大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その6

法華経』現代語訳と解説 その6

 

諸仏の最初からの誓願は 仏の修した仏道を 普く衆生にも また同じく得させようと願うものである 未来世の諸仏も 百千億 無数のあらゆる法門を説くであろうが それらは実は一乗なのである(注1) 両足を持つ人間の中で最も尊い諸仏は 常に変わることなく その教えの本性はなく 仏となる道は縁に従って表わされると知っている このために一乗を説かれるのである(注2) 一乗の法は常に不変であり 一乗の表われである世間において一乗は常に存在することを 道場において悟られた導師である仏は それを方便を通して説かれるであろう 天人の供養する現在の十方の仏 その数が大河の砂の数ほど多く 世間に出現されても 衆生を安らかな平穏に入らせるため みな同じくこの法を説かれる 最も優れた寂滅の境地を知られ 方便の力をもって 種々の道を示すといえども それらは実は一仏乗なのである 衆生の諸行 深い心の所念 過去から積んで来た業 悟りを求める志と精進の力 およびあらゆる能力の高低を知られ 種々の因縁 譬喩また言辞をもって まさに適宜に方便して説かれる 今の私も同じである 衆生を安らかな平穏に入らせるために 種々の法門をもって 仏道を述べ示す 私の智慧の力をもって 衆生の志を知って 方便して諸法を説いて みな歓喜するようにさせる 

舎利弗よまさに知るべきである 私が仏の眼をもって観じて 六道の衆生を見ると 貧窮にして福徳を具えた智慧はない 生死の険道に入って 苦しみが続いて断えることはない 深く五欲に執着することは ヤクが自分の尾を愛するようである 貪愛をもって自ら蔽い 盲目であって見ることができない 大勢の仏 および苦しみを断じる法を求めず 深くあらゆる邪見に陥って 苦をもって苦を捨てようとしている このような衆生のために 大いなる慈悲の心を起こしたのだ 

私が最初道場に座し 樹を観じまた経行(きょうぎょう)して 二十一日の間 次のように思った 私が得た智慧は 微妙であり最も第一である 衆生は能力が劣っていて 安楽に執着し愚痴によって盲目である このような人々を どうして悟りに導くことができようか その時に多くの梵天王 および多くの帝釈天 世を護る四天王 および大自在天 ならびに他の多くの天が 百千万の眷属と共に 敬い合掌して礼拝し 私に教えを説くように求めた 私は次のように思った もしただ一仏乗を褒め称えれば 衆生は理解できずに苦に沈んた状態のままであり この法を信じることはできないであろう むしろ法を背いて信じないということによって 三悪道に堕ちるであろう むしろ私は法を説かず 速やかに涅槃に入るべきであろう 続いて過去の仏が 行なったところの方便の力を思えば 今私が得た道も また三乗として説くべきであろう このように思った時 十方の仏がみな現われて 優れた声をもって私を慰めた 善いことだ釈迦仏よ 第一の導師であり この無上の法を得られたけれども あらゆるすべての仏に従って 方便の力を用いられる 私たちもまたみな 最も妙なる第一の法を得たけれども 多くの衆生のために 分別して三乗として説くのだ 智慧の少ない者は小さな法を願って 自ら仏になるとは信じない このために方便をもって 分別してあらゆる悟りの果を説く また三乗を説くといえども ただ菩薩を教えるためである 舎利弗よまさに知るべきである  深く清く微妙の声を聞いて 私は喜んで南無仏と称えた また次のように思った 私は汚れた世に出た 諸仏の説いたように 私もまた従って行じようと このことを思惟し終わって すぐに鹿野苑(ろくやおん)に行った 諸法寂滅の相は 言葉をもって述べることはできない 方便の力をもって 五人の修行者のために説いた これを転法輪(てんぽうりん)という すなわち涅槃の教え および阿羅漢 法と僧などのあらゆる名称がある 久遠劫の昔より今まで 涅槃の法を称賛して示し 生死の苦しみは悟りに達して尽きると 私は常にこのように説いた 

舎利弗よまさに知るべきである 私の弟子たちを見ると 仏道を志求する者たちが 無量千万億いる すべて敬う心をもって みな仏の所に来ている かつて諸仏に従って 方便による教えを聞いた 私は次のように思った 如来が世に出た理由は 仏の智慧を説くためである 今まさにこの時である 舎利弗よまさに知るべきである 能力が劣っていて智慧が少ない人 この世の相に執着して高慢な者は この法を信ずることはできない 今私は喜んで畏れはない 多くの菩薩の中において まさに正しく方便を捨てて ただ究極の悟りを説こう 菩薩はこの教えを聞いて 疑惑はみなすでに除かれた 千二百の阿羅漢たちも みなすべてまさに仏になるであろう 過去現在未来の三世の諸仏の 説法の方法の通り 私も今また同様に 無分別の法を説こう 諸仏が世に出られることは 非常に稀であり会うことは難しい たとい仏が世に出たとしても この法を説くことはまた稀である 無量無数劫においても この法を聞くことはまた難しい よくこの法を聞く者は またまた稀である たとえば優曇華は すべての人々が愛し見ることを願い 天人の求めるものであるが 定まった時に一度だけ開花するようなものである この法を聞いて歓喜し褒め称え たとい一言でも発するならば これはすでに すべての三世の仏を供養することになる このような人が非常に稀であることは 優曇華以上である 

あなたたちは疑ってはならない 私は諸法の王である 普くあらゆる大衆に告げる ただ一乗の道をもって 多くの菩薩を教化して そこに声聞の弟子はいない 舎利弗をはじめ 声聞および菩薩たちは まさに知るべきである この妙法は 諸仏の秘要である 五濁の悪世には ただ欲を願って執着する者たちが多い このような衆生は ついに仏道を求めず まさに未来世の悪人は 仏が説く一乗を聞いても 迷い混乱して信じて受けようとはしない 法を破って悪道に堕ちるであろう 清浄な目をもって自らを省みて 仏道を志求する者があれば 私はまさにそのような者たちのために 広く一乗の道を褒め称える 舎利弗よまさに知るべきである 諸仏の法はこのように 万億の方便をもって 適宜に説かれるのだ このことを習い学ばない者は 明らかに理解することはできない あなたたちはすでに 世の師である諸仏が 適宜に方便を用いることを知った また一切の疑いを持たず 心に大いなる歓喜を生じさせ 自らまさに仏になると知れ(注:3)

 

妙法蓮華経巻第一を終わる

 

〇注1「それらは実は一乗なのである」という箇所は、サンスクリット原本の直訳では「(未来世における仏は)この一乗を約束して、実に如来の立場で教えを説くであろう」となっている。「一乗のため」と漢訳されてしまうと、では、その一乗とは何かという疑問が、やはり起こってしまうのである。ここまで注でも述べてきたように、一仏乗そのものは、絶対的次元のものなので、それを直接言葉で表現できず、仏であっても教えとして表現できず、ただそれは方便として表わされるのみである。そして、その方便の教えが、結局、すべての人々が仏になるという一仏乗に直接つながる、ということなのである。したがって、サンスクリットからの訳にあるようにせめて「一乗を約束して」という言葉の方が、より真実に近い。すべての方便は、そのまま一乗が約束されている、つまり、一乗そのものであり、一乗の表現であり、やがて気の遠くなるほどの未来世に、その方便の道は、そのまま絶対的次元において成就して、その方便を修してきた者は仏となるのだ、ということであり、それが一乗ということである。そのため、この現代語訳では、「それらも実に一乗なのである」とした。

〇注2・「その教えの本性はなく 仏となる道は縁に従って表わされると知っている このために一乗を説かれるのである」。絶対的次元の仏となる道については、本来、その道そのものもないわけであるから無性である。そして、相対的世界であるこの世においては、その無性の道は、相対的な因縁の法則に従って、人々に知られる相対的な形として表わされる。もちろん諸仏はそのことを知ったうえで、一乗を説く、つまり、相対的な方便として説く、ということなのである。これこそ、一仏乗がそのまま方便であり、方便がそのまま一仏乗である理由である。

注3・このように、自分は声聞であり、その悟りは阿羅漢果(あらかんか・声聞における最高の悟りの位)止まりであり、自分は仏にはなれない、と思っていた舎利弗も、実は仏になれるのだ、という教えを聞いた。さらに今まで修してきた声聞の修行も教えも否定されず、そのままで仏になる道に入れられると知った。これは非常な喜びである。これに続いて、次の章では、その舎利弗の喜びとその理解について記されることになる。