大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 07

守護国家論 現代語訳 07

 

第三章

 

全体を七門に分けた第三として、『選択本願念仏集』が謗法にあたる理由を述べる。

問う:何の証拠をもって、法然源空が謗法の者だと言うのか。

答える:『選択本願念仏集』の文を見ると、釈迦一代の聖教を二つに分けている。一つめは聖道・難行・雑行・雑行であり、二つめは浄土・易行・正行である。この中の聖道・難行・雑行とは、『華厳経』・『阿含経』・「方等経」・『般若経』・『法華経』・『涅槃経』・『大日経』などである。一方、浄土・易行・正行とは、「浄土三部経」の称名念仏などである。聖道・難行・雑行がなぜ退けられるのかといえば、末代の凡夫がこれらを修行しても、百人のうちに希に一・二人が悟りを得て、千人のうちに希に三・五人が悟りを得て、あるいは千人のうちに悟りを得る者が一人もないという。またあるいは、これらを修行する者たちを、群賊・悪衆・邪見・悪見・邪雑の人だと決めつけている。一方、浄土・易行・正行がなぜ受け入れられるべきかといえば、末代の凡夫がこれらを修行すれば、十人が十人、極楽に生じ、百人が百人、極楽に生じるためだという。そもそも、これが謗法の邪義なのである。

問う:釈迦一代の聖教を、聖道と浄土、難行と易行、正行と雑行とに分けて、その中の難行・聖道・雑行が時機不相応だという主張は、ただ源空一人の新しい教義ではない。中国の曇鸞道綽・善導の三師の教義である。しかしこれらの教義もまた、人師の私的な考えではなく、その源は竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』より出ている。もし源空を謗法の者とすれば、竜樹菩薩ならびに三師を謗法の者としなければならないのではないか。

答える:竜樹菩薩ならびに三師の意趣は、『法華経』以前の四十余年の各経典における難易などの教義について述べられたものである。しかし源空以来、竜樹菩薩ならびに三師の難行などの言葉を借りて、法華・真言などをもって難行・雑行などの内に入れている。そしてその教化された弟子たちは、その師の過失を知らない。この邪義を正しい教義だとして、この国に流布させているために、国中のすべての民がみな法華・真言に対して、時機不相応だという思いを抱いてしまっている。その上、世間の富を貪る天台宗真言宗の学者たちは、世の人の感情に従っているために、法華・真言に対して、時機不相応だという悪言を吐いて『選択本願念仏集』の邪義を助け(注:このような記述から、日蓮上人が「法華・真言」と表現している言葉は、天台宗真言宗と同一ではないことが明らかである。この「法華・真言」とは、『法華経』および『法華経』の中にも説かれている密教的な教えを指すことは明らかである)、目の前の欲心によって、釈迦如来多宝如来ならびに十方の諸仏が定められた「令法久住於閻浮提広宣流布」の誠言を破り、すべての衆生に、すべての三世十方の諸仏の舌を切らせるという罪を犯させているのである。これは偏に、「悪世の中の比丘の智慧は邪悪であり、心はねじ曲がり、まだ得てもいない悟りを得たと言い、悪鬼がその身に入って、仏の時期に適った方便によって説かれた教えを知らない」ためである。

問う:竜樹菩薩ならびに三師は、法華・真言を難行・聖道・雑行の中に入れていないにもかかわらず、法然源空は私的にこれを入れているとは、何によって知ることができるのか。

答える:それは遠くの別の所に証拠を求める必要はない。すなわち、『選択本願念仏集』にそれを見ることができる。

問う:その証拠となる文は何か。

答える:『選択本願念仏集』第一篇に、「道綽禅師が、聖道・浄土の二門を立て、そして聖道を捨てて、まさしく浄土に帰すべきとした文」と明言した後、続いて、『安楽集』を引用し、私的考察の段落において、「初めに、聖道門には二つある。一つは大乗であり、二つは小乗である。この大乗の中に顕教密教・権教と実教の不同があるといっても、この『安楽集』が記された時代には、いわゆる大乗の顕教と権教しかなかった。このために、これらは長い間修行してこそ悟りに至る修行に当たる。これによって考えれば、まさに大乗の密教も実教も、これと同じである」。以上が『選択本願念仏集』の文である。

この文の意味は、道綽禅師の『安楽集』では、『法華経』以前の大小乗の経典に対して、聖道・浄土の二門を分けているといっても、源空の私的解釈によって、法華・真言の大乗の実教と密教も、『法華経』以前の四十余年の権大乗と同じとして聖道門としている。これによって考えれば、という文がそれを表わしている。この意趣によるために、また曇鸞がいうところの難行道・易行道の二道を引用する時、私的に解釈して、法華・真言を難行道の中に入れ、善道和尚が正行・雑行の二行を分けることについても、私的に解釈して、法華・真言を雑行の中に入れている。『選択本願念仏集』の全体の十六段にわたって、無量の謗法を記している根源は、偏にこの私的解釈から起っている。これは誤りであり、恐ろしいことである。

さらに源空の門弟たちは、師の邪義を助けて、次のように言っている。諸宗の常の習いとして、たとい経論の証文がなくても、意義が同じものを集めて一つとする。しかも、『選択本願念仏集』の意趣は、法華・真言を集めて雑行の内に入れ、正行に対してこれを捨てるのである。これは一方的に経典の教えの根本を否定しているのではない。ただ、悟りを求める心のない末代の衆生を、そのままでは迷いに埋没している凡夫と判断し、そのような人々が易行の教えを選ぼうとする時、称名念仏がそのような人々に相応しいとし、そのために、易行の教えが他の経典に勝るとするのである。権実・浅深などの勝劣を論じているのではない。雑行といっても、否定的な意味で雑というのではない。雑という意味は、不純ということである。その上、あらゆる経論ならびに諸師の教えにも、この意趣がないわけではない。このために、比叡山の先徳である源信の『往生要集』の意趣は、まさにこれである。『往生要集』の序には、「顕教密教の教義は一つではない。事象と理法の業因も多い。智慧が高く精進する人にとっては、難しいことではないとしても、私のような能力の劣った者にとっては、耐えられないものである。このために、念仏の一門によるのである」とある。この序の意味は、慧心僧都源信のような先徳も、法華・真言を否定しているのではない。ただ偏に自分のような能力の劣った者にとっては、法華・真言は聞き難く行じ難いとして、自らの能力の劣っていることを理由としている。あえて、教えの根本を否定しているのではない。その上『往生要集』は、序より始まって本文に至るまで十門がある。大きく分けた門の中の第八の門には、「今、念仏を勧めることは、他のあらゆる妙なる行を退けることではない。ただ男女貴賤、行住坐臥を選ばず、場所やあらゆる条件を論ぜず、実践するにあたって難しくなく、さらに臨終の時に往生を願い求めることにおいて、この念仏よりふさわしいものはないのである」とある。これらの文を見るに、法然源空の『選択本願念仏集』と慧心僧都源信の『往生要集』とは、一巻と三巻の不同はあるといっても、釈迦一代聖教の中で、易行を選んで末代の愚人を救おうとする意趣は同じである。源空上人が真言・法華を難行と定めて悪道に堕ちるとしたら、慧心僧都の先徳もまたこの過ちを免れることはないが、どうであるか。

答える:あなたたちは、師の謗法の過ちを救うために、源信の『往生要集』に寄せて謗法の上にさらに重罪を招いている者たちである。なぜなら、釈迦如来五十年の説教を総合して、まず四十二年の教えの意趣について、『無量義経』に、「険しい道を行けば困難が多いために」と定めている。続いて『無量義経』では、『法華経』以後について、「大きい真っすぐな道を行けば困難はないために」と定めている。仏自らが、難易勝劣の二道を分けられている。したがって、仏以外の等覚(とうがく・仏の究極的な悟りの一段階前の位)以下、末代の凡師に至るまで、もし自らの教義をもって難易の二道を分け、この仏の教義に背く者がいるならば、それは外道・魔王の説に同じとなるであろう。したがって、四依の大士である竜樹菩薩は、『十住毘婆沙論』において、『法華経』以前の経典に対しては難易の二道を分けているが、あえて四十四年以後の経典に対しては、難行の義を立てていない。その上、もし実践しやすいということをもって易行と定めれば、『法華経』の五十展転(ごじってんでん・『法華経』を随喜することを他の人に伝え、その五十人目の人が随喜したとしても、その功徳は非常に大きいということ)という行為は、称名念仏より百千万億倍実践しやすい。もしまた、勝れているということで易行と定めるならば、「分別功徳品」に、『法華経』以前四十余年で説かれたところの布施・戒律・忍辱・精進・念仏三昧(注:本来ここには禅定が来るはずであるが、念仏と比較するために、意識的に禅定に通じる念仏三昧をここに持って来たと考えられる)などの五波羅蜜を、八十万億劫の間実践した功徳と、『法華経』を一念においても信じ理解した功徳を比較して、一念信解の功徳は、念仏三昧などの先の五波羅蜜に百千万億倍勝ると記されている。難易勝劣といい、行浅功深といい、『観無量寿経』などの念仏三昧を『法華経』に比較するならば、それは難行の中の極難行であり、勝劣の中の極劣である(注:この理由は単純であり、大乗経典は釈迦の言葉ではなく、紀元直後に興った大乗仏教の各グループが、それぞれの主張を釈迦の言葉として創作した結果である。それぞれの経典が最高であるとすることは、至極当然である)。

その上、悪人・愚人を助けるということもまた、教えの浅深によることである。たとえば、『阿含経』を説いた十二年間の戒門においては、その身に四重五逆を犯した者は、今生では悟りを得られないとした。一方、『華厳経』・「方等経」・『般若経』・『無量寿経』などの諸経典は、『阿含経』より教義が深いので、教え自体においては重罪の者も受け入れるが、なお戒律においては、七逆を犯した者が今生において受戒することは許されない。しかし、声聞と縁覚が決定している決定性の二乗や、仏性がない無性の闡提に対しては、教義においても戒律においても共に受け入れられない。これに対して、『法華経』・『涅槃経』は、五逆・七逆・謗法の者を受け入れるばかりではなく、また決定性・無性の者をも受け入れる。ましてや末法においては、悟りが得られないとされる常没の闡提は多い。どうして『観無量寿経』などの『法華経』以前の四十余年の諸経典において、このような者たちが導かれるのであろうか。無性の常没・決定性の二乗は、ただ『法華経』・『涅槃経』に限って導かれるのである。『法華経』以前の四十余年の経典に依る人師は、それらの経典が対象とする人々を導く。このような人は、未だに正しい教えの実体を知らないのである。