大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その7

法華経』現代語訳と解説 その7

 

妙法蓮華経譬喩品第三

 

その時、舎利弗は踊躍(ゆやく)歓喜して、すぐに座より立って合掌し、尊い仏を仰いで次のように申し上げた。

「今、世尊に従いこの法の教えを聞いて、未曾有のことと心躍りました。なぜならば、私は昔、仏に従い、このような教えを聞き、多くの菩薩が記を受け仏となることを見ましたが、私たちはそれに預かりませんでした。私自身が、如来の無量の知見を失っていることに心を痛めました。世尊よ。私は常にひとり山林の樹下にあって、座りまた歩きながら、その度に次のように思いました。私たちも同じく世尊の弟子である。どうして如来は小乗の教えをもって導かれるのだろうか。これは私の咎であり、世尊に非があるのではない。なぜなら、もし私たちが、最初に阿耨多羅三藐三菩提を成就する教えを待ち望んだならば、世尊は必ず大乗をもって導かれたことだろう。しかし私たちは、方便が適宜に用いられるということを理解せず、最初に仏法を聞いてすぐに信じ受け入れ、思惟して悟りの証を取りました。世尊よ。私は以前から、終日夜毎に自らを責めました。しかし今、仏に従い、これまで聞いたこともない未曾有の教えを聞いて、あらゆる疑いと後悔を断じ、身も心も安らかに、快く安穏になりました。今日知りました。私は真実に仏の弟子です。仏の口より生まれたも同然であり、その教化より生まれ、仏法の得るべきところを得ました」(注1)。

その時、舎利弗は重ねてこの義を述べようと、偈をもって仏に申し上げた。

私はこの法の御声を聞いて 未曾有のことであると 心に大歓喜を抱き 疑網もみなすでに除かれた 昔より仏の教えをこうむって ようやく今大乗に入ることができた 仏の御声は非常に希有であり よく衆生の悩みを除かれる すでに煩悩を断ち尽くしていた私は 今御声を聞いてさらに憂いと悩みが除かれた(注2) 

私は山谷にあって あるいは林の樹の下にあって 座りまた歩き 常にこのように思っていた 深く自ら責めながら ああ私は自らを欺いた 私たちもまた仏の弟子であり 同じく煩悩を断つ教えを受けたが 未来において 究極の悟りを述べることはできない 金色の仏の三十二相 十力(じゅうりき・注3)などのあらゆる解脱などを 共に同じ教えを受ける中にあって このことを得ることはなかった 八十種の妙好(みょうごう・注3)や 十八不共法(じゅうはちふぐほう・注3)など このような功徳を 私はみな失った 私は一人歩きながら考え 仏が大衆の中にあって その名が十方に普く聞こえ 広く衆生に利益を与えていることを見て 私はこの利益を失ったと思った これは私が自らを欺いたからだと 私は常に日夜ごとに このことを思惟して 世尊に問いたてまつらんと欲した 私は失ったのでしょうか失ってなかったのでしょうかと 私は常に世尊を見たてまつると 多くの菩薩を称賛されている このようなわけで日夜 このようなことを考えていた 

しかし今仏の御声を聞き 仏は各人にふさわしく適宜に法を説かれることを知った 煩悩から離れる道は言葉では表現できない すべての人々を悟りの道場に導く 私は昔邪見に陥って 多くの外道の師となっていた(注4) 世尊は私の心を知られて 邪見を抜き涅槃を説かれたので 私はすべての邪見を除いて 空法において悟りを得た その時、私は自分の心に 滅度に至ったのだと語った しかし今自ら悟った それは真実の滅度ではなかった もし作仏することができた時は 三十二相を具し 天人夜叉衆 龍神たちは私に師事するであろう この時にこそ 永遠に煩悩を断じ尽くして余りはないと言うであろう 仏は大衆の中において 私がまさに仏になると説かれた このような御声を聞き 疑いと後悔がすべて除かれた 

私が初めて世尊から教えを聞いた時 心の中は大いに驚き疑った もしかしたら魔が仏となって 私の心を悩ませ乱しているのではないかと 仏はさまざまの因縁 譬喩をもって巧みに言葉で説かれる その教えを聞いて私の疑いは断じ尽くされ 心が海のように安らかになった 過去世の無量の滅度の仏も 方便の中に安住して またみなこの教えを説かれたと仏は語られた 現在未来の仏 その数は無量であっても また多くの方便をもって このような教えを説かれる 今の世尊も 誕生されてから出家し 悟りを得て教えを説かれるまで また方便をもって説かれる 世尊は真実の道を説かれるのであり 魔はこのようなことはない 私は疑いに陥っていたために 魔がこのように語っていると思ったのである 仏の柔軟の御声は 深遠であり非常に微妙であり 清浄の法を説かれるのを聞いて 私の心は大いに歓喜し 疑いや悔いは永遠にすでに尽くされ 真実の智慧の中に安住する 私は必ず未来世に仏となって 天人に敬われ 無上の法輪を転じて 多くの菩薩を教化するであろう

 

注1・この舎利弗の告白は、歴史的事実から見れば、全くあり得ないことである。そして常識的にも、菩薩たちには優れた教えを説いて、仏となることを約束しているにもかかわらず、自分たちはそれに預かれない、これは私が悪いのであると、日々自分を責めた、というような状態になったならば、もうそれ以上、仏に従うことはできないはずである。また、これも歴史的に見れば、大乗の菩薩と小乗の声聞が同じ場所にいて、菩薩たちにはこのような教えを説くが、声聞の自分たちには説いて下さらない、などということが起こるわけがない。しかし、ここまで説かれて来た真理において、もし舎利弗がそれを受け入れ、それまでの声聞としての自らの歩みを省みるならば、当然、この箇所のような告白をするはずである。これは、大乗経典が創作であり、歴史的事実に基づいてない、ということの当然の帰結であり、仕方のないことである。私たちは、大乗経典から歴史的事実を学ぶべきものは全くないことをよくまきまえ、そこから真理のみを信じ受け取ればそれでじゅうぶんなのである。

注2・「すでに煩悩を断ち尽くしていた私は 今御声を聞いてさらに憂いと悩みが除かれた」 すでに煩悩を断ち尽くしていたならば、もはやどんなことにたいしても憂いや悩みはないはずである。もちろん、歴史的釈迦の弟子たちはそうであったに違いない。しかし、歴史的釈迦の死後約五百年たって興った大乗仏教は、歴史的釈迦の弟子たちの教えを小乗として蔑んでいたわけであるから、すべての大乗経典に共通するように、彼らの悟りは程度の低いものと見なしており、ここにもそれがこのような言葉として表われているということである。

注3・「三十二相、十力」「八十種の妙好」「十八不共法」 仏の特徴を外見上で表わす三十二種の特徴を三十二相といい、それをさらに詳しく八十種に分類したものを八十種好(はちじゅっしゅごう)という。十力は仏の持つ十種の特別な能力のこと。十八不共法については、仏以外の者は持っていないということで不共といい、仏の目には見えない十八種の特徴をいう。

注4・「多くの外道の師となっていた」 歴史的事実においても、舎利弗は不可知論を提唱するサンジャヤ教団に属していたが、その後、釈迦の弟子となった。すなわち、釈迦は舎利弗の邪見を完全に取り除くために、小乗の教えで最初導き、彼もそれを完全に悟ったが、実はそれで終わりではなく、あくまでも一仏乗に導くためのものだった、ということを舎利弗は知り、喜びに満ちた、ということである。もちろんこれは歴史的事実ではないが、大乗から見た小乗と大乗の関係を見事に表現している話である。