大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 05

守護国家論 現代語訳 05

 

第二章

 

全体を七門に分けた第二として、正法・像法・末法の時代に関して、仏法の興廃を明らかにする。そしてここでは、さらに二節ある。一節として、『法華経』以前の四十余年の間に説かれた諸経と「浄土三部経」との、末法における久住・不久住(注:長く存在するかしないか、という意味)を明らかし、二節として、『法華経』・『涅槃経』と、「浄土三部経」ならびに他の諸経との久住・不久住を明かかにする。

 

第二章 第一節

 

第一に、『法華経』以前の四十余年の内の諸経と「浄土三部経」との、末法にける久住・不久住について明らかにする。

問う:如来の教法は大小・浅深・勝劣を論ぜず、ただ時機に依って行なわれるのであり、そのために利益(りやく)がある。しかし、『賢劫経』・『大術経』・『大集経』などの諸経を見ると、仏滅後二千余年以後は、仏法はみな滅び、ただ教のみが残って、修行による悟りはないとある。したがって、伝教大師の『末法灯明記(まっぽうとうみょうき・これは現在では、最澄の著作ではないとされる)』を開くと、「我が延暦二十年(801)辛巳一千七百五十歳」とある。延暦二十年より現在(1259)までは、四百五十余年である。つまりすでに末法に入っている。たとい教法が残っているといっても、修行による悟りはない。つまり、仏法を行じる者は万が一も悟りを得ることはあり得ないということか。しかし、『双観経(無量寿経のこと)』に、「未来の世に、仏経仏道が滅び尽つきるならば、私は慈悲と哀愍の心をもって、この経を百年間残っているようにしよう。そして衆生がこの経に会えば、願うところに従って、みな悟りを得ることができるだろう」とある文を見れば、釈迦如来一代の聖教がみな滅び尽くされた後、ただ『双観経』の念仏のみが残って、衆生を利益すると読める。この意趣に依って浄土教の諸師の解釈を見ると、やはりこの意義がないわけではない。道綽禅師は、「今は末法であり五濁悪世である。ただ浄土の一門のみあって、通入の路である」と記し、善導和尚は、「万年に三宝が滅び、この経のみ百年残る」と述べ、慈恩大師は、「末法の万年に他の経が悉く滅び、阿弥陀仏の一教の利益はひとえに増す」と定め、日本の比叡山の先徳である慧心僧都は、一代聖教の要文を集め、末代の指南として教えるため、『往生要集』を著わして、その序に、「そもそも往生極楽の教行は濁世末代の目であり足である。道俗貴賤の誰が帰依しないことがあろうか。一方、伝統的な顕教密教の教法は、その文は一つではない。事象的なことと理法的なことの業因となる修行も数多い。智慧があって精進する人はまだ難しいとはしないが、私のような頑固で愚かな者は、どうして実践できるだろうか」と記している。さらに続いて、「その中でも、念仏の教えは多く末代の仏道が滅び尽くされた後の濁悪の衆生を利益する」と記している。総合的に見るならば、諸宗の学者もこの主旨を受け入れている。特に、天台一宗の学者ならば、誰がこの教義に背くことがでようか。

答える:『法華経』以前の四十余年の諸経は、各時機に従って興廃あるために、もしかしたら、「浄土三部経」より前に滅び尽くされることもあるかも知れない。諸経においては、多く今生における三乗の悟りの道を説いている。したがって、末代においては、今生における悟りを得る者は少ないであろう。十方の浄土(注:浄土は西方極楽浄土ばかりではなく、無数の仏国土もみな浄土である)に往生する教えは、末代の人々に向けてのものである。特に、西方極楽浄土は娑婆世界に近い最下の浄土であるために、太陽が東から出て西に沈むために、諸経に多くこの信心を勧めている。したがって、浄土教の祖師だけがこの教義を勧めているのではない。天台大師・妙楽大師なども、『法華経』以前の経に依る場合は、この教えに従っている。またさらに、人師のみではなく、竜樹・天親(注:竜樹や天親も人師ではあるが、特に大乗教の基礎を築いた論師は菩薩と呼ばれる)にもこの意趣がある。さらに、これらは多くある教えの中のひとつである。『仁王経』などは、「浄土三部経」よりも長く、末法万年の後の八千年残るとしている。このように、諸経においては一定していないのである。

 

第二章 第二節

 

第二に、『法華経』・『涅槃経』と「浄土三部経」との久住・不久住を明らかにする。

問う:『法華経』・『涅槃経』と「浄土三部経」とは、どちら先に滅びるのであろうか。

答える:『法華経』・『涅槃経』より先に、「浄土三部経」が滅びるのである。

問う:どうしてそれがわかるのか。

答える:『無量義経』に、四十余年の大部分の諸経を挙げて、それらを未顕真実と呼んでいる。このために、『双観経』などにある「この経だけを残す」という言葉は方便であって虚妄である。『華厳経』・「方等経」・『般若経』・『観無量寿経』などの速疾あるいは歴劫の往生・成仏は、『無量義経』の実義をもってこれを検討すれば、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎたとしても、ついに無上菩提を成就することはできない。困難の多い険しい道を行くためである」と言われる経典である。往生・成仏を説いても、それは単に仏縁を結ばせるだけの遠因にすぎない。『大集経』・『双観経』などに説かれるところの、残る滅びるの先後はみな、便宜上の説である。『法華経』以前の経は、外道の説に同じである。たとえば、河川が海まで届かない、国民が王に従わないようなものである。身を苦しめ行を修しても、『法華経』・『涅槃経』に至らなければ、一分の利益なく、修行はしても結果が出せない外道である。仏が世におられた時も滅後の時も共に、教えはあって悟る人はなく、修行はあっても悟りを得ることはない。多くの木は枯れるといっても、松や柏は萎まない。多くの草は散るといっても、唐竹は変わらない。『法華経』もまたそのようである。釈尊の「すでに説き、今説き、まさに説くであろう」の三説・多宝仏の証明・諸仏の舌相が梵天に届いたことなど、この法が長く残るためである。

問う:諸経滅尽の後、ただ『法華経』だけが残るという証文は何か。

答える:『法華経』の「法師品」に、釈尊自ら経典を広めるために、「我が所説の経典は無量千万億であり、すでに説き今説きまさに説くであろう。その中で、この『法華経』が最も難信難解である」と語っておられる。この文の意味は、一代五十年の過去現在未来において、『法華経』が最も第一の経典であるということである。八万の聖教の中で、特に未来にまで残そうと願われて説かれたのである。したがって、「法師品」の次の「見宝塔品」で、多宝如来が地より涌出し、釈迦分身の諸仏は十方より一処に来集し、釈迦如来は諸仏を御使いとして、八方四百万億那由他の世界に充満する菩薩・二乗・人・天・八部衆などに対して次のように宣言された。「多宝如来ならびに十方の諸仏が、涌出し来集した意趣は、ひとえに法を長く残すためである。過去現在未来に説くところの諸経滅尽の後、確かに未来五濁難信の世界において、この経を広めると誓願を立てよ」。その時に二万の菩薩や八十万億那由佗の菩薩たちは、それぞれ誓願を立てて、「私は身命を愛せず、ただ無上道を惜しみます」と申し上げた。千世界を微塵にしたほどの数の菩薩や文殊菩薩たちはみな誓って、「私たちは仏の滅後において、まさに広くこの経を説きます」と申し上げた。その後、仏は十の喩えをあげられた。その第一の喩えは、河川を四十余年の諸経に譬え、『法華経』を大海に譬えられた。末代濁世の無漸無愧の大旱魃の時、四味(しみ:『涅槃経』に、一代の教えを五種に分類し、乳製品の発酵過程に喩え、それを五味とした。四味とは、最後の『法華経』・『涅槃経』の醍醐味以前の経典を指す)の河川は乾いてしまっても、『法華経』の大海は減少しないと説かれ、「我が滅度の後、後五百歳の中に広宣流布し閻浮提において断絶させることはない」と定められた。この文を子細に検討すると、「我が滅度の後」の次の後の字は、四十余年の諸経が滅尽した後の後の字である(注:実際、サンスクリット原本には、「我が滅度の後」の次の後の字に該当する言葉はない。これは訳者の鳩摩羅什の誤記か、あるいは何かの思いがあったのか不明であるが、いずれにせよ誤訳である。しかし、この誤訳である「後後」と続く文字が、後の仏教の教学に大きな影響を与えてしまっていることは誠に残念なことである)。したがって、『法華経』を広めるために説かれた『涅槃経』には、「まさに無上の仏法をもって、多くの菩薩に与えるべきである。多くの菩薩はよく問答するからである。このような法宝は、すなわち長く世に残ることができる。無量の千世にも増益熾盛にして衆生を利益し安楽に導く」とある。

このような文は、『法華経』・『涅槃経』は無量百歳にも絶えることがないということである。この教義を知らない世間の学者は、仮の教えである『大集経』の五五百歳(ごごひゃくさい・仏法の盛衰を、五百年を一期として五つに分類した教え)の文をもって、この経と同じだとし、「浄土三部経」より先に滅尽するとした解釈は、一経の先や後、始めと終わりを忘れているのである。