『法華玄義』現代語訳 190
第三節 歴別を明らかにする
用の段階を分別するにあたって、1.迹門と、2.本門に分ける。
第一項 迹門の歴別
迹門の用の段階を分別するにあたって、十の項目を立てる。一つめは、a.破三顕一、二つめは、b.廃三顕一、三つめは、c.開三顕一、四つめは、d.会三顕一、五つめは、e.住一顕一、六つめは、f.住三顕一、七つめは、g.住非三非一顕一、八つめは、h.覆三顕一、九つめは、i.住三用一、十は、j.住一用三である。
この意義は十妙に共通している。それぞれの十妙の一つ一つの中に、みなこの十種の意義を備える。その意義はわかるであろう。
ここで、個別にこの十種について述べる。
a.破三顕一
正しく三乗に執着する心を破り、一つの智慧を顕わす。なぜなら、昔、最初から仏乗を讃嘆すれば、衆生は理解できずに苦しみに陥る。いきなり大乗を聞くことに耐えられないので、過去の仏の行じた方便の力を思えば、まさに三乗を説くべきであった。三乗を説き終われば、教えによって三乗に執着する心に封じ込められ、さらに良いものを願わない。この『法華経』で三乗の執着を破って、仏の智慧を顕わす。このために「諸仏の法においては、長い時間を経た後、必ずまさに真実を説くであろう」とある。
b.廃三顕一
正しく三乗の教えを廃する。その執着を破ったとしても、もし教えを廃さなければ、またその執着が生じてしまう。教えに執着して迷いを生じさせる。そのために教えを廃する。「正式に方便を捨てて、ただこの上ない道を説くのみである」とある。また「あらゆる方角の仏国土の中には、ただ一乗の法のみあって、二もなく三もない」とある通りである。
c.開三顕一
中心的には理法により、付随的には教えによって真理を明らかにする。教えについてとは、『法華経』以前の教えは、声聞と縁覚と菩薩の三人が空の真理に入ることを明らかにし、『法華経』では三人が仏となることを明らかにする。中心的に理法によるとは、ただ二乗の空の真理自ら実相であるということである。『法華経』以前の方便は深くないので、妙を見ることができない。『法華経』において、空を開けば、すなわちそのまま実相である。このために「声聞の教えの本来の姿は諸経の王である」とある。また「方便の門を開き、真実の相を示す」とある。『涅槃経』に「あらゆる声聞のために、智慧の眼を開発する」とある。
d.会三顕一
これはまさしく行による。『大品般若経』の「会宗品」に、「四念処、四禅などは、みな大乗である」とある。しかしこれはただ法を開いて融合するのみであり、まだ人が仏になることは融合していない。『法華経』では、人と法と行と共に融合させる。このために「あなたたちの行じるところは、菩薩の道である。次第に修学してすべて仏となる」とある。また「仏に対して少し頭を下げることと、手を挙げることによって、みな仏の道を成就する」とある。
e.住一顕一
これは仏の本来の意義による。仏はもともと、真実の智慧をもって人々を教化する。仏は平等に説いており、それは同じ雨が降るようなものである。「仏は自ら大乗に住む。その得る法は、禅定と智慧の力をもって荘厳されている。これをもって衆生を教化する」とある。また「もし小乗をもって教化すれば、私は物惜しみをしたことになり、それは不可能である」とある。このために知ることができる。仏が悟りを開いた夜から、仏は常に中道を説き、常に大乗を説く。しかし衆生は罪があるため、仏はいきなり真実の教えを説かず、見た目に貧しい衣を着て、子供に対するように方便を用いて、最終的に大乗に導く。このために「あらゆる道を説くといっても、それは一乗のためである」とある。
f.住三顕一
これは仏の権の智慧による。方便をもって教化する。「過去の仏の行じるところの方便の力を思って、私もまた同じようにした。すなわち鹿野苑に行って、方便の力をもって五人の比丘のために説いた」とある。過去の諸仏も、また三乗に立脚して一乗を顕わす。『法華経』の仏もまた同じである。このために「さらに異なる方便をもって、第一義を助け顕す」とある。また「昔、菩薩の前において、声聞を非難した。しかし、仏は実は大乗をもって解脱させ悟らせる」とある。
g.住非三非一顕一
あるいは理法について、あるいは事象についてである。理法についてとは、「この法は真理であり、世間の相は常住である」とある。また「この法は示すことはできない」とある。また「法は常に無性であると知る」とある。また「仏の種は衆生の縁より起る」とある。「無性」とは、すなわち三乗でもなく一乗でもないことである。「縁より起る」とは、すなわち三乗の衆生をもって一乗を顕わし、三乗でもなく一乗でもないことと融合させるのである。事象についてとは、すなわち人天乗である。この乗は三乗でもなくまた一乗でもない。常にこの乗をもって、導いて大乗に入らせる。「頭を低くすること、手を挙げることは、すべて仏の道を成就する」とある。また「もし私が衆生に会えば、すべて仏の道をもって教える」とある。
h.覆三顕一
これは巧みな権の多くある手段による。前の権は前に廃するとはいっても、ただその病を除くだけであり、その法は除かない。法を除かないために、後に衆生を教化することにおいても用いられる。もしこの法を除けば、どうして後に用いることができようか。衆生の病が止めば覆い、また病が起ればすぐに用いる。なぜただ仏だけがこのようにするだろうか。真理に入った菩薩もまた同じである。「もしこの法を信じない者がいれば、他の深い法の中において示し教え利益し喜ばせよ」とある。
i.住三用一
これは法身の妙応の眷属についてである。前の住三顕一は、師の門である。この住三用一は、弟子の門である。富楼那などのような弟子たちは、真実の姿は法身であるが、声聞として現われ、三乗に立脚して常に一乗を顕わすことを示して、同じく清浄の行の者たちに利益を与える。
j.住一用三
これは本来の誓願についてである。舎利弗が将来仏となる華光如来が立てた誓願に、三乗を説いても、その世は悪い世ではない、というようなものである。『法華経』の仏もまた、宝蔵仏のところにおいて、悪い世においてこの三乗を説くことを誓った。
ただ権実の大いなる用は、法界を包括するのである。どうして以上あげた十種だけだろうか。十妙の用を顕わすために、概略的に十種としたのである。破三顕一は智妙を用い、廃三顕一は説法妙を用い、開三顕一は境妙を用い、会三顕一は行妙を用い、住一顕一は三法妙を用い、住三顕一は感応妙を用い、住非三非一顕一は神通妙を用い、覆三顕一は位妙を用い、住三用一は眷属妙を用い、住一用三は利益妙を用いる。十種の用をもって十妙に相当させると文と意義が一致する。大意はわかるであろう。