大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その8

法華経』現代語訳と解説 その8

 

その時、仏は舎利弗に次のように語られた。

「私は今、天、人、出家者、婆羅門たちの大衆の中において語る。私は昔、かつて二万億の仏のもとにおいて、あなたを究極の悟りのために常に教化した。あなたは長い間、私に従って受学した。私は方便をもってあなたを導いたために、今生においても、私の教えを受けることになった。

舎利弗よ。私はあなたが仏道を志願するようにしたが、あなたは今生においてすべてを忘れて、自らすでに滅度を得たと思った。私は再びあなたが前世において行じた道を思い出させようとして、多くの声聞のためにこの大乗経の菩薩の教えであり、仏が護念するところの妙法蓮華経を説くのだ。

舎利弗よ。あなたは未来世において、無量無辺不可思議劫を過ぎて、千万億の仏を供養し、正法を奉持して菩薩が行じる道を具足して、まさに仏となるであろう。供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具えており、善い所に到達しており、世間を理解しており、無上のお方であり、人を良く導く方であり、天と人との師であり、仏であり、世尊であり、その名を華光如来という。その仏の国を離垢(りく)という。その国土は完全に平らであり、清浄であり厳かに飾られ、安穏であり豊かであり快い所であり、天人であふれている。地が瑠璃であり、八つの道が交わっており、黄金を縄としてその側(かたわら)を区切り、その横にそれぞれ七宝の並木があって、常に華と果実がある。

華光如来はまた三乗をもって衆生を教化するであろう。舎利弗よ。彼の仏が出現された時は悪世ではないといっても、本願をもっての故に三乗の法を説くであろう。その華光如来を仏とする世が続く期間(注1)を大宝荘厳という。なぜ大宝荘厳というのだろうか。その仏国土においては、究極的な悟りを求める求道者を大宝とするからである。その多くの求道者たちの数は、無量無辺不可思議であり、算数(さんじゅ)や譬喩もおよばないほどであろう。仏の智慧の力でなければ知ることはできない。彼らが歩む時には、その足は宝華の上を行く。そして彼らは、この仏国土で初めて究極的な悟りを求める心を起こしたのではない。みな転生する中で長い間徳本を植えて、無量百千万億の仏の所において清い行を修し、常に諸仏からの称賛を受け、仏の智慧を得ようと修して大神通を具し、よくすべての教えに精通し、柔和で妨げがなく、前世からの志をしっかりと保っている。このような求道者がその仏国土に満ちている。

舎利弗よ。華光仏の寿命は十二小劫(注2)であろう。仏となる前の王子であった時を除く(注3)。その国の民の寿命は八小劫であろう。華光如来は十二小劫を過ぎて、堅満菩薩に阿耨多羅三藐三菩提の記を授け、多くの僧侶に次のように語るであろう。この堅満菩薩は次の世でまさに仏となるであろう。その名を華足安行・多陀阿伽度阿羅訶三藐三仏陀(けそくあんぎょう・ただあかど・あらか・さんみゃくさんぶっだ)という。その仏の国土もまた同じようであろう。舎利弗よ。この華光仏の滅度の後、正法(しょうぼう)の期間が三十二小劫、像法(ぞうぼう)の期間がまた三十二小劫(注4)であろう。

その時、世尊は重ねてこの義を述べようと、偈をもって次のように語られた。舎利弗は未来世に 智慧が普くゆきわたる尊い仏となって 華光というであろう まさに無量の衆生を悟りに導くであろう 無数の仏を供養し 菩薩の行と 十力などの功徳を具足して 究極の悟りを証するであろう 無量劫を過ぎ 劫を大宝厳といい その世界を離垢というであろう 清浄にして汚れなく 地は瑠璃であり 金縄がその道を区切り 七宝雑色の樹に 常に華果実があるであろう 彼の国の多くの求道者は 常に志が堅固であり 過去世において無数の仏に仕え 神通力と波羅蜜とを みなすでに具足し よく菩薩の道を学んだのである そのような大士たちが 華光仏の教化するところとなるであろう 仏は転生する最後の時に王子として生まれ 国を捨て世の栄えを捨てて 出家して仏道を成就するであろう 華光仏の世における寿命は十二小劫 その国の人民たちの寿命は八小劫であろう 仏の滅度の後 正法が世にある期間は三十二小劫であり 多くの衆生が悟りを得るであろう 正法が滅び尽くされ 像法は三十二小劫であり 舎利が広く流布して 天人が普く供養するであろう 華光仏のなすところは みなこのようである この人間の中の聖であり尊ぶべき仏は 比類ないほど最も勝れている その仏がすなわちあなた自身である 大いに自ら喜ぶべし

 

注1・「その華光如来を仏とする世が続く期間」 漢訳では、単に「その劫」となっており、サンスクリットからの訳では、「この仏が出現する劫」となっている。この場合の劫は、大劫のこと、いわゆる一つの世界が生まれてから消滅するまでの期間と解釈できる。その世界では、一人の仏を仏とする。たとえば、この娑婆世界では、釈迦如来を仏とすることと同じである。

注2・「華光仏の寿命は十二小劫」 注1で述べた大劫に対して、小劫とは、大劫の八十分の一とされる。計算すると、華光如来を仏とする世界つまり仏国土では、華光如来が実際にその寿命をもって身を現わしていた期間は、その世界が続く期間の六分の一程度である。そして、仏の寿命が尽きて滅度すれば、そこから正法、像法、末法の時代区分が始まるのである。

注3・「仏となる前の王子であった時を除く」 あくまでも、ここでいう仏の寿命とは、悟りを開いて仏となってからの期間である、ということ。

注4・「正法の期間が三十二小劫、像法の期間がまた三十二小劫」 正法とは、その仏の教えが正しく継承され、悟りを開く者も起こされる期間であり、像法とは、教えは残るが、悟りを開く者がいなくなる期間であり、本文にはないが、これに続いて、教えも悟りを開く者もいなくなる最後の期間が末法(まっぽう)と呼ばれる。この娑婆世界では、正法が五百年間あるいは千年間、像法が千年間、末法が一万年続くと言われるが、本文の華光如来仏国土は、もちろん娑婆世界とは関係ないので、その各期間の長さは大きく異なっているということである。