を積む者となり、多くの如来の手によって、その頭をなでてもらうことになるでしょう。

もしただ書写するだけの者であっても、その人の命が終わって後、忉利天(とうりてん)に生まれるでしょう。その時に八万四千の天女たちが、多くの伎楽を演奏しながら迎えに来るでしょう。その人は七宝の冠をかぶって、天女たちの中で楽しむでしょう。ましてや、受持し、読誦し、正しく記憶し、その意味を理解し、説に従って修行する者は、それ以上です。

もしある人が、この経を受持し、読誦し、その意味を理解したとします。この人の命が終わるならば、千仏の手が差し伸べられて、恐れることなく、悪しき世界に落ちることなく、兜率天(とそつてん)の弥勒菩薩の世界に行くでしょう。弥勒菩薩は、すぐれた三十二の姿を成就しており、大いなる菩薩たちに囲まれており、百千万億の天女や従者たちがいて、その者はその中に生まれるでしょう。このような功徳や優れたことがあるでしょう。このために、智恵のある者は、まさに一心に『法華経』を自らも書き、また人に書かせて、受持し、読誦し、正しく記憶し、説にしたがって修行すべきです。

世尊よ。私は今、神通力をもってこの経を守護し、如来の滅度の後に、この世に広く流布させ、決して絶えることのないようにします」。

その時に釈迦牟尼仏は、普賢菩薩を褒めて次のように語られた。

「良いことだ。良いことだ。普賢菩薩よ。あなたはよくこの経を守護し、多くのところにいる衆生を安楽に導いた。あなたはすでに、思いもおよばない功徳と深大な慈悲を成就したのだ。遠い昔から今まで、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こして、この神通力の誓願を立て、この経を守護した。私はまさに神通力をもって、普賢菩薩の名を受持する者を守護しよう。

普賢菩薩よ。もしこの『法華経』を受持し、読誦し、正しく記憶し、修習し、書写する者がいるならば、まさに知るべきである。この人は、釈迦牟尼仏を見ているのだ。仏の口よりこの経典を聞いていることになるのだ。またまさに知るべきである。この人は、釈迦牟尼仏を供養しているのだ。またまさに知るべきである。この人は、仏に『良いことだ』と褒められるのだ。またまさに知るべきである。この人は、釈迦牟尼仏の手に、その頭をなでられるのだ。またまさに知るべきである。この人は、釈迦牟尼仏の衣に覆われるのだ。

このような人は、再び世の楽しみに対して貪欲になることはない。他の誤った宗教の経書や書簡などを好むことはない。またこの人は、屠殺目的で猪や羊や鶏や犬を飼う者、あるいは猟師、または女の色を売る悪しき者に親しく近づくことを願わない。この人は、心や志が素直であり、正しい考え方を持っており、福徳の力がある。この人は、貪欲、怒り、無知に悩まされることはない。また嫉妬、高ぶり、邪見、自惚れに悩まされることはない。この人は、欲が少なく智慧が十分にあり、よく普賢の行を修すであろう。

普賢菩薩よ。もし最後の時である最後の五百年が経過している間において、『法華経』を受持し、読誦する者を見るならば、まさに次のような思いを持つべきである。

『この人は間もなく、悟りの道場に進んで、多くの魔を破り、阿耨多羅三藐三菩提を得て、教えを説き、教えの鼓を打ち、教えの螺を吹き、教えの雨を降らすであろう。まさに天や人の大衆の中にある、立派な教えの座の上に座るであろう』。

普賢菩薩よ。後の世において、この経典を受持し、読誦する者は、衣服や家具や飲食や生活物資に執着しないであろう。またその願いは空しくならないであろう。また現世において、その福の果報を得るであろう。

もしある人が、この経典を受持する者を軽蔑して罵り、「あれは気が狂っているだけだ。無駄な行をして、何も得るところはないだろう」と言ったとする。そのような罪の報いは、何度生まれ変わっても目のない者に生まれるようになる。

もしある人が、この経典を受持する者を供養し、讃歎するならば、まさに今の世において、良い果報を目の当たりにするであろう。

もしある人が、この経典を受持する者を見て、その者の失敗や悪を言い広めたとする。その失敗や悪が本当だとしても嘘だとしても、この人はこの世において、らい病になるであろう。

もしある人が、この経典を受持する者を軽蔑して笑うならば、何度生まれ変わっても、歯が欠けていて、唇も醜く、鼻が低く、手足が曲がっており、目が片寄っており、体が臭く膿が出て、腹に水がたまり、結核などの悪しき重い病気にかかるであろう。

このために普賢菩薩よ。もしこの経典を受持する者を見るならば、遠くであっても立ち上がって、仏を敬うように迎えるべきである」。

この「普賢菩薩勧発品」が説かれた時、大河の砂の数ほどの無量無辺の菩薩たちは、百千万億旋陀羅尼を得、すべての世界を微塵にしたほどの数の菩薩たちは、普賢の道を身につけた。

仏がこの経を説かれた時、普賢菩薩などの菩薩たち、舎利弗などの声聞たち、および多くの天龍八部衆などのすべての会衆は、みな大いに歓喜し、仏の言葉を受持し、礼拝して去って行った。

 

 

注1・『法華経』の最終の章である「普賢菩薩勧発品(ふけんぼさつかんぼつほん)」は、妙音菩薩がそうであったように、普賢菩薩が他の国から訪ね来ることによって始まる。勧発とは、人に勧めて心を鼓舞するという意味である。まさに、『法華経』の最後の箇所にふさわしいと言える。

注2・「最後の時である最後の五百年が経過している間」 この個所の漢訳原文は、「於後五百歳。濁悪世中」であり、サンスクリット原文からの直訳では、上記の通りになる。

「後五百歳」とは、伝統的に『大集経』に記されている「第五の五百年」のことと解釈されており、鳩摩羅什もその解釈に立っていると考えられる。

この『大集経』の言葉は、「五百年が五つ重なった時」という意味である。つまり、第一の五百年は、1年から499年までであり、第二の五百年は、500年から999年までであり、第三の五百年は、1000年から1499年まで、第四の五百年は、1500年から1999年まで、そして第五の五百年は、2000年から2499年までである。そして『大集経』によれば、釈迦の死後二千年から末法が始まるとするので、第五の五百年から末法が始まるとするのである。この鳩摩羅什が訳した「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、「第五の五百年」と解釈することは、すなわち、末法の始まりを意味することになる。

日本の日蓮上人も、このように解釈しているが、それは、日蓮上人が非常に尊敬し、日蓮が書いた大曼荼羅本尊にも名前があがる妙楽大師湛然(たんねん・711~782・中国唐の僧侶。天台教学の中興の祖)がそのように解釈しているからである。湛然は、『法華経』の「如来の滅後、後の五百歳」の意味を、『大集経』の「第五の五百年」と解釈しており、日蓮上人は、その説を受け入れているのである。

日蓮上人は、この湛然の解釈の通り、この『法華経』の「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、仏の滅度の後の第五の五百年、つまり末法の始まりと解釈しており、そのため、日蓮上人は、末法の時代でこそ、『法華経』は広まるのであり、そのように釈迦は『法華経』を委ねられたのだと主張しているのである。

注3・「毘舎闍」は人の肉を食うとされる鬼、・「吉蔗」は死体を動かす鬼、「富単那」は吸血鬼、韋陀羅は殺人鬼のこと。

注4・旋陀羅尼は教えを説く能力、百千万億旋陀羅尼は数多くの教えを説く能力、法音方便陀羅尼は、あらゆる言葉に通じて教えを説く能力のこと。