大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 189

『法華玄義』現代語訳 189

 

第四章 論用

 

『法華玄義』の大きく分けた章のうちの第四章は、「論用(ろんゆう)」である。用(ゆう)とは如来の妙の能力であり、『法華経』の優れた働きのことである。如来は権と実の二つの智慧をもって妙の能力とし、『法華経』は疑いを断じて信心を生じさせることをもって優れた働きとする。ただ二つの智慧は疑いを断じて信心を生じさせる。疑いを断じて信心を生じさせるのは二つの智慧による。人について、また法について述べ、またこの両方について述べるのみである。前に宗を明らかにしたが、宗と体について分別し、宗と体が混同されないようにした。

ここで用について述べるにあたって、宗と用について分別し、宗と用を混同しないようにする。なぜならば、宗にもまた用があり、用にもまた宗があるからである。宗の用は用の用ではなく、用の用は宗の用ではない。用の宗は宗の宗ではなく、宗の宗は用の宗ではない。

宗の用について述べると、因果は宗である。因果がそれぞれ煩悩を断じ抑えることを用とする。用に宗があるとは、慈悲を用の宗とし、疑いを断じて信心を生じさせることを用の用とする。もし宗を述べれば、しばらく煩悩を断じ抑えることは置いて、ただ因果を論じるのみである。ここで用を明らかにすることは、ただ疑いを断じて信心を生じさせることを論じるのみであり、しばらく慈悲を置く。もしこの意義が理解できれば、すなわち権と実の二つの智慧がよく疑いを断じて信心を生じさせることを知ることができる。これは『法華経』の大いなる用である。この意義は明らかである。

用を述べるにあたって、五つの項目を立てる。一つめは、力用を明らかにし、二つめは、同異を明らかにし、三つめは、歴別を明らかにし、四つめは、四悉檀に対し、五つめは、四悉檀の同異である。

 

第一節 力用を明らかにする

法華経』以外のあらゆる経典は、仏の智慧をもっぱら明らかにすることはせず、仏の自らの応迹を説かない。そして正式に二乗の果を破り廃することをせず、生身の菩薩の目の前に対する疑いを断じて、深遠な次元に対する信心を起こさせることもない。本地を顕わして、法身の菩薩の本の仏を念じる道を増し、三界の外の生を減らすことをしない。

このように、他の経典にはない力用を『法華経』は備えている。したがって、「方便品」に声聞と縁覚の二乗や菩薩などの智慧を論じることなく、もっぱら仏の微妙の智慧を顕わす。衆生の九法界の知見を開かず、もっぱら衆生の仏の知見を開く。他の経典は、ただ仏の変化するところは迹だといって、仏の身は自ら迹だとはいわない。『法華経』は、自ら仏の身は迹であるという。その他の変化は、どうして迹でないことがあろうか。

法華経』は、正しく仮の城に喩えられる二乗の果を破り廃する。どうしてその因の行を破らないことがあろうか。また方便の教えを受ける菩薩や、迹に執着してそれを極みとすることを破る。『法華経』はそれらをみな廃して、すべて権迹だとする。および中間のあらゆる疑惑はすべて断じて、深遠不思議の信心を起こさせる。また、本地の真実の功徳を顕わして、法身の菩薩に大いなる利益を得させる。最初の阿の字から最後の荼の字に至るまでのように、すべての功徳を与える。あらゆる方角の数えきれないほどの土地をすりつぶして塵として、それをもって道を進める菩薩を数えても、数え尽くすことはできない。

如来は、権実の二智、一つの味の雨を降らすことによって、遍く平等にあらゆる方角に共に下ることは、すべての四門を共に破るためである。具足の道を求める者を満たし、その深い疑惑を断じ、その大いなる信心を起こさせ、一つの円因に入らせ、大乗の車を引いて、あらゆる方角に遊戯し、真っすぐに悟りの道場に至らせる。大いなる力用、妙能妙益はなお尽きることはない。

また次に、この力(りき)はよく二乗の果を破る。二乗は生死を恐れ、空に入って証を取り、安穏の思いを生じ、悟りを得たという思いを生じる。三無為(さんむい・生滅変化を超えた無為の三種。虚空無為(虚空そのもの)・択滅無為(悟りによって得る滅度)・非択滅無為(縁を欠いための不生))の穴に堕ち、有余涅槃や無余涅槃の苦がある。すでに死んだ種に生じる可能性のないようなものであり、智慧の医者も手をこまねき、薬も用をなさない。

『涅槃経』では一闡提を治すとあるが、これはまだ容易である。一闡提は心と智は滅んでいない。心ある者はまさに仏となる。滅びることが定まっていないので、治すことは難しいことではない。一方、二乗は身もなく智も滅んでいる。身を灰にすれば、その形体は常住ではない。智が滅んでいれば、心の働きはすでに尽きている。焼けた芽や死んだ種は、さらに高原や陸地にある。すでに耳が聞こえない人は眼が見えない人のようであり、長い期間、報いを受けることはない。あらゆる教主が捨てた者たちであり、あらゆる経典の薬も行なわれない。

法華経』の本仏の智慧は大きく、妙法の薬は良いものである。身の形体も灰にならずに浄瑠璃のようであり、三界の内外の形体はすべてこの中に現われる。心も智も滅びず、仏の知見に開示悟入せられ、客となった賤人に菩薩の家業をまかせ、高原や陸地に仏の蓮華を授ける。その耳は、一時にあらゆる世界の声を聞き、その舌はすべての存在に仏の音声を語り、すべてに聞かせるのである。よくひとつの器官をもって、遍くあらゆる用をする。すなわちこれが『法華経』の力用である。

すでに仏の智慧の力(りき)を説いた。今、さらに重ねて説く。漢の国が滅んで、魏と呉と蜀が興ったように、曹操の智略は、当時では第一だったが、楊修には劣っており、曹操は楊修が理解したことを、さらに三十五里進んだ後に理解できた。しかし、この真丹の人の智でさえ、外国の外道の智に及ばないことは、ごみと山を比べるようなものでる。そしてすべての世の人と外道の智は、舎利弗智慧の十六分の一にも及ばない。さらに二乗の智慧は蛍火虫のようであり、菩薩の智慧は日光のようである。通教の菩薩の智慧は普通の鳥が遠くまで飛んで行けないようなものであり、別教の菩薩の智慧は金翅鳥(こんじちょう)が須弥山から須弥山に飛ぶようなものである。その別教の菩薩の智慧も、仏の智慧があらゆる国土の土とすれば、爪の上の土のようなものである。まさに知るべきである。仏の智慧は、究極的に融合し、究極的に即し、究極的に急であり、究極的に真実である。不可思議であり、不縦不横であり、円満な妙に比べるものはない。喩えも尽くすことができない。他の経典は真理の次元に立ってもっぱら説くことはしないが、『法華経』はただもっぱらこれを説く。これは仏の実智の力(りき)が大きいからである。たとえば、十の子牛はひとつの龍に及ばず、十の龍は一人の力士に及ばない。そして十人の力士は五神通の人に及ばず、外道の五神通は一人の阿羅漢に及ばず、一人の阿羅漢は一人の目連に及ばず、目連は舎利弗に及ばず、舎利弗は菩薩に及ばす、菩薩は別教の菩薩に及ばず、別教の菩薩は円教の菩薩に及ばず、円教の菩薩は仏に及ばない。仏はただ大いなる方である。仏の変化身もまた変化し、その変化は尽きることはない。策略がなくて適切であることは、阿修羅の琴が奏でる者なく鳴るようなものである。すべての賢人や聖人も、それを測ることはできない。

仏の権力は、すでにこのようであるならば、他のあらゆる意義はわかるであろう。あえて記すことはしない。

 

第二節 同異を明らかにする

問う:実相の体、因果の宗はすでにあらゆる経典に共通するが、権実の二智はどうであるか。

答える:名称は共通して用いられるが、その力(りき)は大いに異なりがある。蔵教と通教は、二智をもって四住(しじゅう・四住地惑のこと。三界の見思惑を指す。第一は見一切住地で、三界のすべての見惑のこと。第二は欲愛住地で、欲界のすべての思惑のこと。第三は色愛住地で、色界のすべての思惑のこと。第四は有愛住地で、無色界のすべての思惑のこと)の疑いを断じ、偏った真理の信心を起こす。『維摩経』は二乗および偏った行の菩薩を批判するといっても、またこれは三界の中の断疑生信であり、小乗および方便の菩薩に対して、大いなる疑いを断じ大いなる信心を起こさせることはできない。『大品般若経』に貫かれている意義においては、またこれも三界内の断疑生信である。別教の意味としては、三界の外にあるといっても、また浅い疑いを断じるのみで、奥深い信心を起こさせることはできない。『華厳経』の正しい意義においては、三界の外の疑いを断じ、円満な信心を起こさせるが、また浅い疑いを断じるのみで、奥深い信心を起こさせることはできない。このために、権実の二智は、名称としては共通するといっても、力は大いに異なる。

法華経』は仏の菩提の権実の二智をもって、最初の七方便の最大の無明を断じ、同じく円満な因に入り、浅い迹に執着する情を破って、本地の深い信心を起こさせ、最後の等覚においても断疑生信させる。このような優れた用は、どうして他の経典と同じであろうか。