大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 06

守護国家論 現代語訳 06

 

問う:上にあげたところの曇鸞道綽・善導・慧心などの諸師は、みな法華・真言などの諸経に対しては、末代不相応だとの解釈をしている。これによって、源空ならびに、その教化を受けた弟子たちは、法華・真言を雑行として難行道と排除し、その行者を群賊・悪衆・悪見の人たちと罵り、あるいは祖父の履物を孫が履こうとしても履けないようなものだと聖光房(せいこうぼう・法然の弟子の弁長)は言い、あるいは、享楽の歌にも劣ると南無房(なむぼう・良忠)は言っている。これらの意趣をみれば、すべて時機不相応の教義があるということである。これらの人師の解釈をどのように理解したらいいだろうか。

答える:釈迦如来一代五十年の説教において、一仏の金言を権実二教に分け、権経を捨てて実経に入らせようとされる仏語は明らかである。しかし、「もしいきなり一仏乗を褒めれば衆生は苦に沈むであろう」との道理によって、しばらく四十二年の権経を説くといっても、「もしたった一人に対しても、小乗をもって教化するならば、私は慳貪に堕ちてしまう」という過ちを犯さないように、「大乗に入ることを本とする」の意義をもって、本意を遂げて『法華経』を説かれたのである。

しかし、その後の『涅槃経』を説くにあたって、「私が滅度すれば、必ず寄り頼むべき権実二教を流布させよう」と約束された。このために、竜樹菩薩は如来の滅後八百年に世に出て、『十住毘婆沙論』などの権論を著わして、『華厳経』・「方等経」・『般若経』などの意義を述べ、『大智度論』を著わして、『般若経』・『法華経』の差別を分け、天親菩薩は如来の滅後九百年に出世して『倶舎論』を著わして小乗の意義を述べ、『唯識論』を著わして方等教の意義を述べ、最後に『仏性論』を著わして、『法華経』・『涅槃経』の意義を述べ、了教・不了教を分けて、仏の遺言通りに行なった。末代の論師ならびに経典翻訳者の時に至って、一方的に権経に執着するために、実経を権経に入れ、権経と実経を混ぜてしまうという過ちを犯した。また、人師(注:ここまであげられた論師たちは、もちろん人ではあるが、菩薩とも呼ばれて人である師とは区別される)の時に至っては、それぞれ拠り所とする経典を本とするために、それ以外の経典をすべて権経とする。このように、次第に仏の意趣に背くようになった。

そして、浄土の三師においては、曇鸞道綽の二師は、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん・龍樹著。『華厳経』の一部である『十地経』の注釈書)』によって難行道・易行道、聖道門・浄土門の二道を立てた。もし本論の内容に相違して、法華・真言を難行道・易行道の内に入れるのであれば、それは信用すべきではない。しかし、『浄土論註(じょうどろんちゅう・世親の『浄土論』について曇鸞が注釈を加えたもの)』、ならびに『安楽集(あんらくしゅう・道綽著。『観無量寿経』を中心に安楽浄土への往生を勧めるもの)』を見ると、概略的には、それらは本論の意趣に相違していない。善導和尚はまた、「浄土三部経」によって阿弥陀仏の称名などの一行一願の往生を立てる際、梁・陳・隋・唐の四代の摂論師たちは、釈迦一代聖教について、仏となるのは遠い未来であるが、それを即時に仏となるように説かれたものだと定義しているため、それは善導和尚の信念に相違しているとした。こうして、摂論師を論破破する時、彼らを群賊などと喩えている。次の生で極楽に往生する功徳を否定するためである。そして、摂論師の行を雑行と呼び、あらゆる行をもって往生を遂げようとするものであるために、千人の中でも一人も往生できないのだと非難した。したがって、善導和尚も雑行の中には法華・真言を入れてはいないのである。

日本の源信僧都は、比叡山第十八代の座主慈慧大師の御弟子である。多くの書を著わしているが、みな『法華経』を広めようとしたためである。そして、『往生要集』を著わして、『法華経』以前の四十余年の諸経においては、往生・成仏の二義があるとした。成仏の難行に対して往生易行の教義を明らかにし、往生の業の中においては、菩提心を観念する念仏を最上とした。したがって、『往生要集』の第十の「問答料簡」の中で、第七の「諸行勝劣門」においては、念仏をもって最も勝れているとしている。そして次に、『法華経』以前において最も勝れている念仏と、『法華経』の一念信解の功徳を比較して、勝劣を判断する時、一念信解の功徳は念仏三昧より百千万倍勝れているとした。まさに知るべきである。『往生要集』の意趣は、『法華経』以前において最上の念仏を、『法華経』においては最も下の功徳に対して、人を『法華経』に入らせるためなのである。このために、『往生要集』の後に『一乗要決』を著わして、自身の内証を述べる時、『法華経』が本意であるとしている。

しかし、源空法然ならびにその教化された人々は、この意趣を知らないために、法華・真言を三師ならびに恵心僧都源信が非難した難行道や聖道門や雑行ならびに『往生要集』の序に記されている顕教や密経の中に入れて、三師ならびに源信を法華・真言の謗法の人としてしまっている。その上、日本の一切の道俗を教化し、法華・真言は時機不相応の教えだという主旨を習わし、在家出家の人々が法華・真言と結縁することを妨げている。これがどうして、仏が記されたところの「悪世中比丘邪智心諂曲」の人でないことがあろうか。また、「則断一切世間仏種」の過失を免れることができるだろうか。その上、山門・寺門・東寺・天台ならびに日本国中の法華・真言などを習う人々を、群賊・悪衆・悪見の人に喩える源空の重罪は、いずれの劫において、その苦果を尽くすことができようか。『法華経』の「法師品」に、持経者を罵る罪を説いて、「悪人が不善の心をもって一劫の間、仏の御前において常に仏を罵ったとしても、その罪はなお軽い。ある人が一つの悪言をもって、在家出家の者が『法華経』を読誦することを罵るならば、その罪は非常に重い」とある。一人の持経者を罵る罪すらこのようである。ましてや書物を著わし、日本の人々に『法華経』を罵らせる罪はどうであろうか。ましてやこの経に対して、千人いても悟る者は一人もいないと定め、『法華経』を行じている人に疑いを生じさる罪はどうであろうか。ましてやこの経を捨てて、『観無量寿経』などの権経に戻らせる謗法の罪はどうであろうか。願はくは一切の源空が教化した僧侶、尼僧、男女の在家信者たちは、すぐに『選択本願念仏集』の邪法を捨てて、早々に『法華経』に立ち返って、死後に堕ちる阿鼻地獄の炎を逃れよ。

問う:まさしく源空が『法華経』を誹謗する証文は何か。

答える:『法華経』第二巻には、「もし人が信ぜずに、この経を謗れば、それはすなわち一切世間の仏種を断じることである」とある。不信の姿は人に『法華経』を捨てさせるからである。このために、天親菩薩の『仏性論』第一巻に、この文を解釈して、「大乗を憎んで背くことは、一闡提の因である。衆生にこの法を捨てさせるからである」とある。謗法の姿はこの法を捨てさせるためである。『選択本願念仏集』は、人に『法華経』を捨てさせる書ではないか。その書に記されている「閣(さしお)き、抛(なげう)つ」の二字は、『仏性論』の「憎んで背く」の二字ではないか。

また『法華経』を謗る姿は、四十余年の諸経のように、小さな善であっても成仏に至るという教えを、単なる仏縁を結ぶことに過ぎないと定めることである。このために、天台大師の解釈において、「小さな善であっても成仏に至ることを信じなければ、それは世間の仏種を断じることである」と述べている。そして、妙楽大師は重ねてこの教義について、「この経は遍く六道の仏種を開く。もしこの経を謗れば、その義は仏種を断じることにあたる」と述べている。釈迦・多宝・十方の諸仏・天親・天台大師・妙楽大師の意趣の通りならば、源空は謗法の者である。結局、『選択本願念仏集』の意趣は、人に法華・真言を捨てさせようとするものである。これが謗法の教義であることは疑いない。