大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その43

法華経』現代語訳と解説 その43

 

宿王華菩薩よ。この経はすべての衆生を救うのである。この経はすべての衆生を、多くの苦悩から離れさせるのである。この経は大いにすべての衆生を導き、その願を満たすのである。それはまさに、清らかな池が、すべての渇いた者を満たすようであり、寒さを感じる者が、火を得たようであり、裸の者が衣を得たようであり、旅の商人が隊長を得たようであり、子が母を得たようであり、渡ろうとする者が船を得たようであり、病の者が医者を得たようであり、暗闇に燈火を得たようであり、貧しい者が宝を得たようであり、民が王を得たようであり、貿易商が海を得たようであり、灯が闇を除くように、この『法華経』もまたこのようである。衆生のすべての苦しみ、すべての病の痛みを離れさせ、すべての生死の縛りを解くのである。

もしある人がいて、この『法華経』を聞くことができ、自らも書き、人に書かせるとする。その功徳を、仏の智慧をもって測ろうとしても、そのすべてを知ることはできない。もし、この経巻を書いて、華香、瓔珞、焼香、抹香、塗香、飾られた旗や傘、衣服、あらゆる灯火、乳から作った灯火、油の灯火、あらゆる優れた香油の灯火などをもって供養したとするならば、その功徳はまた無量である。

宿王華菩薩よ。もし人がこの「薬王菩薩本事品」を聞いたならば、また無量無辺の功徳を得るであろう。もし女人がいて、この「薬王菩薩本事品」を聞いて受持するならば、その人が死んだ後、再び女人の身を受けることはないであろう。

そして、もしこの女人が、この「薬王菩薩本事品」章を最後の五十年に聞いて(注1)、説くところに従って修行するならば、その命終わって、安楽世界の阿弥陀仏(注2)の、大いなる菩薩たちがいるところに行き、蓮華の中の宝座の上に生まれるであろう。

また貪欲などには悩まされない。また怒りや愚癡に悩まされない。また慢心、嫉妬、あらゆる汚れに悩まされない。そして菩薩の神通力を得るであろう。この神通力を得て、眼は清らかとなり、その眼をもって、七百万二千億那由他の大河の砂の数の諸仏如来を見るであろう。そして、その時に諸仏は、共に褒めて次のように語られるであろう。

『良いことだ、良いことだ。良い男子よ。よく釈迦牟尼仏の教えの中において、この経を受持し、読誦し、思惟し、他人のために説いた。得るところの福徳は無量無辺である。火も焼くことができず、水も流すことができない。その功徳は、千の仏たちが共に説き続けたとしても尽きることがないであろう。

あなたはよく多くの魔賊や生死の軍隊を破り、その他の多くの怨敵をすべて滅ぼした。良き男子よ。百千の諸仏は神通力をもって、共にあなたを守護するであろう。すべての世の天や人の中において、あなたのような者はない。ただ如来を除いて、その他の多くの声聞、辟支仏、さらに菩薩の智慧や禅定も、あなたと等しい者はないであろう』。

宿王華菩薩よ。この菩薩である人は、このような功徳や智慧の力を成就した。もし人がいて、この「薬王菩薩本事品」を聞いて、喜んで『すばらしい』と賞賛するとしたら、その人は現世において、口の中より常に青蓮華(しょうれんげ)の香を出し、身の毛孔の中より、午頭栴檀(ごずせんだん・午頭とはインドの山脈の名であり、特に優れた香木である栴檀の産地とされていた)の香を出すであろう。得るところの功徳は以上説いた通りである。

このために宿王華菩薩よ。この「薬王菩薩本事品」をもってあなたに委ねる。最後の時であり最後の機会である最後の五十年の中(注3)で、この地に広く述べ伝えて、決して悪い菩薩の魔、魔民、諸天、龍や夜叉や鳩槃荼(くはんだ・夜叉と同様、鬼神の一種)たちに攻撃の機会を与えないようにせよ。

宿王華菩薩よ。あなたはまさに神通力をもって、この経を守護すべきである。なぜならば、この経はすなわち、この地の人の病の良薬であるからである。もし病人がいたとして、この経を聞くならば、病はすなわち消滅して不老不死となるであろう。

宿王華菩薩よ。あなたがもしこの経を受持する者を見るならば、まさに青蓮華と抹香を盛り満たし、その上に供養して注ぐべきである。注ぎ終わって、次のように思うべきである。

『この人は遠からず必ずまさに、草を取って道場に座り、多くの魔軍を破るであろう。教えの螺(ほらがい)を吹き、大いなる教えの鼓を打って、すべての衆生を、その老病死の海から救い出すであろう』。

このために、仏の道を求める者は、この経典を受け保つ人を見るならば、まさにこのような尊敬の心を起こすべきである」。

仏がこの「薬王菩薩本事品」を説きたもう時、八万四千の菩薩たちは、解一切衆生語言陀羅尼を得た。

多宝如来は宝塔の中において、宿王華菩薩を褒めて次のように語られた。

「良いことだ。良いことだ。宿王華菩薩よ。あなたは思いも及ばない功徳を成就して、よく釈迦牟尼仏にこのことを問い、無量の衆生に悟りへの糧を与えた(注4)」。

 

注1・「最後の五十年に聞いて」 この箇所の漢訳は、「若如来滅後。後五百歳中」である。しかし、この箇所のサンスクリット原文からの直訳は、「ある女性がこの章を最後の五十年に聴いて」となっている。ではなぜ、漢文ではこのようになっているのか、つまり鳩摩羅什はなぜ、この箇所をこのような漢文に翻訳したのであろうか。

それを考えるにあたって、まず「最後の五十年」とはどういう意味であろうか。それは明らかに、ここではこの女人の一生の期間を表わしているのである。昔は、人の一生の期間は、五十年ほどであると認識されていたことは、多くの人々が知っている通りである。さらに、この箇所では、直前の女人の話において、その女人は「再び女の身を受けることはないであろう」とある。このサンスクリット原文の言い回しは、「この世が女性としての最後の生涯となるであろう」となっている。まさに、この文は明らかに一生の期間を表現しているのである。つまり「最後の五十年の間」という言葉も、同じように、この女人における、女性としての最後の一生の期間と解釈すれば、この連続する文においてぴったり一致するのである。

そして、この「如来滅後。後五百歳中」という表現は、この「薬王菩薩本事品」の最後の部分にもう一度記されており、また、『法華経』の最後の「普賢菩薩勧発品」にも記されている。このことについては、またその箇所の解説で述べることにする。ここではあくまでも、鳩摩羅什が、この女人の一生の意味である「最後の五十年」ということを理解できず、他の『法華経』にある記述と同じ意味と理解して、このように訳したことを指摘するにとどめる。

注2・もうひとつこの箇所で注目される箇所は、阿弥陀仏の話が記されているという点である。一般的に、『法華経』の信仰と阿弥陀仏の信仰は対立するという観念がある。つまり、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」とは対立すると考えられているようだが、実際は、『法華経』の中に阿弥陀仏の信仰が登場しているのである。同じ『法華経』の「化城喩品」で、大通智勝如来の十六王子の話があり、そこでも、王子たちの中で釈迦如来阿弥陀如来は兄弟ということになっていた。このようなことは、ほとんど知られていないのではないだろうか。あるいは、積極的には広められてこなかったとしか言いようがない。

また、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」とは対立すると考えられる理由は、日蓮上人が、法然上人の『選択本願念仏集』を批判したことに由来するが、日蓮上人は、阿弥陀仏の信仰を頭から否定しているわけではなく、あくまでも法然上人の、阿弥陀仏の信心以外はすべて捨てる、という姿勢を批判しているのである。

注3・「最後の時であり最後の機会である最後の五十年の中」 ここでは、宿王華菩薩に委ねられた言葉として、この『法華経』をこの地に広く述べ伝えるべき期間を表している。

まずここでも、この箇所の本当の意味を見ていくことにする。この箇所のサンスクリット原本の直訳では、その少し前から見ると、「したがって、宿王華菩薩よ。この薬王菩薩本事品が最後の時であり最後の機会である最後の五十年の経過している間に、この娑婆世界に行なわれて消滅しないように、(中略)私はそれをあなたに委ねよう」となっている。この原本の「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」は、先の女人の生涯のことと同じく、この宿王華菩薩の生涯を表わしていると解釈すれば、すべて意味が通じる。つまり、宿王華菩薩は、もう二度と、この娑婆世界には生まれて来ないのである。したがって、宿王華菩薩にとっては、現在の娑婆世界にいる期間が、「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」と表現されるのである。言い換えれば、仏が宿王華菩薩に「薬王菩薩本事品」を委ねるということは、彼がこの娑婆世界にいる最後の機会の五十年間、この娑婆世界にそれが行なわれて消滅しないことが期待されているということなのである。このように解釈すれば、「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」という一見不思議な言葉も、その意味がよくわかる。

しかし、先にも述べたように、このようなことを読み取ることができなかった鳩摩羅什は、先の女人の箇所と同様に、この個所も、「最後の・・最後の」と連続することを誤解して、「我滅度後。後五百歳中」と訳してしまった。このように訳すべき個所は、実は、最後の章である「普賢菩薩勧発品」にある。このことについては、その箇所を注釈するところで述べる。

注4・この「薬王菩薩本事品」の最初の注に書いたように、前章である「嘱累品」の最後の盛り上がりに水を差すかのように、宿王華菩薩は薬王菩薩のことについて質問をした。しかし、この最後の多宝如来の言葉は、絶妙なホローを与えていることになる。つまり結局、この菩薩の質問によって、一度は、釈迦如来から本土に帰るように促された多宝如来はじめ多くの諸仏も、また娑婆世界の『法華経』の法座に引き留められ、釈迦如来もこれに続く各章を説かれるようになった、ということなのである。それならば、確かに宿王華菩薩は、思いも及ばない大きな功徳を成就したことになる。もちろん、最初からこのような記述があったわけではなく、『法華経』の編纂に当たって、辻褄を合わせるために記されたものと考えることが自然である。