大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  13

『法華玄義』現代語訳  13

 

第二章 引証(いんしょう)

七番共解の第二は、引証である。

(注:「引証」とは、経文を引用しながら論証する方法である。五重玄義の各項目に関する『法華経』の経文を引用しながら進めるのである。なお、釈名、弁体、明宗、論用の四つについてまず説かれ、判教だけが、次にあらためて説かれるという形式になっている)。

 

第一節 引証釈名

ここでの引証においては、『法華経』の中で、釈迦の説法が始まる前の不思議な光景を見た文殊菩薩もんじゅぼさつ)が、「これは私が昔、燈明仏(とうみょうぶつ)が『法華経』を説いた時に見た光景と同じである。したがって、今、仏は『法華経』を説こうとされていることがわかる」と言っている通りである。燈明仏については、燈明仏という同じ名前の仏が二萬億もいたと記されているが、それだけではなく、同じく『法華経』に登場する大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)はじめ、過去現在未来の仏やあらゆる方角にいる仏や釈迦如来も、すべて『法華経』と名付けられる教えを説かれたと記されている。

 

第二節 引証弁体

法華経』の中で、「今、仏は光明を放って、すべての実相(実在の真実の姿という意味の言葉)を明らかにしようとされている」とあり、また「諸法実相(しょほうじっそう・すべての実在の真実の姿という意味)の意義についてあなたたちのために説く」とあり、また「無量の大衆に敬われて、彼らのために実相の印を説く」とある。これらは、現在でも過去でも同じく、『法華経』が実相を体としていることである。

 

第三節 引証明宗

法華経』に「仏はまさに教えを雨のように注いで、道を求める者を満足させる」とある。すなわち、これは三乗を一乗に帰一させる法の雨が、仏の道の修行(因)を求める者を充足させ、そして、すべてをみな融合して充足させることである。歴史的釈迦は本来の仏の姿ではなく、実は永遠の昔から仏として人々を教化して来たのだ、ということを明らかにし、仏の真実の悟り(果)を求める者を充足させるのである。それが『法華経』の目的である。

 

第四節 引証論用

法華経』に「三乗の教えを求める者たちが、もし『本当に仏は究極的な教えを説かれるのだろうか』という疑いを抱くようなことがあるならば、仏はまさにその疑いを余すところなく滅ぼし尽くして下さるであろう」とある。また、「諸仏の教えは、さまざまな教えを長い時間をかけて語られた後、必ず究極的な真実を説くのである」とある。これらの経文はすなわち、三乗、そして三乗に人乗と天乗とを加えた五乗、また、人・天・声聞・縁覚・蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩の七方便(しちほうべん)、仏界以外の九法界などの疑いを取り除き、みな真実の信心を生じさせるということであり、この『法華経』の働きを証明しているのである。

 

第五節 共通する経文

また、『法華経』の「如来神力品(にょらいじんりきほん)」に、「要約すれば、この経典の中には、如来の持つすべての教え、如来の持つすべての自在の神通力、如来の持つすべての秘密の重要な蔵、如来の持つすべての非常に深い事柄が、みな述べられ、表わされている」とある。

「すべての教え」とは、権と実のすべての法をみな包含していることをいう。これは経典の名称について解釈することであるから、引証釈名に相当する。

「すべての自在の神通力」とは、如来の内なる力を「自在」といい、外に向けて表わされる力を「神通力」という。すなわちこれは、経典の働きを論じることであるから引証論用に相当する。

「すべての秘密の重要な蔵」とは、教えを理解できない者にとっては「秘密」であり、教えの正体は「重要」であり、教えに含まれる事柄は多いが、しかも目に見えて積まれているものではないので「蔵」という。これは、経典の正体について述べることであるから引証弁体に相当する。

「すべての非常に深い事柄」とは、実相を「非常に深い事柄」と称し、その実相を見極めるための教えや修行が「非常に深い因」であり、実相を見極めることが「非常に深い果」なのである。また「法師品(ほっしほん)」に、「もしこの経を聞くならば、すなわち菩薩の道をよく修行していることになる」とあり、これは「非常に深い因」である。また同じく「仏の道を求める者が、私(=釈迦)の前で『法華経』の一句でも聞き、たった一念でも喜ぶならば、私はその者に将来仏になるという約束を与える」とあり、さらに、「一瞬でもこの教えを聞くならば、究極的な悟りを得ることになるであろう」とあり、これは「非常に深い果」である。これらは経典が記された目的を明らかにすることであるので、引証明宗に相当する。

先に、過去仏である日月燈明仏が『法華経』を説いたという経文を引用したが、このようにすでに過去に現われた過去仏の事実を挙げれば、疑いを解決できる。釈迦は、今まさに『法華経』を説いて、「如来神力品」の経文のように、要約して人々に教えを施した。これ以外の『法華経』の箇所でも、仏は正しく聞く者の能力に従って広く教えを説いている。それは余りにも多いので引用しないまでであるが、その代表的な経文を引用するならば、「方便品」にある次の経文である。「諸仏世尊は、ただひとつの大きな因縁をもっての故に、世に現われるのだ。舎利弗よ。それはどのようなことであろうか。諸仏世尊は、衆生に対して、仏の知見(ちけん・悟りのこと)を開かせ、清らかな存在となるように、世に現われるのだ。衆生に対して、仏の知見を示そうとするために、世に現われるのだ。衆生に対して、仏の知見を悟らそうとして、世に現われるのだ。衆生に対して、仏の知見に入らせようとして、世に現われるのだ。舎利弗よ。これを、諸仏世尊は、ただひとつの大きな因縁をもっての故に、世に現われると名付ける」。この中の、「大きな因縁」が、経典の名称について解釈することであるから引証釈名に相当し、「仏の知見」が、経典の正体について述べることであるから引証弁体に相当し、「開かせ」「示し」「悟らせ」「入らせる」ことが、経典が記された目的を明らかにすることであるから引証明宗に相当し、「衆生に対して」ということが、経典の働きを論じることであるから引証論用に相当し、このようなことすべては、この経典の全経典における位置を判断することなので、これから述べる引証判教に相当する。