大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 03

守護国家論 現代語訳 03

 

第一章 第二節

 

第二に諸経の浅深を明らかにする。

無量義経』には、「初めに四諦を説き、阿含、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説き、菩薩の修行の経る過程を述べる」とある。また、「四十余年には未だ真実を顕わさず」とある。また、「無量義経はこの上なく尊い」とある。これらから、釈迦仏の四十余年間語られた諸経は、この『無量義経』より劣っていることは疑いない。

問う:『密厳経』には、「(この密厳経は)一切の経の中で最も勝れている」とある。また『大雲経』には、「(この大雲経は)諸経の転輪聖王である」とある。『金光明最勝王経』には、「(この金光明最勝王経は)諸経中の王である」とある。これらの文を見れば、自らの経典を最上のものであるとするのは、諸大乗経の常の習いである。なぜ、一文を見て『無量義経』は四十余年の諸経に勝ると言うのか。

答える:教主釈尊が説かれた諸経に対して、互いの勝劣を説けば、すべて仏の言葉であるから、大小乗の差別・権実の不同などあるわけがない。差別がないところを、互いの差別浅深などを説けば、論争の根源となり、悪業起罪の因縁となる。『法華経』以前の諸経において第一というのは、縁に従って不定である。あるいは、小乗の諸経に対して第一とし、あるいは、報身の寿命を説くことにおいて諸経の第一とし、あるいは、俗諦・真諦・中諦などを説くことにおいて第一とするのである。したがって、一切の経典の中で第一とするのではない。この『無量義経』は、四十余年の諸経に対して第一なのである。

問う:『法華経』と『無量義経』とでは、どちらが勝れているのか。

答える:『法華経』が勝れている。

問う:それはどうしてわかるのか。

答える:『無量義経』には、未だ二乗作仏と久遠実成とが明らかにされていない。このため、『法華経』によって、その開経という経典とされた。

問える:『法華経』と『涅槃経』とでは、どちらが優れているのか。

答える:『法華経』が勝れている。

問う:それはどうしてわかるのか。

答える:『涅槃経』の中に、自ら「法華の中にある通りである」と説き、「さらになすところはない」と説かれている。一方、『法華経』には、この『涅槃経』を指して難信難解だとは述べられていない。

問う:『涅槃経』の文を見ると、『涅槃経』以前の教えはすべて邪見だとある。これはどうしたことか。

答える:『法華経』は如来が世に出た本懐の経典であるために、「今すでに満足する」「今まさにその時」「しかし善き男子よ。私は実に仏となって以来」などと説かれている。ただし、諸経の勝劣については、仏自らが「私が説いた経典は無量千万億」だと挙げたうえで、「すでに説き、今説き、まさに説くであろう」と語られた時、多宝仏が地より涌現して、これらはみな真実だと定め、釈迦仏の分身の諸仏は舌相を梵天にまで及ばせた。このように釈迦仏は、諸経と『法華経』との勝劣を定められた。先後の諸経においては、すべて釈迦如来一仏の説かれたところであるから、『法華経』との勝劣を論ずべきではない。このために、『涅槃経』では、退けられる諸経の中に『法華経』は入れない。『法華経』は諸経より勝れていることをあらわすためである。

ただし、以前の経典は邪見だとする文については、『法華経』で悟ることができなかった一部の人が、『涅槃経』を聞いて悟りを得たので、迦葉童子が自身やその眷属を指して、『涅槃経』以前を邪見だといっているのであり、経の勝劣を論じたものではない。

 

第一章 第三節

 

第三に、大小乗を定めることを明らかにする。

問う:大小乗の差別は何か。

答える:常説に従えば、「阿含部」の諸経は小乗である。『華厳経』・「方等経」・『般若経』・『法華経』・『涅槃経』などは大乗である。あるいは、悟りを開いていない衆生が転生する六界について明らかにするのは小乗であり、十界すべてを明かにするのは大乗である。また、『法華経』を中心として、真実の意義を論じれば、『法華経』より前の四十余年の諸大乗経はみな小乗というべきであり、真実の意味で『法華経』が大乗である。

問う:諸宗を通じて、自らが拠り所とする経を実大乗といい、他宗の拠り所とする経を権大乗経というのは、常の習いである。これでは、末学の者にとって是非を定めることは難しい。そして未だに、『法華経』に対して他の諸大乗経を小乗という証文は聞いたことがないが、これはどうなのか。

答える:宗派の間で立てられた教義は、互いに是非を論じている。なかでも末法においては、世間・出世間の区別なく、非を先とし、是を後とするため是非がわからず、愚者の歎くところである。ただし、しばらく私たちの智慧をもって、四十余年の現文を見れば、この文を破る文がないので、人々の是非など信用すべきではない。その上、『法華経』に対して諸大乗経は小乗だとすることについては、自らの考えだとするべきではない。

法華経』の「方便品」には、「仏は自ら大乗に住まわれる。自ら無上道大乗平等の法を証する。もし小乗をもって教化する人が一人でもいれば、私は慳貪の者となる。このことは絶対にあり得ない」とある。この文の意味は、『法華経』より他の諸経をみな小乗としているのである。また「如来寿量品」には、「小法を願う」という文がある。これらの文は、『法華経』より他の四十余年の諸経をみな小乗としているのである。天台大師・妙楽大師の解釈において、四十余年の諸経を小乗であると解釈しても、他の師はこれを認めない。このために、ただ経文をあげるのみである。