大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その10

法華経』現代語訳と解説 その10

 

仏は舎利弗に次のように語られた。

「その通りだ、その通りだ。あなたが言う通りである。舎利弗よ。如来また同様である。すなわち仏はすべての世間の人々の父である。あらゆる怖れ、悩み、憂い、無知、不快などを永遠に尽くしており、余りあることはない。しかも、すべての無量の知見、力を成就しており、畏れるところなく、大神力および智慧の力があって、方便波羅蜜智慧波羅蜜を具足している。大いなる慈悲を常に働かせ、絶えず善事を求めてすべての衆生に利益を与える。しかも三界(さんがい・注1)の古びて朽ちた燃える家に出現したことは、衆生の生、老、病、死、憂い、悲しみ、苦悩、愚痴、不快、三毒の火を消し、教化して阿耨多羅三藐三菩提を得させるためである。多くの衆生を見れば、生、老、病、死、憂い、悲しみ、苦悩に焼かれ煮られ、また五欲と財産の欲のために多くの苦しみを受けている。また貪りと執着を追求するために、現世では多くの苦しみを受け、後の世では地獄、畜生、餓鬼の苦しみを受ける。また後の世で天上および人間に生まれたとしても、貧しく困窮する苦、愛する者と別離する苦・怨み憎む者と会う苦など、このような多くの苦しみがある。衆生はこの中に埋没しながらも、歓喜し遊戯して、それらに気づかず知らず驚かず怖じず、また厭うことなく解脱を求めない。この三界の火宅において、東西に走り回り、大いなる苦しみにあっても、それを憂いとすることがない。舎利弗よ、仏はこのようなことを見て、次のように思った。『私は衆生の父である。このような苦難を抜き無量無辺の仏の智慧の楽しみを与え、それをもって遊戯させるべきだ』。舎利弗よ。また如来はこのように思った。『もし私が方便を捨てて、ただ神通力および智慧力をもって、多くの衆生のために如来の知見、力、無所畏を讃嘆すれば、これをもって衆生を悟りに導くことはできないであろう。なぜなら、この衆生は未だに生、老、病、死、憂い悲しみ苦悩を免れず、三界の燃える家にいて焼かれている。どうして仏の智慧を理解できるだろうか』。

舎利弗よ。その長者の手に力があるといっても、それを用いず、ただ巧妙な方便をもって子供たちを燃える家の難から救い出し、その後にさまざまな珍しい宝の大車を与えたように、如来もまた同様である。力や無所畏があるといっても、それを用いず、ただ智慧の方便をもって三界の燃える家より衆生を救い出そうとして、そのために三乗の声聞、辟支仏、仏乗(注2)を説く。そして、次のように言うのである。

『あなたたちは、燃える家のような三界に住むことを願ってはならない。下劣な色形、音声、香り、味、触覚を貪ってはならない。もし貪りの執着を起こして、愛着を生じさせるならば、燃える火に焼かれる。あなたたちは早く三界を出て、三乗の声聞、辟支仏、仏乗を得るべきである。私は今、あなたたちのためにこのことを保証する。決して虚しいものではない。あなたたちはまさに勤めて精進すべきである』。

如来である私はこの方便をもって、衆生を誘い導くのだ。また次のように言う。『あなたたちはまさに知るべきである。この三乗の法はみな聖なる方々の讃嘆されるところである。自在無礙であり、何かに依存するものではない。この三乗によって、煩悩から離れた五根、五力(ごりき・注3)、七覚支(しちかくし・注4)、八正道、禅定、解脱、三昧などをもって自ら楽しみ、無量の安穏快楽を得るべきである。舎利弗よ。ある衆生があって、内に智慧の本性を持ち、仏である世尊に従って法を聞いて信受し、真摯に精進して速かに三界を出でようと願って自ら涅槃を求めれば、その者を声聞乗という。その喩えにおいては、羊の車を子供が求めることによって、燃える家から出たようなものである。ある衆生があって、仏である世尊に従って法を聞いて信受し、真摯に精進して自然慧(しぜんね・注5)を求め、一人で自制と平静を願い、深く諸法の因縁を知るならば、その者を辟支仏乗という。その喩えにおいては、鹿の車を子供が求めることによって、燃える家から出たようなものである。ある衆生があって、仏である世尊に従って法を聞いて信受し、真摯に精進して一切智、仏智、自然智、無師智、如来の知見、力、無所畏を求め、無量の衆生の幸福と安楽を願い、天人に利益(りやく)を与え、すべての人を悟りに導く。これを大乗という。菩薩はこの乗を求めるために、摩訶薩(まかさつ)という。その喩えにおいては、牛の車を子供が求めることによって、燃える家から出たようなものである(注5)。

舎利弗よ。この長者が、子供たちが無事に燃える家から出ることができ、安全な場所に来たのを見て、自分は富んでいて財産が無量であることを思い、子供たちに同じ大車を与えるように、如来もまた同様である。如来はすべての一切衆生の父である。無量億千の衆生が、仏教の門を三界の苦しみや恐怖や思い煩いの険しい道を出て、涅槃の楽を得るのを見て、その時、如来は次のように思う。『私には無量無辺の智慧、力、無畏などの諸仏の法蔵がある。この多くの衆生はみな私の子である。みな同じく大乗を与えるべきである。それも、特定の人だけに滅度を得させるのではなく、すべての衆生にみな如来の滅度をもって滅度するよう導こう。この多くの衆生で三界から解脱した者には、すべて諸仏の禅定、解脱など娯楽の具を与えよう。みなこれは同じ形で同じ種類で、聖なる仏の讃嘆されるものである。よく清く妙なる第一の楽を生じるのだ』。

舎利弗よ。この長者が最初は三つの車をもって子供たちを誘い導き、そしてその後に宝物で厳かに飾られた、安穏第一の同じ一つの大車を与え、しかもこれは、この長者に虚妄の咎がないように、如来もまた同様である。虚妄ではないのである。最初、三乗を説いて衆生を引導し、その後に大乗をもって悟りに導き、解脱させる。なぜなら、如来には無量の智慧、力、無所畏、諸法の蔵あって、よくすべての衆生に大乗の法を与えるからだ。ただすべてを受けることはできない(注6)。舎利弗よ。諸仏は方便の力の故に、一仏乗を分別(注7)して三乗と説かれたというこの因縁を、まさに知るべきである。

 

注1・「三界」 衆生が転生する三つの世界。欲望に振り回される欲界、欲望はなくなったが、物質的存在に対する認識はそのままある色界、物質に対する認識もなくなり、ただ精神的活動のみある無色界の三つ。

注2・「仏乗」 サンスクリットからの訳では、菩薩、すなわち求道者の乗り物となっていて、菩薩乗とするのが適切である。三乗の教えは、つまり相対的なこの世に合わせたものである。それは絶対的真理そのものではない。この仏乗も、また菩薩乗も、究極的絶対的真理を指すものではない。あくまでも、絶対的次元の法は、一仏乗である。

注3・「五力」 修行を進める五つの力のこと。信(信心)、精進(努力)、念(想念)、定(禅定)、慧(智慧)の五つ。

注4・「七覚支」 悟りの七つの側面をいう。念覚支(正しい気づき)、択法覚支(ちゃくほうかくし・真実を選ぶ)、精進覚支(正しい努力)、喜覚支(正しい喜びを抱く)、軽安覚支(きょうあんかくし・心身共に軽やかである)、定覚支(じょうかくし・心の安定)、捨覚支(しゃかくし・執着を捨てていること)。

注5・漢訳では、声聞が羊の車、縁覚が鹿の車、菩薩が牛の車となっているが、サンスクリットからの訳では、声聞が鹿の車、縁覚が山羊の車、菩薩が牛の車となっている。

注5・「自然慧」 十二因縁のこと。十二因縁は自然の法則であるので、師に従わなくても、悟ることができるとされる。この後にするされている「無師智」も同じ意味。

注6・「ただすべてを受けることはできない」 この言葉は、サンスクリットからの訳にはない。大乗の法を与えると言っても、それは無尽蔵なので、すべてを受けることはできない、という意味のことを、訳者の鳩摩羅什が付け足したものと考えられる。むしろこの言葉がない方が、文が自然である。

注7・「分別」 この言葉も、『法華経』に数多く登場する。一仏乗が唯一絶対的な次元のものであるのに対して、三乗は、その一仏乗をこの世に合わせて相対化したものである。まさに分別とは相対化という意味である。