大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その45

法華経』現代語訳と解説 その45

 

妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五

 

その時に無尽意(むじんに)菩薩は、座より立って、片方の右の肩を現わして(注1)、合掌し仏に向かって次のように申し上げた。

「世尊よ。観世音菩薩はどのような因縁によって、観世音と名づけられるのでしょうか」(注2)。

仏は無尽意菩薩に次のように語られた。

「良き男子よ。もし無量百千万億の衆生が、あらゆる苦悩を受けた時、この観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を唱えれば、観世音菩薩は即時にその声を聞き分け、みなその苦しみから脱することを得させるのだ。

もしこの観世音菩薩の名を保つ者は、たとえ大火の中に入ってしまっても、火はその者を焼くことはできないであろう。この菩薩の威神力によるためである。もし大水の中に漂ってしまっても、この名号を唱えれば、即時に浅いところにたどり着くであろう。もし百千万億の衆生が、金や銀、瑠璃、硨磲、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠などの宝を求めて大海に入り、暴風がその船に吹き付け、悪鬼の国に流れ着いたとする。その中のひとりが、観世音菩薩の名を唱えれば、それらの人々は、悪鬼の難から逃れることができるであろう。このような因縁をもって、観世音と名づけるのである。

もしある人がいて、まさに切り殺されるという時になって、観世音菩薩の名を唱えれば、その刀杖はバラバラに壊れて、その難から逃れることができるであろう。もしすべての国々の中に満ちている夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)などの鬼神が来て、人々を悩まそうとした時、この観世音菩薩の名を唱えれば、これらの悪鬼たちはその悪眼をもって彼らを見ることはできなくなるであろう。ましてや、害を加えることはできないであろう。もしある人がいて、有罪あるいは無罪で鎖につながれていても、観世音菩薩の名を唱えれば、鎖は砕けて、すぐに逃れることができるであろう。もしあらゆる国々に満ちる盗賊がいて、ひとりの商人の主が、多くの商人を率いて高価な宝を持って、その険しい道を通過しようとしていたとする。その中のひとりが、次のように言ったとする。『多くの良き男子たちよ。恐れることはない。あなたたちはまさに、一心に観世音菩薩の名号を唱えるべきである。この菩薩は、よく無畏(むい・注3)を衆生に施す。あなたがたがもしその名を唱えれば、この盗賊の難から逃れることができるであろう。』多くの商人たちはこれを聞いて共に声を発して、『南無観世音菩薩』と唱えたとする。そしてその名を唱えたために、この難から逃れることができるであろう。

無尽意菩薩よ。大いなる観世音菩薩の威神力は、このように高く尊いのである。

もし婬欲が多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、欲を離れることができるであろう。もし怒りの思いが多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、怒りを離れることができるであろう。もし愚痴が多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、愚痴を離れることができるであろう。

無尽意菩薩よ。大いなる観世音菩薩は、このように偉大な威神力があり、多くの人々を導くのである。このために、人々は常に心に念ずべきである。

もしある女人がいて、男子を産むことを願って、観世音菩薩を礼拝し供養するならば、福徳と智慧のある男子を産むであろう。もし女子を産むことを求めるならば、姿かたちの整った、徳を備えて人々に愛され敬われる女子を産むであろう。

無尽意菩薩よ。観世音菩薩には、このような力がある。もし人々が観世音菩薩をつつしみ敬い礼拝するならば、その福は空しくはならないのである。このために人々は、まさにみな観世音菩薩の名号を受け保つべきである。

無尽意菩薩よ。もしある人がいて、六十二億の大河の砂の数ほどの菩薩の名を受持し、力の限り飲食、衣服、寝具、医薬などを供養したとする。あなたはどう思うか。この良き男子や良き女人の功徳は多いか少ないか」。

無尽意菩薩は次のように申し上げた。

「大変多いです。世尊よ」。

仏は次のように語られた。

「また、もしある人がいて、観世音菩薩の名を受持し、たとえ一時であっても礼拝し供養したとする。この二人の福は、全く同じであって異なることはなく、百千万億劫の間も尽きることはない。無尽意菩薩よ。観世音菩薩の名を受持するならば、このように無量無辺の福徳の利を得るのである」。

無尽意菩薩は仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。観世音菩薩は、どのようにしてこの娑婆世界にわざをなすのでしょうか。どのようにして衆生のために教えを説くのでしょうか。その方便の力はどのようなものなのでしょうか」。

仏は、無尽意菩薩に次のように語られた。

「良き男子よ。この国土の衆生において、仏によって導かれる者には、観世音菩薩は仏の身を現わして教えを説き、辟支仏によって導かれる者には、観世音菩薩は辟支仏の身を現わして教えを説き、声聞によって導かれる者には、声聞の身を現わして教えを説き、帝釈天によって導かれる者には、帝釈天の身を現わして教えを説き、自在天によって導かれる者には、自在天の身を現わして教えを説き、大自在天によって導かれる者には、大自在天の身を現わして教えを説き、天大将軍によって導かれる者には、天大将軍の身を現わして教えを説き、毘沙門天によって導かれる者には、毘沙門天の身を現わして教えを説き、小王によって導かれる者には、小王の身を現わして教えを説き、長者によって導かれる者には、長者の身を現わして教えを説き、貿易商人によって導かれる者には、貿易商人の身を現わして教えを説き、宰官によって導かれる者には、宰官の身を現わして教えを説き、婆羅門によって導かれる者には、婆羅門の身を現わして教えを説き、僧侶や尼僧や男女の在家信者によって導かれる者には、僧侶や尼僧や男女の在家信者の身を現わして教えを説き、長者や貿易商人や宰官や婆羅門の婦人によって導かれる者には、婦人の身を現わして教えを説き、男子や女子によって導かれる者には、男子や女子の身を現わして教えを説き、天龍八部衆によって導かれる者には、天龍八部衆の身を現わして教えを説き、金剛力士によって導かれる者には、金剛力士の身を現わして教えを説く。

無尽意菩薩よ。この観世音菩薩は、このような功徳を成就して、あらゆる姿となって、国土において衆生を導くのである。このために、あなたがたは、まさに一心に観世音菩薩を供養すべきである。この大いなる観世音菩薩は、突如の災難による恐怖の中において、よく無畏を施す。このために、この娑婆世界では、みなこの菩薩を施無畏者(せむいしゃ)と呼ぶのだ」。

無尽意菩薩は仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私は今まさに観世音菩薩を供養します」。

無尽意菩薩は首にかけた百千両金の価値のある宝珠の首飾りをはずし、これを与えようとして、次のように語った。

「この珍宝の首飾りを、教えに対する施しとしてお受けください」。

その時、観世音菩薩はこれを受け取ろうとしなかった。

無尽意菩薩は、また観世音菩薩に次のように語った。

「どうか私たちを憐れんで、この首飾りをお受けください。」

その時に仏は、観世音菩薩に次のように語られた。

「まさにこの無尽意菩薩、および僧侶や尼僧や男女の在家信者、さらに天龍八部衆たちを憐れんで、この首飾りを受け取るべきである」。

その時、観世音菩薩は、僧侶や尼僧や男女の在家信者および天龍八部衆たちを憐れんで、この首飾りを受け取り、それをふたつに分けて、一方を釈迦牟尼仏に捧げ、一方を多宝仏塔に捧げた。

「無尽意菩薩よ。観世音菩薩はこのような自在の神通力をもって、この娑婆世界にわざをなすのである」。

その時に無尽意菩薩は、偈をもって次のように申し上げた。

「妙なる姿の世尊よ 私は今重ねて彼についてお尋ねします この仏の子はどのような因縁あって 観世音と名付けられるのでしょうか 」。

妙なる姿の世尊は 偈をもって無尽意に答えられた。

「あなたは観音のわざを聞くがよい あらゆるところに応じて身を現わす その誓願の広く深いことは海のようだ 測り知れないほどの時間をかけても知ることはできない 千億の多くの仏に仕えて 大いなる清らかな誓願を立てた 私はあなたのために略して説こう 名を聞きおよび身を見 心に念じて空しく過ごさなければ あらゆる苦しみを滅ぼすことができる たとい悪意によって 大きな火の穴に突き落とされても 観音の力を念ずるならば その火の穴は池となるであろう あるいは大海原に漂流して 龍魚や諸鬼の難にあっても 観音の力を念ずるならば 波も沈めることはできない あるいは須弥山から 人に突き落とされても 観音の力を念じるならば 太陽のように虚空に留まるであろう あるいは悪人に追われ 金剛山より落ちても 観音の力を念じるならば 髪の毛の一本も損なうことはないであろう あるいは怨賊に襲われ 刀によって殺されそうになっても 観音の力を念じるならば 相手は憐れみの心を起こすであろう あるいは王の権力によって捕らえられ 処刑されるにあたって 観音の力を念じるならば その刀は砕けるであろう あるいは鎖に縛られ囚人となり 手足に枷(かせ)をはめられても 観音の力を念じるならば それらは解けて脱することができるであろう 呪詛や毒薬を盛られ 身を害されようとしている者が 観音の力を念じるならば その害はかえって相手につくであろう あるいは悪しき羅刹 毒龍や諸鬼などにあっても 観音の力を念じるならば それらは害を与えることはないであろう あるいは悪しき獣に囲まれ 鋭い牙や爪が迫って来ても 観音の力を念じるならば それらは急いで逃げ去るであろう トカゲやヘビやサソリの毒が 煙や火のように迫って来ても 観音の力を念じるならば それらは自ら去って行くであろう 雲が起こり雷鳴と雷光が激しく 雹が降って大雨となっても 観音の力を念じるならば それらは消えていくであろう 衆生は困難や災いによって 無量の苦しみが身に迫っているが 観音の妙なる智慧の力は よく世間の苦しみを救うのである 神通力を持ち 広く智慧による方便を修して あらゆる方角の多く国土に 身を現わさないところはない さまざまの悪しき世界 地獄餓鬼畜生 生老病死の苦 次第にすべて消滅する 真理を見る眼と清らかな眼 広大な智慧の眼 慈悲の眼を持つ 常に願い常に仰ぎ見るべきである 汚れない清らかな光があり 智慧の太陽の光は闇を破り 風や火の災難を鎮め 遍く明かに世間を照らす 慈悲からの戒めは鳴り響く雷のようであり 慈悲からの心の妙なることは大きな雲のようであり 甘露の教えの雨を注ぎ 煩悩の炎を滅ぼし除く 訴えられて裁判にかけられ 軍隊の中に入れられ死を恐れても 観音の力を念じるならば それらの怨敵はすべて退散するであろう 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音(注4) このために常に念ずべきである 一念一念 疑いを生ずることがないようにせよ 観世音は清らかであり聖であり 苦悩死厄において その頼る拠り所となる 一切の功徳をそなえ 慈悲の眼をもって衆生を見る 福聚の海は無量である そのためにまさに拝すべきである 」。

その時に持地菩薩(じぢぼさつ=地蔵菩薩)は、座より立って、前に進んで仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。もし衆生の中で、この『観世音菩薩品』に記されている自在のわざ、普門示現の神通力を聞く者がいるならば、その人の功徳は少なくないとまさに知るべきです」。

仏がこの「普門品」を説かれた時、大衆の中の八万四千の衆生は、みなこの上ない阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こした。

 

注1・「片方の右の肩を現わして」 仏を礼拝する姿勢。

注2・この章は、一般的に『観音経』と言われる、「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」である。まず「普門」とは、「あらゆる方角に普(あまね)く開かれた門」という意味である。そして、「観世音」の原語は、「アヴァロキテーシヴァラ」であり、意味は、「自由自在に世間の声を聞き分ける」というものである。唐の玄奘(げんじょう)が訳した『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の冒頭にもこの菩薩の名があるが、玄奘はこれを「観自在菩薩」と訳している。つまり、玄奘は「自由自在」というところにスポットを当てて訳したわけであるが、この『法華経』を訳した鳩摩羅什は、「世間の声」というところにスポットを当てて訳したのである。「観世音菩薩」が省略されて「観音様」と呼ばれているので、鳩摩羅什の訳した名前が一般的になっているのである。

注3・「無畏」 恐れがないという意味。

注4・「妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音」 この三句は完全に文学的漢文表現であり、訳すことは不可能であるが、意味は伝わってくるであろう。