大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その9

法華経』現代語訳と解説 その9

 

その時、僧侶と尼僧と男女の在家信者、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅緊那羅、摩睺羅伽などの大衆は、舎利弗が仏前において阿耨多羅三藐三菩提の記を受けるのを見て、心は大に歓喜し踊躍すること測り知れなかった。それぞれに身に着けていた上衣を脱いで仏に供養した。釈提桓因、梵天王などの無数の天子もまた、天の妙衣、天の曼陀羅華、摩訶曼陀羅華などを仏に供養した。その天衣は、虚空の中にあって自らひるがえった。諸天の百千万種の伎楽、虚空の中において共に同時に奏でられ、その天子たちは多くの天華を降らして、次のように語った。

「仏は昔、鹿野苑において初めて教えの法輪を転じ、今また無上最大の法輪を転じられた」。

その時、多くの天子たちは、重ねてこの義を述べようと、偈をもって次のように語った。

鹿野苑において 四諦(したい・注1)の法輪を転じ 分別して諸法 五蘊(ごうん・注2)の生滅を説き 今また最妙 無上の大法輪を転じられた この法は非常に深奥であり 正しく信じる者は少ない 私たちは昔より今まで 数多くの世尊の教えを聞いてきたが 未だかつてこのような 深妙の優れた教えは聞いたことがない 世尊がこの教えを説かれた時 私たちはみな随喜した 大いなる智慧を持つ舎利弗は 今世尊から記を受けることができた 私たちもまたこのように 必ずまさにすべての世において 最も尊い仏となることができるであろう 仏道は言葉に表現することはできない 方便によって適宜に説くのみである 私がもっている 今世あるいは過去世 および仏にあった功徳などの 福の業をすべて仏道に廻向する

その時、舎利弗は仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私には今、疑惑はありません。ひとり仏前において阿耨多羅三藐三菩提の記を受けることができました。しかし、ここに心が自在となった千二百人の者たちがおり、昔仏から学んでいた時、仏は常に次のように教化されました。『私の法はよく生、老、病、死を離れて涅槃を究めるのだ。この学ぶべきことが残る者や、もはや学ぶべきことがなくなった者たちもまた、それぞれ自我や有無の見解を離れることによって、涅槃を得ることができるのだ』と教えられました。しかし今、世尊の前において、未だかつて聞いたことのない教えを聞き、みな疑惑に陥っています。よき世尊よ。願わくは僧侶や尼僧や男女の在家信者のために、この因縁を説いて疑惑を離れさせてくださいますように」。

その時、仏は舎利弗に次のように語られた。

「私は以前、諸仏世尊の種々の因縁、譬喩、言葉をもって、方便によって教えを説いたことは、みな阿耨多羅三藐三菩提のためだと言わなかったであろうか。この多くの教えは、みな菩薩を教化するためである。しかし舎利弗よ。今まさにまた、譬喩をもってこの義を明らかにしよう。智慧のある多くの者たちは、譬喩をもって理解することができるであろう。

舎利弗よ。ある国の町に大長者がいたとする。もう高齢となって衰えていたが、無量の財産に富んでいた。多くの田や家を持ち、多くの使用人たちがいた。その家は広大であり、ただ一つの門があった。百人二百人そして五百人の多くの人たちがその中に住んでいた。その建物は古く朽ちており、壁は崩れ落ち、柱の土台は腐っていて、梁や棟は傾いて危険であった。そしてある時、突然、その家に火災が起きて建物が四方から燃え始めた。長者の十人、二十人あるいは三十人の子供たちは家の中にいた。長者はこの大火が家の四方から起っているのを見て、大変驚き怖れ、次のように思った。『私は燃えている家の門から無事出られたが、子供たちは燃えている家の中にあって、しかも遊びに夢中になっていて、火災のことも知らず驚きもせず、怖れもしない。火がその身に迫って来て苦痛を感じていても、心の中でそれらを嫌って出ようとする気持ちがない』。舎利弗よ。続いて長者は次のように思った。『私には腕に力があるから、衣や家具をもって子供たちをひとまとめにして救い出そう』。さらに次のように思った。『しかしこの家には門が一つしかなく、しかも狭く小さい。子供たちはまだ幼く、思慮もなく、ただ遊びに夢中になっているだけだ。もしかしたら家と共に火に堕ちて焼かれてしまうかもしれない。私は子供たちに、この家は燃えているからすぐに出て来て、焼け死ぬようなことがないと』。このように思って、この通りに子供たちに『子供たちよ。早く出て来なさい』と言った。父親はこのように、子供たちのために最もふさわしい言葉で諭したが、こどもたちは遊びに夢中になって、その言葉を信じて受け入れることはなく、驚きもせず怖れもせず、ついに出ようとする気持ちはなかった。また、火が何であるか、建物が何であるか、出なければどうなってしまうのかも知らなかった。ただ東西に走り回って遊び、父親を見ることは見るが、それだけだった。

その時、長者はこのように思った。『この建物はすでに大火に焼かれている。私も子供たちも、すぐに出なければ必ず焼け死んでしまう。私は今、方便を設けて、子供たちをこの危険から離れることができるようにしよう』。父親は、子供たちが何より、さまざまな珍しい玩具を好むことをよく知っていた。そこで、子供たちに次のように告げた。『おまえたちが大好きな珍しい羊車、鹿車、牛車が今、門の外にある。これで遊ぶがいい。おまえたちはこの燃えている家から早く出て来なさい。おまえたちが欲しいだけ、みなあげよう。これらの玩具はなかなか手に入らないから、今もらわなければ後で必ず後悔するぞ』。その時、子供たちは父親が珍しい玩具のことを言っていることを聞き、それらが前から欲しい物だったので、大喜びで先を争うように燃えている家から出て来た。

この時、長者は子供たちが無事、出て来ることができ、みな町の道が交差する広場に座っていたので、もう心配はないと心安らかに、大いに喜んだ。その時、子供たちは、『お父さん、さっきおっしゃった羊車、鹿車、牛車の玩具をください』と言った。

舎利弗よ。ところがこの時、長者はそれぞれの子供にみな同じく、一つの大きな車を与えた。その車は高く広く、あらゆる宝によって飾られ、周りに欄干があり、四面に鈴が掛かっていて、またその上に屋根が設けてあり、また珍しい貴重な多くの宝をもって厳かに飾られ、宝の縄が交わって花びらが垂れ下がり、敷物が敷かれて赤い枕が備えられていた。その車を引くのは白い牛であった。その牛の皮膚の色は鮮やかであり、体つきもすばらしく力があった。その歩みはしっかりしており、風のように早かった。また僕たちが多くいて、その車に仕え守っていた。なぜならば、この大長者は富んでいて財産が無量であり、多くの蔵はみな満ちていた。しかもこのように思った。『私の財産には際限がない。劣った小さな車を子供たちに与えるべきではない。今、この幼い子供たちはみな私の限りなく愛する子供たちである。私にはこのような七宝の大車があって、その数も無量である。まさに同じ心をもって、それぞれにこれを与えるべきである。差別などしない。なぜなら、私の物をこの国のすべての人々に与えても、それは難しいことではない。ましてや、私の子供たちにはなおさらである』。この時、子供たちはそれぞれの大車に乗って、大いに驚き喜んだが、しかしあくまでも、これは子供たちがもともと願ったものではない。

舎利弗よ。あなたはどう思うか。この長者が等しく子供たちに、珍しい宝の大車を与えたということは、嘘をついたことになるかのどうなのか」。

舎利弗は、「いいえ世尊よ。この長者が子供たちを火災から逃れさせ、命を全うさせたということ自体で、もう嘘にはなりません。どうしてでしょうか。それは命を全うできたからこそ、玩具を得ることができるからです。ましてや、さらに方便して、その燃える家から子供たちを救い出したのですから、なおさらです。世尊よ。もしこの長者が最小の車さえ与えなくても、嘘にはなりません。なぜでしょうか。この長者は、『私は方便をもって、子供たちが出られるようにしよう』とまず先に考えていたからです。この理由から嘘にはなりません。ましてや、長者は富んでいて財産が無量であるということから、子供たちを喜ばそうと、平等に大車を与えたのですから、なおさらです」。

 

注1「四諦」 歴史的釈迦の教えを四つの形式に整えた、仏教の基本的な教理。この世はすべて苦しみであるという苦諦、その苦しみは執着によって起こされるという集諦、執着がなくなれば苦しみが滅びるという滅諦、その執着をなくす道が道諦。道諦については八正道(はっしょうどう)が説かれる。八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つの実践項目を指す。

注2「五蘊」 五陰(ごおん)ともいう。人間の認識の成立する五つの過程を指す。色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)。色とは、自分がここにいて、周りに自分ではないものがある、という感覚。一般的に単に物質だと説明されるが、それは誤りであり、あくまでも、認識する自分という主体がここにある、という認識の最も初めの感覚であり、ここから個人的な認識が生じるのである。受とは、自分の周りに自分でないものがある(それはあくまでも認識主体の感覚であるので、自分の肉体もその感覚の対象となる)という感覚があれば、当然その周りにあるものは何か、という感受作用が起こり、それを受という。想は、その感受作用によって受け取られたものが何であるか思いを巡らすことである。行とは、その思いによって判断されたことに対して、自分は何をなし、何を思うべきかという意志を指す。そして識とは認識のことで、ここではっきりと、自分はこのような認識を生じさせていると自覚することである。