大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 186

『法華玄義』現代語訳 186

 

第三章 明宗

 

『法華玄義』の大きく分けた章のうちの第三章は、「明宗」である。宗とは、修行の重要な意味、体を顕わす大切な道である。家が保たれるための梁や柱のようなものであり、網を結ぶ大綱のようなものである。大綱を引っ張れば網の目が動き、梁が安定していれば、垂木が保たれる。宗を解釈するにあたって、五つの項目を立てる。一つめは、1.宗と体を分別し、二つめは、2.正しく宗を明らかにし、三つめは、3.あらゆる経典の同異を明らかにし、四つめは、4.麁と妙を明らかにし、五つめは、5.因果を結成する。

 

第一節 宗と体を分別する

ある人が「宗はすなわち体であり、体はすなわち宗である」と言っている。しかしここではそれを受け入れない。なぜならば、宗の内容は因果である。因果は二つである。体は因でもなく果でもない。体はすなわち不二である。体がもし二つならば、体はすなわち体ではない。体がもし不二ならば、体は宗ではない。宗がもし不二ならば、宗は宗ではない。宗がもし二つならば、宗は体ではない。どうして体はすなわち宗であり、宗はすなわち体であるというのか。また柱や梁は家屋の支柱であり、それによって家屋の中の空間がある。梁や柱は家屋の空間ではなく、家屋の空間は梁や柱ではない。宗と体がもし一つならば、その誤りはこのようである。

また宗と体が異なれば、その二つは完全に別物となる。宗は体を顕わす宗ではなく、体は宗の体ではない。宗は体を顕わす宗でなければ、宗はすなわち邪悪な顛倒となる。体は宗の体でなければ、すなわち体は狭く広く行き渡らない。法性を離れて外に別の因果があるだろうか。宗と体がもし異なっているならば、その誤りはこのようである。

ここで言う。宗と体は異なっていないままで異なっている。非因非果であって、しかも因果がある。このために宗と体の区別がある。『大智度論』に「もし諸法の実相を離れれば、みな魔事と名付ける」とある。『観普賢菩薩行法経』に「大乗の因とは、諸法の実相である。大乗の果とは、また諸法の実相である」とある。すなわちこの意義である。まさに知るべきである。実相の体は共通するが、因果ではない。行のはじめに因を論じ、行の終わりに果を論じるのである。

しかしまた偏った教えと円満な教えの区別があることについては、たとえば、銅の体そのものは初めもなく終りもないが、銅像を鋳造する時、像の初めがあり、仕上げの磨きが終わることを像の終わりとするようなものである。これは円教の因果を喩えるのである。もし器や皿およびその制作に喩えれば、器や皿の始終は、偏った教えの因果を喩えるのである。七方便(五停心、別相念住、総相念住、煗法、頂法、忍法、世第一法)の心を発することを偏った因といい、有余涅槃と無余涅槃を証することを偏った果と名付ける。仏の知見を開くことを円教の因と名付け、妙覚を究竟することを円教の果と名付ける。もしこの喩えを知れば、不即不離であり、宗の意義は明らかとなる。たとえば、正因仏性(すべてのものに備わっている理法)は因でなく果ではないが、因であり果ではないことを仏性と名付け、果であり因ではないことを大涅槃と名付けるというようなものである。また仏性は現世の存在でもなく過去の存在でもないが、過去から存在するという。すべての衆生は、そのままで涅槃の相である。また滅びることはない。また「すべての衆生にはことごとく仏性あり」という。しかし現実には仏の三十二相さえない。未来にまさに金剛の身を得るであろう。このように現実にはないことをもって、本(過去のこと)という。その本ではないことを当(現在のこと)という。宗と体の意義も、またこれと同様である。

廬山慧遠師は、一乗をもって『法華経』の宗としている。いわゆる妙法である。経文を引用して「この乗は微妙にしてこれ以上はない」という。私的に言えば、三乗を破るための一乗ならば、麁の妙因に過ぎず、妙果を兼ねていないことになる。

廬山慧龍師は、「ただ果をもって宗とするのみである。妙法とは、如来の霊智の体である。あらゆる麁が尽きることを妙とし、その活動が衆生の規範となるものを法という。法はすでに真実の妙であるので、蓮華をもって喩える。果の智慧を宗とするためである」と言っている。私的に言えば、果は単独では立たない。どうしてその因を捨てるのか。経文に背く。

慧観の『法華宗要』の序文に「会三帰一は乗の始めである。智慧と悟りが円満になるのは乗の頂点である。迹の仏が消えて本の仏が現われるのは乗の終わりである」とある。鳩摩羅什はこれを称賛して「もし深く経蔵に入らなければ、このようなことは説けない」と言っている。

僧印師は「諸法の実相は一乗の妙境である。境智をもって宗とする。境に三つの偽りがないので、実相という」と言っている。今ここで言えば、いたずらに境を加えてしまって果を欠いている。これはただ膨れているだけで中身はない。

光宅寺法雲師は、一乗の因果を宗としている。『法華経』の前段を因として、後段を果としている。私的に言えば、迹門と本門それぞれに因果がある。もし互いにあって互いになければ、経文を害することになる。

ある人は、権・実の二つの智慧を宗とする。私的に言えば、権を用いれば、まさに三乗は経の宗と言うべきである。三乗は『法華経』によって退けられるところである。どうして捨てられるものを宗とするのか。

またある師は「これを妙法蓮華と名付ける。すなわち名をもって宗とする。妙法は仏の得るところであり、根本真実の法性である。この性は煩悩に異ならないと同時に煩悩と同じではないので妙という。すなわちこれを宗の名とする」と言っている。これは地論宗の用いるところである。第八阿黎耶識が果の極みであるところによっている。今、『摂大乗論』においてこれが破られ、これは生死の根本であるとする。

ある師は、「常住を宗とする。ただこれは真理を究めたものではない。これは真理を覆って常を明らかにしているのである」と言っている。私的に言えば、これはすべて『法華経』の真意ではない。常が真理の覆われているものならば、どうして宗として顕わすものがあるのであろうか。常は覆われているものではないが、『法華経』の宗ではない。

ある師は「この経は明瞭に常を明らかにするものである。涅槃経は詳しく述べ、法華経は概略的に述べられているのである」と言っている。私的に言えば、常を宗とするならば、常には因果がない。したがって、常もまた宗がないことになる。

ある人が「あらゆる善を宗とする。ただこの善をもってすべての人が仏になるように導くのである」と言っている。私的に言えば、もし仏になるようにさせるものならば、それは果である。どうして果を宗としないのだろうか。

ある人が「あらゆる善の中で、無漏をもって宗とする」と言っている。私的に言えば、これは極論である。また小乗の涅槃と混同されている。

ある人は「もしこれらのさまざまな説によって、それぞれ利益を受ければ、あらゆる解釈も間違いとは言えない。聞いても悟らなければ、あらゆる師もそれを正しいとはできない。一人の師の教えにおいては、その尊さはその悟りにある。したがって、悟りをもって宗とすべきである。大智度論に『もし固定的な相があるなら、それは生死の教え、魔王の相である。仏の法には固定的な相はない。このために如来は、道でないものを道と説き、道を道ではないと説く』とある。まさに知るべきである。ただ悟りにのみ従うべきである」と言っている。私的に言えば、もし悟りを宗とすれば、これは果証であり、行因をいうのではない。南を問われて北を差すようなものである。方向性が乱れている。また決定的に悟りを宗とすれば、これは固定をさらに固定するものである。どうして、固定的な相はないというのか。

このように、『法華経』の宗について述べる説は多い。すべてを挙げることはできない。

 

第二節 正しく宗を明らかにする

この『法華経』は、最初の「序品」より「安楽行品」までにおいて、方便を破り廃し、真実の仏の知見を開き顕らかにしている。また弟子の真実の因果を明らかにし、また教えの門の権因権果を明らかにする。経文の意義は広いといっても、その要点を取れば、弟子の真実の因を成就するためである。因が中心であり、果が付随である。このために、この前段において迹因迹果を明らかにするのである。「従地涌出品」から最後の「普賢菩薩勧発品」までにおいては、迹門から本門を顕わし、方便の短い寿命を廃して、永遠の寿命の真実の果を明らかにする。また弟子の真実の因果を明らかにし、またまた教えの門の権因権果を明らかにして、仏の真実の果を顕わす。果が中心であり、因が付随である。このために後段において、本因本果を明らかにする。

前の因果を合わせて、共に経の宗とする。意義はここにある。このために経を二つの文に分けて、本を論じて迹を論じる。そして並列的に教えを喩えて、蓮をあげ華をあげる。師弟の権・実は、すべてその間にある。