大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 10

守護国家論 現代語訳 10

 

第五章

 

全体を七門に分けた第五として、正しい教えに導く善知識の人、ならびに真実の教えにはめぐり会うことは難しいことを述べるならば、これに三節ある。

一節は、人身は受け難く仏法は会い難いことを明らかにし、二節は、受け難い人身を受け、会い難い仏法に会うといっても、悪知識に会うために三悪道に堕ちることを明らかにし、三節は、正しく末代の凡夫のための善知識について明らかにする。

 

第五章 第一節

 

人身は受け難く、仏法は会い難いことを明らかにすれば、『涅槃経』第三十三巻には、「その時、世尊は地の少土を取ってこれを爪の上に置き、摩訶迦葉に告げて言われた。この土と十方世界の地の土と、どちらが多いか。迦葉菩薩は仏に申し上げた。世尊よ、爪の上の土は十方にある土とは比べものになりません。善き男子よ。人が人身を捨てた後に再び人身を得、または三悪の身を捨てた後に人身を受け、さらに、あらゆる身体の器官を完全に備えて、仏法が説かれる国に生じ、正しい信心を具足してよく道を修習し、道を修習した後によく正しい道を修し、正しい道を修した後によく解脱を得、解脱を得た後によく涅槃に入るとするならば、それはまさに爪の上の土のようである。人身を捨てた後に三悪の身を得、三悪の身を捨てた後に三悪の身を得、あらゆる身体の器官が備わっておらず、仏法から遠い地に生じ、邪悪顛倒の教えを信じて邪道を修習し、解脱常楽の涅槃を得ることができないということは、十方世界の地の土のようである」とある。

この文は、多く法門を集めて一つとしている。人身を捨てて再び人身を受けるということは、爪の上の土のようであり、人身を捨てて三悪道に堕ちることは、十方の土のようである。三悪の身を捨てて人身を受けることは、爪の上の土のようであり、三悪の身を捨てて再び三悪の身を得ることは、十方の土のようである。人身を受けることは十方の土のようであり、人身を受けてあらゆる身体の器官が完全であることは、爪の上の土のようである。人身を受けてあらゆる身体の器官が完全であっても、仏法から遠い地に生じることは十方の土のようであり、仏法が説かれる国に生じることは、爪上の土のようでる。仏法が説かれる国に生じることは十方の土のようであり、そこで仏法に会うことは爪の上の土のようである。

また、「一闡提とならず、善根を断じることはなく、この涅槃経典を信じることは爪の上の土のようであり、(中略)一闡提となり、あらゆる善根を断じ、この経典を信じないことは、十方世界の地の土のようである」とある。この文の通りならば、法華・涅槃を信ぜず、一闡提となることは十方の土のようであり、法華・涅槃を信じることは爪の上の土のようである。

この経文を見れば、いよいよ感涙が押さへ難い。今、日本国の諸人を見聞すれば、そのほとんどが権教を行じている。たとい身口には実教を行じるといっても、その心にはまた権教がある。このために、天台大師は『摩訶止観』第五巻に、「その癡鈍な者は毒気が深く入って本心を失い、そのために、すでに信じていないのでそれが手に入らず、(中略)大罪を集めた人である。(中略)たとい世を厭う者も、下劣の教えを学び、枝葉末端にまとわりつき、犬がなすべきことを侮り、猿を敬って帝釈天とし、瓦礫を拝んで明珠とするようなものである。この闇の中にいる人がどうして道を論じることができようか」とある。

源空法然ならびにその教えを受けた者たちは、深く三毒の酒に酔って、大通智勝如来の結縁の本心を失っている。『法華経』・『涅槃経』に対して不信の思いを起こし、一闡提となり、『観無量寿経』などの下劣の教えに依って、方便称名などの瓦礫を学び、犬や猿のような法然房を敬って、智慧第一の帝釈天と思い、『法華経』・『涅槃経』の如意宝珠を捨てて、如来の聖教を狭めていることは、権実二教について知らないためである。

このために、『止観輔行伝弘決』第一巻には、「この円頓を聞いて尊重しない者は、まさに近代の大乗を習う者の雑乱によるためである」とある。大乗において、権実二教を知らないことを雑乱というのである。したがって、末代において『法華経』を信ずる者は爪の上の土のようであり、『法華経』を信ぜず、権教に堕落する者は十方の微塵のようである。このために、妙楽大師は嘆いて、「像法の末期は、情が薄く信心が少なく、円頓の教法が蔵に溢れ、箱に満ちていても、少しも思惟することをしない。これは目がふさがっていることによる。無駄に生まれ、無駄に死ぬ。誠に痛ましいばかりである」と述べている。この解釈は、偏に妙楽大師が菩薩の化身であるために、遠く日本国の今の時代を鑑みて記し置く所の未来記である。

問う:法然上人の門弟の内にも、一切経蔵を安置し『法華経』を行じる者はいる。どうして、すべての人を謗法の者と言うのか。

答える:一切経を開き見て『法華経』を読むのは、『法華経』が難行道である理由をあげ、『選択本願念仏集』の悪義を助けるためである。経論を開くことによって、ますます謗法を増すことは、たとえば善星比丘が十二部経を、提婆達多が六万蔵を受持読誦したことのようである。自らを智者と称することは、自身を重んじ悪法を助けるためである。

 

第五章 第二節

 

受け難い人身を受け、会い難い仏法に会うといっても、悪知識に会うために三悪道に堕ちることを明らかにする。『仏蔵経』には、「大荘厳仏の滅後に五比丘がいた。一人は正道を知って数億の人を悟りに導き、他の四人は邪見を持った。この四人は命が終って後、阿鼻地獄に堕ちた。そこで仰向けになったり、うつ伏せになったり、左向きに寝たり、右向きに寝たりしてそれぞれ九百万億年間苦しんだ。(中略)この人に親近した在家出家の者たち、ならびにあらゆる檀越たち、およそ六百四万億人がいた。この人たちは、この四師と共に生じ共に死に、大地獄にあって多くの焼かれたり煮られたりの苦を受けた。非常に多くの劫数が尽きれば、この四悪人および六百四万億の人は、この阿鼻地獄より他方の大地獄の中に転生した」。また、『涅槃経』第三十三巻には、「その時に城中に一人のジャイナ教徒がいた。名を苦得という。(中略)善星比丘は苦得に質問した。彼は答えて、私は食吐鬼(じきとき)の身を得た。善星よ明らかに聞け。(中略)その時に善星はすぐに私の所に戻って、世尊よ。ジャイナ教徒の苦得は、命終えた後に三十三天に生じるでしょうと言った。(中略)その時に如来はすぐに摩訶迦葉と共に善星の所に行った。善星比丘は遥かに私が来るのを見ると、見終わってすぐに悪しき邪心を生じさせた。悪心のために、生身のまま阿鼻地獄に堕ちた」とある。

善星比丘は仏が菩薩だった時の子である。仏に従って出家して十二部経を受け、欲界の煩悩を破って四禅定の位を得た。ところが、悪知識である苦得外道に会って、仏法の正義を信じなくなったために、出家の受戒・十二部経の功徳を失い、生身のまま阿鼻地獄に堕ちた。苦岸などの四比丘に親近した六百四万億の人は、四師と共に十方の大阿鼻地獄を経ることとなった。今の世の道俗は、『選択本願念仏集』を尊ぶために、源空法然の影像を拝して一切経を難行の邪義として読む。たとえば、ジャイナ教の教祖である尼乾(にけん・尼乾陀若提子の略。マハーヴィーラ)が教化した弟子が、尼乾の遺骨を拝して三悪道に堕ちたようなものである。願はくは今の世の道俗たちが、『選択本願念仏集』の邪正を判断した後に、供養恭敬をするように。そうでなければ、必ず後悔するであろう。

このために、『涅槃経』には、「大いなる菩薩は悪象などに対して心に怖畏しないようにせよ。しかし悪知識に対しては怖畏の心を生ぜよ。なぜであろうか。この悪象などはただ身体を傷つけるだけであり、心を破ることはできない。しかし、悪知識はこの二つ共に破るためである。また、この悪象などはただ一人の身体を傷つけるだけであるが、悪知識は無量の善身と無量の善心を破る。また、この悪象などはただ不浄の臭い身体を破壊するだけだが、悪知識は浄身および浄心を破る。また、この悪象などは肉身を破るだけだが、悪知識は法身を破る。また、悪象のために殺されても三趣に至ることはないが、悪友のために殺されては必ず三悪に至る。また、この悪象などはただ身体の怨となるだけだが、悪知識は善法の怨となる。このために、菩薩は常にまさにあらゆる悪知識を遠離すべきである」とある。

請い願はくは、今の世の道俗は、たといこの書を邪義だと思ったとしても、それはしばらく置いておき、『十住毘婆沙論』を開き、その難行の内に『法華経』が入っているか入っていないかを調べ、『選択本願念仏集』の「準之思之」の四字を検討した後に是非を論じるようにせよ。誤って悪知識を信じ、邪法を習い、この生を空しくすることのないようにせよ。

 

第五章 第三節

 

正しく末代の凡夫のための善知識について明らかにする。

問う:善財童子は五十余の知識に会った。その中に普賢・文殊・観音・弥勒があった。常啼・班足・妙荘厳・阿闍世たちは、曇無竭・普明・耆婆・二子と夫人に会って生死を離れた。彼らはみな大聖である。仏が世を去って後、このような師を得ることは難しいとしなければならない。仏の滅度の後においても、竜樹・天親もまたすでに去った。南岳大師・天台大師にも会うことはない。ではどうして生死を離れることができるだろうか。

答える:末代にも真実の善知識はいる。それは『法華経』・『涅槃経』である。

問う:人を善知識とするのが常の習いである。法をもって知識とする証文はあるのか。

答える:確かに、人をもって知識とすることが常の習いである。しかし、末代においては、真の知識がいないので、法をもって知識とし、その多くの証文もある。『摩訶止観』には、「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従って、上に説く所の一実の菩提を聞く」とある。この文の意趣は、経巻をもって善知識とするのである。また『法華経』には、「もし『法華経』を閻浮提に行じ受持する者は、まさにこの念を生じさせるべきである。みなこれは、普賢威神の力である」とある。この文の意趣は、末代の凡夫が『法華経』を信ずることは、普賢の善知識の力であるというのである。また、「もしこの『法華経』を受持し読誦し正しく憶念し修習し書写する者は、まさに知るべきである。この人は釈迦牟尼仏を見るのである。仏の口よりこの経典を聞くようなものである。まさに知るべきである。この人は釈迦牟尼仏を供養するのである」とある。この文を見れば、『法華経』は釈迦牟尼仏である。『法華経』を信じない人の前では、釈迦牟尼仏は入滅を取り、この経典を信ずる者の前では、滅後だといっても、仏の在世なのである。また、「もし私が成仏して滅度した後、十方の国土において『法華経』を説く所があれば、私の塔廟はこの経を聴くために、その前に涌現して証明しよう」とある。この文の意趣は、私たちが『法華経』の名号を唱えれば、多宝如来はその本願のために、必ず来られるということである。また、「十方世界にあって法を説く諸仏をすべて一処に集めたもう」とある。

釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩は、私たちの善知識である。もしこの教義に依れば、私たちもまた宿善・善財・常啼・班足たちよりも勝れている。彼らは権経の知識に会い、私たちは実経の知識に会っているからである。彼らは権経の菩薩に会い、私たちは実経の仏菩薩に会い奉っているからである。

『涅槃経』には、「法に依って人に依るべからず、智慧に依って知識に依るべからず」とある。法に依るの法とは、『法華経』・『涅槃経』の常住の法を指す。人に依らずの人とは、『法華経』・『涅槃経』に依らない人である。たとい仏菩薩であったとしても、『法華経』・『涅槃経』に依らない仏菩薩は善知識ではない。ましてや、『法華経』・『涅槃経』に依らない論師・訳者・人師はなおさらである。智慧に依るとは仏に依ることである。知識に依らずとは、等覚(注1)以下を指す。今の世間の道俗たちは、源空法然の謗法の誤りを隠すために、その徳を天下に広めて権化だと言っている。用いてはならない。外道は五神通力を得て山を傾け海を干上がらせるとしても、神通力のない『阿含経』の凡夫にも及ばない。阿羅漢を得て六神通力を表わす二乗は、『華厳経』・「方等経」・『般若経』の凡夫に及ばない。『華厳経』・「方等経」・『般若経』の等覚の菩薩も、『法華経』の名字即・観行即(注2)の凡夫に及ばない。たとい神通力や智慧があるといっても、権教の善知識を用いるべきではない。

私たちのような常に迷いに沈む一闡提の凡夫が、『法華経』を信じようとすることは、仏性を顕すための前兆である。このために妙楽大師は、「内側からの真如の働きかけがなければ、どうして悟りを得ることができようか。このために知ることができる。悟りを生ずる力は真如にあり、したがって、内側からの真如の働きかけを外護とするのである」と述べている。

法華経』より前の四十余年の諸経には、十界互具(じっかいごぐ・注3)はない。十界互具を説かなければ、内心の仏界を知ることはできない。内心の仏界を知らなければ、外の諸仏も現われることはない。このために、四十余年の権行の者は仏を見ない。たとい仏を見るとしても、他仏を見るのである。声聞と縁覚の二乗は、自らの内の仏を見ないために成仏はない。『法華経』以前の菩薩もまた、自身の十界互具を見ないので、二乗の成仏を見ない。したがって、衆生無辺誓願度(注4)の願も満足しない。このために、菩薩であっても仏を見ず、凡夫もまた十界互具を知らないために、自身の内の仏界が現われない。したがって、阿弥陀如来の来迎もなく、諸仏如来の加護もない。たとえば、盲人が自分の姿を見ることがないようなものである。今、『法華経』に至って九界の仏界を開くために、四十余年の菩薩・二乗・六道の凡夫は、初めて自身の内の仏界を見る。この時この人の前に初めて仏・菩薩・二乗が立てられる。この時に二乗・菩薩は初めて成仏し、凡夫は初めて往生する。このために、在世と滅後の一切衆生の真実の善知識は『法華経』であることが明らかである。

天台宗の学者は、『法華経』以前の諸経において、それぞれの悟りを得ることはあるが、天台教学の教義においては、真実の悟りを得ることにはならない。しかし、この書においては、そのすべてを記すことは不可能である。概略的に記したまでである。後にまた記すことにする。

 

注1・「等覚」 等覚は、仏の妙覚のひとつ手前の位であり、菩薩の位である。

注2・天台教学では、六即の位を立てる。すなわち、①理即(りそく)は、誰であっても真理の表われであるが、それを知らず、迷いの中にいる人々のこと。②名字即(みょうじそく)は、仏法を学び始めて、知識的に真理について知っているという状態。③観行即(かんぎょうそく)は、心を観察する修行である観行を実践している状態。④相似即(そうじそく)は、修行の結果、究極的な悟りではないが、ある程度の悟りを得た状態。⑤分真即(ぶんしんそく)は、究極的な悟りの一部を得ている状態。⑥究竟即(くきょうそく)は、究極的な悟りに達した状態。このように、即とは、真理の次元ではみな同じであるという、「相即(そうそく)」の思想を表わし、何よりも、修行者を励まし、また高慢にならないようにする目的がある。これが天台教学の大きな特徴のひとつである。

注3・「十界互具」 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という、衆生が転生する可能性のある十の世界の一つ一つに、他の一つ一つの世界が互いに具わっているという思想。これも天台教学の中心の一つである。

注4・「衆生無辺誓願度」 四弘誓願(しぐせいがん)の中のひとつ。①衆生無辺誓願度は、すべての衆生を悟りに導くという誓願。②煩悩無量誓願断は、煩悩は無量であってもすべて断つという誓願。③法門無尽誓願学は、法門は無尽であっても、すべて学びつくすという誓願。④仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) - 仏の道は無上であっても成就するという誓願