大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その5

法華経』現代語訳と解説 その5

 

その時、世尊は重ねてこの義を述べようと、偈をもって語られた。

僧侶と尼僧の中で 増上慢を抱く者 男子の在家信者の高慢な者 女子の在家信者の不信心な者 このような四衆ら その数五千人 自らその咎を省みることなく 学ぶべきところに欠点があって その傷を守り惜しむ そのような愚か者はすでに出て行った 彼らは会衆の中の粕(かす)である 仏の威徳の故に去って行った その人は福徳少なくして この法を受けるに堪えない 今の会衆には枝葉はない ただ多くの真実の者たちがいる 

よく聞け舎利弗よ 諸仏所得の法は 無量の方便の力をもって 衆生のために説きたもう 衆生の心の所念 種々の所行の道 多くの欲望の本性 前世の善悪の業 仏はすべてこれを知り尽くして あらゆる因縁や譬喩 言辞などの方便の力をもって すべての衆生歓喜させる 修多羅(しゅたら) あるいは伽陀(かだ)および本事(ほんじ) 本生(ほんしょう)未曾有(みぞう)を説き また因縁 譬喩ならびに祇夜(ぎや) 優婆提舎経(うばだいしゃきょう・注1)を説かれる 能力が劣っていて程度の低い教えを願い 生死に貪著し あらゆる無量の仏のもとで 深く妙なる道を行じることなく 多くの苦しみに悩み乱される このような人々のために涅槃を説く 私はこのような方便を設けて 仏の智慧に入らせる 私は今まであなたたちは 仏道を成就するとは説かなかった(注2) 今まで説かなかった理由は 説くべき時がまだ至っていなかったからである 今はまさしくその時である 決定的な教えとして大乗を説く 私の九部の法(注3)は 衆生の能力に従って説く 大乗に入るにあたって本となるために これらの経を説く 仏の弟子の中には心清く 柔軟でありまた能力が高く 過去世に無量の諸仏の所において 深く妙なる道を行じた者たちがいる この多くの仏の弟子のために この大乗経を説く 私はこのような人が 未来世に仏道を成就するという記を授ける 深く心に仏を念じ 清らかで仏の教えを保つために 彼らは仏となることができると聞いて 大いなる喜びが身に満ちる 仏は彼らの心の動きを知っている このために大乗を説く 声聞あるいは菩薩が 私の説くところを一偈でも聞けば みな仏となること疑いなし 十方の仏国土の中には ただ一乗の法のみある 二乗なくまた三乗はない 仏の方便の教えは除く ただ仮の言葉をもって 衆生を引導される 仏の智慧を説こうとするためである 諸仏が世に出現したのは ただこの真実の一事のためである 他の二つは真実ではない 最終的には小乗をもって 衆生を済度することはない 仏はその得た法に自ら安住し 禅定と智慧の力が荘厳である これをもって衆生をも安住させるのだ 自ら究極の悟りである 大乗平等の法を証する もし小乗をもって教化することが一人でもあれば 私はただちに自らを偽り者とするであろう このことはあり得ない もし人が仏を信じ帰依するなら 如来はその人を欺くことはなく また貪欲や嫉妬の心も起こさない なぜなら諸法の中の悪を断じ尽くしているからである このために仏は十方において 一人畏れるところはない 私は仏の相をもって身を飾り その光明は世間を照らす 無量の衆生に尊ばれ 彼らのために実相の印を説く 舎利弗よまさに知るべきである 私は遠い昔に誓願を立て すべての衆生を 私と等しくして異なったところがないようにすることを願った 私の昔の願ったことの通り 今すでに完全に満たされた すべての衆生を教化して みな仏道に入らせる 私が衆生に対するなら 必ず仏道を教える 

しかし無智の者は錯乱し 迷って困惑し教えを受けない そのため私は次のように知った この人々は過去世において善本を行なわず 堅く五欲(ごよく・注4)に執着して 愚かな愛着のために悩みを生じさせる あらゆる欲の因縁をもって 三悪道(さんなくどう・注5)に堕ち 六道の中に輪廻して すべてのあらゆる苦しみの毒を受ける 薄徳少福の人として生死を繰り返し あらゆる苦しみに逼迫する 邪見の林にさ迷い 有だと無だとかいう見解に陥り そのあらゆる見解に寄り頼んで 六十二種の邪悪な思想(注6)を具足する 深く虚妄の法に執着して 堅く受けて捨てることはない 高慢であり自らを高くし 心がねじ曲がって不実である 千万億劫において 仏の名字さえ聞かない また正法を聞かない そのような人は悟りに導き難い 

したがって舎利弗よ 私は方便を設けて あらゆる苦しみの尽きる道を説き 涅槃を示す 私が涅槃を説くといえども それは真実の滅ではない 諸法は最初からもともと 自然と常に寂滅である 仏の弟子は道を行じ終えて 未来世に仏となることができるであろう 私には方便の力があって 三乗の法を開示する すべてのあらゆる世尊も みな一乗の道を説かれる 今こそ多くの会衆の人々は みな疑惑を除くべきである 諸仏の言葉は異なることはない ただ一乗があって二乗はない 過去無数劫の 無量の滅度の仏は 百千万億おられ その数は測ることはできない このようなあらゆる世尊も 種々の因縁譬喩 無数の方便の力をもって 諸法の相を説かれた このあらゆる世尊たちも みな一乗の法を説き 無量の衆生を教化して 仏道に入らせるのだ(注7) また多くの大聖主である仏は すべての世間の 天や人などの衆生の 深い心の願うところを知り 異なった方便をもって 第一義を衆生が理解できる形で表わしたのである(注8) 

もしある衆生がいて 過去世に多くの仏に仕え 法を聞き布施し あるいは持戒忍辱 精進禅智などの波羅蜜を行ない 種々に福徳を修めたとする このような人々は みなすでに仏道を成就しているのだ(注9) それぞれの仏が滅度した後 もしその仏が残した教えに従う人がいるならば このような人々は みなすでに仏道を成就しているのだ それぞれの仏が滅度した後 その遺骨である舎利を供養する者がいて 万億種の塔を立てて 金銀および頗黎(はり) 硨磲(しゃこ)と碼碯(めのう) 玫瑰(まいかい)と瑠璃(るり)と珠とをもって 清らかに細かに厳かに飾り 多くの塔を組み合わせ あるいは石廟を建て 栴檀および沈水(じんすい) 木樒(もくみつ)ならびに瓦や泥土などの他の材料で作り またあるいは広野の中に 土を積んで仏廟とし またあるいは子供の戯れに 砂を集めて仏塔を作る このような人々は みなすでに仏道を成就しているのだ もしある人がいて仏のために あらゆる形の像を建立し 彫刻してあらゆる形を作ったとするならば このような人々はみなすでに仏道を成就しているのだ あるいは七宝(しちほう・注10)をもって 鍮鉐(ちゅうじゃく)赤白銅(しゃくびゃくどう) 白鑞(びゃくろう)および鉛(なまり)錫(すず) 鉄木および泥 あるいは膠(にかわ)と漆(うるし)をもって 厳かに飾って仏像を作る このような人々は みなすでに仏道を成就しているのだ 色とりどりの仏像の絵を 百福荘厳の姿として描くことにおいて 自ら描きあるいは他の人に描かせる人々は みなすでに仏道を成就しているのだ あるいは子供の戯れに 草木および筆 あるいは指の爪先をもって 仏像を描いたとする このような人々は 次第に功徳を積み 大いなる慈悲心を具足して みな仏道を成就し あらゆる菩薩と変化し 無量の衆生を悟りに導くであろう ある人が塔廟 宝像および画像に対して 華香旛蓋をもって 敬う心で供養し あるいは音楽を奏でさせ 鼓を打ち角貝を吹き 簫(しょう)笛(ちゃく)琴(こと)箜篌(くご) 琵琶(びわ)鐃(にょう)銅鈸(どうばつ) このような多くの妙なる音 すべてをもって供養し あるいは歓喜の心をもって 歌唄(かばい)して仏徳を讃え あるいは一つの小さな音をもってそれをしたとしても みなすでに仏道を成就しているのだ もしある人が散乱の心のままに あるいは一華をもって 仏の画像に供養するならば 次第に無数の仏に会うことになり あるいはある人が礼拝することにおいて ただ合掌し または片手を上げ または少し頭を垂れて 仏の像に供養するならば 次第に無量の仏に会うことになり 自ら究極の悟りを成就して 広く無数の衆生を悟りに導き 薪(たきぎ)が尽きて火が消えるように 無余涅槃に入る もしある人が散乱の心のまま 塔廟の中に入って 一たび南無仏と称えても みなすでに仏道を成就しているのだ また現在あるいは滅後において 多くの過去の仏の その教えを聞くことがあれば みなすでに仏道を成就しているのだ その数が測り知ることができないほどの 未来の多くの世尊 その多くの如来たちも また方便をもって教えを説かれるであろう すべての多くの如来 無量の方便をもって 多くの衆生を悟りに導き 仏の無漏智(むろち)に入れるであろう もしその教えを聞くことがある者は 一人として成仏しないということはないであろう 

 

〇注1・すべての経典を十二種に分類したものを「十二部経」というが、この箇所では、そのうちの九種が記されている。そして、この九種を「九分教」ともいう。

①修多羅・長行(ちょうぎょう)ともいう。説法を散文で記したもの。

②伽陀・偈陀(げだ)または孤起(こき)ともいう。最初から独立した韻文で説かれたもの。

③本事・伊帝目多伽(いたいもくたか)ともいう。聴衆の中のある者の過去世について述べたもの。

④本生・闍陀伽(じゃだか)ともいう。仏の過去世について述べたもの。

⑤未曾有・阿浮陀達摩(あぶだだつま)ともいう。仏の不思議なわざや功徳を讃嘆したもの。

⑥因縁・尼陀那(にだな)ともいう。経典や戒律の由来を述べたもの。

⑦譬喩・阿波陀那(あわだな)ともいう。教説を譬喩で述べたもの。

⑧祇夜・重頌(じゅうじゅ)ともいう。散文で説かれた説法と同じ内容を韻文で重ねて説いたもの。まさに『法華経』のほとんどはこの形式を取っている。

⑨優婆提舎経・論義ともいう。教説を解説したもの。

ちなみに、以下の三つはこの個所には記されていないものである。

⑩授記(じゅき)・和伽羅那(わからな)ともいう。聴衆の中のある者が、将来の世で仏となるという予言。

⑪無問自説(むもんじせつ)・優陀那(うだな)ともいう。問われないにもかかわらず自ら語ること。

⑫方広(ほうこう)・毘仏略(びぶつりゃく)ともいう。時間と空間を超越した次元の広大深遠な真理を説き明かしたもの。

⑩の授記はこれから、独立した章としてまで記されている、『法華経』の重要な箇所である。⑪の無問自説は、たとえばすでに、「方便品」の冒頭にあった。⑫の方広は、まさに『法華経』全体がそれではないかと思うほど、『法華経』の内容は広大深遠である。

注2・「仏道を成就するとは説かなかった」 サンスクリットから直接日本語への訳(これ以降、サンスクリットからの訳と表記する)では、「今生では」という言葉がある。つまり、未来世に仏になるということは説かなかった、という意味である。

注3・「九部の法」 注1で述べた九分教のこと。

注4・「五欲」 人の感覚器官の対象である色(しき・色形)、声(しょう・音声)、香(こう)、味(み)、触(しょく・触れるもの全般)、法(ほう・心象全般)に欲望を起こすこと。

注5・「三悪道」 輪廻する六道の中の地獄道、餓鬼道、畜生道のこと。

注6・「六十二種の邪悪な思想」 六十二見(ろくじゅうにけん)といい、釈迦当時の外道の誤った思想をいう。

注7・「ただ一乗があって二乗はない。過去無数劫の無量の滅度の仏は、百千万億おられ、その数は測ることはできない。このようなあらゆる世尊も、種々の因縁、譬喩、無数の方便の力をもって、諸法の相を説かれた。このあらゆる世尊たちも、みな一乗の法を説き、無量の衆生を教化して、仏道に入らせるのだ」とあり、また同じような内容の言葉は、各箇所に見られる。しかし、この文を読むと、釈迦仏を含め、多くの諸仏は、方便の力をもって教えを説かれたのか、あるいは、一乗の法を説いたのか、どちらなのだ、という疑問がわく。『法華経』全体を見ても、今まで説かれた因縁、譬喩などの方便の教えはここまでにして、いよいよ一乗の法を説くのだ、という箇所は皆無である。一乗とは、一仏乗のことであり、すべての人は仏になる、という教えであることは良くわかるが、ただそれだけが一乗の法ならば、「一乗の法」と表現されるのはふさわしくない。もっと簡単な言葉でいいはずである。

これは、以前も解説して述べたように、一乗の法とは、絶対的次元の言葉に表現できない真理という意味である。それはすべてを包含している。この世の相対的な言葉によって表わされた教えは、すべて、この一乗の表現なのであり、それは表面的には因縁、譬喩などの教えに見えるが、それらが究極的な教えなのではなく、それらを通して、最終的には多くの転生を経て、究極の悟りへ導かれる、ということである。したがって、相対的なこの世においては、方便=一仏乗ということになり、それ以外の一仏乗の表現はない。方便の教えはそのまま真理として受け入れ、あくまでも阿耨多羅三藐三菩提つまり究極的な悟りを求める心をもって、気の遠くなるほどの仏国土の転生を続けるならば、必ず仏道を成就して、仏になることができる、ということが、『法華経』の教えなのであり、それが一仏乗である。言い換えれば、一仏乗は今生ばかりではなく、気の遠くなるほどの未来世のすべてを通して成就していくべき仏への道なのである。

注8・「第一義を衆生が理解できる形で表わしたのである」 この箇所の漢訳原文では、「第一義を助顕したまえり」となっている。「助顕」などという、ほぼ他では見たことのないような言葉が記されているが、これこそ、方便の働きなのである。絶対的真理は、相対的な言葉で表すことができないため、この世の人々が理解できる形に変えて表わす、という意味である。まさに、助けて顕わすわけである。そしてこれ以降、その助顕として現わされた、さまざまな相対的で具体的な形が、ひとつひとつ記されていくのである。

注9・「みなすでに仏道を成就しているのだ」 この個所から、同じパターンの非常に長い文が始まる。つまり、すべてが仏道を成就しているという具体例が列挙されているのである。しかし、仏道を成就する、ということは、まさに仏になる、阿耨多羅三藐三菩提を成就するということである。そのことからすれば、とても仏道をすでに成就しているとは思えない。さらに文が進めば進むほど、さらに仏道を成就しているとは思えない具体例が挙げられて行く。仏像に対して、片手を少し上げただけでも、また、子供が戯れに塔を作っても、それは仏道を成就しているのだ、ということになるわけであり、これは一体どういうことか、と読者は誰でも思うところである。

この理由はすでに述べた通りであるが、仏道に入れば、気の遠くなるほどの未来世に、必ず仏となることが約束される、ということであり、それが一仏乗である。その仏道に入る具体的な事柄は、相対的なこの世には無限にある。どのように小さなことに見える事柄であっても、仏に目が向けられているならば、それは仏道に入っていることであるのだ、と『法華経』は教えているのである。

千里の道も一歩から、という言葉があるが、この一歩が踏み出されるということは、その千里先の目的地に向かっていることである。この向かっている、ということ自体が一仏乗なのであり、仏像に向かって片手を少し上げただけのことも、また長い年月、仏道に精進していることも、目的地に向かっているということにおいては全く同じであり、全く同じ一仏乗なのである。

なお、この「みなすでに仏道を成就しているのだ」という箇所は、サンスクリット原本からの直訳では、「さとりに到達するであろう」となっており、このように訳せば何ら問題はない。

注10・「七宝」 『法華経』における七つの宝は、金、銀、瑪瑙(めのう)、瑠璃(るり)、硨磲(しゃこ)、真珠、玫瑰(まいかい・雲母のこと)を指す。