大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その23

法華経』現代語訳と解説 その23

 

妙法蓮華経法師品第十

 

その時に世尊は、薬王菩薩をはじめ、八万人の菩薩たちに次のように語られた(注1)。

「薬王よ。あなたはこの大衆の中の、多くの天、魔、人および僧侶、尼僧、男女の在家信者、そして、声聞を求める者、辟支仏を求める者、仏の道を求める者を見るか。この者たちで、仏の前において、『妙法蓮華経』の一偈一句を聞いて、一念においてだけでも喜ぶ者に対して、私はみな記を授ける。彼らはまさに阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう」。

仏は引き続き、薬王菩薩に次のように語られた。

如来の滅度の後に、ある人がいて、『妙法蓮華経』の一偈一句を聞いて、一念においても喜ぶ者には、私はまた阿耨多羅三藐三菩提を得るという記を授ける。

またある人がいて、『妙法蓮華経』の一偈を受持し、読誦し、解説し、書写し、この経巻に対して、仏を敬い見るように見て、さまざまに花や香、宝石、種々の香、飾られた傘や旗、衣服、伎楽を用いて供養し、合掌して礼拝したとする。

薬王よ。まさに知るべきである。そのような人たちは、すでに過去世において、十万億の仏を供養し、諸仏の所において、大願を成就していたのであり、この世には、衆生を憐れみ導くために、人間として生まれたのだ。

薬王よ。もし人から、『どのような人々が、未来世において仏となることができるのか』と聞かれたならば、次のように答えるがよい。

『もし良き男子や良き女人が、『法華経』の一句でも、受持・読誦・解説・書写し、その経巻に、さまざまな花や香、宝石、種々の香、飾られた傘や旗、衣服、伎楽を用いて供養し、合掌して礼拝したとするならば、そのような人々は、未来世において仏となることができるのだ』。

この人は、すべての世間の、まさに如来へ供養するように、供養されるべきなのである。まさに知るべきである。この人は実は前世では大菩薩であって、阿耨多羅三藐三菩提を成就したが、人々を憐れむために、願ってこの世に生まれ、広く『妙法蓮華経』を説いているのである。『妙法蓮華経』の一句でもこのようにする人がそうであるのならば、ましてや、この経のすべてをよく受持し、あらゆる供養をする人はなおさらである。

薬王よ。まさに知るべきである。この人は、自ら清らな報いを捨てて、私の滅度の後において、人々を憐れむために、この悪しき世に生まれて、広くこの経を述べ伝えているのである。

またもし、良き男子や良き女人が、私の滅度の後、わずかに一人にでも、この『法華経』の、それも一句でも説いたとする。まさに知るべきである。この人はすなわち如来の使いなのである。如来から遣わされ、如来のわざを行なっているのである。一人に一句でも説いた人がこのようであるなら、ましてや、大衆の中において、広く人々のために説く人はなおさらである。

また薬王よ。もし悪しき人がいて、不善の心をもって、一劫の間中、仏を目の前にして、仏を罵倒したとしたら、この罪はまだ軽い。なぜなら、もし人がいて、在家でも出家でも、『法華経』を読誦する人を非難したとしたら、この罪の方がよほど重いのである。

薬王よ。『法華経』を読誦する者がいたとするならば、まさに知るべきである。この人は、仏の荘厳をもって、自らを荘厳するのである。すなわち、如来の肩に負われるようなものである。そして、この人がいる方角に向かっては、まさに礼拝すべきである。一心に合掌して、丁重に供養し、敬い褒め称え、さまざまに花や香、宝石、種々の香、飾られた傘や旗、衣服、食べ物をささげ、多くの伎楽をなし、人間における最上のもてなしをして供養すべきである。

さらに、天の宝をもって、この人に注ぐべきである。天上の神々しい者たちは、まさにこのように捧げるべきである。それはなぜかと言うと、この人が喜んで教えを説くならば、それを一瞬でも聞けば、すぐに阿耨多羅三藐三菩提を極めることができるからである」。

その時、世尊は重ねてこの内容を述べようと、偈をもって次のように語られた。

「もし仏の道にあって 自然智(じねんち・注2)を成就しようとするならば 常に勤めて 『法華経』を受持する者を供養すべきである また速やかに一切種智を得ようとするならば この経を受持し保ち また同じくこの経を保つ者を供養すべきである ある人が『妙法蓮華経』を受持するならば まさに知るべきである その人は衆生を憐れむ仏の使者である 『妙法蓮華経』を受持する者は 清らな仏の国土を捨てて 衆生を憐れんでこの世に生まれたのである まさに知るべきである このような人は 生まれようとするところに自在に生まれることのできる者であり この悪しき世にあって 広くこの上ない教えを説くのである したがって 天の花や香 および天の宝の衣服 天上の妙なる宝をもって この説法者を供養すべきである 

私の滅度の後の悪世に よくこの経を保つ者を まさに世尊を供養するように 合掌し礼拝し尊敬するようにすべきである 上等のあらゆる甘美な食物 およびあらゆる衣服をもって この仏の子に供養して 少しでも教えを聞こうとすべきである もしよく後の世において この経を受持する者は 私が人々の中に遣わしたのであり 如来のわざを行なわせているのである もし一劫の間中 常に不善の心をもって さまざまなことをして仏を罵る者は 無量の重い罪を犯す者である しかしこの『法華経』を読誦し保つ者に 少しでも悪口を加えるならば その罪はそれ以上なのである また仏の道を求める者がいて 一劫の間中 合掌して私の前で無数の偈をもって褒め称えたとする この者は仏を褒め称えたために 無量の功徳を得るであろう しかしこの『法華経』を保つ者を褒め称えるならば その祝福はそれ以上である 八十億劫において 五感に最も良く響くものをもって この経を保つ者を供養せよ この供養をした後 少しでも教えを聞くことができるならば 自分は大きな利益を得たと大いに喜ぶべきである 

薬王よ 今あなたに告げる 私が説いたあらゆる経典の中で 『妙法蓮華経』が最も第一の経典である」

その時に仏は、また薬王菩薩摩訶薩に次のように語られた。

「私の語る経典は無量千万億であり、それらはすでに説かれ、今説かれ、これから説くであろう。しかしその中において、この『法華経』は最も信じることが難しく、理解することが難しい。

薬王よ。この経は諸仏の秘められた重要な教えである。みだりに広めて人に与えるべきではない。諸仏世尊が守護する教えである。昔より今まで、未だに明らかに説かれてはいない。しかもこの経は、如来が存在する現在ですら、なお非難されることが多いのであるから、如来の滅度の後はなおさらである。

薬王よ。まさに知るべきである、如来の滅度の後に、この経を書写し、読誦し、供養し、他の人に説く者は、如来はその衣をもってその者を覆うように守のである。また、他の方角の現在の諸仏に覚えられ、守られる。その者は大いなる信仰の力、および大いなる志と願いと、多くの善を生む力がある。

まさに知るべきである、この者は、如来と寝起きを共にするようなものである。そして、如来の手をもって、その頭をなでられるのである(注3)。

薬王よ。あらゆる場所で、この経を説き、読み、誦し、書写し、あるいは経巻が保存されるならば、みなまさにその場所には、あらゆる宝によって作られた、大きく高い塔を建てて、荘厳な装飾を極めるべきである。また、その塔に仏の舎利を収納する必要はない。なぜならば、この経の中には、すでに如来の全身があるからである。その塔を、まさにすべての花や香、宝石、飾られた覆いや旗、そして伎楽や歌をもって供養し敬い、尊重し賛美すべきである。もしある人がこの塔を見て礼拝し供養したとすれば、まさに知るべきである、そのような人はみな、阿耨多羅三藐三菩提に近づいたことになるのである。

薬王よ。多くの人が、在家であっても、出家者であっても、菩薩の道を行なっている場合、まだその者が、この『法華経』を見たことも聞いたことも、読誦したことも、書写したことも、供養したこともなければ、まさに知るべきである、その者は正しく菩薩の道を行なっているとは言えないのである。もしこの経典を聞くことができたならば、正しく菩薩の道を行なっていることになるのである。

衆生の中に、仏の道を求める者があり、この『法華経』を見たり、聞いたり、聞き終わって信じ理解し受持するならば、まさに知るべきである、この者は阿耨多羅三藐三菩提に近づいたことになる。

薬王よ。たとえばある人が、渇乏して水を求めていたとする。ある高原で井戸を掘ろうと土を掘り下げ始めた。その過程で、乾いた土が出続けるならば、まだまだ水は遠いことがわかる。さらに努めて続けるうち、次第に湿った土が出て来て、さらに泥に至るならば、間違いなく水は近いと知ることになる。菩薩の段階もこのようなものである。もしこの『法華経』を、まだ聞いたことがなく、まだ理解したことがなく、まだ修学したことがなければ、まさに知るべきである、この者は仏の阿耨多羅三藐三菩提から遠いのである。もし聞いて理解し、思考をめぐらし、修学することができたならば、間違いなく仏の阿耨多羅三藐三菩提に近づいたと知るべきである。なぜなら、すべての菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、この経の中にあるからである。この経は、方便の門を開いて、真実の姿を示すものである。この『法華経』の蔵は、深く固く幽遠であり、人が簡単に到達することはできない。今仏は、菩薩を教化して、悟りを成就させるために開き示すのである。

薬王よ。もし菩薩がいて、この『法華経』を聞いて、驚き疑い恐れたとする。まさに知るべきである、この者は、新たに悟りを求める心を起こした菩薩と名付けられる。しかし、菩薩ではない声聞の人がこの経を聞き、驚き疑い恐れたとする。まさに知るべきである、この者は思い上がった人間なのである。

薬王よ。もし良い男子、良い女子が、如来の滅度の後に、人々のためにこの『法華経』を説こうとするならば、どのようにしたらよいだろうか。この良い男子、良い女子は、如来の部屋に入り、如来の衣を着て、如来の座に座り、人々のためにこの経を説くべきである。如来の部屋とは、すべての衆生に対する大いなる慈悲の心である。如来の衣とは、柔和忍辱の心である。如来の座とは、すべては空であるということである。この中に安住し、怠惰な心を捨てて、多くの菩薩や人々のために、広くこの『法華経』を説くべきである。薬王よ。私はそのような者がいる国において、化人(けにん・注4)を遣して、その者のために教えを聞く人々を集め、また、化人である僧侶や尼僧、在家信者の男女を遣して、その説法を聴かせよう。それらの多くの化人たちは、その教えを聞いて信じ受け、従順であって逆らわないだろう。またその説法者が、誰もいない場所にいるならば、私は広く天や魔を遣して、その説法を聴かせよう。私が他国にいたとしても、度々、説法者に私の姿を現わそう。またこの経を説くにあたって、言葉を忘れたならば、私はその場所に行って語り、思い出させよう。」

その時に世尊は、重ねてこの内容を述べようと、偈をもって次のように語られた。

「あらゆる怠惰な心を捨てようとするならば まさにこの経を聞くべきである この経は聞くことが難しく 信じ受け入れることも難しいからだ 

たとえばある人が渇いて水を得ようとし 高原の土を掘り下げていったとする そして乾燥した土ばかりが出て来るならば まだ水は遠いと知る しばらくして湿った土や泥が出て来るならば 間違いなく水は近いと知るようなものである 

薬王よ あなたはまさに知るべきである 『法華経』を聞かない人々は 仏の智慧を遠く離れている 声聞の教えを更新する深い真理であり あらゆる経典の王であるこの経を聞き 聞き終って明らかに思考をめぐらせるならば まさに知るべきである このような者たちは 仏の智慧に近づいたのである もしこの経を説こうとするならば まさに如来の部屋に入り 如来の衣を着て さらに如来の座に座り 人々に対して恐れるところなく 広く彼らのために解説して説くべきである 大いなる慈悲をその部屋とし 柔和忍辱を衣とし すべては空であるということを座として 教えを説くべきである もしこの経を説こうとする時 人々が悪口し罵り 刀杖瓦石を加えるとしても 仏を念じてまさに忍ぶべきである 私は千万億の国土において 清く堅固なる身を現わし 無量億劫において 人々のために教えを説く 私の滅度の後 この経を説こうとする者には 私が化人の僧侶や尼僧 および信者たちを遣わして この経を説く者を供養させ 多くの人々を導いて集め その教えを聞かせよう もし悪しき人々が 刀杖および瓦石を加えようとするならば すぐにまた化人を遣わして この者の護衛としよう もしこの教えを説く者が 人の声さえ聞こえない寂しい場所に一人でいて この経を読誦するならば 私はその時 清らかな光明の身を現わそう もし経の言葉を忘れるならば そのために語り思い出させよう もしある人がいて このような徳を得て すべての人々のために説き あるいは誰もいない場所で経を読誦するならば どのような場合であっても 私の身を見ることができるだろう もしそのような人が 誰もいない場所にいるならば 私は天や魔を遣わして このための聴衆とする この人は喜んで教えを説き 何ら妨げなく解説するであろう 諸仏に覚えられ守られあるために 多くの人々を喜ばすことができるであろう もしこのような法師に親しく交われば 速やかに菩薩の道を得ることができ その師に従って学べば 大河の砂の数ほどの仏を見ることができるのである」

 

注1・『法華経』の成立史を考える時、最も注目されるのが、釈迦が誰と語っているか、ということである。ここまで見てきた中では、「方便品第二」から、前回の「授学無学人記品第九」までは、釈迦とその弟子たちとのやり取りであった。その中には、文殊菩薩とか弥勒菩薩というような、固有名詞を持つ菩薩たちは登場していない。しかし、一番初めの「序品」には、文殊菩薩弥勒菩薩も登場して会話をしていた。このようなことからも、最初に成立したのは、「序品第一」ではなく「方便品第二」であろうと、多くの研究者は結論付けている。すなわち、「方便品」から前回の「授学無学人記品」までがひとつのまとまりなのであり、『法華経』の中で最初に成立した箇所である。そして、「序品第一」は最初に成立したのではなく、後から付け加えられた部分である。

さらに今回の「法師品」も、歴史的釈迦の弟子たちは表舞台からは姿を消し、薬王菩薩が登場しており、これ以降も、釈迦とやり取りする人物は菩薩たちとなる。このように、明らかに今回の「法師品」から、今までとは異なった展開を見せているのである。

伝統的な分け方で見ると、「迹門」においては、「序品第一」は「序分」であり、「方便品第二」から「授学無学人記品第九」までは「正宗分(しょうしゅうぶん)」であり、「法師品第十」から「安楽行品第十四」までが「流通分(るつうぶん)」である。そしてそれ以降は「本門」となる。

なお、「法師品」の法師とは、僧侶とか修行者という意味ではなく、『法華経』を受け入れ、保ち、それを述べ伝える者を指している。

注2・「自然智」 人間の意志によらず、智慧自らがその者に生じる場合、その智慧を特にこう呼ぶ。

注3・「如来の手をもって、その頭をなでられる」とは、仏になるであろうという記を授ける意味とされる。そして、子供を褒める時、「頭をなでる」ということがされるが、それは『法華経』のこの個所に由来する。いわゆる、最高に褒めることを意味するのである。

注4・「化人」 仏が仮に現わした人。仮に現わした人や、さらに人ではない存在や回心した魔に説法しても、何の意味があるのだろうか、と誰でも思うであろう。しかし、聞く人がいなければ、説くこともできないのである。真理が真理としてこの世に現わされるために、説く人と聞く人が必要なのである。したがって、誰が説こうが、誰が聞こうが、問題ではないのである。