『法華玄義』現代語訳 188
第五節 因果を結成する
因果を結ぶことを述べるにあたって、二つの項目を立てる。一つめは因果を結び、二つめは四句をもって考察する。
第一項 因果を結ぶ
そもそも経典に因果を説くことは、正しく共通して三界の中の生身と、三界の外の法身の修行者をして、利益を与えようとするためである。もし開権顕実するならば、中心的に七方便(人、天、声聞、縁覚、蔵教の菩薩、通教の菩薩、円教の菩薩の七人のこと)の生身の者で、まだ道に入っていない者を入らせ、付随的に生身と法身の二身の者で、すでに入っている者をさらに進めさせる。もし仏の寿命が永遠であることを説けば、付随的に生身のまだ道に入っていない者を入らせ、中心的に生身と法身の二身の者で、すでに入っている者をさらに進めさせる。「如来神力品」に「如来のあらゆるすべての大変深い事象」とあるのは、非因非果が大変深い理法であり、因果が大変深い事象である。
七方便が最初に円教に入るところから、十住の位に至るまでを因と名付ける。そして等覚の位がある。もし等覚の位を転じれば、妙覚を得る。これを果と名付ける。二住から等覚に至るまでを中間と名付けて、亦因亦因因・亦果亦果果とする。無礙道をもって一つの無明を抑えることを因と名付け、解脱道をもって一つの無明を断じることを果と名付ける。この解脱について、また無礙道を修すために因因という。この無碍よりまた解脱を得るために果果という。
また次に、始めの十住を因とし、十行を果とする。十行を因とし、十廻向を果とする。十廻向を因とし、十地を果とする。十地を因とし、等覚を果とする。等覚を因とし、妙覚を果とする。妙覚はただ果であり、ただ解脱である。因と名付け無碍と名付けることはできない。初住はただ因であり、ただ無碍である。果と名付け解脱と名付けることはできない。なぜなら、初住に真理を見ることにおいて、真理をもって因とする。十信の相似即は、真の因ではない。
人に本来備わっている性を初因とするならば、指を弾き、花を注ぐことは、縁因の種であり、一句でも聞くことは了因の種であり、およそ心ある者は正因の種である。これは悟りからは遠い性に備わる三因の種子のことであり、これは真実の開発ではないので、因としない。
第二項 四句をもって考察する
問う:もし初住に理法に入ることを円因・円果とすれば、なぜ経文に「漸漸(ぜんぜん・次第に、という意味)に修学して仏道を成就することができる」といえるのか。
答える:まさに二種類の四句をもって考察すべきである。自ら漸円があり、自ら円漸があり、自ら漸漸があり、自ら円円がある。
漸円とは、これは理法の外の七方便であり、同じく仏の知見を開いて、初めて円理を見ることについてである。円理を見るとは、まさに理法の外の七方便が、漸次に円因に入ることによる。このために漸円という。
円漸とは、初めて円に入って、同じく三諦を観じ、実相の理法を見て、最初と最後と異なりがない。しかし、事象の中の修行は、すべて備わることはできない。またしばらく研修しなければならない。初めて円に入るために円とする。そこから進んで上の行をするために、漸と名付けるのである。
漸漸とは、二住から等覚に至る。これは円の範囲内の漸漸であり、理法の外の漸漸ではない。
円円とは、妙覚に至っても、また漸円と名付け、また円円と名付ける。円の理法は前より円となり、また事象も円となるために円円という。
また、円漸は初住のようであり、漸漸は二住から三十心に至り、漸円は初地からであり、円円はすなわち妙覚である。三十心に同じく賢聖の意義があるといっても、意義から称して賢とする。煩悩を抑えることが多く、断じることが少ないためである。十地から上は聖とする。煩悩を抑えることが少なく断じることが多いからである。また十住を賢聖と名付け、二十心は聖賢である。十地等覚は聖であり、妙覚は聖聖である。
ここで喩えを用いると、初月は月の輪郭は丸いが、光はまだ備わっていない。これは円漸のことである。二日から十四日に至るまでは、その明るさは漸次に進む。これを漸漸に喩える。十五日に至って漸円に喩え、また円円に喩える。月そのものに満ち欠けはないが、月について満ち欠けを論じるのである。理法に円も漸もないが、理法について円と漸を判別するのである。
『法華経』の宗は、利益が巨大である。最初の円漸より最後の円円に至るまで、大乗の因果は増長し具足する。
問う:すでに円漸とすれば、また円教・別教があるのか。そして、通教・蔵教にもまたそうであるのか。
答える:これについては『四教章(天台大師著『維摩経疏』から後に独立した『四教義』十二巻のこと)』の中にある。その意義は何か。三蔵教の三蔵は理解すべきである。三蔵教の別とは、四諦・十二因縁・六波羅蜜である。通とは真諦である。円とは無学が論じるのである。通教の通とは、同じく無生である。通教の三蔵とは、道諦の中の戒律・禅定・智慧である。通教の別とは、煩悩が尽きることと尽きないことである。他を教化することとしないこと、世間に出ることと出ないことである。通教の円とは、同じく真理を証することである。別教の別とは、蔵教・通教とも別であり、円教とも別ということである。別教の三蔵とは、無量の道諦の中の戒律・禅定・智慧である。別教の通とは、四門が共に中道に合うことである。別教の円とは、五住煩悩が尽きることである。円教の円とは、融合である。円教の別とは、四門が異なっていることである。円教の通とは、四門が互いに摂取することである。円教の三蔵とは、円の道諦、円の戒律・禅定・智慧である。
この意義はすでに共通するので、またまさに漸円・漸円の四句もわかるであろう。因果を結論付けることはみな成就するのである。そして後に、麁と妙を判別し、麁と妙を開くこともできるであろう。