大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 140

『法華玄義』現代語訳 140

 

⑨.眷属妙

 

迹門の十妙の第九に、眷属妙(けんぞくみょう)について述べる。これについては五項目を立てる。来意(注:次第のこと)を明らかにし、眷属について明らかにし、麁妙を明らかにし、法門の眷属を明らかにし、観心について明らかにする。

 

a.来意を明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての一つめは、「来意を明らかにする」である。すなわち、ここで眷属妙を明らかにする理由についてである。そもそも説くことがなければ、それまでのことであるが、説くならば、必ずそれを聞く者がいる。その者は道を受ける人である。すでに道を受けるならば眷属となる。たとえば、父母の子供は、親から受け継いだものによって身が成り立っているが、子はそれを天性(てんしょう)とするようなものである。天性は自らの成り立ちの根源を慕うので、そのことを「眷」と名付け、その根源に対して従順することを「属」と名付ける。修行者も同じである。受戒の時、この戒法を説いて、その前にいる人に授ける。その前にいる人は聴聞して、その戒を実行することができる。それは師弟の関係から生じることである。禅定もまた同じである。心を安定させる法を授けられ、その教えの通りに修行して、禅定を行じることができる。そのように導く人が師であり、自分はその師の弟子であるということになる。また智慧も同じである。あらゆる法門を説いて、聴く人の心に入れ、法によって教えに対して心を開き親しみを覚える。その思いによって信じ、信じるために従順する。これを眷属と名付ける。

他の国土はみな能力の高い者たちなので、色・声・香・味・触・法の六塵(ろくじん)を通して教えを他に伝え、利益を得させる。この娑婆国土は耳根が特に秀でているので、ただ声塵を用いるのである。このために、釈迦は二万仏の時代を通してこの上ない道を教え、十六王子は『法華経』を述べ伝えた。その時代より常に眷属となり、世々代々、師と共に生まれる。それは人天の眷属であり、あるいは三乗の眷属であり、あるいは一乗の眷属である。

このために、『法華経』において舎利弗は「今日、私は真の仏の弟子であることを知った。仏の口から生じ、教えより化生(けしょう・生まれる母胎のようなものがなくても生じること)し、仏の教えを分け与えられた」と言っている。昔、釈迦は五人の比丘たちを教えて、真実の無漏を得させ、仏の弟子と名付け、菩薩の真実の無漏を発しない者を外人(げにん・自分たちとは関係のない人という意味)とした。しかし『法華経』において、大乗における理解を発した舎利弗は、「昔は真実の仏の弟子ではなかった」と言っている。そして今、一仏乗の教えが説かれたことを聞き、聞くことにより悟り理解し、真理の法身を生じさせることができた。「仏の口から生じる」とは、仏の口から説かれた教えを聞いて生じた智慧の中に法身が生じたことである。「教えより化生する」とは、心に悟って生じた智慧の中に法身が生じたことである。「仏の教えを分け与えられた」とは、修行によって生じた智慧の中に法身が生じたことである。この三つの智慧が成就することが、真実の仏の弟子の証である。すなわち、天性を定めて、眷属となることができるのである。このために、説法妙の次に眷属妙を明らかにするのである。

 

b.眷属について明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての二つめは、「眷属について明らかにする」である。ここでもまた五つの項目を立てる。一つめが、「理性(りしょう)の眷属を明らかにする」であり、二つめが、「業生(ごっしょう)の眷属を明らかにする」であり、三つめが、「願生(がんしょう)の眷属を明らかにする」であり、四つめが、「神通生(じんつうしょう)の眷属を明らかにする」であり、五つめが、「応生(おうしょう)の眷属を明らかにする」である。

◎理性の眷属を明らかにする

理性の眷属とは、衆生の如(にょ・真理は言葉に表現できないので、「如し」という言葉をもって真理の表現としている)と、仏の如は、一如(いちにょ)であって二如はない。理性において自然と眷属となることによって「これはわが子である」となる。このために『法華経』に「私もまたこのようであり(注:=是の如し)、衆生の中において尊い存在であり、世間の父である。すべての衆生はみなわが子である」とある。これは理性である。実際に師弟関係を結んでいても、結んでいなくても、それに関係なく、みな仏の子なのである。

◎業生の眷属を明らかにする

ただ衆生は理性においてはみな仏の子であっても、『法華経』の「如来寿量品」にあるように、誤って毒を飲んでしまうことによって、真実の心を失ってしまう者と失わない者がある。真実の心を失わない者は、父が帰って来た時、迎え出て救いを求め、薬が与えられればすぐに飲む。このために、大通智勝如来の時代において『法華経』が説かれた時、大乗の教えにおいて父と子として結縁(けちえん・関係を結ぶこと)できたのである。しかし、真実の心を失ってしまった者は、良い薬が与えられても飲まず、生死に流転して、他の国に逃げてしまう。そのため仏は方便を起こして、ある者には三蔵教と結縁し生滅(=生生)の教えを説き、ある者には通教と結縁し無生(=生不生)の教えを説き、ある者には別教と結縁し不生生の大河の砂の数ほどの教えを説き、ある者には円教と結縁し不生不生の唯一の実相の教えを説く。ある者は信じ、ある者は拒否し、それによって倒れ、それによって起きる。しかしどのような反応をしても、後には必ず悟りを得るようなものである。仏と結縁した後、二十五三昧をもって、二十五有のために三諦の教えを説いて、これを成熟させる。ある者はその間に悟りを開き、ある者はまだ悟りを開かない。しかし、悟りを開いた者も開かない者も、みな眷属である。

三蔵教の仏は、生死が繰り返される国において、出家して悟りを開く。昔に三蔵教と結縁した者たちは、悟りを得る者もいれば、得ない者もいる。悟りを得る者は、完全に無に帰して、再び生まれ変わることはなくなる。まだ悟りを開いてない者は、引き続き生まれ変わりを繰り返す。昔、深く信じ従順した者は、今の世では仏に親しい者となって道を受ける。昔、中途半端に信じ従順した者は、今の世では仏から遠い者となって道を受ける。昔、教えを誹謗した者は、今の世では敵として道を受ける。

甘露が降るように教えが臨めば、真っ先にそれを飲む者がいる。そのような者は早々に生まれ変わりを断じて、生死から出ることができる。大きな象が群れを守るように、解脱を証する。声聞と縁覚は、仏と関係ない家系の者であったとしても、教えにおいては親しい眷属である。もし道を得ることができなければ、仏と同じ親族であったとしても、親族外の眷属である。仏はその人において、何ら利益とならない。もし仏が滅度(=涅槃)すれば、その人はその仏の弟子として再び生まれることはない。そのような人は、その仏との関係が尽きれば、後の仏に委ねられるだけである。

◎願生の眷属を明らかにする

願生の眷属とは、前世で仏と結縁し、まだ苦を断じ尽くすことができなかったとしても、願ってその仏の眷属として生まれ変わる者である。たとえ、仏と敵対する者として生まれても、それによって道を受ける。悟りを得た者ならば、仏の教えの内にある眷属となり、悟りを得ることができなかった者ならば、仏の教えの外にいる眷属となる。もし仏が滅度すれば、その人はそれ以上の利益はなく、後の仏に委ねられるだけである。