大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 11

守護国家論 現代語訳 11

 

第六章

 

全体を七門に分けた第六として、『法華経』と『涅槃経』に依る行者の心得を明らかにする。一代教門の勝劣・浅深・難易などについては、すでに前の段落で述べた。この段落では、一向に後世を願う末代の常に迷いに沈む五逆・謗法・一闡提などの愚人のために記す。概略的に三節に分ける。一節には、在家の諸人は、正法を護持すれば生死を離れ、悪法を持てば三悪道に堕ちることを明らかにし、二節には、ただ『法華経』の名号だけを唱えて三悪道を離れるべきことを明らかにし、三節には、『涅槃経』は『法華経』のための流通(るつう・補助・宣布という意味)であることを明らかにする。

 

第六章 一節

 

第一に、在家の諸人は、正法を護持すれば生死を離れ、悪法を持てば三悪道に堕ちることを明らかにする。『涅槃経』第三巻には、「仏は摩訶迦葉に告げられた。よく正法を護持する因縁をもって、この金剛の身を成就することができた」とある。また、「時にある国王がいた。名を有徳という。(中略)法を護るために、(中略)この破戒の多くの悪比丘と激しく戦った。(中略)王はこの時、法を聞くことができ、心は大に歓喜し、そして命が終わった後、阿閦仏の国に生まれた」とある。この文の通りならば、在家の諸人は特に智慧と修行がないといっても、謗法の者を対治する功徳に依って、生死を離れることができるのである。

問う:在家の諸人が仏法を護持すべき姿はどのようなものか。

答える:『涅槃経』には、「もし衆生が財物に貪著するならば、私はその者に財を施して、その後にこの『大涅槃経』を勧めて読ませよう。(中略)まず愛語をもってその思いに従い、その後に次第にこの大乗の『大涅槃経』を勧めて読ませよう。もし凡夫庶民であるならば、威勢を用いて迫って読ませよう。もし高慢の者には、私はその者のために僕の使いとなって、その思いに随順し、その者を歓喜させ、その後にまさに『大涅槃経』に教え導こう。もし「大乗経」を誹謗する者がいるならば、まさに勢力をもってこれを砕き服従させ、服従させた後に勧めて『大涅槃経』を読ませよう。もし「大乗経」を愛し願う者がいるならば、私は自ら趣いて恭敬し供養し尊重し讃歎しよう」とある。

問う:今の世の道俗は偏に『選択本願念仏集』に執着して、『法華経』・『涅槃経』に対しては、自身不相応の念をもって、守り惜しみ建立する心はない。たまたま、それは邪義だと言う人がいれば、念仏誹謗の者と称し、悪名を天下に広める。これはどのようなことか。

答える:私が答えを出すまでもなく、仏自らこの事を次のように記しておられる。『仁王経』には、「大王よ、私の滅度の後、未来世の中の僧侶や尼僧や男女の在家信者四の弟子、多くの小国の王・太子・王子、すなわち三宝を堅持して護る者が、かえって三宝を破り滅ぼすことは、師子の身中の虫が自ら師子を食うようなものである。それは外道ではなく、多くの者が私の仏法を破り、大いなる罪過を得るだろう。正法が衰え希薄になり、民に正しい行ないがなく、次第に悪事を行なうために、その寿命は日毎に減じて百歳に至るであろう。人は仏法を破るためにまた親孝行の子はいなくなり、六親は不和となり、天神も助けることなく、疫病の悪鬼が日毎に来て侵害し、災いや異変が連続して起こり、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるだろう」とある。また続いて、「大王よ。未来世の中の諸の小国の王・僧侶や尼僧や男女の在家信者の弟子たちが、自らこの罪をなすことは、破国の因縁となる。(中略)諸の悪比丘が多く名利を求め、国王・太子・王子の前で自ら仏法を破る因縁、国を破る因縁を説くであろう。その王は分別できずにその言葉を信じ聞き入れ、(中略)その時になっては、正法は間もなく滅んでしまう」。

私は『選択本願念仏集』を見て、この文の未来記に違わないと知った。『選択本願念仏集』は、法華・真言の正法を雑行難行と定め、末代の私たちにとっては、時機相応せず、これを行じる者は千人の中に一人もなく、仏が『法華経』などを説かれたといっても、法華・真言の諸行の門を閉じて、念仏の一門を開かれたのであり、末代においてこれを行じる者は群賊と定め、今の世の一切の道俗にこの書を信じさせ、この義を如来の金言と思っている。このために、世間の道俗は仏法を建立する心なく、法華・真言の正法の法水はたちまち涸れ、天人は減少して三悪が日に日に増長している。偏に『選択本願念仏集』の悪法に促されて起こす邪見である。この経文に、仏が「私の滅度の後」と記されているのは、正法の末八十年、像法の末八百年、末法の末八千年のことである。『選択本願念仏集』が出た時は像法の末、末法の始めであるので、八百年の内である。『仁王経』に記されている時節に該当する。諸の小国の王とは日本国の王である。中品と下品の善行は、その他の粟を散らした数の王たちを指す。「如師子身中虫」とは仏弟子源空法然のことである。「諸悪比丘」とは、その教化された人々である。「説破仏法因縁破国因縁」とは、上にあげた『選択本願念仏集』に記された言葉である。「其王不別信聴比語」とは、今の世の道俗が邪義を知らずに、むやみにこれを信じていることである。

請い願はくは、道俗たちが法の邪正を分別して、これから後、正法について後世を願え。今度人身を失い、三悪道に堕ちた後に後悔しても遅いのである。

 

第六章 第二節

 

第二に、ただ『法華経』の題目だけを唱へて、三悪道を離れるべきことを明らかにする。『法華経』第五巻には、「文殊師利よ、この『法華経』は無量の国の中において、(中略)名字さえ聞くことはできない」とある。また、第八巻には、「あなたたちは、ただよく法華の名を受持する者を擁護する福を測り知ることはできない」とある。「提婆達多品」には、「『妙法蓮華経』の提婆達多品を聞いて、心清く信敬して疑惑を生じない者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちることはない」とある。『大般涅槃経』の「名字功徳品」には、「もし善き男子・善き女子がこの経の名を聞いて、それでも悪趣に生じてしまうということはあり得ない」とある。『涅槃経』は、『法華経』の流通であるために、これを引用した。

問う:ただ『法華経』の題目を聞くといっても、経典の内容を理解する心がなければ、どうして三悪趣を逃れることができるのか。

答える:『法華経』が流布している国に生れて、この経の題名を聞き、信心を生じることは、過去世からの善い業が深く厚いことによる。たとい、今生は悪人で無智だとしても、間違いなく過去世の善い業があるために、この経の名を聞いて信心を起こす者なのである。このために、悪道には堕ちない。

問う:過去世の善い業とは何か。

答える:『法華経』第二巻には、「もしこの経の教えを信受する者がいるならば、この者はすでにかつて、過去の仏を見奉り恭敬し供養したため、またこの教えを聞くこととなったのである」とある。また「法師品」には、「また如来滅度の後、もしある人が『妙法蓮華経』の一偈一句でも聞いて、一念でも随喜するならば、(中略)まさに知るべきである。この人々は、すでにかつて十万億の仏を供養したのである」とある。『法華経』の流通である『涅槃経』には、「煕連河(きれんが・ガンジス川の支流)にある砂の数ほどの諸仏ものとで菩提心を起こした者こそ、よくこの悪世において、この経典を受持して誹謗する心を生じさせないのである。善き男子よ。大河の砂の数ほどの諸仏世尊のもとで菩提心を起こしたということをもって、後の悪世の中で、この教えを謗らず、この経典の法を愛敬するのである」とある。

これらの文の通りならば、たとい先ず経典の内容を理解する心がなくても、この『法華経』を聞いて謗らないのは、過去世の大いなる善い業が生み出したものである。そもそも、三悪道の生を受けることは、大地の微塵の数より多く、人間の生を受けることは、爪の上の土より少ない。さらに、『法華経』以前の四十余年の諸経に会うことは、大地の微塵の数より多く、『法華経』・『涅槃経』に会うことは、爪の上の土より少ない。上に引用した『涅槃経』第三十三巻の文を見るべきである。たとい一字一句だとしても、この経を信ずることは、過去世の業に多くの幸いがあったからである。

問う:たとい、『法華経』を信じるといっても、悪縁に従ってしまえば、どうして三悪道に堕ちることがないだろうか。

答える:理解する心がない者が、権教の悪知識に会って実経から退いてしまえば、悪師を信じた過失によって、必ず三悪道に堕ちるのである。常不軽菩薩を軽蔑した者たちは権教の人である。大通智勝如来の時に結縁した者が、それから三千塵点劫という測り知れないほどの時間を経たのは、『法華経』から退いて、権教に帰ってしまったためである。『法華経』を信じる者が、『法華経』の信心を捨てて権教の人に従うこと以外は、どんな世間の悪業も『法華経』の功徳には及ばないので、三悪道に堕ちることはない。

問う:日本国は『法華経』・『涅槃経』と因縁がある地であるのかどうか。

答える:『法華経』第八巻には、「如来の滅後に閻浮提の内に広く流布させ、断絶することがないようにする」とある。また、第七巻には、「広く宣べ流布して、閻浮提において断絶することがないようにする」とある。また『涅槃経』第九巻には、「この大乗経典である『大涅槃経』もまたこの通りである。南方のあらゆる菩薩のために、まさに広く流布させるべきである」とある。

三千世界は広いといっても、仏自らが南方を『法華経』・『涅槃経』の流布の場所と定められている。南方の諸国の中でも、日本国は特に『法華経』が流布すべき場所である。

問う:その証拠となる経文は何か。

答える:僧肇(そうじょう・『法華経』を漢訳した鳩摩羅什の弟子)が記した、『法華経』翻訳の後記には、「鳩摩羅什三蔵は、須利耶蘇摩(しゅりやそま)三蔵に会って『法華経』を授かった時の言葉に、仏の日は西山に隠れ、その残りの輝きが東北を照らしている。この経典は、東北の諸国に縁がある。あなたは慎んで伝え広めよ」とある。東北とは日本である。西南のインドより東北の日本を指しているのである。このために、慧心僧都源信の『一乗要決』には、「日本一州の円教の機縁は純一であり、朝野遠近同じく一乗に帰し、道俗貴賤みな成仏を願う」とある。

願はくは日本国の今の世の道俗が、『選択本願念仏集』を学び続けることをやめ、『法華経』・『涅槃経』の経文に依り、僧肇・慧心僧都の日本に対する未来記を見て、法華修行の安心を企てよ。

問う:『法華経』を修行する者は、どの浄土を願うのか。

答える:『法華経』全二十八品の肝心である「如来寿量品」には、「我常在此娑婆世界」とある。また、「我常住於此」とある。また、「我此土安穏」とある。

この文の通りならば、本地において久遠の昔に成仏している円教の仏は、この世界におられる。この土を捨てて、どの国土を願うべきであろうか。このために、『法華経』を修行する者がいる場所を浄土と思うべきである。どうして煩わしく他の国土を求めることがあろうか。したがって、「如来神力品」には、「もし経巻がある場所ならば、それが園中であっても、林中であっても、樹下であっても、僧坊であっても、在家の家であっても、殿堂であっても、山谷広野であっても、(中略)まさに知るべきである。この場所はすなわち道場である」とある。『涅槃経』には、「善き男子よ。この微妙な『大涅槃経』が流布される場所は、まさに知るべきである、その地はすなわち金剛である。この中の人々もまた金剛のようである」とある。『法華経』・『涅槃経』を信じる行者は、他の場所を求めるべきではない。この経を信じる人のいる場所がすなわち浄土である。

問う:『華厳経』・「方等経」・『般若経』・『阿含経』・『観無量寿経』などの諸経を見れば、兜卒天・西方極楽浄土・十方の浄土を勧めている。その上、『法華経』の文を見れば、また兜卒天・西方極楽浄土・十方の浄土を勧めている。どうして、これらの文に相違して、ただこの瓦礫荊棘(がりゃくけいこく・小石やいばらのこと)の穢土を勧めるのか。

答える:『法華経』以前の経典の浄土は、久遠実成の釈迦如来が現わされた浄土であって、実の穢土である。『法華経』もまた、「方便品」と「如来寿量品」の二品が中心となる。「如来寿量品」に至って、実の浄土を定める時、この土はすなわち浄土であると定められた。ただし、兜卒天・安養国・十方の浄土については、『法華経』以前の名目を改めずに、この国土において、兜卒天・安養国などの名称を付けるのである。たとえば、この経に三乗の名称があるといっても、三乗はないようなものである。妙楽大師が、「さらに『観無量寿経』などを指すことを用いない」と解釈している意味はこれである。『法華経』に結縁していない衆生が、この世で西方浄土を願うことは、瓦礫の国土を願うことだということはこれである。『法華経』を信じない衆生は、誠にこの国土を分けて浄土と呼んでいるだけで、実際の浄土さえない者なのである。

 

第六章 第三節

 

第三に、『涅槃経』は『法華経』の流通のために説かれたことを明らかにする。

問う:光宅寺法雲法師ならびに道場寺慧観たちの碩徳は、『法華経』を第四時の経と定め、無常熟蘇味と立てている(注1)。天台智者大師は『法華経』と『涅槃経』は同味であると立てているが、捃拾(くんじゅう・注2)の教義がある。二師共に菩薩の権化である。共に徳行を具えた人物である。どちらを正しい教えとして、私たちの迷う心を晴らすべきだろうか。

答える:たとい論師や訳者だとしても、仏教に相違して権実二教を正しく判断しなければ、疑いを加えるばかりである。ましてや、中国の人師である天台大師・南岳大師・光宅寺法雲・道場寺慧観・智儼・嘉祥大師・善導などの解釈においてはなおさらである。たとい末代の学者だとしても、依法不依人の意義を堅持し、本経本論に相違しなければ、信用を加えるのである。

問う:『涅槃経』第十四巻を開いて見ると、五十年の諸大乗経を挙げて前四味に喩え、『涅槃経』をもって醍醐味に喩えている。諸大乗経は『涅槃経』より百千万倍劣っていると定めている。その上、迦葉童子の領解には、「私は今日初めて正見を得た。今までの私たちは、すべて邪見の人と言わなければならない」とある。この文の意趣は、『涅槃経』以前の『法華経』などのすべての経典は、みな邪見ということである。まさに知るべきである。『法華経』は邪見の経であり、未だ正見の仏性を明かしてはいない。このために、天親菩薩の『涅槃論』には、諸経と『涅槃経』との勝劣を定める時、『法華経』をもって『般若経』と同等と見て、同じく第四時に入れている。どうして正見の『涅槃経』をもって、邪見の『法華経』の流通とするのであるか。

答える:『法華経』の文を見ると、仏の本懐に残されたところはない。「方便品」には、「今まさしくその時である」とある。また「如来寿量品」には、「常に自ら『どのようにして衆生を無上道に入らせ、速やかに仏身を成就することができるか』ということを考えている」とある。また、「如来神力品」には、「要を取ってこれを言えば、如来の一切の所有の法、(中略)みなこの経において宣べ示し顕わし説く」とある。

これらの文は、釈迦如来の内証は、みなこの経に尽くされていることを示している。その上、多宝如来ならびに十方の諸仏が来集している場において、釈迦如来の「すでに説き、今説き、まさに説くであろう」という「已今当」の言葉が証しされ、『法華経』のような経典は他にはないということが定められている。しかし、多宝如来や諸仏が本土に帰られた後、ただ釈迦一仏のみが変わられ、『涅槃経』を説き、『法華経』を卑しめられたとすれば、誰がこれを信じるだろうか。深くこの意義を覚えよ。したがって、『涅槃経』第九巻を見ると、『法華経』を流通して説いて、「この経が世に出ることは、果実が実って、多くの人々に利益を与え、大いに安楽にするようなものである。よく衆生に仏性を見させるのである。『法華経』の中の八千人の声聞が、記を授かって、大いなる果実を成就することは、秋に収穫して冬に蔵に収めるならば、それ以上なすことがないようなものである」と説いている。

この文の通りならば、『法華経』がもし邪見ならば、『涅槃経』もどうして邪見でないわけがあろうか。『法華経』は大収であり、『涅槃経』は捃拾である。『涅槃経』は自ら『法華経』に劣っている理由を示している。『法華経』の「まさに説くであろう」の文にも相違はない。ただし、摩訶迦葉の領解ならびに第十四巻の文は、『法華経』を低めている文ではない。摩訶迦葉自身ならびに教化された衆生は、今初めて『法華経』の説く常住仏性・久遠実成を悟ったのである。このために、自分自身を指して、これまでは邪見だったと言うのである。『法華経』以前の『無量義経』が退けた諸経を、『涅槃経』においても重ねてこれらを挙げて退けているのである。『法華経』を退けているのではない。

また、『涅槃論』では、これらの論書は、そこに記されているように、天親菩薩の著作であり、菩提流支の訳である。『法華論』もまた天親菩薩の著作であり、菩提流支の訳である。経文と相違する箇所が多い。『涅槃論』もまた、『涅槃経』に相違する。まさに知るべきである。それらは訳者の誤りである。信用するに及ばない。

問う:前に説かれた教えに漏れた者を、後の教えでそれらを受け取って、悟りに導くことを流通というならば、『阿含経』は、『華厳経』の流通となるのか。そして、『法華経』は、前の四味に喩えられる諸経の流通となるのかどうか。

答える:前の四味の諸経は、菩薩や人天たちが悟りを得ることを認めているとはいえ、決定性の二乗・無性・一闡提の成仏は認めていない。その上、仏の意趣を深く検討して、またその実をもってこれを検討すれば、結局、菩薩や人天たちの悟りもないことになる。それは、十界互具を説かないためであり、久遠実成がないためである。

問う:その証文は何か。

答える:『法華経』の「方便」品には、「もし小乗を用いて一人でも教化するならば、私は慳貪に堕すことになる。このようなことは絶対にない」とある。この文の意味については、今は『選択本願念仏集』の邪義を破るためにこの書を記しているのであるので、それ以外のことは述べることはしない。したがって、『法華経』以前の諸経において悟りを得るか得られないか、ということについては、その真実の教義は述べることはできない。追ってこれを検討するべきである。ただし、『法華経』以前の四十余年の諸経では、実に凡夫が悟りを得ることはないために、『法華経』を以前の諸経の流通とはしない。『法華経』において、十界互具・久遠実成が表わされているのである。このために、『涅槃経』は『法華経』の流通となるのである。

 

注1・釈迦一代の諸経の勝劣と、説かれた順序を定めるために、各祖師たちは、たとえば五時の分別を立て、それぞれ、『涅槃経』の記述に基づいて、乳製品の発酵過程を喩えとした五味(ごみ)などを立てているが、それぞれの祖師たちの見解はさまざまである。その中で、天台大師の立てた五時教判は最も有名である。

注2・『法華経』で、釈迦一代の教化は終了したことになるが、しかし、たとえば、『法華経』が説かれようとしたとき、聴く必要はないと五千人が座を立ったように、まだ『法華経』で導かれていない人々もいる。その人々を導くために、『法華経』の後に『涅槃経』が説かれた、とすることが「捃拾」である。捃拾とは、落穂拾いのような「拾い集める」という意味がある。これに対して、『法華経』は、「大いなる収穫」という意味の「大収」という。